第二回 ヴィラール/トリノ/パリ

■原風景としてのヴィラール
 クラシック音楽好きの方ならば、往年のフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーの名をご存じだろう。まずはショパンの名演で知られる巨匠であり、さすがに現代の基準からみれば技術的に厳しい部分もあるものの、その演奏の個性的な芳香はいまだに多くの人を惹きつけてやまない。19世紀生まれでありながら現在までその録音が人気を保っているという点においては、かなり珍しい存在といってよいだろう。
 年季の入ったファンならば、コルトーの名から、ティボー、カザルスと組んだ三重奏団を思い出すだろうし、若いピアノ学習者には、ショパン作品に注釈を付けた「コルトー版」の作成者として記憶にとどめられている可能性が高い。このコルトー、さらにいえば遠山慶子やクララ・ハスキル、ディヌ・リパッティを育てた名教師であると同時に、ワーグナーの音楽に傾倒するあまり、バイロイト音楽祭で助手をつとめ、ワーグナー指揮者として活躍したという経歴ももっている。第二次大戦中はナチスの傀儡であるヴィシー政権に肩入れし、そのせいで戦後の一時期は演奏の機会を失ったりもした。
 総じていえばコルトーは、単なるピアニストという枠組みにはおさまらない、なかなか大柄な音楽家ということになろう。
 このコルトー、とりたてて音楽家の家系というわけではないのだが、それでも彼の親戚のうち、のちに作曲家となって名を残した人物がひとりだけいる。本連載の主人公エドガー・ヴァレーズである。
 ヴァレーズの母方の祖父であるクロード・コルトーの兄、ドニ・コルトーの息子がアルフレッド・コルトーだから、ヴァレーズとコルトーは日本風にいえば「はとこ」(再従兄弟)ということになろうか。
 5歳年下にあたるヴァレーズは、しかし、どういうわけかコルトーとはあまり気が合わなかったようだ。スター演奏家としてヨーロッパ音楽界に君臨するコルトーとは対照的に、ヴァレーズは前衛的な作曲家として一部で名が知られてはいたものの、生涯のほとんどの時期にわたって華々しい活躍とは無縁だった。おそらくコルトーとヴァレーズがもう少し親密な間柄であったならば、ヴァレーズも何らかの形で利益を得ていたかもしれない。たとえば、コルトーのためのピアノ曲でもひとつ書いていれば(そしてコルトーがそれを録音でもしてくれれば)、まったく知名度は違ったはずだ。いずれにしても、生涯の前半にはいくつかの接点があったこの二人は、やがてまったく関係を絶ってしまう。
 しかし実は、これから後に述べていくように、音楽家として、あるいは文化人として様々な総合性を発揮した点において、この二人には共通点がなくもない。さっそく話をヴァレーズにクローズアップしていこう。
 ヴァレーズが幼児期をすごしたのは、フランス、ブルゴーニュ地方のヴィラールという村である。彼は1883年の12月22日にパリ十区で生まれ、年があけるとほどなくして、母方の叔父と叔母が暮らすソーヌ川沿いのこの村に預けられた(ちなみに、同年生まれの作曲家にはウェーベルンやプリングスハイムがいるが、考えてみればいずれの人生もヴァレーズと同じく、なかなかに波乱万丈だった)。
 父母の不和もあって落ち着かない少年期を過ごすことになるヴァレーズにとって、このヴィラールこそが、生涯、自分の故郷として認め得る土地となったのだった。
 そもそも、マスタードで有名な街ディジョンを中心にしたブルゴーニュ地方は、最盛期には現在のドイツ西部からオランダ、ベルギーにまたがる巨大な支配地を持つ「ブルゴーニュ公国」を成しており、百年戦争の際にはイングランド側についてフランス王と戦っている。つまり、この地はもともと、フランスとは別の国としての長い歴史を持っているわけだ。1477年にはフランスに編入されてしまうものの、今なお、彼の地の少なからぬ人々はフランス人である前にブルゴーニュ人としてのアイデンティティを保持しているという。実際、ヴァレーズもしばしば自らを「ブルゴーニュ人Bourguignon」と呼んでいる。
 ヴァレーズの生涯は、一種の反骨心から発するトラブルの連続なのだが、それをブルゴーニュ的反骨心と呼ぶことが、もしかすると可能なのかもしれない。
 そして彼にとってブルゴーニュの記憶は、ソーヌ川を中心とする広大な自然、幼年期に自分を育ててくれた叔父と叔母に加えて、母方の祖父クロード・コレットの記憶と深く結びついている。パリのランクリー通りで小さなビストロを経営していた祖父クロードは、しばしばヴィラールを訪れて幼いヴァレーズと過ごしただけでなく、後の1905年からはこの地に移り住んで、青年ヴァレーズが「帰郷」するたびに厚くもてなすことになるのである。
 そう、ありていにいって、ヴァレーズはおじいちゃん子だった。ヴァレーズについて調べた人ならば誰でも知っていることだが、彼が過去を振り返るとき、必ずこの祖父の名が言及されるのだ。のちにヴァレーズの妻、そして良き芸術仲間になるルイスは、彼女の回想録の冒頭ほどない箇所で、ヴァレーズのこんな文章を引用している。

