第一回 徒然草からみた白拍子


「白拍子とは」
多久資が申しけるは、通憲入道、舞に手の中に、興味ある手どもを選びて、磯禅師といひける女に教へて舞はせり。白き水干に鞘巻をささせ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞいひける。禅師が娘、静といひける、この芸を継ぎけり。これ、白拍子の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。其後、源光行、多く本を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊に教えさせ給ひけるとぞ。
(吉田兼好『徒然草』二二五段)

【現代語訳】多久資[おおのひさすけ]という舞人[まいびと]が語ったことには、通憲[つうけん]入道が舞の手のうち、おもしろいものだけを選んで、磯禅師[いそのぜんじ]に教えた。白い水干[すいかん]に鞘巻[さやまき]をささせて、烏帽子[えぼし]をつけさせて、これを「男舞[おとこまい]」と言ったそうだ。禅師の娘は、静[しずか]と言い、この芸を継いだ。これが白拍子の起源である。仏や神の起こりを歌った。その後、源光行[みなもとのみつゆき]が、白拍子の歌の歌詞の本を作った。後鳥羽院の御作品もあり、それを亀菊に教えさせなさったということだ。

▼藤原通憲[ふじわらの・みちのり]
 これは、鎌倉末期から南北朝時代に活躍した、歌人、随筆家の吉田兼好(1283?‐1352)の『徒然草』という随筆集に書かれた「白拍子とは」です。
 それをひとつずつ見てゆくと、多久資(1214‐1295)という舞手(まいて)が、吉田兼好に語ったようです。年代的には、出会っていてもおかしくはありません。
 通憲入道、出家をする前のその名を藤原通憲(1106‐1159)と言います。三九歳の時に出家し、藤原信西[ふじわらのしんぜい]と名を改めます。吉田兼好、多久資よりも一〇〇年ほど前の人です。
 藤原通憲は、もともと学問の家系の人で、たいへん博学でした。しかし、高階家の養子となり、世襲制の当時、学問で身を立てることはかなわない境遇となりました。そんなとき、藤原通憲の二人目の妻、藤原朝子[ふじわらのあさこ]は、大治二(1127)年に雅仁(まさひと)親王(後の後白河天皇)の乳母となります。そして約三〇年後、後白河が二九歳のときの保元元(1156)年、保元の乱で、後白河は勝利します。
 後白河側近であった藤原通憲は、その保元二(1157)年、大内裏[だいだいり]【1】の造営工事に着手。十月八日に完成。そして翌年の保元三(1158)年正月二二日、その大内裏で「内宴の儀」を行いました。内宴の儀は、天皇の前で、延臣(朝廷に仕える家来)が詩を披露し、女性による雅楽演奏「女楽[にょがく]」と舞が披露される儀式です。そして翌年、保元四(1159)年正月二一日に二度目の内宴の儀が行われました。その時の様子は、

廿一日。内宴。妓女舞曲を奏す。陽台の窈窕(楚の襄王が、夢中に巫山の美女に会った。その美しい女を見る思いがする)の如し。我が国の勝事[めでたさ]、此の事に在り。信西入道、勅を奉けて、其の曲を練習せしむ。
百錬抄 正月廿一日

【現代語訳】(正月)二一日。内宴の儀。舞手の女性は舞曲を奏する。楚の襄王[じょうおう]が、夢の中で巫山[ふざん]の美女に出会った。そのときの美しい女性を見ている「陽台(巫山のこと)の窈窕[ようちょう](美しく、上品である)」のようだ。我が国のめでたさ、賞讃するにふさわしい素晴らしいことである。それが、この舞にはある。信西入道は、勅命をうけたまわって、その曲を練習させた。

 「こんな美しい女性の舞があるだろうか? 襄王が出会ったように、天皇も美女に出会う。わが国の素晴らしさは、ここにある。だからこそ、勅命によって、彼女たちにこの曲を習得させる意義がある」と、国家行事としての意義があるという思いが、信西入道にありました。
 後白河院は、この内宴の儀を絵巻として書き留めるよう命を出しました。それが、『年中行事絵巻』。保元四(1159)年の、二度目の内宴の儀の様子が描かれ、残されました。

