第二回 ディアスポラ元年としての明治維新、そして今


はじめに

 「日本」とは何か? 「日本人」とは誰か? この大きな問いは、いろいろな意味で立てられうるし、それに対してこれが正解というものはない。強固なナショナル・アイデンティティを求めてこの問いを立て、それに満足する解答を自ら与えて誇らしげにしている者もあるが、そういう「国」や「国民」の枠組みや概念そのものを相対化するためにこの問いを立て、自らのアイデンティティを解きほぐす者もあろう。
 2018年は「明治維新150年」ということで、安倍晋三首相の年頭所感をはじめとして、新年からこれを祝福する政治家の発言が相次ぎ、この2月11日の「建国記念日」は、賛否ともに例年以上に注視された。そしてこの文章を執筆している現在、韓国での平昌オリンピックが開催中であり(2月9日~25日)、スポーツとナショナリズムが交錯するなかで、南北朝鮮の分断国家の一方での開催ということもあり、またしても「国家」のあり方への問いが浮き彫りになっている。
 さらに過日、1月末に厚生労働省が2017年統計を発表し、いわゆる外国人労働者数が過去最高の約128万人となったことがわかった。在日外国人数全体は、法務省統計によると247万人とのことである(ここには毎年約1万人前後になる日本国籍取得者、いわゆる「帰化者」は含まれていない)。もう一つ新しい法務省統計が2月13日に発表され、2017年の難民申請が約2万人に達し過去最高に達した一方で、難民認定数は前年度から減少してわずか20人にとどまった。認定率は0.1パーセントという、想像を絶する狭き門となっている。この一見すると相反する現象はいったい何を意味するのだろうか。
 明治維新、オリンピック、分断国家、外国人労働者、難民……これらをどのように関連づけて考えることができるのか、そしてそうした思考は私たちをどこへ導くのだろうか。

