第一回 文明開化、日本への旅


奥地紀行とはなにか

 イザベラ・バードの日本紀行には、二つの原テクストがあり、その邦訳がいくつかある。わたしは長いあいだ、簡略版である『日本奥地紀行』(高梨健吉訳)に親しんできたが、完全版の訳書が刊行されてからは、そのひとつである『完訳 日本奥地紀行』(金坂清則訳)をとりあえずのテクストに選んでいる。ここでは、金坂訳の『完訳 日本奥地紀行』をテクストとして、イザベラ・バードの日本文化へのまなざしをいくつかの視座から検証してゆく。
 『日本奥地紀行』という耳慣れたタイトルの蔭に埋もれがちだが、完全版の原書タイトルは『日本の未踏の地――蝦夷の先住民および日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』である。このことを看過することはできない。すなわち、簡略版からは少なくとも伊勢神宮を訪ねた紀行が省略されており、東北から北海道にかけての旅の記録に焦点を当てた再編集がなされていたのである。まさに簡略版は「奥地紀行」の名にふさわしいものであった。そのために、長いあいだ簡略版に親しんできたわたしたちは、バードの日本紀行あるいは日本文化論をある偏りをもって読むことになったのだ。とはいえ、バードの日本紀行のもっとも豊かな果実が「日本の未踏の地」、つまり、東北から北海道にかけての奥地踏破行からもたらされたこともまた、否定しようがない。
 その「はしがき」には、刊行の趣旨がこう語られていた。

 本書は「日本研究書」ではない。日本での旅の記録であり、この国の現状に関する知識を幾分なりとも豊かにしようとの試みである。集めた資料が目新しく、日本の理解に十分役立つと確信するに至ったのは、数カ月にわたって本州の内地と蝦夷【エゾ】を旅し終えた後のことだった。日光以北では私のルートはよく知られた所を完全に外れていたし、それを全行程踏破したヨーロッパ人はだれ一人いなかった。

 バードはみずからの著作が、「日本研究書」としては、いささか不満足なものであることを自覚していたらしい。だから、それを「旅の記録」つまり紀行として提示しようとしたのである。みずからの踏破行が、欧米の読者の関心をそそるものであることは、たしかに予感していた。バード以前に、その旅の全行程をたどった西洋人は存在せず、いわば、そこはかれらにとって未踏の処女地であった。西洋の女をはじめて目撃する者たちも多かった。しかも、これは日本人の通訳兼ガイドがいたとはいえ、女の一人旅であったことを忘れるわけにはいかない。そして、「蝦夷の先住民」つまりアイヌの人々からは、じかに聞き書きを行なったという自負もあった。もの珍しい紀行とならざるをえない必然は、幾重にもあったといっていい。
 「はしがき」の終わりに近く、「本書の欠点については重々承知しているが、あえて公刊するのは、欠陥があるとはいえ、本書が一四〇〇マイル以上に及ぶ日本の陸路の旅で知りえたことをありのまま真摯に記さんとしたものとして受け入れられると思うからである」と見える。だからこそ、より多くの読者を獲得するために編まれた簡略版は、東北から北海道へとたどる旅のルートにほぼ限定されることになった。そして、それはみごとに成功した。版を重ねて、たくさんの読者を期待通りに獲得したのである。それはまさに、日本奥地紀行の試みとしてかけがえのない輝きを得た。
 バードはまた、とりわけ本州北部つまり東北地方では、ほかに情報源がまったくなかったために、すべての情報を現地の人々から、通訳を仲立ちとして聞き出さねばならなかった、と書いている。真偽のほどが明らかではない、混沌として雑多な情報のなかから、小さな事実を掘り起こすための作業が必要とされたともいう。けっして大袈裟な物言いではない。折りに触れて、丹念な聞き書きがなされたことを確認することができる。その結果として、「農民が置かれている状況」などについては、これまでのほかの報告と比べても、描写が生々しく辛辣なことがあるかもしれない。それはしかし、そうした状況が当たり前に存在するのであり、作り話のたぐいではなく、ただ、あるがままに、真摯に「事実を明らかにしようとしただけ」だと、バードは強調している。