田中有美(編)『年中行事絵巻考 巻6』(田中文庫、大正9年)より(国立国会図書館蔵)

田中有美(編)『年中行事絵巻考 巻6』(田中文庫、大正9年)より
(国立国会図書館蔵)

 藤原通憲は、保元から平治となった平治元(1159)年一二月九日、政敵である藤原信頼[ふじわらの・のぶより]と源義朝[みなもとのよしとも]の挙兵による「平治の乱」によって、自殺をします。以降、内宴の儀は行われなくなりました。後白河院には、この予感があったのかもしれません。
 
▼内教坊と踏歌
 『年中行事絵巻』には、内教坊で奏された「踏歌」[とうか]の様子が描かれています。
 内教坊とは、律令制で設置された八つの省の中のひとつ治部省[おさむるつかさ]の中の雅楽寮[うたまいのつかさ]という中のさらに女性の演奏・歌・舞を監督し、教習するところです。
 設置された時期は、明らかではありませんが、少なくとも奈良時代初期【2】には存在していたようです。しかし、長元元(1028)年以降、久しく踏歌は行われず、長元七(1034)年廃絶されました。
 内教坊では、女性たちが、雅楽の演奏すなわち「女楽」、それと踏歌を教習していました。「踏歌」とは、男女が群舞となって、大地を足で踏みならし、拍子をとりながら、歌い舞うものです。起源は、古代中国にあり【3】、「踏青[とうせい]」と言いました。初春で青草を踏んで大地と人々の生命力を育む儀礼へとなってゆきます。
 日本では、最初に文献として見られるのが『日本書紀』の持統天皇七(696)年正月一六日の「漢人【4】等奏踏歌(漢人[あやひと]など踏歌を奏す)」です。内教坊で踏歌を舞った女性たちは、漢・百済系の渡来系氏族だったのかもしれません。
 九世紀末ごろからは、男女は別に舞うようになり、毎年一月一四、一五日は、男性による「男踏歌」、一月一六日に女性による「女踏歌」が行われるようになりました。しかし、男踏歌は永観元(983)年を最後に途絶えます【5】。

 『続日本紀[しょくにほんぎ]』の天平一四(742)年一月一六日には、「五節田舞[ごせちのたまい]」の後に、少年と童女が「踏歌」を行ったと書かれています。そこには、「新しき年の始めに かくしこそ 供奉[つかえまつ]らめ 万代[よろづよ]までに」と歌って、新年を祝ったそうです。 
 なぜ、ここまで「踏歌」について書いているかというと、これが、「なぜ女性は舞うのか?」ということの根源がそこにあるような気がするからです。

 さらに、この踏歌がどのように舞われたかをみてみましょう【6】。
 まず、踏歌の前に、承明門の外で、国栖[くず]【7】人が風俗歌[ふぞくうた]【8】を奏します。それから、承明門の北側で、雅楽寮の楽人たちが、立って演奏をします。
 そして、踏歌を歌い舞う女の舞人たち四〇人【9】が、紫宸殿[ししんでん]【10】の南端に並びます。そこから二列に分かれて進み、大きな輪を作ったら、今度は、三周回りながら、足を踏みならします。それから校書殿[こうしょでん]の東に立って、唱歌[しょうか]【11】して(歌を歌って)退出したそうです。それが『年中行事絵巻』に描かれています【12】。

 彼女たちは、古代の中国で、東の海中の山「蓬莱[ほうらい]」、ここに仙人と共に住む天人天女が、舞いながら、天皇が永く栄えること、豊作を祈る漢詩を音読したとも言われています【13】。そこでは「万年[よろずよ]あられ」という囃し言葉【14】を唱えたために、「あられはしり」【15】とも呼ばれました。
 「初春の青草を踏む様子」を表した踏歌。日本の宮廷では、「男踏歌」は消え、「女踏歌」のみが残りました。年の始め、初春の青草を踏みならしながら、天女たちが、みんなで輪を作って歌い舞い、治世と豊作を祈ります。これが宮廷にとって、必要な祭儀となったのでしょう。