1 明治維新と建国記念日

 まずは知っているようで、広くは知られていない事実関係を振り返り整理しておこう。
 1868年の「明治維新」から今年2018年は150年ということで、政府主導で祝賀行事が数多く催されるという。いうまでもなく明治維新は、江戸時代・幕府体制を終わらせ、近代国家としての大日本帝国を発足させた「近代革命」として位置づけられるものであり、その近代国家誕生から150年目の節目を祝おうというわけだ。
 そうだとすれば、建国記念日は、「明治」へと改元した10月23日(旧暦9月8日)であるべきだが、そうなってはいない。なぜか。それは、明治維新=革命を一般にthe Meiji Restorationと訳されているところに真意がある。つまり、維新はじつは「革命Revolution」ではなく、「復活Restoration」すなわち「王政復古」という天皇親政の復活を意味するからである。であれば、その王政復古の号令の日、1868年1月3日であるべきではないか。ところが、建国記念日はそれでもない。
 建国記念日の起源は、「万世一系の天皇」の初代・神武天皇が即位した日とされる。もちろん神話だ。2月11日に即位したわけではないどころか、神武天皇の実在そのものからして歴史学的に証明はされていない。8世紀ごろに編纂されたとされる『日本書紀』によると「正月」に即位したらしいので、1月1日の即位だ。明治政府は明治5年に天皇制国家の正統性を知らしめるために「紀元節」を定め布告したので、明治6年元日(旧暦)、すなわち新暦1月29日を紀元節と定めたのだが、1867年1月30日に死去した孝明天皇の命日の前日なので不都合だとして、便宜的に2月11日に制定し直したというだけのことである(当時の文部省天文局が「算出」したとも言われるが、算出方法は不明とされている)。
 さて、その紀元節が「建国記念日」にスライドしたのは、1966年の政令によってであり、実際には1967年2月11日に祝われたのが最初である。すなわち、その翌年1968年に「明治維新100年」を祝うために紀元節が呼び戻されて建国記念日とされたのであった。そして今年、さらに半世紀を経て「明治維新150年」である。その節目の年の2月11日建国記念日を私たちは過日迎えたわけだが、私たちがあらためて認識し直すべきなのは、近代国家150年を祝っているのではなく、政治的に復活させられた天皇制を、しかも「万世一系の天皇」の紀元節を祝わせられているということなのだ。それも神話の世界の実在さえ疑わしい初代天皇が、即位した日でもない便宜的にテキトーに定められた日にだ。少なくとも、自分たちがいったい何を、なぜ、祝っているのかぐらいは知っておくべきだろう。
 もう一つ、明治維新150年を「国家・国民を挙げて祝う」前に知っておくべきことがある。冷静に見れば、1867年10月の時点で徳川幕府が朝廷に対して「大政奉還」をおこない政治的実権を返上した以上、幕府政治は自発的に終わりを告げていた。これは倒幕(討幕)をめぐる内戦を避けるための政治的判断であって、これで武力による倒幕の正当性は失われることとなった。そして徳川家も他の諸侯と横並びとなる公議政体が目指されたが、そこに強引な武力介入を断固としておこない、主導権をさらったのが薩摩藩・長州藩の同盟軍であった。
 これは、大政奉還がなされたところで、朝廷に実質的に政治を担う能力がなく、公議政体とはいえ徳川家が大きな権力を握り続けることになるのを懸念した薩長同盟が、なお武力による倒幕によって自分たちの主導権を欲したためであった。当然この武力による倒幕運動は、いわゆる「軍事クーデター」という性格をもつ。すなわち、「王政復古」というのは、この軍事クーデターを天皇の名前で正統化するための手段だったということになる。
 このクーデターは、戊辰戦争という名の内戦へと発展していく(戊辰とは1868年の干支)。幕府から京都守護職を命じられていた会津藩および江戸市中の警備を命じられていた庄内藩が、旧幕府側の象徴として敵視されたため、戦線は京都から江戸へ、そして東北地方へと移ってゆき、東北戦争が最大の戦場となった。東北の諸藩は、会津藩・庄内藩を討伐することに道理がないとして、奥羽同盟を組み、そこに北越同盟も合流し、奥羽越列藩同盟が結成され、薩長同盟と武力衝突することとなっただけでなく、薩長政権とは別の北方政権として独立宣言をおこなうにいたる。この東北戦争は、詳細を省くが、資金力・武力に勝る薩長軍の勝利に終わり、内戦は終結。本州から九州までを「新政府」が統治することとなる。
 なお、とりわけ白河戦争・会津戦争では、新政府軍による筆舌に尽くし難い殺戮と収奪とが記録されている。近代化に向けて一致団結した美しい発展の物語どころではない。さらに会津藩士たちは下北半島・斗南藩へと追放され、斗南からまた離散、一部は屯田兵として北海道開拓に当たったという過酷な歴史も残されている(敗北した東北諸藩の士族が広く懲罰的に屯田兵とさせられていた)。
 もちろんこの歴史は、薩長同盟中心の偏った物語を相対化するために、私自身の出身地(福島県郡山市生まれ宮城県仙台市育ち)である東北地方の視点で見直したものである。北海道先住民アイヌの視点からはまた別の、侵略と収奪と支配の歴史が語られよう。ここではそれについては主題化しない。ただ、知られるように「長州出身」であることを公然と誇る安倍晋三首相が、ことさらに政府主導で明治維新150年を祝賀しようとするときに、私たちはいったいどういう歴史を黙殺しているのかを知らなくてはならない。私自身はとうてい「国家・国民を挙げて」の祝賀行事に乗る気になどなれない。