東洋的壮麗さとは無縁な

 これに続く「序章」は、原書の刊行にさいして附されたものだが、そこには百科事典的な「日本」についての記述が示されている。気候の多様性、豊かな植物相と豊かではない動物相、東洋的な壮麗さの欠落、古い日本・新しい日本などのテーマに沿って、簡潔に日本や日本人にかかわるイメージが語られている。あらゆる項目を網羅するといったものではない。バード自身のこれから始まる紀行の理解に資するようになされた、メモ書き程度の記述である。
 それにしても、ある種のマニフェストではあったかもしれない。すなわち、昔の旅人たちのありもしないような作り話は、もはや過去のものになった、と。たしかに、長期にわたった謎だらけの鎖国の時代は終わったのだ。そして、明治の世になってからのほんの十年ほどのあいだに、「息もつかせぬ速さで次々と起こってきた変化」は、欧米の人々の日本観のうえに、大きな混乱をもたらしている、という。もはや、切腹の風習は見られないにもかかわらず、そうした日本イメージが依然として、たとえばチェンバーズの『百科事典』のなかには残存していることに、バードは注意を促している。それらはもはや過去の遺物にすぎない。いまや実地の踏破、つまりフィールドワークにもとづく観察こそが求められている、というささやかなマニフェストであったか。
 さて、「序章」は導入編である。それは旅のあとに執筆されている。したがって、先行する日本研究をなぞりながらも、実際の旅の見聞によって濾過された日本文化のイメージが語られている、といっていい。その、関心をそそられるいくつかに触れておく。
 たとえば、こんな一節があった。

風景は雄大であることが多い。また、ほとんどいつも美しい。たとえ単調であっても、それはヒューブナー男爵が言うように「詩を思わせる単調さ」である。植生の豊かさと春から夏の終わりまでの緑あふれるさまは本当にすばらしく、日本列島をなす島々がエメラルド諸島と呼ばれたとしてもおかしくない。たとえ冬になっても、一面茶色になったり、草木がなくなったりすることはない。一五〇種の常緑樹が落葉樹の落葉を補い、農地はどこも春作物の浅い緑に包まれている。また、椿は真っ赤な花をつけ、雪ののった葉を引き立たせている。日本の山々は森林に覆われ、谷間も平野もみごとな農耕地をなしている。

 バードのはじめての日本滞在は、明治十一(一八七八)年の五月二十日から十二月十八日にかけてであった。ここに語られた冬の情景がどこまでバード自身の見聞に根ざしたものであったのか、判断はいくらかむずかしい。バードが日本の植生について、たとえば、西日本の照葉樹林/東日本の落葉広葉樹林といった対比をどの程度知っていたか、気に懸かる。バードが実際に体験したのは、夏の東北のブナ林と、秋の西日本の照葉樹林ではなかったか。おそらく、雪景色のなかの椿の赤い花は見たことがなかったはずだ。
 「この国では花がきわめて豊富で、特に花木が豊かである」という記述は、どうだろうか。菖蒲・芍薬・桜・梅などには、それらを見て楽しむ行為、つまり花見がある、という。このあたりは先行するガイドブックや研究書からの引き写しであったか。こうした植物相が「多様性に富んでおり、無限といってよいほどである」のにたいして、動物相が豊かではないことが指摘されている。たしかに、鹿・熊・狼・猪・鼬・狐・猿・蛇と、地中に住む小動物しかいないと言われると、うなずくしかない。鷲・鷹・鷺・鶉・雉・鶴は多数生息するし、烏は無数にいる。しかし、「美しくさえずる鳥や羽の鮮やかな鳥は悲しいほどに少ない。このため静けさは日本の自然の一つの特徴になっている」といった指摘には、意表を突かれる思いがする。はたして、バードの独創になる観察であったか。留保が必要だ。それにしても、日本的な自然はそれほどに静謐なのか。それが「美しくさえずる鳥」の希少性に結びつけられているあたりに、面白味がある。日本人の自然情緒が鳥のさえずる声と無縁ではない、いや、そうした鳥の声とともにあったし、いまもあることを思わずにはいられない。
 あるいは、人口は三四三五万八四〇四人を数える、という。いつの時点における統計であったか。金坂の注釈によれば、明治五年頃の人口であるらしい。興味深く思われるのは、その日本の人口がイギリスやフランスなどとほとんど変わらないことだ。その後の百数十年間における、日本の人口の爆発的な増加がもつ意味が問われねばなるまい。近代化、経済成長、植民地主義……といったテーマと、人口問題とが交叉する場所に眼を凝らさねばならない。それに続けて、アイヌは一万二〇〇〇人、欧米人と中国人とを合わせて約五〇〇〇人いる、と見える。あきらかに、日本は多民族国家として眺められている。そもそも、バードは北海道のアイヌの村【コタン】を訪ねることを、奥地紀行のはじまりから、おそらくは最大の目的としていたのではなかったか。

……これらを除くとすべての住民はまったく同質で、おしなべて肌は黄色く、目は黒くて吊り上がり、髪は黒い直毛である。若干の方言はあるものの、国内のすべての日本人が同じ言語を話している。そしてこのような画一性は、寺社や民家や衣服に関しても広く見られる。

