第二回 旅のはじまりに(1)


蒸気船と幽霊のような船の群れ

 はじめに、五月二十一日に横浜に上陸してから、さまざまな準備を整えて北の奥地へ、その中継地としての日光へと出発するまでの三週間の記録に眼を凝らしてみよう。第一報「第一印象」から、第八報「参拝」まで、横浜と東京を舞台として、バードによる見聞がたいへん生き生きと綴られている。ここではまず、「第一印象」に語られている、まさに日本人や日本文化についてのはじまりの印象記を読むことから始めよう。
 太平洋という「陰鬱な雨の多い海原」を越えてゆく、五千トンの蒸気船に揺られての船旅は、明治十一(一八七八)年五月三日にサンフランシスコを出航してから、十八日間におよんだ。その蒸気船、シティ・オブ・トキオ号の写真を、どこか海辺の村の小さな資料館で見かけたことがある。この船にイザベラ・バードが乗ったのだな、と思うと、不思議な感慨が寄せてきたものだ。シティ・オブ・トキオ号はいま、東京湾を岸に沿ってゆったりと進んでいる。バードによる、舐め回すような観察の日々が幕を開ける。
 『日本奥地紀行』は、旅の日々から遠ざかってのちに、回想しながら執筆された紀行ではない。出版の意志はあったようだが、妹への書簡というスタイルで旅のさなかに書き継がれた原稿が元になっている。増補と改訂はなされたにちがいない。それでも、基本的には、ここにあったのは同時進行的に展開されてゆく観察と記録であり、それがバードの日本紀行に独特の陰影をあたえている。舐め回すような観察と書いた。バードはすぐれたフィールド・ワーカーであり、たんなる旅人ではなかった。すでに、世界のいくつかの国を探索してきた経験があり、豊富な知識を蓄えており、また可能なかぎりの資料や書物にも眼を通していた。聞き取り調査の技法をもち、つねにメモを取っていた可能性も考えられる。あるいは、映像的な記憶に秀でた人であったかもしれない、とひそかに想像している。

木々に覆われた山の尾根が分断されて次々と突出して水際から立ち上がり、それらの間の湾入部の奥の方には、土色の廂の深い屋根をもつ家々からなる集落があった。また斜面は、英国の芝生を思わせるような緑輝く棚田がたいへん高いところまで続き、その上は深い緑の森になっていた。海辺の人口稠密なことが印象深い。

 海辺の村々の情景描写として、簡潔にして過不足がない。鮮やかな映像的イメージをもって情景が浮かびあがる。樹々に覆われた山の尾根が海ぎわに突き出しており、その尾根と尾根のあいだに入江があり、奥まったあたりに「土色の廂の深い屋根をもつ家々」が見える。茅葺きではなかったのか。東京湾に面した房総半島の漁村である。その後背をなす斜面地には、「英国の芝生を思わせるような」という、つまり手入れのゆき届いた緑輝く棚田が高所まで続いていた。田植えから間もない時期だ。そして、その向こう側は緑の深い里山になっている、といったところか。そうした入江の漁村では、家々が密集して建ち並んでいたのであろう。少しあとに、この変奏が見いだされる。そこには、「湾が狭まり、上方が森林に覆われた低い山々、段々畑が広がる小さな谷間、土色の絵のように美しい集落、静かな沿岸の暮らし、そしてそれらの背後の薄青色をした山々が、だんだんはっきり見えるようになった」とあるが、こちらは視線が斜面を這うように里山から海辺へと降りてきている。いずれであれ、地理と民俗とが交錯する、よく訓練された眼差しにもとづく景観描写ではなかったか。
 あるいは、富士山を眺望したときの歓びは以下のように綴られている。甲板のいたるところから歓声が上がっているので、富士山を探したが、見つけられなかった。

だが、ふと陸の方向ではなく空の方向を見やった時、遠くの空の思いもかけない高い所に、頂きが途切れた巨大な円錐状の山が見えた。鉛色をした山はすばらしい曲線を描いてうす青色の空に向かって海の上にそびえ、海抜一万三〇八〇フィート(三九八七メートル)の頂きには真っ白い雪がかぶっていた。そして麓および麓と海との間は薄ねずみ色の靄に包まれていた。夢のように美しい光景だった。だが、すぐに夢のように消えてしまった。