2 スポーツと国家

 次に、いままさに開催されている平昌オリンピックで「ニッポンがんばれ!」「ニッポン、メダル獲得!」と叫ばれていることに関連して、やはり冷静に指摘しておきたいことがある。もちろん今回のオリンピックに限定したことではないし、またオリンピックに限定したことでもない。
 世界を舞台とした活躍を目指すスポーツ選手は、出身国のために競技をしているわけではない。だが、国家の側は選手をナショナリズム高揚のために利用し、国民はそれに乗っかり国旗を振りかざしながら応援する(させられる)。オリンピックともなると、そんな順位付けなど存在しないにもかかわらず国別のメダル数をやたらとカウントしたがる。
 だが、世界の野球とサッカーを見ればどうだ。選手たちはよりよい環境とよりよい報酬を求めて、国境など関係なく所属リーグと所属チームをどんどん変えていっている。他の種目でもそうだが、プロスポーツであれば当然のことである。
 アマチュア・スポーツでは、オリンピックの出場枠に見られるように、国際大会への出場機会を求めて国籍を替えるケースも珍しくはない。国籍を変更することによって、代表枠に入るチャンスのより大きな国へと移住し国籍取得をすることが合理的ということになる。もちろん、トレーニング環境や生活環境など全般を考慮しての移住・国籍変更もあるだろう。たとえば、名実ともに日本の卓球界の頂点に立った張本智和は、両親ともに中華人民共和国の卓球選手だったことは知られている。10歳のときに一家で日本国籍を取得し、「張」姓から「張本」姓へと変更した(現在では「張」姓のままでも国籍取得は可能なはずだが)。こうしたケースは、他の競技、バレーボール、ラグビー、バスケットボール、ソフトボール、スケート、相撲などでも普通に見られることだ。
 さらに、たとえば陸上短距離の「日本代表」として、サニブラウン・アブデル・ハキーム(父親がガーナ出身)やケンブリッジ飛鳥(父親がジャマイカ出身で本人もジャマイカ生まれ)といった選手が活躍するような時代になってきている。ダブルのアイデンティティをもつだろうこういった選手たちを、ことさらに「日本人」の活躍とばかり熱狂するのはあまりに一方的な囲い込みではないだろうか。
 それだけではない。そもそも世界レベルの選手ともなれば、その競技の最良のトレーナー、コーチ、監督を海外から日本に招いたり、逆にそういった指導者やチームのもとに指導を仰ぎに海外に練習拠点を移したり(事実上「移住」だ)、最先端の理論や用具を世界中に求めたりもしている。日本出身の指導者が海外のチームや選手を指導しているケースもある。はたして、そうした結果として世界レベルの競争がおこなわれているときに(さまざまな種目での「日本人」選手の世界レベルでの活躍は明らかにこうした越境的なトレーニング環境の進展によるものだ)、その選手の国籍だけでもって、「国の誇り」と称揚することにどれだけの合理性があるだろうか。
 同時に私たちは、こうした歴史も振り返る必要があるだろう。プロ野球界で、世界のホームラン王である王貞治は中華民国籍(いわゆる台湾で日本とは国交がない/父親は戦前の中国大陸出身で本人は日本生まれ)、通算最多安打の張本勲(張勲)は在日朝鮮人二世、通算最多勝利の金田正一も在日朝鮮人二世(のちに日本国籍取得)、シーズン最多勝記録をもつヴィクトル・スタルヒンは無国籍の亡命ロシア人であった。プロ野球の輝かしい「日本記録」は「日本人」がつくったものではない。さらに「日本プロレスの父」と称される力道山(金信洛)は、植民地下朝鮮の出身であり、「昭和の大横綱」大鵬は、亡命ウクライナ人を父にもちサハリン(樺太)に生まれ、北海道に「引き揚げ」ている。往年の大スターたちを懐かしむとき、私たちはどれだけこうした背景を知っているだろうか。
 こうしたリストの最後に、オリンピックの時期でもあるので、1936年のベルリン・オリンピックで男子マラソンの金メダリスト孫基禎を挙げよう。孫は朝鮮出身でありながら、当時朝鮮が日本の植民地であったために「日本人メダリスト」として記録されている。当時この快挙を報じる朝鮮の新聞では、孫の胸に貼られた日の丸が塗りつぶされて掲載されたことで、朝鮮総督府はその記事を書いた記者を逮捕、新聞を発行停止とし、孫も監視下に置いた。この事件に憤りまた落胆した孫は、選手生活を退くこととなった。韓国・平昌でのオリンピックで沸き立ついま、この歴史をどれだけの人が記憶しているだろうか。

 この明治維新祝賀と建国記念、そして「日本人」活躍礼賛は、どれだけ私たちが独りよがりで内向きの物語の消費によってしかアイデンティティや誇りを保ちえていないのかを示しているように思われる。いずれも、狭いナショナリズムを支えるものであり、その根拠が薄弱であるどころか、むしろ無根拠や矛盾をはらんでいるからである。
 だが、現実社会はそうした威勢だけいいナショナリズムではどうにも糊塗できない状況が生じている。

