第一回 はじめに:藝術2.0あるいはGEIJUTSUの予感


(1)「Art」とは何だったのか。

 これから、私は、「藝術2.0」あるいは「GEIJUTSU」と、とりあえずは名づけたいと思っている、ある種の同時代のクリエーションについて書くつもりだ。
 「とりあえずは名づけたい」と書いたが、その「クリエーション」は、私にとっても、(後ほど言及する)私の仲間たちにとっても、そしておそらくは人類全般にとっても、これまで知られざるものであったがゆえに、今は名も無きもの、それゆえ苦し紛れに「藝術2.0」ないし「GEIJUTSU」と暫定的に呼ぶしかないようなものである。
 その未だ名も無き、不分明な藝術2.0、GEIJUTSUは、不分明なるがゆえに、今のところ「アート」「工芸」「芸能」あるいは「デザイン」「場づくり」「社会起業」等々に紛れ込んでいる。紛れるふり、、をしている。大概の人たちは、その「ふり」に騙されて、それを取り立ててこれら既存の概念から外れたものとして取り沙汰したりしない。
 今回、私(そして仲間たち)は、その「ふり」を嗅ぎ分け、その微妙な振る舞いの違いを辛うじて見極め、藝術2.0あるいはGEIJUTSUとして覚束ない手つきで指し示しつつ、語り始めるつもりだ。その語りは、目的地も定かでない旅のような語りゆえに、はたして書きながらも本当に目的地に辿り着けるかも分からない。座礁するかもしれない。でも、語り始めてしまったがゆえに、もはや続けるしかない。
 この、宛ても定かでない旅=語りの出発点を、とりあえず「Art」に置いてみたい。出発点を他(「工芸」「デザイン」等)にとることもおそらく可能だろうが、朧げながらも、藝術2.0=GEIJUTSUが醸す「気配」の“かさ”を縁取るためにも、とりあえずは「Art」という“逆光”の手を借りるのが得策な気がする。
 では、ここであえて問おう。Artとは、そもそも何だろうか。それは、この国では、今なお非常に曖昧なものにとどまっているように、私には感じられる。私は、人生のいたずらで、20歳代から30歳代にかけて7年間フランスはパリで暮らした。渡仏前から批評家・小説家モーリス・ブランショの「文学空間」に耽溺していた私は、すみやかに、虚無の歌『イジチュール』と宇宙を要約せんとする〈書物〉(le Livre)の詩人ステファヌ・マラルメの、狂気に漸近するかのような精神的探求を追体験する破目となった。そして、フランスや他のヨーロッパの国々で、文学のみならずArtがその深甚から醸す蜜と毒にどっぷりと浸かったのであった。
 この国でいたって曖昧に理解されているのとは違って、Artは、西欧において(人々が自覚しているか否かは問わず)非常に「厳密」なものである。それは決して、人類に普遍的な事象ではなく(普遍的と妄信する輩も少なくないが)、あくまで西欧近代が作りだした、、、、、歴史的事象である。では、どのように作りだしたのか。その詳細は以下の本論に譲るとして、その究極のところを先取りして端的に言えば、世界を、言葉やイメージによって記号化する(signifier)過程において、主体の精神が、その記号化を逆行・解体しつつ、世界の創造主たる唯一なる超越神(あるいはその不在)と不可能な合一を遂げようとするエクスタティックな=脱自的な経験、ととりあえずは言えるだろう。そうした気狂いじみた精神の冒険に、マラルメを含め、19世紀の真摯なアーティストたちは挑み、ある者たちはその限界的経験を言葉やイメージの断片に掠め取り、ある者たちはその冒険の激烈さに耐えかね、心身ともに滅んだのだった。
 かくして19世紀末、精神の極限的な営みであったArtは、マラルメなどの前人未到の探究により、ついに極北に至りつく。それを炯眼にも見てとったもう一人の年若いフランス人、マルセル・デュシャンが、その極地での闘いには勝ち目がないと悟り、一挙にその粉砕に、Artの全面的倒壊に向けて、時限爆弾を仕込む。それこそ「レディメイド」、なかんずく『泉』(1917年)である。美の極北の対蹠点にある「便器」をひっくり返し、Art作品と嘯かんばかりの劇作術を労して、デュシャンがArtの舞台にさりげなく差し入れた『泉』は、それまでのArtを完膚なきまでに凌辱しつつ、その凌辱の行為それ自体を社会に「作品」と認知させようとする「(反)Art」の嚆矢となった。それ以降の「(反)Art」は、この『泉』を反復することしか能がないように、それまでArtではなかったもの、、、、、、をArtにする、、、Artの〈外〉をArtの〈内〉へと回収するアイデア合戦の如き場と化した。Artの〈外部〉を〈内部化〉しようとする絶えざる差異化の呪縛に取り憑かれ、アーティストたちはこぞって「新しさ」を欲した。しかし、20世紀にわたってなされたその絶えざる「新しさ」の拡張、〈外部〉の〈内部化〉による(反)Artの差異化の膨張は、20世紀末、ついに飽和状態を迎える。決定的な死=終焉を迎える。