 挿入されている挿絵は、われわれが思い描く富士山とはいくらか様変わりしていて、雪をかぶった頂きがなにか教会の塔のように異様に高く尖っている。のちに附した注記のなかでは、これが「例外的な富士山の姿」であることが強調されている。言い訳のようにも感じられる。バード自身のスケッチであったのかもしれない。ともあれ、その夢のように顕われた「美しい光景」は、たちまち夢のように消えてしまったのである。強い印象が残されたにちがいない。「これほど雄大にそそり立つ独立峰を見たことがまったくなかった」と、バードは書いた。そうして、この山が「聖なる山であることは疑問の余地がない」と言い添えるのを忘れなかった。それから、富士山が日本人にとって「きわめて大切でいとしいものである」ために、飽かずくり返し絵に描かれてきたことが指摘されている。むろん、バードはおそらく浮世絵などに描かれた富士山の姿に触れたことがあったのだ。
 第一報の「第一印象」の章において、わたしが関心をそそられたのは船をめぐる記述である。たとえば、船が視界に入ってくるたびに、その種類や形状についての解説がさりげなく語られている。紀行としてまとめられる段階に付加された記述かもしれないが、バードが船にたいして固有の関心を寄せていたことは否定できないだろう。
 船にかかわる記述をいくつか拾ってみる。
 東京湾は静かに凪いでいた。岸辺も海も、漁船までもがおぼろに霞んでいた。どの入江にも漁船がたくさん見え、バードの乗る蒸気船は何百、何千という漁船のかたわらを過ぎていった。それら木造の漁船の船体にはペンキが塗られていない。木綿の厚布【ズック】製の帆も真っ白だった。ときおり、船尾が高くなった帆船が幽霊船のように通り過ぎてゆく。四角い白帆を張った三艘編成の漁船が近付いてきて、接触を避けねばならない。

水に映る漁船の白帆もほとんど揺れなかった。すべてがおぼろで、弱々しく、幽霊のようだったので、私たちの船がやかましい音をたて、振動しながら進んでいき、その背後に砕け散る泡を残していくさまは、さながら眠りについているアジアに荒々しく侵入していくかのようだった。

 大きな蒸気船と小さな白帆の漁船との対比が、鮮やかである。むろん、植民地をもとめて侵攻してくる欧米列強の国々と、停滞という名の眠りのなかにあるアジアの国々とが、象徴的に対比されている。ようやく眠りから醒めたばかりの日本は、白帆の、それゆえ風まかせの小舟であり、幽霊のごとく弱々しく朦朧として見える。それにたいして、石炭を焚いて動かす蒸気船は騒々しく、背後に砕け散る泡を残しながら、日本の首都の心臓部近くへと荒々しく侵入してゆくのである。
 それから、バードの蒸気船は、レセプション湾[久里浜湾]・ペリー島[猿島]・ミシシッピ湾[根岸湾]などを通過してゆく。アメリカ風の地名だ。地図を手にしていたか。「アメリカ外交の成功を永く記念する」と、バードは皮肉混じりに書いている。イギリス人のバードは何を感じたのか。本牧鼻を少し過ぎたあたりで、一艘の赤い灯船に出会った。その船には「本牧鼻」と大きく書かれてあったが、ここより外側には外国船は碇泊できなかったのである。
 やがて横浜港が近づいてくる。粗末な名ばかりの波止場が二つあり、大きな蒸気船が列をなし、艀【はしけ】で荷物の揚げ下ろしをしている。また、イギリス・フランス・アメリカ・イタリア・ロシアの国旗を掲げた装甲艦や木造の戦艦が浮かんでおり、それらに混じって日本のコルベット艦[船団護衛用の小型艦]が一隻、白地に赤い日の丸の日本国旗をたなびかせている。これは英国製で、最近、日本国が買い求めたものであった。商船のなかには、函館と上海から来た、三菱会社所有のすばらしい郵便船が二隻あった。ここにもバードは、「この海運会社は日本の沿岸貿易と中国との貿易を徐々に独占しつつある」とさりげなく注記しているが、何と隙のない観察であったことか。このたった十行ほどの港の風景の記録のなかには、明治十一年という時期における、アジアの新興国家・日本の姿が象徴的に描き取られていたのではなかったか。
 船が碇泊すると、外国人がサンパンと呼んでいる小舟、つまり艀が多数現われ、蒸気船を取り巻く。これらの小舟は見かけはまったく不細工であるが、船頭たちはじつに巧みにそれを操っている。かれらが怒鳴ったり罵ったりすることは、まったくない。