 いわば、こうした単一民族国家としての日本像は、一万二〇〇〇人のアイヌ民族によってあらかじめ宙吊りにされていたのである。少なくとも、それが限定的な日本イメージであることを、バードはよく承知していた。黄色い肌・吊り上がった黒い眼・真っすぐな黒髪といった身体的特徴、言語、寺社・民家や衣服などに見いだされる画一性はそのままに、単一民族国家としての日本イメージの根拠と見なされるとしても、それはどこまでも限定的なものであった。

 日本は「東洋的壮麗さ」とは無縁である。彩色や金箔は寺社でしか見られず、宮殿から小屋に至るまで等しく灰汁色の無垢の木でできており、建築様式と言えるようなものはなきに等しい。富はたとえあるとしても、外には表れず、衣服の色も普通はさまざまな濃淡の鈍い青や茶や鼠色で、宝石は身につけない。すべてのものが貧相で存在感を欠き、街もきわめて単調なことを特徴とし、見栄えがしない。

 いったい、「東洋的壮麗さ」とは何か。アジアの専制的な国々においては、貧しい民衆からは隔絶した王や帝王によって、壮麗なる宮殿や宗教施設が建てられた。そうした突出した壮麗さはたしかに、日本では見られない。寺社や宮殿は彩色や金箔とは無縁であり、グレーの無垢の木で造られる。富みがむき出しに、たとえば服飾のうえに表出されることもない。すべてが貧相で、存在感を欠き、単調そのものであり、だからこそ「東洋的壮麗さ」とは無縁なのである。むろん、こうした指摘はバードに特徴的であったわけではなく、幾人もの異邦人の観察者たちが書き残していたことではあった。
 あるいは、外国人と交わることのなかった日本人が、「未開人」と呼ばれるような存在からはかけ離れた、「とても親切で、心優しく、礼儀正しい」人々であったことが指摘されている。この国においては、日本人の従者一人を伴うだけで、外国人がほとんど訪れることのない地域を、「無礼な目にも強奪にも一度もあわないで旅する」ことができるのだ、バード自身がそうであったように。

文明開化はたんなる模倣か

 バードの日本紀行のなかで、とりわけ日本人の宗教観にたいする関心は一貫していた。わたし自身の読み解きもまた、そこに、多くの関心を差し向けることになるはずだ。「序章」には、こんな一節が見える。明治初期における日本の宗教事情の一端が示されている。

 神道は自然崇拝と神話崇拝の原始的な一形態であるが、その神話崇拝はおそらくはこの国固有のものであって、そこには道徳律はまったくなく、宗教的要素も、あるとしてもごくわずかである。その神道が今は、「国」教会的な組織ないし「国が財産を付与する」教会のような組織になっている。これに対し、六世紀に朝鮮から伝来した仏教は、天皇の復位以来排斥されてきているが、神道よりも一般大衆の心をしっかりと掴んでいる。上流階級の人々は、政治目的のために表面的には神道に賛同する一方で、非宗教的な人生観に安んじている。キリスト教は黙認されており、新教、旧教、ギリシャ正教への改宗者は二万七〇〇〇人を数えると言われている。

 ここでのバードの認識が、キリスト教的な宗教観に根ざしたものであることは、当たり前にも感じられるが、あえて指摘しておきたい。たとえば、神道にたいして、「そこには道徳律はまったくなく、宗教的要素も、あるとしてもごくわずかである」という評価が下されている。それは、人を高次の倫理的な境域へと導くための道徳律をもたず、宗教としての実態にも欠ける、それゆえに、たんなる自然宗教にすぎない、といったところか。それにもかかわらず、その神道が明治維新のあとには、国教的な位置づけを与えられており、神道よりも「一般大衆の心をしっかりと掴んでいる」仏教が排斥されている。いわば、ここには神仏分離と廃仏毀釈にかかわる認識の一端が示されていたのである。キリスト教はすでに禁教の対象ではなく、改宗した日本人は二万七〇〇〇人を数える、という。それは少なかったか、少なくはなかったか。この問題については、紀行のなかでくりかえし触れられている。旅そのものの隠されたテーマのひとつであった可能性は否定できない。
 以下の一節などにも、関心をそそられる。

 政治的には旧き日本はもう存在しない。旧き日本の支配者たちの威光や武士道、威厳を正した礼儀作法、儀式張った自殺、そして仇討ちといったものも、今や舞台にしか存在しない。しかし、伝統的な衣装や厳格な社会秩序、形式張った礼儀正しさ、測ったようなお辞儀の仕方、無知からくる愛国心、人々をとりこにしているおびただしい迷信は内地には依然として残存している。堕落し腐敗した仏教が人心を左右している地域では特にそうである。私が日光から青森まで踏破した、それまで外国人が訪れなかった道沿いの地域の大部分では、進歩の槌音がいまだほとんど聞こえてこない。日本の農民たちは、祖先が暮らしていたとおりの暮らしを続け、同じ考え方を有している。