3 移民労働を認めない国の外国人労働者移民

 冒頭でも触れたように、最近相次いで最新の統計データが発表された。1月末に厚生労働省が2017年統計を発表し、いわゆる外国人労働者数が過去最高の約128万人となった(在日外国人数全体は、法務省統計によると約247万人)。この数字は何を示すのだろうか。あるいはそこに何を読み取ることができるだろうか。
 まず前提として、日本社会は、いわゆる外国人労働者を一般的には認めていない。労働市場を外国籍者に対して開放しておらず、移民も認めていないのだ。タテマエとして、「単一民族国家ニッポン」を維持していると言える。認められている労働と居住の形態は、①専門職(いわゆる「高度人材」)、②「日本人の配偶者」あるいは「日系人(日本国籍者の子および孫)」で定住・永住資格者、③技能実習生、④留学生、となっているが、事実上①の専門職者のみが外国人労働者に当たり、②は日本人の「家族」ないし「血縁」として認めているのであり、③と④は基本的には定住することなく帰国することが前提となっている。すなわち、さまざまな理由や制約をつけて労働市場を基本的には外国籍者に対して閉ざしているのである。(③の技能実習生というのは日本の技術を学ぶことが主目的であり、④の留学生というのは学業の傍ら生活費を補うため週28時間を上限にアルバイトを認めているという主旨である。だが両者とも事実上は単純労働を目的とした渡航の口実となっている。)
 これについては、治安上の問題や日本人の職を奪わないようにという配慮とされるが、しかしこれは合理的説明になっていない。第一に、いわゆる外国人犯罪の人口比での発生率が日本人による犯罪の発生率よりも異常に高いというデータは存在せず、外国籍者の増加が犯罪の増加に結びつくとは言えないからだ。第二に、技能実習生と留学生の滞在資格による事実上の労働は、明白に労働者不足を補うための「法の抜け道」による外国人労働者だからだ。
 どの産業分野でも、すなわち、農業・水産業の第一次産業でも、製造業・建設業の第二次産業でも、飲食・小売業の第三次産業でも、この「技能実習生」と「留学生」なしには労働力がまかないきれない。求人を出したところで、「日本人」の応募はどこでも不足しており、職種や地域によってはまったく集まらないことも少なくないため、雇用主たちは、制度の「抜け道」であることを承知で、技能実習生と留学生に労働力を頼ることになる。いずれも事実上はブローカーが介在して、日本での就労を目的とした外国人から高額の手数料や補償金を取り、「技能実習」や「留学」という名義で日本への渡航・滞在を斡旋し、労働現場へと送り込んでいる。
 これが、逃亡を防ぐためにパスポートを取り上げられたり、労働契約がないため最低時給の半分にも満たないような労賃しか支払われなかったり、といった現代版「奴隷労働」の温床になっていることは、指摘されて久しい。1980年代後半のバブル経済の時期に急増した非正規外国人労働者に対する施策として、出入国管理法を改定し、日系人二世・三世を「日本人に準じるもの」として定住・就労を可能にしたのが1990年、そして技能の「研修」ではなく労働を伴う「実習」を制度化したのが1993年であった。隠れた外国人労働者の使用についての問題は、ここに端を発している。そして90年代から、こうした外国人労働者の労働環境の粗悪さ、人権侵害、差別はずっと指摘され続けているのだ。
 弁護士や研究者らからの指摘のみならず、国連人権理事会、アムネスティ・インターナショナル、アメリカ国務省などから批判され、制度の廃止ないし改善の勧告がなされている。鎌田慧の有名なルポルタージュ「絶望工場」は、いまや『ニッポン絶望工場』(出井康博)として日本の外国人労働を称する言葉となっているのだ。
 ちなみに、外国人労働者128万人というのは、青森県の人口(都道府県別人口ランキング31位)とほぼ同じであり、在日外国人数247万人というのは、京都府の人口(都道府県別人口ランキングで13位)とほぼ同じである。労働市場を閉鎖し、さまざまな制約をつけていてもなおこれだけの規模である。
 この状況に対しては、大きく二つの方向性で議論がなされている。一つには、元・入管局長で現・移民政策研究所長である坂中英徳に代表される「移民大国」への転換である。現在の労働者不足は今後の少子化でいっそう深刻になるのが明らかである以上は、労働市場を開放して移民を積極的に受け入れるべきであり、また移住労働を正規に認めることは、外国人労働者に対する待遇改善を必須のものとするため人権侵害状況もなくすことができると主張される。「移民」が日本経済社会の希望だというわけだ。
 もう一つの方向性は、経済規模の縮小を受け入れれば、外国人労働者に頼らなくても済む、というものだ。人口が減少し始めており、少子化によって今後の人口減少は不可避であるのに、「経済発展」を無条件に善とするから、労働力不足が生じる。しかし経済発展を当然視する価値観を脱し、縮小した経済のもと「みなが等しく貧しさを受け入れる」ことができれば、労働力不足という状況そのものが生じないというわけだ。このいわば「清貧の思想」はしばしば聞かれるものではあるが、しかしこれは、復興経済と高度成長を享受し、安定雇用と十分な退職金・年金を保証された特権世代の自己中心主義であるという批判は免れない。加えて、その高齢世代の内部にも富の不平等が存在し、老後も消費生活を楽しめる階層と、餓死に至るほどの貧困階層とに分断されている。その程度の富の再分配もできていないなかで、「みなが等しく貧しくなる」などというのが幻想にすぎないことも指摘されなければならない。
 しかし問題はそれだけではない。社会学者の上野千鶴子が、昨年2017年2月11日建国記念日の中日新聞インタビュー「この国のかたち」で以下のように述べたことが大きな議論を呼んだ。