▼五節舞
 この「女踏歌」が行われる一月一六日に「五節田舞」が、共に行われました。
 「田舞」ということばが、最初に見られたのは、天智一〇(671)年五月です【16】。
 「田舞」は、五月五日、端午の節句にあたって行われていました。いわゆる「田植え」の時期です。その年の豊作を願って舞われたのでしょう。また、天武一二(684)年には、「小墾田舞[おはりだまい]」が行われました【17】。小墾田は、奈良県高市郡明日香村付近で推古天皇の皇居のあったところとされています。今でも、田んぼの広がる風景が残っているところです。天智・天武時代にこの「田舞」の記載が残され始めているのは、この「田舞」が、律令体制の中で、政治(行政)が行うべき「儀礼」の要素を持っているから、と言われています【18】。
 聖武天皇期から「田舞」は、「五節田舞」と言われるようになりました。つまり、端午の節句のみならず、五節【19】の折りに触れ、田舞が奏されるようになりました。
 その五節田舞が、天平一五(743)年五月五日、聖武天皇の娘、阿部内親王(のちの孝謙天皇)によって舞われました。田舞は、地位ある者の威厳によって、威力を発揮し舞う、儀礼の舞です。政策の最重要事項が、「米の豊作」である、ということを示すことのできる舞だったのです。
 当初は、男女が別れている舞ではなかったのですが、阿部内親王によって舞われて以降、徐々に「女舞」になっていったようです。
 大同三(808)年一一月一七日の大嘗会[だいじょうえ]【20】、弘仁五(814)年一一月二〇日の新嘗会[しんじょうえ]【21】からは、「五節舞」が慣例として行われるようになりました【22】。
 奈良・平安時代中期【23】あたりまでは、この「五節舞」は内教坊が務めるようになりました。
 さらに、嵯峨天皇(809‐823)、仁明天皇(833‐850)の時代には、五節舞を舞い終えた舞姫が、天皇の寝床に入るようになりました。当時、これはその舞姫の一族出世の好機と、各々の一族が、子女を差し出そうとしましたが、醍醐朝(897‐930)以降、そのようなことはなくなりました。それ以降、平安後期には、受領【24】層の子女が舞うようになります。
 どんな舞だったかというと、『西宮記[さいぐうき]』【25】には、五節舞は、五段に分かれ、一廻りする間に一段ずつ舞の手がある、とあります。つまり、五周して、五節舞を舞うということになります。また『源平盛衰記』【26】には、歌を五回歌い、五度袖を翻す、とあります。
 では、どんな歌を歌うのでしょうか? それは、天武天皇の前に現れた天女たちが歌った歌です。

浄御原天皇始五節事
又去、清御原天皇之時、五節始之、於吉野川鼓琴、天女下降於前庭詠歌云々、仍以其例始之、天女歌 云、ヲトメゴガ、ヲトメサピスモ、カラタマヲ、ヲトメサピス、ソノカラタマヲ
(大江匡房『江談抄』[ごうだんしょう]【27】第一公事)

【現代語訳】浄御原(天武)天皇の五節の舞のはじまりのこと
また、いうには、清御原(天武)天皇のとき、五節の舞が始められたのは、天皇が吉野川(吉野の宮)で琴をつま弾いていると、天女が庭の前に降りてきて、歌を歌いました。よってそのたとえを以って始まりとします。天女が歌ったというのは、「少女が 少女らしく 唐の玉を 少女らしく その唐の玉を」

 現在、舞われている五節舞では一回目の「カラタマヲ」のあとに、「袂にまきて(袂に巻いて)」が入って歌われています。
「少女[おとめ]ごが 少女さびすも 唐玉を 袂にまきて 少女さびすも その唐玉を」
 袖を翻す所作は最初の「唐玉を」の最後のところで一回のみ。最後の「少女さびすも」で、四人【28】が一列に並んで、舞殿を一周して、退場しています。

 内教坊の女性の舞で重要なもの、それが「踏歌」と「五節田舞」です。ともに豊作を祈るもの。そして、美しい女性[ひと]、天女や少女[おとめ]のイメージによってそれが祈られるという。「春が来て、草花が芽吹き、その生命を人々にもいただく。そして食する米が、今年も豊作でありますように」と。