……生まれたのはパリだけれども、私はまぎれもないブルゴーニュ人だ。この土地は、私の母親の親族が住んでいた場所であり、トゥルニュの近くにあるヴィラールという村で、幼児の私も彼らと共に暮らすことになった。ここで少年になるまでを過ごしたのだが、その後、パリの父母のもとに戻るのがどんなに嫌だったかをよく覚えている。それでも、パリ音楽院の学生だった頃や、第一次大戦前にベルリンに住んでいた頃、私はこのヴィラールで祖父とともに休暇を過ごした。友人を連れて行くこともよくあった。(中略)
 この村で、祖父は12世紀に建てられた小さな聖職者の家に住んでいた。住居の横には小さなロマネスク教会があったのだが、この教会はアナトール・フランスの小説「鳥料理レエヌ・ペドオク亭」を読んだ人ならば覚えがあるはずだ。小説では、この教会の傍で法師ジェローム・コワニャールが死ぬのである。私の祖父は、この村の他の多くの人と同じように、自分でワインを造っていた。また、彼はよく料理を作ってくれたのだが、それはとてもおいしかった。
 彼は軍隊時代に中東の国々を訪れたことがあるので、東洋風の料理のレシピを知っていた。たとえば私が覚えていて今でもよく作っているのは、おそらくシリアのものだと思うのだが、キュウリの薄いスライスをサワークリームとミントで和えたもの。そして、古くからのフランス料理、すなわちブッフ・ブルギニョン[牛肉の赤ワイン煮]、ポテ・ブルギニョンヌ[豚肉などのごった煮]、コク・オ・ヴァン[鶏肉の赤ワイン煮]、ヴォー・マレンゴ[子牛の煮込み]、などを私は彼から学んだ。
 私の最初期の作品のひとつで、最初に演奏されたオーケストラ作品(ベルリン、1910年)は「ブルゴーニュ」と名付けられて、彼にささげられた。そして私が相続した、唯一の価値のあるものは、ブルゴーニュに住む祖父の思い出なのだ。*1

 1961年に書かれたこの文章は、単に好きな料理とその理由を挙げてくれという雑誌の企画への返答にすぎない。しかし、既に78歳となり、ニューヨークの自宅で晩年を過ごしていたヴァレーズが、このように細やかにブルゴーニュ時代を、そして祖父の思い出を回想していることは注目に値しよう*2
 さて、ヴィラールは、リヨンから車ならば2時間ほど、田園風景が延々と続く中に、現在でもポツンと取り残されたように存在する。詳細な地図がなければ、まず気づかずに通り過ぎてしまう小さな村だ。そこには「ヴァレーズ通りRue Varese」と名付けられた小さな路地が存在し(もちろん、この名が付けられたのはヴァレーズの死後のことだろう)、路地から少しばかり歩いた場所に、とても古い、本当に古く小さなロマネスク建築の教会を認めることができる。教会の横の小さなプレートには、確かに幼いヴァレーズがここで過ごしたことがひっそりと記されており、その裏手を少し下れば、そこはもうソーヌ川のほとり。現在でも、おそらくはヴァレーズの幼少期とほとんど変わらない川の流れがゆるやかに蛇行しながら続いている。

★写真1  ヴィラールの教会(撮影は、以下の写真も含めてすべて筆者) ヴィラールの教会(撮影は、以下の写真も含めてすべて筆者)
★写真2  ヴァレーズが幼少期を過ごしたことを示すプレート ヴァレーズが幼少期を過ごしたことを示すプレート
 ちなみに、先にヴァレーズが言及していたアナトール・フランスの小説「鳥料理レエヌ・ペドオク亭で」(1892)は、弟子と共に旅をする中で罪を犯した法師コワニャールが、モンバールからリヨン方面へと逃避行を続ける途中、トゥルニュを過ぎたところで刺客に刺されてしまうという話なのだが、そこで同行者たちは、ヴィラールの村で手当てをしようと提案する。朝倉季雄訳で少しだけ引いておこう。