マルセル・デュシャン『泉』マルセル・デュシャン『泉』

 ところが、21世紀となっても、Artは生き延びているように見える。それどころか、アート・マーケットを見やれば、かつてない繁栄を謳歌しているようにさえ見える。しかし、生き延び繁栄しているかのように見えるものは、実はArtそのものではなく、Artの亡霊、ゾンビなのだ。元々―後に詳述する機会があろうが―西欧近代が資本主義的商品の「鬼子」として、いわば〈非商品〉(=商品になりえない、売れない生産物)として作り出したArtは、今やその貨幣的価値の無根拠性ゆえに〈商品〉に化けて、格好のマネーの投資先の一つとなっている。それが、Artのゾンビの正体だ。

(2)なぜ私は書かなくなったのか。

 私は、およそ10年前まで、(反)Artを含めた同時代のクリエーションについて文章を書いていた。特にこの国で「コンテンポラリー・アート」「現代美術」などと呼ばれているものについて、研究論文や批評文、レヴューなどを書き、大学などで教え、あるいは企画し、実践したりしていた。肩書き的に「美術批評家」と名乗れるような(実際に名乗っていたかどうか忘れたが)活動を行なっていた。それを10年前辞めた。なぜ辞めたのか?
 理由は大きく二つある。
 まず、先述したように、語るべき、批評すべき最たる対象の一つ、Artがなくなって、、、、、
しまった、、、、のだ。西欧近代が作りだしたArtは、19世紀、20世紀と(後に詳述するように)幾度か死の危機に瀕しながらもその度に奇跡的な復活を遂げたが、20世紀末、いよいよ決定的な最期を迎えた。私は、いわばその最終的な死にゆく姿を看取りつつ、断末魔を具に観察し、その様を言葉へと辛うじて翻訳していたのだと思う。それが、いわば私の批評的営為の機動力の一つになっていたのだと思う。
 ところで、「批評」とは―少なくともArtの領域に限って言えば―、同時代のクリエーションを、歴史的・社会的文脈に寄りながら(時にはそれに抗す形で)、意味づけ価値づけ、さらにその潜在力を示唆する言説のいいである。だとしたら、もはや語るべき同時代のクリエーションを失った言説は、黙するしかない。
 もちろん、21世紀になってもなお、(反)Art界、そしてそれに追随する我が国の「芸術」界は、Artの最期を看取るどころか、その亡霊、ゾンビが跋扈するに任せた。いや、言説的に、マーケット的にその跋扈を鼓舞さえした(今なおしている)。しかし、私は、その倒錯した死の舞踏の礼賛に嫌気がさし、Art、そして「芸術」に関わりあうのをやめ、「批評」を辞めた。
 批評を辞めたもう一つの理由、それは、同時期、私が「批評」それ自体の存在意義-自分自身における、そしてこの国における存在意義について、別様な角度から決定的な懐疑を抱いていたことにあった。
 きっかけは、私がDumb Typeというアーティスト・グループについて書いた批評文だった註1。Dumb Typeは、同時代の社会、芸術などの在り方について世界的に見ても突出した「批評力」を内蔵した作品『S/N』(1992-96)を発表後、その制作の最中からAIDSを発症していたメンバー古橋悌二の死を契機に、美学的・思想的な大きな変質―私には「転向」にすらみえた―を遂げた。その「変質」「転向」は単に一グループ内の問題にとどまらず、日本の芸術界全般に伏在する大きな問題を孕んでいたが、それについて、何年も誰も「批評」しなかった。私は、メンバーの何人かと個人的な親交があったがゆえに、できれば自分で「批評」したくはなかった。が、「批評家」としてこの問題、つまりグループの「変質」もさることながら、それに黙するこの国の「芸術界」「批評界」という問題を放擲しておくことができず、清水の舞台から飛び降りるつもりで、「批評家」としての生命を賭す覚悟で批評文を書いたのだった。
 しかし、その「批評」は、当のグループの多くのメンバーには受け入れがたく、激昂を招いたり、深く傷つけたりして、グループと関係者に大きな禍根を残した。私自身も、批評家として、一人の人間として深い痛手を負い、自分の批評の在り方、そしてこの国の批評(界)の在り方―「批評」のふうをして作品や作者への自らの好悪を文飾で紛らすことしかしないその在り方―について、根本的な懐疑を抱くに至った。そして、私は(前述のもう一つの理由もあわさり)「批評」から決定的に遠ざかることになった。