やや三角形的な形をしたこの小舟の形状は、英国の一部の川で見られる平底の鮭漁船に似ている。床板が張ってあるので外観は完全な平底船のように見えるが、すぐ傾くものの非常に安全である。造りがしっかりしている上に、たくさんの木螺子【もくねじ】と少数の銅製の留め具を実に整然と打ってあるからである。小舟は二人ないし四人の男が船外張出材に取り付けられた非常に重い二本の木製の櫓【オール】を漕いで進むのだが、私たちの言い方だと櫓を漕ぐというより、〈櫂【スカル】〉で水をかくという感じである。

 たいへん的確な、専門知識に根ざした観察が行なわれていることに、驚きを覚えずにはいられない。バードは艀船の形状を、イギリスの河川で鮭漁に使われる平底船と対比しながら把握しようと試みている。木螺子と銅製の留め金によって堅固な造りになっていることも、目視によって確認している。たしかな造船技術があった。櫓と櫂とのちがいにも眼を凝らしている。櫂で水を掻く、とは何とも言い得て妙ではなかったか。くりかえすが、あくまで職人的かつ細やかな眼差しなのである。

滑稽と厳粛のはざまに引き裂かれて

 横浜港に上陸してからは、人間観察が始まる。
 横浜については、「これほど雑然とした都市は他に例がない」と、いかにも辛辣である。外国人の居留地であった山手はボストンの郊外を、海岸通りはイギリスの港湾都市バーケンヘッドを想起させるが、日本人街はというと、「みすぼらしく美的価値に乏しく、勤勉なのに貧しいとしか言いようのない様相を呈している」と評される。着いて間もなく町歩きをするが、横浜はいよいよ混沌として、「半分死んだようだし、万事が不揃いで、美しさに欠け、空も海も家屋も屋根もすべてが灰汁色【グレー】で、雰囲気もそれに見合って沈んでいる」という評価となる。むろん、明治十一年の横浜はいまだ開発途上の、それゆえに若く雑然とした街だったのである。
 当然のように、人間観察もまた、きわめて辛辣なものであった。艀船(サンパン)を漕ぐ男たちはみな、肌は真っ黄色で、その多くがからだ中に怪獣の入れ墨をしている。とはいえ、サンパンの料金は運賃表で決められており、かれらが上陸するときに法外な料金を要求するといった不愉快なことは起こらない。バードの美意識からすれば、日本人の男たちの醜悪さはきわだっていたが、同時に、かれらの契約意識はきちんとしたもので、外国人が不法な対応にいらいらさせられることはない。こうした日本人の姿が醸し出す引き裂かれた雰囲気は、バードの旅について回ることだろう。

上陸してまず印象的だったのは浮浪者が一人もおらず、通りにいる男たちが、小柄で、不恰好で、顏は人が良さそうだがしわくちゃで貧相で、蟹股で、猫背で、胸がへこんだように見えるものの、みな自分の仕事をもっていることだった。

 通りにいる男たちはみな、外見的にはまるで見栄えがしないが、かれらは自分の仕事をもって働いており、浮浪者ではなかった。そう、ここには浮浪者が存在しないのだ。おそらく、アジアの港町では珍奇に属するような事柄ではなかったか。そして、階級社会のイギリスでは、「小柄で、不恰好で、顏は人が良さそうだがしわくちゃで貧相で、蟹股で、猫背で、胸がへこんだように見える」男たちは、下層階級に属しているか、浮浪者であったのかもしれない、と想像を巡らしてみるのもいい。あるいは、税関の小柄な役人の検査を受けたが、かれらは非常に礼儀正しく、きちんとみずからの職責を果たしている。バードはこのとき、ニューヨークの税関の横柄で貪欲な役人たちを思い浮かべて、まったく対照的であることを面白く感じたのである。
 税関の外には、五〇台ほどの人力車が並んでいた。この人力車は、近代の幕開けの日本を特徴づけるものと化しており、いよいよその重要性を増してきている、という。それはじつは、たった七年前に発明されたばかりの乗り物であったが、すでにひとつの都市(横浜か)に二万三〇〇〇台近くもあるらしい。馬の力や石炭による動力ではなく、人間の身体とその力をもって人を乗せた車を駆動させるのである。欧米人がそれを驚き呆れたように眺めていたであろうことは、たやすく想像される。
 バードによれば、この人力車を引けば、ほかのほとんどの熟練労働よりも稼ぎがいいので、何千人もの元気な若者たちが農業を棄てて町に集まり、車夫になる。しかし、「この稼業についてからの寿命は平均五年にすぎず、その多くが仕事の犠牲になって重い心臓病や肺病に罹ると言われている」という。その歴史は浅く、どこか都市伝説めいて感じられもする。とりあえず、真偽のほどは定かにはしがたい。これら人力車夫は登録されており、税金を払っている。うまい車夫だと、時速四マイル[六・四キロ]で一日に四〇マイル[六四キロ]走る。走行する時間と距離に応じて運賃が定められている。これらはいったい、だれから仕入れた知識であったか。
 それにしても、人力車についての記述はいかにも念入りである。たんなる観察には留まらない。聞き書きをしているのである。