……馭者は先生の腋の下を抱へ、私は両足を持った。登りは辛かった。この生ける十字架を抱いたまま、路の石のうへに倒れさうに思つたこともいく度かあった。やつと坂が緩やかになつた。丘の上を走る、垣を繞らした小路を傳つてゆくと、やがて左手にヴィラールの町の最初の屋根がいくつか見えた*3
 こうして辿りついたヴィラールの穏やかな司祭に看取られて、法師はこの世を去ることになる。この司祭、小説の中では葡萄畑を所有してもいるのだが、まさに先の述懐にもあったようにヴァレーズの祖父は教会に隣接した家に住みながら、ワインを造っていたのだった。
 このヴィラールともうひとつ、幼いヴァレーズの心を強くとらえたのは、ソーヌ川沿いに3キロほど北上した小都市トゥルニュの中心に存在するサン・フィリベール修道院である。ヴァレーズは生涯にわたって、しばしば「私の音楽に強さや美しさがあるとすれば、それはサン・フィリベールに負うものだ」と述べているが*4、ヴァレーズの作品に共通するやや無骨な感触は、なるほど、時として石造りの修道院を思わせる。
 トゥルニュは決して大きな都市ではないが、ひなびた村であるヴィラールとは全く異なり、中世以来の長い歴史を誇る。石畳の街並みはかなり年季が入った立派なものだし、ミシュランの星付きレストランが長く存在しているあたりからも、文化の高さが理解されよう。
 修道院の設立は、西暦875年、聖フィリベールの遺骸が到着したことに始まる。マジャール人の襲撃を退けた後の11世紀に本格的な建築が始まったという教会本体は、初期ロマネスクの代表的建築のひとつとして、その筋の専門家にはよく知られているものだ。町のどこからでも尖塔が確認できる巨大な教会の中に入ってみると、なるほどヴァレーズが何に感激したかが直観的に理解できる。建物の内部は、天井を横方向に荒々しいリヴ・ヴォールトが何本も走るとともに、重厚な周歩廊がはりめぐらされて、曰く言い難い圧倒的な迫力を湛えているではないか。今でも昼間には一時間ごとに鐘が鳴らされるのだが、町の中にこの響きが充満すると、一瞬とはいえ、中世の匂いがむせ返るように周囲に漂う。

★写真3  サン・フィリベール修道院の内部 サン・フィリベール修道院の内部
 幼いヴァレーズは、おそらくは祖父か叔父に伴われて、この巨大な修道院を何度も訪れたのだろう。ヴィラールからソーヌ川沿いをたどってゆくその道のりは、子どもの足で歩くならば一時間以上はかかったはずだ。しかしそれでも――少々物悲しい話ではあるのだが――それはおそらく彼の人生の中で、もっとも穏やかで幸福な時代だった。