(3)藝術2.0あるいはGEIJUTSUの気配

 それから10年。久方ぶりに私に再びペンを取らせた同時代のクリエーション、私(と仲間)が「藝術2.0」あるいは「GEIJUTSU」と、ぎこちない名称で呼ぼうとしているクリエーション。それは、これから手探りしていくように、おそらくArt(あるいは反Art)の駆動力とは本質的に異なる力で突き動かされている創造性であると、私たちは睨んでいる。にもかかわらず、それをこのような、ある意味紛らわしい呼称で呼びたいのには、それなりの理由がある。もちろん、私たちの造語力の貧困もあるだろうが、もう一つ歴史的因縁ともいえる理由もあるのだ。
 そもそも日本で初めて「藝術」という語を用いた=発明したのは、哲学者であり政治家でもあった西周にしあまねである。彼は、Artの二種類―Mechanical ArtとLiberal Art―にそれぞれ「技術」と「藝術」という語を当てた。「術に亦二ツの區別あり。Mechanical Art and Liberal Art. 原語に從ふときは則ち器械の術、又上品の術と云ふ意なれと、今此の如く譯するも適當ならさるへし。故に技術、藝術と譯して可なるへし。技は支體を勞するの字義なれは、總て身體を働かす大工の如きもの是なり。藝は心思を勞する義にして、總て心思を働かし詩文を作る等のもの是なり註2
 なぜ西は、Mechanical Artに「技」を、Liberal Artに「藝」の字を当てたのか。彼は、それぞれの漢字としての原義に基づいて当てたのである。「技は則ち手業をなすの字意にして、手ニ支の字を合せしものなり。支は則ち指の字意なり。藝の字我朝にては業となすへし。藝の字元トgeiの字より生するものにして、植ゑ生せしむるの意なるへし註3
 すなわち、西は、「心思を勞して」、いわば精神の種を「植ゑ」、作物を「生せしむる」術と、Liberal Artを観じたのである。それは、あたかも(Liberal) Artという西欧伝来の精神の種子を、やはり元来は別の異国伝来の文字の形象力を借りて、日本という異種の文化的土壌に移植し生い茂らせようとする所作であった。
 はたして、その後(Liberal) Artは、「藝術」として、日本という土壌に根づいたのか。それは、第二次世界大戦後、時の政府が「当用漢字」という政策の下に、「藝」の字に対して、その原義と真逆の意をもつ「芸」(「草を刈りとる」意)という字を代用したように註4、(Liberal) Artの原義と実体を忘却したまま、その「代用=術」で済ますことになったのではなかったか。数少ない真摯な「批評家」の一人、椹木野衣が説くように註5、地震などの自然災害に絶えず見舞われ、「破壊と復興」を繰り返す日本列島という地質学的に「悪い場所」に、西欧という揺るぎない大地に根ざし生い育ったArtは、文化的にもしかと根づくことなく、いたずらにその代用品=「芸術」の「反復と忘却」を繰り返してきたのではなかったか。
 私に10年ぶりにペンを取らせた同時代のクリエーションを、なぜあえて「芸」の旧字「藝」を使って「藝術2.0」と呼びたいのか。その理由は、一つには、この国の「芸術家」が「反復と忘却」を繰り返してきた「芸術」と、それが明白に袂を分かつはずだと私が予感しているためであり、もう一つには、西周がおそらくは150年前、Artにとっての未踏の地=日本に望んだように、しかしこの度は全く別次元で、私は、この「藝術2.0」が、人類の創造性にとって未踏の地に「心思を勞して」、精神の種を「植ゑ」、作物を「生せしむる」術ではないかと、察しているからである。