 日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。
 移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。
 主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。

 上野の考え方は、移民(外国人)が犯罪を引き起こし治安悪化につながるか、あるいは日本人が過激な移民排斥運動を引き起こし治安悪化につながるか、その一方ないし両方に至ることを自明の前提として決めつけている。多文化共生社会に進んでいくことについて端的に絶望しているのだ。
 たしかに日本社会の排他性は直視しなければならない。だが、上野はあまりに安易にあきらめてしまってはいないか。多文化・多民族というのは、否認しようが消えない〈現実〉である。すでに一府県の人口規模に達する在日外国人・労働者がこの社会のなかに生きている。そこには、朝鮮・台湾などの植民地支配のために日本に定住することとなったオールドカマーと、日本経済の労働力を担うニューカマー(しかも日本人がしたがらない仕事をする過酷な現場で働く)とが含まれている。「単一民族神話」は「神話」である以上、真実ではなく、現実の〈他者〉との共生を、多くの当事者たち(外国人も日本人も)が模索してきたし、いまもさまざまな共生の試みが、自治体で、学校で、地域コミュニティで、市民グループで、個人で、なされている。上野が「耐えられない」と決めつけようが、共生への希求はなくなりはしない。勝手な絶望は、無責任だろう。

4 難民鎖国ニッポン

 もう一つの法務省統計も考えよう。2月13日に発表された数字では、難民申請が約2万人に達し過去最高に達した一方で、難民認定数は前年度から減少してわずか20人にとどまった。認定率はわずか0.1パーセントである。
 これについては、過去のデータも参照しながら、いくつかの補足が必要だ。しばしばこのデータの報道で指摘されているのは、2010年から制度改定で難民申請をしてから審査結果が出るまでの期間に就労することが可能になってから、申請者が急増しており、多くが就労目的とした「偽装難民」と見られているということだ。たしかに、それまで1500人前後で推移していた難民申請者数が、2013年は3000人超、14年は5000人、15年は7000人超、16年は1万人超と急増してきたのは事実である。ただし、この時期は世界的にも難民数が急増しているため、増加部分をそのまま労働目的の偽装難民とみなすことはできない。しかし同時期、日本が難民認定した数は、2010年の39人から、11年21人、12年18人、13年6人、逆に著しく減少する一方であった。その翌年からは微増したものの、14年11人、15年27人、16年28人と、申請数に対する認定率は極めて低いままであり、17年は先述のように約2万人の申請に対して20人の認定、認定率0.1%という驚異的な低さであった。
 私たちはこの数字がどれくらい低いものなのかを具体的に知らなくてはならない。2016年のUNHCRのデータを見ると、カナダが認定数1万人超、認定率67%、イギリスが認定数1万3000人超、認定率33%、アメリカ合衆国が認定数2万人超で、認定率62%、フランスが認定数2万4000人超、認定率20%、ドイツが認定数7万人、認定率41%となっている。シリア難民が殺到したドイツは例外的な人数となったが、それを割り引いたとしても、およそこれらの経済大国がおしなべて万単位の認定数、数十%の認定率であるのに対して、日本の認定数はその千分の一ほどという数桁違いの少なさであり、認定率ではもはやゼロ・コンマ以下というほぼゼロと言っていい異常な低さである。「難民鎖国ニッポン」(根本かおる)と言われるゆえんである。
 ヨーロッパ諸国は大量の難民を発生させている中東・アフリカに地理的に近いから日本とは条件が違うという異論もあろうが、しかし、世界的に難民数の多いミャンマー(ロヒンギャ含む)、スリランカ、パキスタンからの難民申請については、日本へも一定数の申請者がいるにもかかわらず、ほとんど難民として認定していない(というか、総数で20人では、どの地域からの難民申請についてもほぼ認定していないに等しい)。地理的条件を勘案したとしても、欧米諸国には「純粋難民」ばかりが申請していて、日本にだけは「偽装難民」ばかりが申請しているとは、どんな地理的条件を考慮しても説明できない。申請数が1000人だろうが1万人だろうが、具体的な数字が示しているのは一貫したその閉鎖性でしかない。