■イタリアの憂鬱
 まずはヴィラールで、そして学校にあがってからはパリで少年時代を過ごしたヴァレーズは(パリでは、ビストロを経営する祖父クロードとさらに親密な関係を結んだ)、しかし1893年に突然、イタリアのトリノに移住することになる。父アンリは、前年に彼の母セリニエが死去したことをきっかけにして、自らの祖先の地であるトリノへの移住を決めたのだった。
 まだ9歳、まったくイタリア語の話せないヴァレーズにとって、この転居は辛い経験だったようだ。ほぼ10年近くという長い期間、しかも十代のすべてという重要な時期にも関わらず、ヴァレーズ関係のあらゆる伝記的記述は、このイタリア期に多くのページを割いていない。それもそのはず、作曲家自身がこの時代についてほとんど語っていないのである。
 チューリヒ工科大出身だったアンリは、トリノの工科学校にヴァレーズを通わせた。エンジニアとしての道を歩ませたかったのだろう。しかし、ろくに学校の勉強もせず、日に日に音楽へと傾いてゆく息子を見て、父はピアノに鍵をかけるなど、あからさまな邪魔をすることになる。なにやら作り話のようなエピソードだが、少なくともヴァレーズは妻や伝記作者にそう語っている。
 作家ジュール・ルナールの「誰もがみなしごになるという幸運を持っているわけじゃない」という、いささか投げやりな言葉を、ヴァレーズは生涯にわたって口にした。おそらくはルナールの「にんじん」に自らを重ねながら、孤児の方がまだましだと考えていたに違いない。「イタリアは過去の国だ。私は後ろを振り返るのが好きではない」*5とも語る彼にとって、イタリアはどこまでも父の地であり、ゆえに好ましい場所ではなかった。この父/イタリアへの嫌悪感は、祖父/ブルゴーニュへの帰属意識とあからさまな対照をなすものといえる。
 もっとも、ヴァレーズにとって幸運だったのは、移住からほどなくして、祖父のクロードがパリのビストロをたたみ、トリノのヴァレーズ家に合流したことである。祖父の方もヴァレーズを実の子のようにかわいがっていた。この祖父とともに、やがてヴァレーズはトリノのオペラ劇場へ、そして1900年にはパリ万博へと出かけることになるだろう。
 また、重要なのは、この地でヴァレーズがはっきりと音楽家を目指し始めたことだ。なにより、ヴィラールとは異なり、トリノは文化的環境が整っていた。音楽院、オペラハウス、オーケストラ……。
 1895年、彼が生まれて初めて訪れたオーケストラ演奏会は、コンセール・コロンヌ(コロンヌ管弦楽団)によるもので、プログラムにはリヒャルト・シュトラウスの交響詩やドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」が含まれていたという。いずれも当時としては、最先端の「現代音楽」であることは言うまでもない。のちの彼はこの2人の作曲家に深く傾倒し、個人的にも浅からぬ関係を結ぶことになる。
 父の目を盗みながらではあるが、ヴァレーズはトリノ音楽院の院長であったジョヴァンニ・ボルツォーニ(1841-1919)からレッスンを受け始める。パルマ生まれのボルツォーニは、レージョ劇場の音楽監督を務めるとともに、最晩年までトリノ音楽院の院長として君臨した地元の名士。彼から対位法と和声を教わる一方で、少年はオペラハウスのリハーサルに出入りし、人手が足りない時には打楽器のエキストラとして参加することもあった。ピアノやヴァイオリンを幼いころから習っていたわけではない彼にとって、打楽器は比較的近づきやすい楽器だったに違いない。しかし、常にスコアを片手に練習に参加していたヴァレーズは、やがてすべてのパートを熟知するようになり、指揮者が病気で練習を休んだおりには、急遽「リゴレット」の指揮を務めたこともあったという*6
 作曲家としての最初の実践が始まるのも、このトリノ時代だ。作品リストの最初にタイトルが残っているのは、1895年に作曲されたジュール・ヴェルヌ原作によるオペラ「マルティン・パス」。台本はヴァレーズ自身による。編成は少年合唱とマンドリンという、やや不思議なものだが、実はマンドリンは彼が祖父から与えられ、唯一自由に演奏できる楽器だった*7
 残念なことに、他の初期作品と同様、ベルリン時代の火事でスコアが焼失してしまったために、作品の詳細は分からない。作曲者自身は「マルティン・パスは私にはとてもドラマティックで、そして、とてもロマンティックに映った。だからオペラにぴったりだと思ったのだ。まあ結局は、オペラの国イタリアに住んでいたということなのかもしれないのだが」と述べているが*8、確かにいきなりオペラを書くというのはなかなか大胆ではある。また、最晩年のインタビューでも「11歳の時に、ジュール・ヴェルヌによるオペラを書いたのだが、そのころの私はすでに響きそのものや、珍しい音に夢中だった。ピアノや、すべての慣習的な楽器の音を嫌っていたんだ。だから最初に音階を習ったときには、わあ、全部同じように聞こえる、という感想を持ったよ」*9と、一種の武勇伝(?)の中にこの作品を位置付けている。
 オペラ「マルティン・パス」は学校の仲間によって「初演」されたというが、当時のヴァレーズの学習状況を考えれば、オペラといってもかなり簡素な、場合によってはちょっとしたメモのようなものだった可能性もある*10。いずれにしても早期教育を受けてきたわけではない11歳の少年が書いた作品だから、たわいないものだったのだろう。
 ただし、ジュール・ヴェルヌ(1828-1905)の原作をあらためて読んでみると、少々興味深い点がないでもない。これは1852年に書かれた子供向けの物語なのだが、のちの「月世界旅行」「海底二万マイル」を思わせるサイエンス・フィクションの萌芽が、そして少年を熱狂させるに足るロマンティックな香りが、確かにある。父とともにペルー独立運動を指導する少年マルティン・パスが娘サラと恋に落ち、様々な困難を乗り越えてゆくものの、最後には二人とも敵に討たれて命を落とす……。単純なストーリーながらも、南米の独立運動を背景にしている点、そして主人公が政治と恋愛の二極にはさまれて苦悩するという点が、のちにヴァレーズの手掛けるオペラ的な作品(すべて未完に終わるのだが!)の、ほぼすべてと共通しているのだ。この「抵抗する中南米」「二律背反」というテーマは、循環主題のように彼の生涯に顔を出すことになる。
 1897年、31歳の若さで母親が死去。ヴァレーズによれば、夫を嫌っていた彼女は死の床で「あの粗野な男から、あなたの弟や妹を守ってほしい」と懇願したという。果たして1903年、父アンリが再婚を決めると、ヴァレーズ父子の断絶はほとんど修復不可能なものとなる。もはや、家にいる理由など何もなかった。
 かくして1904年、ヴァレーズはようやく真の孤児として、トリノを去ることになった。彼は父と決別することによって作曲家への道を踏み出したわけだが、確かにそれは両立しえない二者択一だったようにも見える。
 面白いことに、翌1905年の初頭、祖父クロードもまたトリノを離れ、ヴィラールに終の棲家を求めて移住した。どこまでもこの二人のやることは一緒なのだ。先にも述べたように、クロードはこの年から小さな教会の横に居を構え、ワインを造りながら余生を過ごした。ヴァレーズはのちにパリから、そしてベルリンからしばしばヴィラールへと「帰郷」することになる。