 もはや、「旧き日本」は存在しないが、奥地ではいまだに、多くの伝統や迷信が残存し人々を呪縛している、とバードはいう。とりわけ、「堕落し腐敗した仏教」によって支配されている地域では、ともいう。そこには「進歩の槌音」が聞こえず、因習的な暮らしが営まれている。こうしたバードのまなざしは、キリスト教に根ざした進歩史観と無縁ではありえない。それら奥地の民衆は、たしかに「未開人」ではなかったが、進歩からは隔絶した伝統的な暮らしのなかに沈潜している、そう、バードは考えていたのである。にもかかわらず、バードがそこに何か未来への胎動のようなものを感じ取っていたことは、どうやら否定しがたい。奥地の旅がそれをもたらしたのである。
 帰国後のバードは、日本人の西洋文明への熱狂や文明開化が一時的なものなのか否か、という問いにしばしば遭遇したらしい。これについてのバードの応答は、なかなか示唆に富んでいる。

この新しい動きに関していえば、その動きが人民から湧き起こったこと、しかも主として外からでなく〈内〉から湧き起こったことが、この動きを長続きさせる二つの要素であることは疑いの余地がない。
 多くのヨーロッパ人は日本の進歩を「ものまね」だとあざけるし、中国人と朝鮮人はそれを、嫉妬混じりの腹立たしさをうまく隠しもせず見つめている。だが、日本はわが道を進んでいる。その未来をあえて予言するわけではないが、私には、なぜ彼らが日本を他の東洋諸国とは別のものにしてきているこの動きがこれからもずっと続くと信じようとしないのかわからない。

 西洋文明への、それゆえに進歩への熱狂的な欲望は、民衆の内発的な動きとして顕現しているという、おそらく傍流の認識が示されている。そんなものは、欧米人が嘲笑とともに、中国人や朝鮮人が嫉妬混じりに、たんなる「ものまね」にすぎないと眺めていることに、バードはあきらかに異議を唱えていたのだ。奥地紀行がもたらした認識ではなかったか。バードはあたかも予言者のように、日本は「わが道を進んでいる」のであり、「日本を他の東洋諸国とは別のものにしてきているこの動きがこれからもずっと続く」と信じている、と語ったのだ。かつて六世紀に、中国から朝鮮経由で伝えられた文明を思い浮かべながら、十九世紀のいま西欧からもたらされた文明もまた、日本社会に受容されるだろう、という。
 そして、このあとに、バードがこう言い添えていたことを見逃すわけにはいかない。すなわち、「もしキリスト教が、これまで日本に最も強い影響を与えてきた外来のものである仏教に打ち勝つことになればなおのこと確実にそうなろう」と。宗教戦争の影が見え隠れしているといっていい。あらためて何度でも触れることになる重要なテーマのひとつが露出していたことに、注意を促しておく。
 さて、「序章」の終わりに近く、いくらか唐突に、お雇い外国人が登場してくる。日本の西洋文明の受容がたんなる模倣には終わらないという予感が、そうしたお雇い外国人についての、ある冷徹な認識に裏付けられていたことに気づかされる。バードは深い洞察の人であった。
 いま進められつつある種々の変革は、お雇い外国人と、欧米に数年間留学した能力の高い日本人との指導の下でなされている。政府はすべての部局で、最高に有能な人材を確保しており、私心のある外国人が悪い助言で混乱させるような事例は見られない。バードはここで、忘れてはならないことがある、という。それは意外なことに、お雇い外国人が「援助者としてのみ存在しており、実際の権限はもっていないこと、つまり主人としてではなく召使として存在している」という認識であった。かれらは能力が高いほどに、早く解雇され、管理運営が日本人に移されている。だから、「『日本人のための日本』ということが日本人の愛国心の信条であり、『異邦人』は使われたのち、できるだけ早く解雇されるべきものなのである」と、バードは冷ややかに指摘している。日本は「わが道を進んでいる」し、それがあきらかに、ほかのアジアの国々とは異なった動きであることを、確実に見抜いていたのではなかったか。
 さて、「序章」の最後は、「日出ずる帝国」をゆく長い旅に最後までお付き合いくださるようにお願いする、と結ばれている。わたしもまた、近代の黄昏に生きる日本人のひとりとして、できるならば同行二人【どうぎょうににん】、バードの日本紀行を読んでいきたいと願う。

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赤坂憲雄(あかさか・のりお)

1953年生まれ。学習院大学教授。福島県立博物館館長。『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ文学賞受賞。同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。著書に、『司馬遼太郎 東北をゆく』『北のはやり歌』『ゴジラとナウシカ――海の彼方より訪れしものたち』『東西/南北考』『異人論序説』『山の精神史』『漂泊の精神史』『遠野/物語考』『境界の発生』『子守り唄の誕生』『結社と王権』など多数。

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