 もしかすると、この「藝術2.0」の如きものがこの世にあるのではないかという気配を、私が抱き始めたのは、ちょうど私が批評を辞めた10年前なのかもしれない。いや、そのような気配を感じたからこそ、Artからも「芸術」からも遠ざかり、五里霧中のなか手探りを始めたのかもしれない。
 その、あまりに茫漠とした気配が、私にペンを取らせるまでに濃度を増したのには、個人的に京都に移り住んできたことが関係しているようだ。
 私は4年前、それまで住み慣れていた東京(近郊)から京都に移り住んだ。東日本大震災の影響だ。京都―この、世界的にも稀な文化的蓄積と洗練が日常を豊かに彩る町―に住み始め、それまで東京や欧米で見慣れていた芸術やArtでもなく、されど単なる伝統工芸や芸能でもない、別種の、第三のクリエーションの「気配」が、徐々に、他の地よりも濃厚に感じられるようになった。ただ相対的に「濃厚」とはいえ、その気配は、未だ、それについて私が思考したり、ましてや論じたりするほどの像を結んではいなかった。が、ある行政の企画をきっかけに集まった仲間たちと何度か議論を重ねるうちに、その「気配」が次第に像を結び始める実感があった。そして、その各々の実感を頼りに、この町で「藝術家2.0」と思しき人たちを探訪する機会を得た。『PLAY ON, KYOTO』である。約20人ほどを訪ね、「気配」の出処を探った。そして、やりとりした言葉をタブロイド誌にまとめた註6
 彼らは、今のところ「芸術家」「職人」「デザイナー」あるいは「社会起業家」等々の肩書で活動しているが、総じて既存の領域から未知なる地へと歩みだし、新たな種を「植ゑ生せしむる」仕草をみせている。その仕草は、150年前、西周が「藝」の字に籠めた思念をある意味で受け継ぎ、ヴァージョンアップする仕草なのだ。しかし、彼らは単に刷新する、「イノベート」するだけではない。彼らは各々、その修練を通して、己の生業なりわいの根源・ゼロポイントまで立ち戻り、そこから踵を返すかのように生業の成り立ち・仕組みを見透しつつ、未だ誰も踏み入れていない地へと歩みだし、「藝術」しようとしている。「藝術2.0」をしようとしている。いわば藝術2.0を藝術0.0から再起動しようとしているのである。
 私(たち)は、今回とりあえず、藝術2.0の気配を京都で探訪した。が、私(たち)は、その気配が京都ローカルなものではなく、この国の様々な場所で醸されていると感じている。今後、探索を広げ、その軌跡をウェブサイト「Play On」で公開していこうと思う。同時に、私自身は、それと並行して、藝術2.0の未だ朧な実相を思想的に追い詰め、少しでも明瞭な姿を浮かび上がらせたいと目論んでいる。それが本論に他ならない。
 私(たち)はまた、藝術2.0が日本ローカルなものではなく、個々の文化圏で固有の藝術2.0(にあたるもの)があるはずだと予感している。将来的にその探訪にも出かけるにあたり、藝術2.0を「Art 2.0」と訳すことなく、ローマ字で「GEIJUTSU」と称したい欲望に駆られている。なぜなら、それは決して単なるArtのヴァージョンアップでもないし、いわんや新たなArtの〈外部〉の〈内部化〉でもないからだ。「MANGA」が決して「Comic 2.0」でないように、「ANIME」が決して「Cartoon 2.0」でないように、「GEIJUTSU」もまた、その特異な力を世界的に散種するかもしれないからだ。そして「GEIJUTSU」が、各文化圏で特異な藝術2.0を起動するかもしれないからだ。