■パリへの帰還
 1904年、パリ。20歳のヴァレーズは、このヨーロッパの中心地において、本格的に作曲の勉強を開始する。
 ただし、実はこの短い修行期間は、後述するようにさまざまな問題と謎をはらんでいる(いや、ヴァレーズの生涯を調べてゆくと、どの時代も問題と謎に満ちているのだが……)。ドイツの音楽学者ディーター・ナンツが、この時代のヴァレーズについて一次資料を基に様々な議論を展開しているので、ここでもナンツ論文をひとつの基礎にしながら、20代初頭のヴァレーズについて考えてみたい。
 1904年の初夏、パリに到着した青年ヴァレーズは、友人と一緒に6区のアパートで暮らし始めた。まずは図書館の筆写者として生計を立てながら勉強の機会をうかがった彼は、親戚であるアルフレッド・コルトーの知己を頼り、スコラ・カントルムの重鎮作曲家ヴァンサン・ダンディを紹介してもらうことになる。
 当時のコルトーといえば、既に「神々の黄昏」のパリ初演(1902)、そして「トリスタンとイゾルデ」の指揮(1902)などでフランス音楽界の寵児となっており、この1904年には国民音楽協会が催す演奏会の監督をまかせられている。ダンディを紹介することなどごく容易だったにちがいない。
 1904年9月、自作のニ短調フーガを演奏して、ヴァレーズは無事スコラ・カントルムに合格。このフーガ、そしてやはり入学前の学習課題とおぼしき「グロリア/サンクトゥス」の譜面は現在も残っているが、共に「1904年7月16日」の日付がある。「アルフレッドにささげる」という献辞が、当時のいきさつを直接的に物語っていよう。ちなみに生涯を通して、コルトーへの献辞が記された譜面はこの二つしかない。
 10月から、同期のギー・ド・リヨンクールらとともにスコラに通い始めたヴァレーズは、指揮をダンディに、中世・ルネサンス音楽の実践をシャルル・ボルドに、対位法をアルベール・ルーセルに学んだ。
 ――学んだ、ということになっているのだが、しかしナンツによれば、当時のスコラ・カントルムの名簿には、不思議なことにヴァレーズの名前が見当たらないという*11。とすれば、彼は作曲科の正式な学生ではなく、音楽の基礎を学ぶ「初級クラス」の学生だった可能性が高い*12。実際、ルーセルの作曲のクラスを受講していたことはあり得たとしても、ボルドは1904年の後半にはスコラ・カントルムの分校を作るために、長い間にわたってモンペリエに滞在しており、ほとんどパリでは教えていないのだ(言うまでもなく、モンペリエはフランス南端にあり、北に位置するパリからはきわめて遠い)。また、ボルドの代りにダンディが中世・ルネサンスの音楽を担当していたはずだが、ヴァレーズは彼の指揮のクラスについてしか言及していない。もちろん、スコラ・カントゥルムは、現在の日本の大学とは教育システムがまったく異なるために「正規の学生」という概念を当てはめることが必ずしも妥当ではないにしても、ヴァレーズ自身が自称しているここら辺の経歴はややグレーなのかもしれない。
 しかし、正規の学生かどうかはともかく、この時期のヴァレーズがスコラ・カントルムという教育機関から決定的な影響を受けたことは確かである。それは、後のパリ音楽院からの影響よりもはるかに色濃いものだ。ヴァレーズがもとから持ち合わせていた、中世的な音楽の好みと嗜好は、この学校の教育に接することによって、ひとつの音楽史的な厚みを持って立ち上がってくることになるのである。
 そもそもスコラとはいかなる学校だろうか。