 ここで少しばかり発想の転換をしたい。
 難民支援をする側も、とりわけ2010年の労働許可の制度改定以降の難民申請数の急増について、労働目的の「偽装難民」が含まれていることを認めている。その偽装性を一定認めたうえで、それにしても認定数が少なすぎると日本政府を批判しているのだ。
 だが第一に、その「偽装」がそんなに問題だろうか。なぜそもそも労働目的で難民申請をするのかを少し考えれば気づくだろうが、それは先述の「技能実習生」と「留学生」が、制度の隙を突いた事実上の移住労働であることと、同類とみなすことができる。偽装を批判する前に、実際には外国人労働者を市場が切実に必要としていながらも、労働移住を排除するという、現実にまったくそぐわない政策を無理に維持していることこそが、強く非難されるべきである。それこそが、非正規労働移住者を生み出し、労働基準法違反の人権侵害を恒常化させているのだから。
 偽装難民を本当になくしたいのであれば、労働移民を制度化することである。それは、非正規滞在という社会的不安要因をも取り除くことになり、治安問題の改善にもつながるはずである(犯罪行為は日本国籍者であれ外国籍者であれ、貧困などの経済的不安定から一定割合発生しているからである)。
 次に、「難民」と「移民」の差異は自明のものだろうか。つまりそれは、「純粋な難民」(純然たる避難)と「不純な難民」(実質的に労働)の差異でもあるのだが、そこには厳然とした線引きが可能なのだろうか。もう故郷では人間的な家族生活をする収入を得るほどの仕事の機会がないというときに、故郷を離れる決断をしたとする。それは「不純」なことなのだろうか。
 もしそう言うのであれば、日本から出ていった移民の歴史を少し振り返ればいいだろう。明治元年から第二次大戦後まで100年にもわたって、戊辰戦争に破れた東北の藩士が、田舎の寒村の小作人が、あるいは都会であぶれた失業者が、戦争引き揚げ者が、北海道へ、ハワイへ、北米へ、中南米へ、満州へと大量に移民していった。国策移民は「棄民政策」とさえも言われた。そこには、食うに事欠き日本をやむなく「脱出」した者も、一旗揚げることを夢見て挑戦の旅に出た者も、拓殖会社に乗せられ騙された者もある。彼らは自発的な「移民」なのか、それとも、やむなく避難した「難民」なのか。その区分は不可能ではないか?
 「ディアスポラ」という用語が有益であるのも、移民/難民の峻別が困難なことに起因している。自発性が強ければ移民で、強制性が強ければ難民とされうるとして、しかしそのあいだには両義的な人間の移動が無限に存在する。その両義的な越境を「ディアスポラ」(離散)と呼ぶのだった。そして振り返れば、日本はその近代の幕開けである明治元年から、すなわち「開国」による渡航の自由化で飛び出した「労働移民」たち(餓死を免れるための「経済難民」もいただろう)と、戊辰戦争という内戦に敗北した東北人たちの「戦争難民」(下北半島への強制移住と北海道侵攻の屯田兵として)とを同時に生み出してきたわけだ。移民的要素も難民的要素もともに持っていたことになる。近代国家の始まりである「明治元年」は日本の「ディアスポラ元年」とも言えるのだ。
 そうした歴史を、ある意味できれいさっぱりと忘却することなしには、ここまでの移民および難民を拒絶する姿勢はとれないだろう。自らが放り出した移民/難民は、どこか別の地域で受け入れてもらったか、あるいは不法に密航したか、あるいは国策で侵攻の手先となるかしてきた。そういう長いディアスポラの歴史が「明治元年」からあるにもかかわらず、経済大国となった後は、移民も難民も基本的に排除するというのは、あまりに一方的・非対称的すぎると言わざるをえない(しかも実際は労働力不足を埋め合わせる非正規な外国人労働を利用しているのが欺瞞的だ)。