▼白拍子の装束
 藤原通憲は、舞のおもしろそうな手(振り付け)だけを選んで、磯禅師[いそのぜんじ]という女性に教えました。
 その時はどんな「装束」、つまり、衣服、冠、そして何を身につけていたのでしょうか?
 まず上に着るものは「水干[すいかん]」でした。のりを使わず、板の上で、水張りにして干し、乾いてから引きはがして、張りをもたせた布で作られています。狩衣[かりぎぬ]【29】をさらに簡略化した服装です。 狩衣と違うところは、首回りに紐がついていてそれを前で結ぶこと。そして、胸と袖に菊綴[きくとじ]という飾りが付いています。白拍子の着る水干の色は白でした。
 そこに鞘巻[さやまき]を挿しました。鞘巻は、鍔[つば]のない短刀です。その鞘に葛藤[つづらふじ]の蔓[つる]などを巻き付けます。それを腰に挿します。
 そして烏帽子[えぼし]をかぶります。「被り物」とは帽子のことです。平安時代、男子は髪を結い上げ、それをまとめて、被り物の中に入れる。頭髪を人前では見せない、そんな風潮がありました。烏帽子は、絹糸で織った目の粗い布に黒の漆を塗って作ります。これらすべてをそろえるとだいたい、写真のようになります。

白拍子の装束

【白拍子の装束】この写真の刀は鍔が付いている。手に持っているのは、平安時代の扇で「蝙蝠[かわほり]」。(著者撮影)

 烏帽子はもちろんのこと、水干もそこに鞘巻を挿すことも、男性の出で立ちでした。男装をして舞うのですから、これを「男舞」と言ったというのはそういうことでしょう。
 保元三(1158)年、保元四(1159)年に藤原通憲によって開かれた内宴の儀の様子を思えば、通憲は「おもしろい舞の手を教えた」のであって、「男舞を教えた」わけではありません。思うに、白拍子と呼ばれるものたちが、次第に男装をし始めたということではないでしょうか。

▼磯禅師と静
 藤原通憲は磯禅師に、舞の中のおもしろい手を教えました。磯禅師の娘である静[しずか]がこの芸を継ぎました。これが白拍子のはじまりです。静が白拍子として最も活躍したのは文治二(1186)年ごろです【30】。保元四(1159)年の最後の「内宴の儀」で、磯禅師が宮廷から離れたとすれば、約二七年経っています。
 源頼朝が、弟の源義経の追討令を出すと、静は、義経と共に逃亡の旅を続けます。その日々にふさわしい服装は、きらびやかな装束であるはずはなく、それこそ、動きやすい男装だったのではないでしょうか? しかしその後も、白拍子が男装であったということは興味深いことです。

▼白拍子の歌う歌詞
 白拍子は、仏や神のおこりを歌ったと言われています。この仏はどんな仏なのか、仏教が入る前からいたこの日本の神はどういう神なのか? そういうことを歌っていました。
 平安後期に、当時流行した「今様」という歌を書き留めたもの、『梁塵秘抄[りょうじんひしょう]』が編纂されました。今様は、白拍子も得意としていました。
 歌詞を見れば、仏教の仏、釈迦、薬師如来、阿弥陀如来、普賢菩薩、文殊菩薩、 ブッダの弟子であった堤婆達多[だいばだった]、あるいは龍樹[りゅうじゅ]など、または、法華経、無量寿経、般若経などの経典の名を歌に読み込んでいます。
 たとえば、釈迦(ブッダ)について歌った歌では、
 
釈迦牟尼佛[しゃくかむにぶつ]は薩埵[さた]王子、弥勒文殊[みろくもんじゅ]は一二の子、淨飯王[じょうばんおう]は最初[さいそ]の王、摩耶[まや]は昔の夫人なり
(『梁塵秘抄』第二三番歌)

【現代語訳】お釈迦さまの前世は、薩埵【31】王子、弥勒が長男、文殊が次男、そのふたりは、薩埵王子の兄たちだった。同様に前生をたどれば、釈迦の父・浄飯王は大車[だいしゃ]王 、釈迦の母・摩耶は大車王の夫人【32】だったのだ。
  
 また日本の神のこととして、熱田神宮、熊野権現、石清水、貴船、住吉神社、春日大社などの名を読み込んでいます。
 たとえば、この神社にはこういう神が祀られていると歌った歌には、