(4)中川周士、藝術家2.0の予感

 ここで、「藝術2.0」の朧なイメージを少しでも隈取るために、一人の藝術家2.0と思しき人を召喚しよう。中川周士。「中川木工芸三代目桶職人」という肩書で、通常なら紹介されるはずの人だ。彼を、「工芸」の「職人」から、「藝術家2.0」と思しき存在へと変容させたのには、その特異なキャリアが関係している。
 彼は、父であり人間国宝である二代目の下で、約10年間、月曜から金曜の朝8時から夜11時までは桶作り、土日は大学時代から続けていた鉄の彫刻作りを行っていた。まさに工芸と芸術の二足のわらじである。転機は、2012年。ドン・ペリニョンからシャンパン・クーラーを作ってくれとオーダーされるのだ。そして中川は、数年にわたる試行錯誤の末、それまでの桶作りの伝統ではおそらくご法度であるはずの、尖った先端をもつ楕円の桶=クーラーを作り出す。
 そこから、中川の冒険が始まる。その冒険の核になる思想=所作こそ、「あつらえ」だ註7。どういうことだろうか。中川はそれを「型」から説く。「型」とは、彼によれば、桶や皿などの「外型」にあるのではなく、木の「扱い方」にあると言う。中川が体得した「型」が、目前の木の特異性、すなわち木としての「ことわり」をもちながらも一本一本違うその木の特異性を見究め、「扱い」を微妙に変奏していく、それがまず素材への「あつらえ」だ。そして他方で、もう一つの(本来の?)「あつらえ」、客への「あつらえ」がある。「型」は、人としての「理」をもちながらもやはり特異な客の要望や好みに応じて自らを「あつらえる」のだ。といっても、おそらく伝統的な「あつらえ」の幅は、伝統的に「型」が許容しうる範囲内だったことだろう。ところが、中川の「あつらえ」の振れ幅は、その伝統からみれば非常識なほどに広く、挑戦的なのだ。彼によれば、生物学的に例えると「絶滅危惧種」とも言える桶の「突然変異体」を、同時代の環境変化(=木や客の変化)に応じて「あつらえ」、数多く作り出していく。その中の一個でも末長く生き長らえればいい、と彼は言う。異業種の、多様なクライアント、アーティスト、デザイナーとコラボレーションしながら、そして、今までは木目の歪みや節のせいで廃棄される運命にあった異形なる木片を扱いながら、中川の「型」は、絶えず臨機応変に自らを「あつらえ」、変異し続けるのだ。