 スコラ・カントルム(Schola Cantorum)という名は、中世の歌唱教習所に端を発するが、パリにおいてこの名を冠した学校が出発したのは1894年、すなわちヴァレーズが「入学」する10年ほど前のことである。設立者は作曲家ヴァンサン・ダンディとシャルル・ボルド、そしてオルガニストのアルキサンドル・ギルマン。彼らの目標は当時のパリ音楽院の、あまりの声楽曲偏重、オペラ偏重に反発し、中世の伝習所的な厳しいシステムを採用しながら、幅広い音楽史的なパースペクティヴをもった演奏家と作曲家を養成することだった。彼らのこうした姿勢は何よりも、当時台頭しつつあった、グレゴリオ聖歌以来の中世・ルネサンス音楽、そしてバロック音楽といった「古楽」を重視する点によくあらわれていた。「特に音楽理論史の教育はスコラ・カントルムの特徴の一つで、当時、スコラ・カントルム以外で歴史的な文脈に即して音楽作品を考察し、分析することを学生に教える音楽学校は存在していなかった。(中略)また、スコラ・カントルムの演奏会では、グレゴリオ聖歌やルネサンスやバロックの音楽が大きく取り上げられ、聴衆たちに古楽の新しい世界を教えた」*13
 こうした教育方針は、当時きわめて新しいものだった。もちろんパリには、宗教音楽を扱うニデルメイエール校が第二帝政期から存在しているが、しかしその教育はオルガンなどの鍵盤音楽実践を中心とするもので、体系的に音楽史を学ぶためには、スコラ・カントルムの設立を待たねばならない。ちなみに、アルベール・ルーセルはこの学校の一期生である*14。また、ヴァレーズの翌年1905年には、あのエリック・サティがスコラに入学しており、こうした名前からも、当時の学校の雰囲気がどことなく察せられよう。
 スコラ・カントルム創立者のひとりであるシャルル・ボルドは、作曲家としてはバスク地方の民謡を収集して自作に生かした人物だが、彼は同時にパリの聖ジェルヴェ教会の合唱指揮者として様々な中世・ルネサンス音楽の演奏にたずさわっていた。ヴァレーズは生涯にわたって、何度も、ルネサンス音楽をレパートリーにした合唱団を組織することになるが、そのひとつの起点は明らかにボルドとの出会い求めることができる。ちなみに1904年から1905年にかけてのスコラ・カントルムでは、バッハの「クリスマス・オラトリオ」「ヨハネ受難曲」、モンテヴェルディの「オルフェオ」「ポッペアの戴冠」などが演奏されているから、ヴァレーズもこうした作品に直に接したことだろう。
 しかし、大きな問題もあった。スコラにおいては、古楽は存分に学べたとしても、新しい時代を切り開く創作を学ぶことは、当然ながら難しかったのである。「ダンディもどきにはなりたくなかった」というヴァレーズは、スコラ入学の翌年から早くも不満を漏らしはじめる。一時期は、彫刻家オーギュスト・ロダンをパトロンにして独自の活動をはかるものの決裂(ヴァレーズは生涯にわたって、権威主義的な人物とはそりが合わないのだ)。結局、彼は早々とスコラを離れ、フランス作曲界の中心、パリ音楽院への転校を図る。
 入学が許可されたのは1906年の1月。ヨーロッパの教育制度においては2学期からという変則的な入学時期であるが、ナンツは、フーガ課題に苦労し時間がかかったためではないかと推測している*15。所属したのはシャルル=マリー・ヴィドールのクラス。作曲家であると同時にオルガニストとしても活躍し、バッハ作品の演奏で名を成した人物である。古楽への志向という意味ではヴァレーズとの共通点を持つが、しかし少なくとも作曲に関して保守的な教員だったことは間違いない。いや、そもそも保守的という点においては、当時の院長のフォーレも、そしてマスネをはじめとする他の教員もさして変わりはなかった。自業自得としか言いようがないのだが、ヴァレーズは徐々にパリ音楽院の環境に失望してゆくことになる。