神の家の小公達は八幡の若宮熊野の若王子子守御前、比叡には山王十禪師、賀茂には片岡貴船の大明神
(『梁塵秘抄』第二四二番歌)

 【現代語訳】神の家の子、貴公子たちは、岩清水八幡宮の若宮、熊野(十二所権現)の若宮と子守宮、比叡山には山王十禅師(十の神さま)、賀茂には片岡御子社と貴船の大明神。

 これは、「貴公子たちは、これらの神の化身だ」という歌です。
 霊験あらたかとほめ讃えている歌には、

祇園精舎の後ろには、よもよも知られぬ杉立てり、昔より山の根なれば、生いたるか杉、神のしるしと見せんとて
(『梁塵秘抄』二五五番歌)

【現代語訳】(京都八坂の)祇園社の背後には、いつの世からあるともわからない杉が立っている。昔から山の麓であるので生い立っているのか、杉よ。神の宿るしるしを示そうとして。

 また『法隆寺白拍子記』をみれば、どのような仏、神が現れて、そこに法隆寺を建たてることになったか、法隆寺にある儀式はどのようにして起こったか、ということが書かれています。
 白拍子は、仏教や日本の神、宗教的な世界について語り、歌いました。
 もちろん白拍子が歌った歌詞は、そればかりではありません。しかし、ひとまず、『徒然草』に書かれたことを今は追っていきましょう。

 源光行[みなもとのみつゆき]が白拍子の歌の歌詞の本を作った、と言い伝えられています。さらには、後鳥羽院の作品もある、と。しかし、現在両者に関して現存している白拍子の歌の歌詞はありません。
 源光行(1263‐1244)は、平安末期から鎌倉初期にかけての政治家、文学者、歌人で、多くの和歌を詠んでいます。源氏物語の研究者としても有名で、源氏物語の河内本という本文を整えました。承久の乱では、後鳥羽院に従いましたが、彼の文学の才能を惜しんだ人々の助命嘆願のおかげで、重刑を免れました。
 後鳥羽院(1180‐1239)は、安徳天皇のあと、鎌倉幕府が成立した時代に天皇だった人です。『新古今和歌集』の編纂を命じました。これが最後の勅撰和歌集となります。
 後鳥羽院は、白拍子亀菊に自分の作った白拍子の歌を教えさせました。
 『承久記』によれば、亀菊に、後鳥羽院の寵愛がゆえに、摂津国[せっつのくに]長江・倉橋(大阪府豊中市)の荘園(後鳥羽院に寄進された土地)が、与えられました。しかしその荘園を管理していた鎌倉幕府から派遣された地頭(荘園の管理者)が、横暴だということで、後鳥羽院は「地頭を免職にし、地頭制度を廃止せよ」と言ったことで、幕府と対立。その他の要因も重なって、その二年後、承久三(1221)年に「承久の乱」となり、後鳥羽院は幕府軍に破れ、隠岐島に流されました。その隠岐島に亀菊は共に同行したと言われています。これも、白拍子の静が、源義経に同行した姿と重なります。亀菊も「白拍子の出で立ち」と言われている男装で後鳥羽院に同行したのでしょうか?

▼平家物語の「白拍子」とは
 さて、もう一つ、「白拍子とは」と書かれたものがあります。それは『平家物語』です。『平家物語』では、平家と源氏の栄枯盛衰を描きつつ、「いくさ」と「ものの哀れ」を織り交ぜながら語られていきます。
 そこに白拍子の一人「祇王」と名付けられた物語があります。その始めはこのように語られます。

抑我朝[そもそもわがちょう]に、白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇[ぎょう]に、島の千歳、和歌の前とて、これら二人が舞ひだしたりけるなり。はじめは水干[すいかん]に、立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中比より、烏帽子、刀をのけられて、水干ばかりを用いたり。さてこそ白拍子とは名付けけれ。
(『平家物語』巻第一「祇王」))

【現代語訳】そもそもわが国で、白拍子が始まったのは、むかし、鳥羽法皇の御代[みよ](法皇の在位期間)に島の千歳、和歌の前という、この二人が舞い出したのである。はじめは水干に立烏帽子【33】、白鞘巻を挿して舞ったので男舞と申した。しかし、その途中から烏帽子、刀はやめて、水干だけを用いた。それをこそ白拍子と名付けたのだ。