〈車〉と言われる人力車は、乳母車のような軽い車体に、油紙でできた可動式の幌がつき、ビロードか平織の布で内張りされ、座席には座布団が敷かれ、座席の下には手荷物を置くための凹みがあり、背が高くほっそりした車輪が二つ付いている。そして一対の梶棒の先端は横棒で連結されている。車体には普通、漆を塗った上に、持ち主の好みに応じた飾りが施されている。光沢【つや】だしをした真鍮をあしらっただけのものもあるが、ヴィーナスの耳として知られている貝を一面ちりばめたものや、うねった龍や牡丹、紫陽花、菊や架空の人物をけばけばしく描いたものもある。値段は最低でも二ポンド[約一一円一七銭]する。

 雨が降ってくると、幌をかけ、油紙できっちりと覆う。夜になれば、なにか愛らしい絵が描かれた長さ一八インチ[四六センチ]の提灯をぶら下げる。人力車には固有の洗練された美意識が貼りついている。それでいて、明治期のほんの一時【いっとき】、この日本にしか誕生することのなかった、不恰好で、滑稽な乗り物だったことは否定しがたい。そんな人力車が横浜の街なかを疾駆する光景を、バードはいかにも愉しげに、はるか遠い故国にいる妹に語り聞かせるように描写している。

恰幅も血色もよく、どっしりとした貿易商人や、男や女の宣教師、招待状入れを手にもつ華やかに着飾った淑女、中国人の買弁、日本人の農民の男女が、まるで英国の、訪れる人とてないような多くの田舎町のよく整った大通りのごとき大通りを疾走していく様子ほど滑稽なものはない。彼らは自分たちの様子がどれほど滑稽か幸せにも気づいていないのである。車は抜きつ抜かれつしながら、またすれ違いながら疾走し、それを引く痩せて礼儀正しく愛想もいい車夫たちは、大鉢を逆さにしたような形の笠をかぶり、とても奇妙な藍色の股引をはき、紋章や字を白く染め抜いた藍色の丈の短い半纏【オーバーシャツ】を着、黄色の顏には汗を滴らせ、笑い、大声を出し、そして間一髪衝突を避けながら、次々と疾駆していくのである。

 それはたしかに、まったく滑稽であったかもしれないが、どこまでも生真面目にして厳粛な光景ではあった。車夫たちはみな痩身であり、汗を滴らせながら、礼儀正しく、愛想がよく、笑い、衝突を避けるときにだけ大声をあげる。ここにはいまだ、むきだしの肉体労働が粗野と洗練のはざまに転がっていたことに、注意を促しておく。のちに触れるが、新潟から山形へと越えてゆく峠道で、バードは重い荷物を運ぶ裸の男たちの姿を前にして、ある感慨を洩らしている。滑稽と厳粛とはきっと、当事者には自覚されることなく、いつだって背中合わせに見いだされるものではなかったか。この引き裂かれた表情に眼を凝らさねばならない。

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赤坂憲雄(あかさか・のりお)

1953年生まれ。学習院大学教授。福島県立博物館館長。『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ文学賞受賞。同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。著書に、『司馬遼太郎 東北をゆく』『北のはやり歌』『ゴジラとナウシカ――海の彼方より訪れしものたち』『東西/南北考』『異人論序説』『山の精神史』『漂泊の精神史』『遠野/物語考』『境界の発生』『子守り唄の誕生』『結社と王権』など多数。

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