■ガンバラの夢
 ヴァレーズについての浩瀚な伝記をものしたウェレットは、このころ既にヴァレーズが「サイエンスとしてのアート」という考え方を持っていたことについて、バルザックの中篇小説「ガンバラ」(1837)との奇妙な符号を指摘している。
 小説は、イタリアの楽器職人の子どもに生まれ、かつて3本のオペラ(「殉教者たち」「マホメット」「救われたエルサレム」)を発表したガンバラという作曲家が、誇大妄想的な音楽論をあれこれと述べたてながら、パリで没落してゆくというものである。ここでガンバラは音楽と科学を同一の根源として位置付ける。

……音楽は同時に科学であり芸術でもあります。物理と数学の中に根を持っているから、音楽は科学なのですね。その音楽は霊感によって芸術となりますが、霊感はそうとは知らずに科学の定式を使っているのです。音楽はまた、用いる物質の本質そのものゆえに、物理学に由来しています。つまり、音は空気の変化したものなんです。(中略)わたしに言わせれば、音の性質は光の性質と同様です。音は別のかたちをとった光なのです。つまり、音も光も震動によって作用し、振動が人間に達すると、人はそれを神経中枢の中で思想に変えます。*16
 なるほど、確かにこれは後年のヴァレーズが言いそうなことではある。もちろんバルザックは19世紀前半のフランスで活躍した作家であって、ヴァレーズとは何の関係もない(一般的には、ガンバラのモデルとしてはベルリオーズの名が挙げられることが多い)。しかし作家の筆が奇妙に予言的なのは、この風変わりな主人公が、既成のオーケストラには飽き足らず「パンアルモニコン(万能楽器)」という楽器を開発している点だ。ガンバラがパンアルモニコンを演奏するシーンは、小説の一つの頂点となっている。

……伯爵がこれまで聴いたこともない純粋で甘美な音楽が、ガンバラの指から祭壇の上のお香の煙のように立ち上った。作曲家の声は若返った。この豊かな旋律を損なうどころか、彼の喉はそれを説明し、補強し、導いた。アンドリューのような講演の巧者の弱く震える声が、コルネイユやラシーヌの崇高な場面に内密な詩情を付け加え、その意味を広げたのと同じように。天使たちにふさわしいこの音楽を聴いていると、彼の壮大なオペラ、ガンバラが理性を保って説明している限り、絶対に理解されえなかったオペラに、音楽の至宝の数々が隠されていることが推測できた。事情を知らない人なら、この百の声をもつ楽器の中に、楽器職人が見えない少女たちを隠したと思ったかもしれない。楽器が出す音は時折、それほどにも人間の声に似ていたのだ。*17
 ガンバラは、普通のピアノを弾く際にはひどい腕前で、しかもダミ声の音痴で周囲を辟易させるのだが、このパンアルモニコンを操る時だけは大音楽家となり、「驚嘆した伯爵はしまいに、これはもしかしてパガニーニやリストが繰り広げる魔術の類かと思った」というほどになるのである。
 本連載でおいおい述べてゆくように、ヴァレーズは生涯にわたって、熱烈に新しい楽器を、いわば彼のパンアルモニコンをひたすら探し続けた。最終的には楽譜が全て市場の商品の包み紙となってしまうガンバラとは異なるけれども、どこかタイミングが悪い点においては、両者は実によく似ている。

■「暗く深き眠り」と謎の初期作品
 スコラ・カントルムからパリ音楽院に至る時期には、多くの作品が書かれた。
 まず重要なのは、1905年末あるいは1906年に作曲された「ロマネスク狂詩曲Rhapsodie romane」である。原曲はオーケストラ編成だったようだが、ヴァレーズはそのピアノ版を芸術家のサロンで仲間たちに披露している。薔薇十字カバラ団の創設者のひとりであり、サティとも親交の深かったジョセファン・ペラダンはこの作品について「世俗的なグレゴリオ聖歌」と評し*18、またE.C.という署名の批評家は「若い作曲家による、中世の精神を持った作品」と述べている*19。ヴァレーズ本人はといえば、「『ロマネスク狂詩曲』を書いた時には、ロマネスク建築のことを考えていました。イタリアのローマではありませんよ!私はきちんと計算された、あるいは制御された重力というものを音楽に投影する道を探したいと思っていました」*20と述べている。となれば、この作品はおそらくトゥルニュのサン・フィリベール修道院を彼なりに音楽化したということになるのだろう。ただし残念ながら、オーケストラ版もピアノ版も楽譜が残っておらず、詳細は分からない。
 他方、この時期のヴァレーズ作品で唯一現存するのが、1906年、パリ音楽院時代に作曲された歌曲「暗く深き眠りUn grand sommeil noir」である。楽譜にしてほんの3頁ほどの短い作品で、詩はヴェルレーヌによる(ラヴェルにも同じ詩による歌曲がある)。

暗く果てなき死のねむり/われの生命に落ちきたる/ねむれ、わが希望/
ねむれ、わが慾よ!/わが目はやものを見ず/善悪の記憶/われを去る……/
われはいま墓穴の底にありて/隻手(せきしゅ)にゆらるる/揺籃になり/
ああ、黙せし、黙せかし! (堀口大学訳)