 鳥羽天皇が院(=法皇)となって在位したのは、大治四(1129)年から、久寿三(1156)年です。鳥羽院の死の直後に、保元の乱が起こり、後白河が勝利し、保元二(1157)年、大内裏の造営工事に着手。翌年の保元三(1158)年に藤原通憲によって、「内宴の儀」が行われたことは、すでに書きました。
 つまり、「平家物語」に書かれた「白拍子とは」によれば、白拍子が現れたのは、後白河の時代ではなく、その前の天皇の鳥羽院の時代ですよ、と言っているわけです。そうなると、今まで「徒然草」の二二五段を一つずつ読み解きながら語ってきたことが、時代がすべてずれてしまって、間違いだったということになってしまいます。
 しかし、「徒然草」の二二五段の次、二二六段には、「平家物語は、藤原行長によって書かれ、それを盲僧に教えて語らせた」とあります。
 時代は、「後白河院←→鳥羽院」、白拍子は、「磯禅師←→島の千歳、和歌の前」、そしてそれを書いたのは、「吉田兼好←→藤原行長」、この『徒然草』と『平家物語』は、それぞれに白拍子の始まりに対して持論がある、ということでしょう。
ちなみに、ここに登場する「島の千歳、和歌の前」という白拍子は、現在のところ、この他の文献、物語の中で見つけることはできません。

▼まとめ「白拍子とは」
 白拍子の登場する前の女舞は、「踏歌」「五節舞」のように、天皇の前に天女(実際は少女)が現れて、朝廷の繁栄と豊作を祈るものでした。しかし白拍子は、男装をし、男舞をする。個人的に権力者の庇護を受ける。そして戦いに破れた武将や貴族と共に逃亡する。そんな風に変わってゆきました。女舞のあり方から、当時の国の情勢も見えて来るような気がします。
 
 さて平家物語に書かれた白拍子の装束ですが、のちに水干だけを着るようになった、とあります。これについては、回を改めて見てゆきましょう。
 
▼エピソード:白拍子のため息
 後鳥羽院から寵愛を受けた白拍子・亀菊は、摂津国長江・倉橋の荘園を与えられたと書きましたが、この領地の近く、江口、神崎には遊女(遊女は謡いはするが、舞は舞わない)たちが多く住んでいました。亀菊は、彼女たちと近い関係、あるいは同じ出身地だったと言われています。五節舞で、平安後期からは舞姫は受領の娘たちから選ばれた、とも書きましたが、その娘たちの下仕[したづかえ]には、江口、神崎の遊女を選んで仕立てたと言われています【34】。

 1985年ごろ、まだ「バブル景気」と言われていたころ、終電の終わった大阪梅田駅からタクシーに乗ったときのことです。そのころ私は、兵庫県尼崎市の園田(ここも摂津国領域内)というところに住んでいました。タクシーの運転手さんが、「ちょっと、神崎に寄って園田へ行こか?」と言います。「えぇ」と返事をし、タクシーは神崎を目指しました。そして真っ暗闇の中、タクシーが速度を落とすと、木々の影から、たくさんの女の人たちが、タクシーの前に現れました。そしてまた速度を上げる。そしてまた速度を落とす。すると、そこからも再び女の人たちが現れる。「ここが神崎や。もう遅いから、若い娘(こ)は、おらんけど。連れていかれたら、小さい、ぼろい2階に通されてなぁ」と運転手。
 彼女たちは、亀菊の直系の遊女たち。その頃は、まさか自分が、白拍子をやろうとは思ってもいませんでした。
 