中川周士がつくったシャンパン・クーラー中川周士がつくったシャンパン・クーラー

 さらに、中川の冒険は、物づくりを超えて、彼の暮らす地域の、ローカルなビジネスづくり、コミュニティづくりにまで及ぶ。彼は、桶づくりのような作業は、元々、桶職人という「プロ」の仕事ではなく、農民の農閑期の作業だったのではないかと考える。彼は、最近、地元の地域ビジネスを考える会を多様な職種の人たちと開きながら、活動の第一弾として体験型マルシェを月一回開催している。そこでは、彼のような「プロ」の職人が指導しながらも、プロではない老若男女が自分で自分のために木のスプーンやコースターを作る(私もバターナイフを作った)。中川は、究極の「あつらえ」の一つは、自分が自分のために「あつらえる」ことだと言う。こうして、古の農民が農閑期にしたように、人々が自分や家族や友人のために、様々なものを「あつらえ」ていく。「百姓」になっていく。そして、それらを贈りあう。あるいは、マルシェでやり取りする。こうして「あつらえ」あうローカルなコミュニティが生まれることを、中川は期待している。
 そして「GO ON」。中川は、京都で彼同様に「工芸」を営みながらも、それを換骨奪胎し新たなモノづくりに挑んでいる若手5人と、この名を冠するユニットを立ち上げ、さらに多様な「突然変異体」を制作する実験を行なっている。1688年創業の西陣織「細尾」細尾真孝、開窯1600年の茶陶の名門「朝日焼」松林佑典、日本最古の手作り茶筒の老舗「開化堂」八木隆裕、1898年創業の竹工芸「公長齋小菅」小菅達之、そして京金網の老舗「金網つじ」辻徹。
 彼らは、自分たちの新たなモノづくりの海外への浸透に力を注ぎつつ、多様なクライアントとの「あつらえ」の冒険を行う。たとえば、家電メーカーPanasonic Designとの、従来の「工芸」や「家電」の枠からみれば、ほとんど「野合」としかみえないコラボレーション。片や、何代も自分たちの血肉を注ぎ一点一点「型」を成し「あつらえ」てきた「職人」たち。片や、機械と人間との精密なる協働が同一物を大量に生産してきた「家電メーカー」。はたして「野合」といえど、本当に「合」することはできるのか。双方の経験と知恵と技が格闘した末出来あがってきたのが、たとえば、蓋の開閉に合わせて音がON/OFFし掌で音の振動を感じる茶筒=スピーカー、IHからの非接触給電によって中の水を冷やし回転水流を起こす桶、竹が不均一に絡み合う「やたら編み」からこぼれるLED照明。生地に織り込まれた金銀箔がセンサーとなり音を奏でる西陣織のパーティション、などなのだ。そして、彼らは、その野合の様を、国際的なデザインの見本市「ミラノ・サローネ」にインスタレーションとして設えた。
 これらの「モノ」は、いったい“何”なのだろうか。「工芸」にも、「家電」にも、はたまた「現代アート」にも見紛うばかりだが、そのいずれにも収まりきらない“何か”。未だ名づけようのない“何か”。
 ここにもまた、藝術2.0あるいはGEIJUTSUの気配が漂っていないだろうか。もちろん、その気配は、いまたまたま一人の「職人」を例に挙げたが、「工芸」にだけ漂っているわけではない。今のところ「工芸」「芸能」「芸術」「デザイン」あるいは「場づくり」「ファシリテーション」「社会起業」などと呼ばれるしかない分野でも、ここかしこに漂い始めている。
 これから私は、こうした気配に誘われながら、それを何とかこの手に掴もうと「手探り」の旅に出る。私が唯一頼るのは、自分自身の直感だ。その直感に従い、藝術家2.0を探し当て、彼(女)に問いかけ、自問自答し、時には啓示を受けつつ、流浪しつづけるだろう。はたして、流浪の末、私は、どこに「出る」のだろうか。

註1:「ダムタイプ、二つの『memorandum』――それは、我々に投げかけられた問いなのか?」、『美術手帖』、第800号、2001年2月。104-111頁。
註2:西周「百學連環」『西周全集 第4巻』、宗高書房、1981年、15頁。
註3:同書、12頁。
註4:美学者今道友信は、その著『美について』の「まえがき」で、担当編集者への謝辞に続いて、この事態について以下のように慨嘆している。「その御礼の気持が私の節を抂げさせて、前著同様、文部省の定めたいわゆる新かな遣いに文章を改める約束を致しました。漢字も、術のかわりに芸術としましたが、芸は本当は「ウン」という音の農業用語で「クサギル」とみ、雑草を刈りとることです。したがって、「種子を植えつける」という原意のげいとは反対の意味を持つ字なのです。〔…〕「げいじゅつ」とは、人間の精神によい種子を植えつけるものだと思いますから、術ではなく術の方が、正しいばかりでなく、それこそ美しいと思いますが、致し方ありません。」(『美について』、講談社現代新書、1973年、5-6頁)。
註5:椹木野衣『震美術論』、美術出版社、2017年、8-9頁。
註6:「PLAY ON, KYOTO」は、平成29年度文化庁文化芸術創造活用プラットフォーム形成事業「東アジア文化都市2017京都」と、一般社団法人リリースの共同企画事業としてなされた。その成果を、タブロイド誌『PLAY ON, KYOTO』(東アジア文化都市2017京都実行委員会、2017)にまとめた。
註7:通常、「あつらえ」という語は、客が職人に注文して作らせることを言うが、中川は、むしろ逆に職人の視点から、職人が客の要望に応えるように作ることと捉えている。私は(以下で論じるように)、それをさらに拡大解釈して、作り手が、客のみならず、扱う素材の「要望」にまで応えて作ることと転義して用いる。

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熊倉敬聡(くまくら・たかあき)

1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours
タイトル絵:熊倉百香

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