5 ディアスポラの思想へ

 整理しよう。「明治維新150年」が日本の近代化の美しい物語の原点としてことさらに讃美されるが、実際には主導権争いの血みどろの内戦だったのであり、支配と侵攻という暴力とその隠蔽をこそ私たちは150年前の起源に持っている。そしてその「明治元年」は、この内戦の敗者たちを極寒の地へと追放したり移住させたりし始めた起源の年でもあり、また開国による労働移民開始の年でもある。つまり二重の意味で「ディアスポラ元年」なのだ。
 そうした自らの歴史を振り返ったときに、ことさらに移民と難民を峻別することに不合理さを感じざるをえない。少子化対策・労働力不足の対策として労働移民を合法化しようと方針転換を主張する側には、日本経済に役に立つ外国人だけは受け入れようという姿勢が見られる。これは裏返せば、経済的に役立たない外国人を排除することが言外に含まれる。また積極的な難民認定を主張する側には、偽装難民は別として純粋な避難民はもっと受け入れるべきという姿勢が見られる。これには、労働目的の実質的な移民を排除することが言外に含まれる。
 もちろん、労働移民の受け入れも、難民の受け入れも、拡充すべきなのは間違いない。そこについては原則的に賛同する。ただ気になるのは、この人は日本経済に役立つから受け入れようとか、この人は純粋に難民なのだから受け入れようといった取捨選択をする権限が自分たちにあるかのような振る舞い方なのだ。相手は生身の人間なのだ。労働力としてだけ存在するわけではない。無垢な弱者であるわけではない。生活があり、そのなかには欲望も下心もあって当然だろう。経済的に役立つかどうか、純粋な難民かどうか、そういうモノサシで人を測り選別するのではない思想を身につけたいと思う。

 最後に印象的な取り組みに触れておこう。宗田勝也『誰もが難民になりうる時代に――福島とつながる京都初コミュニティラジオの問いかけ』という本が東日本大震災・東電原発事故のあとの経験をふまえて刊行された。もともとは「難民ナウ!」という京都のコミュニティラジオが、「難民問題を天気予報のように」というコンセプトで活動を開始した。誰もが日常的に関わることとして難民問題を発信するとともに、難民自身が自らの声で発信すること、そして放送だけでなくカフェトークや街頭イベントやアート展などでの地域コミュニティのなかに直接的な関わりをもっていくこと、などに活動の特徴がある(ラジオだけでなくインターネットテレビも始めた)。そうしたなかで、「支援する/支援される」という一方的な断絶を乗り越えて、難民自身が運営側に加わったり政策提言をおこなったりすることで、コミュニティの一員となっていくとともに、「当事者/傍観者」の垣根も壊していくことになった。誰もが難民と無関係ではありえないし、実際に活動に関わることができるきっかけを多くの場面につくりだしてきた。
 そうしたさなかでの2011年3月11日、東日本大震災。東電原発事故による放射能汚染からの避難者が、京都にもたくさん流入していった。京都は関西地方の避難者受け入れの拠点となった。これには、私自身も関わっている。宮城県からの関西避難者であると同時に、私は避難者の受け入れ体制を最初期につくった側でもあった。避難と受け入れの双方をよく知っている当事者であったのだ。このとき私が受け入れ支援をした人たちが、いまでは京都市民となってさまざまな地域活動に関わっている。それゆえ「難民ナウ!」の垣根を壊すという意識の意味するところが身をもってよく分かる。
 そして「難民ナウ!」は、震災避難者もまた自分たちが向き合ってきた「難民」と通底する存在であるとして、彼らとつながっていく。そこでクローズアップされたのが「潜在的難民」という考え方、すなわち、「誰もが潜在的には難民となる可能性がある」ということだ。これはまさに私自身が、震災直後にまずは緊急に大阪へ、そしてその後は京都へ避難したときにもった実感でもある。普段、移民や難民の研究をしていても、それだけでは研究の域を出ない。しかし、実際には私自身が何かの拍子に難民になりうるし、その可能性はつねにどこにでもあるのだ。
 「潜在的難民」という概念は、まさに原発震災でクローズアップされ、そこで従来の難民とつながる役目を果たした。原発避難者はいわゆる「純粋な難民」として定義・認定されるわけではないし、実際に「難民」という言葉に対して避難者が受け入れ難い感情をもつこともあるだろう。だが、原発の近くから命からがら逃げ出して帰還不可となったほぼ難民と言える人もいるだろうが、原発事故の被災範囲の特定も困難であり(すなわち事故被災者の特定も困難)、汚染・被曝の長期的影響を心配して子育てのために移住を決断した人たちも、南東北から関東まで広範囲に発生しているのだ。
 だからこそ、この難民/移住者/受け入れ者、という垣根を乗り越えうるのが、ディアスポラの思想だと私は思う。強制避難地域からの人であろうと、福島県からの自主避難者であろうと、福島県外からの避難・移住者であろうと、原発震災ディアスポラなのであり、原発大国ニッポンにいるかぎり、全国どこへ行ってもいつ事故を起こすか分からない原発が待ち構えている。受け入れ側も安穏とはしていられない。その意味でも誰もが当事者から免れないだろう。
 おりしも、「難民ナウ!」ならぬ「ディアスポラ・ナウ!」というアート展が昨年末から今年の初めにかけて岐阜県美術館で開催された。戦争難民、不法移民、原発震災避難者、などをテーマとしたさまざまなアート作品(絵画や映像やインスタレーション)が並んでいた。開催主旨から引用しよう。