■注一覧

[1]天皇の居所。それまでは、藤原頼長の旧邸「東三条殿」を里内裏としていた。
[2]「続日本紀」によれば、典侍飯高諸高[ないじのすけいいたか・もろたか]が元正朝(715‐724)に内教坊に直したとある。
 また同書の天平宝字三年(759)、同七年に、内教坊で踏歌を奏した記事がある。
[3]阿部猛・義江明子・相曽貴志(編)『平安時代儀式年中行事事典』(東京堂出版、2003)。
[4]日本に帰化した氏族。
[5]現在でも熱田神宮では、一月一一日に男性による踏歌神事が行われている。
[6]「西宮記」「北山抄」「江家次第」
[7]現在の奈良県吉野郡吉野町のあたり。今でも一月一四日、浄見原神社で国栖奏が奉納されている。
[8]その土地に伝わる歌。
[9]「延喜式」は四六人。
[10]天皇の私的領域で、儀式が行われる正面の建物。南側に庭が広がる。
[11]「歌を歌う」ではなく、あえて、「唱歌」というならば、それは拍子に合わせた、音程、拍子を合わせた、という意味合いがあるのではないか。
[12]絵巻を見る限り、東から入場して輪を作っているように見える。
[13]『朝野群載』。
[14]歌詞の区切れるところに、拍子を保つために、入れられる掛け声。今でも民謡、労働歌、盆踊り歌などに多く残っている。
[15]踏むのではなく、走るのかも。または「あられはやし」のなまったものかも。
[16]『日本書紀』天智同年同日条。
[17]卜部兼方『続日本紀』
[18]林屋辰三郎『中世芸能史の研究』(岩波書店、1960)。 
[19]正月(一月一日)、上巳[じょうし](三月三日)、端午(五月五日)、七夕[しちせき](七月七日)、重陽[ちょうよう](九月九日)。
[20]天皇が新穀を日本神話の神に捧げ、自らも食す祭祀。
[21]天皇の即位後の初めての新嘗会。
[22]『日本後紀』『三大実録』。
[23]『続日本紀』:天平勝宝元(749)年、東大寺大仏造立のため天平勝宝四(752)年、大仏開眼。『日本後紀』:大同三(808)から「三大実録」元慶八(884)年までの記載による。
[24]下級貴族で、地方の管理(租税収取、軍事、行政)を行う。
[25]源高明[みなもとのたかあきら](914‐983)による。一月から一二月までの毎年の恒例行事と、臨時に発生する行事について書かれている。
[26]「平家物語」の異本とも言われている。二条院の応保年間(1161‐1162)年から安徳天皇の寿永年間(1182‐1183)年までの源氏と平家の盛衰にありさまを語る。
[27]大江匡房[おおえのまさふさ](1041‐1111)の談話を藤原実兼[ふじはらのさねかね]が筆記したもの。内容は、漢詩文・公事・音楽など。
[28]奈良、平安期の大嘗祭の場合は五人、新嘗祭のときには四人だった。
[29]平安時代以降の公家の普段着。もともとは狩の時に着用したのでこの名前がついたが、活動的であることから次第に普段着として定着した。
[30]『吾妻鏡』同年条。
[31]飢えた寅のために自分の身を捧げたという王子。「捨身飼虎[しゃしんしこ]」の逸話より。
[32]遠い昔の王、という意味で「最初の王」と言ったと思われる。
[33]烏帽子の上部がくずれた形「折烏帽子」に対して、上部を折らず、まっすぐに烏帽子を立て、帽子の前をちょっとへこませて被るものを「立烏帽子」といった。
[34]『玉藻』『熊関白記』『源家長日記』。

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桜井真樹子(さくらい・まきこ)

作曲家・ヴォーカリスト(天台声明)・パフォーマー(白拍子)

天台宗大原流声明を中山玄晋に師事。龍笛を芝祐靖に師事。
1994年ACC(アジア文化交流基金)、2000年ヘレン・ウォーリッツアー財団の奨学金を得て渡米、ナバホ、ホピ、タオス・プエブロの音楽を研究。
2009年イスラエル政府の奨学金を得て、イスラエルにてイエメン系ユダヤ人の歌謡「ディワン」をギーラ・ベシャリに師事。
平安時代の女性歌謡と舞踊の復曲と創作活動、「水猿曲(みずのえんきょく)」「蓬莱山」「しずやしず」「鬢多々良」「丹生の翁」などを発表。
創作能の原作・脚本「かぐや姫」(2006)「マンハッタン翁」(2007~2013)「水軍女王」(2009,2013)「刀塚」(2010)「岸辺の大臣」(2014)。こけし浄瑠璃「はなこのおむこさん」(2011,2013)の原作・脚本を手がける。

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