ディアスポラの問題は、国家の枠組みを超えて、故郷を問い直すことへとつながる。彼らは、生まれた土地で、自らの存在を認めてもらうことすらかなわない。すでに看過できない現状で、アートは、世界の視線を彼らに引き寄せることができるのだろうか。さらに、そうしたアーティストの中には、故郷に戻れず、新たな地で、自らの表現をつづけている人たちもいる。彼らにとって作品は、自ら置かれた立場の表明であり、それはまた現代を映す鏡になっている。

「ディアスポラ・ナウ!」、いまこそディアスポラを考えよう。このアート展の呼びかけは、必然的なタイミングで深く響いている。

【参考文献】
石光真人『ある明治人の記録——会津人柴五郎の遺書』(中公新書、1971年)
出井康博『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α新書、2016年)
鎌田慧『自動車絶望工場』(徳間書店、1973年)
鎌田慧『アジア絶望工場』(現代史出版会、1984年)
坂中英徳『日本型移民国家の創造』(東信堂、2016年)
宗田勝也『誰もが難民になりうる時代に』(現代企画室、2013年)
西日本新聞社『新 移民時代——外国人労働者と共に生きる社会へ』(明石書店、2017年)
根本かおる『難民鎖国ニッポンのゆくえ』(ポプラ新書、2017年)
森田健司『明治維新という幻想』(洋泉社、2016年)
上野千鶴子「この国のかたち」(中日新聞2017年2月11日)
厚生労働省「「外国人雇用状況」の届出状況まとめ(平成29年10月末現在)」(2018年1月26日発表)
法務省「平成29年における難民認定者数等について(速報値)」(2018年2月13日発表)
岐阜県美術館「ディアスポラ・ナウ!――故郷(ワタン)をめぐる現代美術」(パンフレット、2017年11月10日~2018年1月8日開催)
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所),Global Trends: Forced Displacement in 2016

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早尾貴紀(はやお・たかのり)

1973年生まれ。東京経済大学准教授。専攻は社会思想史。著書に『ユダヤとイスラエルのあいだ』(青土社)、『国ってなんだろう?』(平凡社)。共編書に『シオニズムの解剖』(人文書院)、『ディアスポラから世界を読む』(明石書店)、共訳書に『イラン・パペ、パレスチナを語る』(つげ書房新社)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(青土社)、ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』(平凡社)、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』(法政大学出版局)、ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム』(作品社)ほか。

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