 22歳のヴァレーズは、この詩をかなり巧みに音楽化しているように筆者には思われる。基本的には平行和音を鳴らしながらも、随所でオクターブの響きのみになってしまう禁欲的なピアノ伴奏部の上に、ゆるやかに浮遊する歌唱部がのせられてゆくという趣向が、詩の持つ深い沈静と正確に対応しているように感じられるのだ。
 音楽的な影響関係ということになれば、誰もがドビュッシーを思い起こすだろう。実際、ラリー・ステンペルはこの歌曲と、同じくヴェルレーヌの詩を用いたドビュッシーの歌曲「木々の影は」(『忘れられたアリエッタ』)(1888)との類似について詳細に分析し、さらにこの歌曲の終結部と「ペレアスとメリザンド」第4幕終結部がその音程構成においてきわめてよく似ていると指摘している*21
 ステンペルの指摘は概ね納得のいくものなのだが、しかしそうした類似があるからこそ、むしろドビュッシーとの本質的な差異が明らかになっていることも、また事実だ。端的に言って、ドビュッシーの音楽に――それがどんなに簡素であっても――必ず存在している、精妙かつ滑らかな和声進行がここには見られない。もちろん様々な和音が鳴らされるのだけれども、その連結は明らかにスムースさを欠いており、最後までゴツゴツした異物感を放ちながら低音部でうごめき続けるのだ。きわめて独特な感覚というほかない。
 1905年から1906年にかけての時期には、他にも「海のアポテオーズApothéose de l'océan」「若人の歌Chanson des jeunes hommes」「泉のふちでの対話Colloque au bord de la fontaine」「公園にてDans le parc」「霧の詩Poème des brumes」「一日の終わりの前奏曲Prélude à la fin d'un jour」「想い出Souvenir」といった作品が書かれたはずなのだが、いずれもすべてベルリンの火事や他の原因によってスコアが失われてしまったという(ニューグローブ音楽大事典ほかのリストには、これらは「消失作品」として並んでいる)。まったく残念なことと言わざるを得ないのだが、しかし、これらはすべて本当に書き上げられていたのだろうか? やや意地悪くいえば、これらの作品が存在していたというのは、後のヴァレーズの「自己申告」にすぎないのだ*22
 もちろん、完成した曲もあるのだろう。実際、このうち「海のアポテオーズ」と「泉のふちでの対話」は、後述する「民衆大学」で演奏されたという記述が残っている*23。それでも率直にいえば、筆者を含む少なからぬ(ただし全てではない)ヴァレーズ研究者は、これらの初期作品の多くはエスキスとしてしか存在しなかったのではないかと考えている。というのも、のちのヴァレーズの筆のスピードを考えると、あまりにもこの時期の作品数が多すぎるのだ。また、ほとんどが火事で焼けてしまったというのも、都合のいい話という印象がぬぐえない。若い頃は多作だった作曲家が、歳をとるにしたがって寡作になったという可能性もあるにせよ、インタビューでの言説や自作リストにおける記述はいたるところで細かいブレがあり、そのまま素直に信頼することが難しいのである*24
 しかし、これらの作品が存在しなかったと証明することもまた不可能ではある。我々としては、本当に在ったか無かったかはともかく、「ヴァレーズ自身がこうしたタイトルの作品を書いたと主張している」という事実から出発するほかない。その意味で興味深いのは、これらの作品の多くが自然や人間にちなんだ、むしろ素朴なタイトルを持っていることである。後のヴァレーズの作品を特徴づける「イオニザシオン」「アンテグラル」といった無機的な単語とは異なり、これらのタイトルからは実にロマン派的でやわらかな、ある種の標題音楽的なニュアンスが感じられる。ドビュッシーやシュトラウスに憧れていた当時のヴァレーズは、そのような志向を確実に持っていたのだろう。

■音楽院から民衆大学へ
 パリ音楽院の作曲科学生にとってのひとつのゴールは、ベルリオーズからドビュッシーに至る錚々たる作曲家が受賞者に名を連ねるローマ大賞を獲ることにある。音楽院を出た新人のみが対象となるこの賞は、現在の日本でいえば、さしずめ文学の芥川賞に近い存在だろうか。ちなみに前年の1905年、5度目のチャレンジにも関わらずモーリス・ラヴェルがこの賞を逃した際には、世論が猛然と反論して大スキャンダルになり、結局は音楽院の院長が代わるという騒動が起こっている。
 当然、ヴァレーズもこの賞を目指したはずだ。そのために努力をした形跡が様々な形で残っている。しかし、この頃から致命的に筆が遅いのだ……。音楽院で同じくヴィドールのクラスに在籍していたナディア・ブーランジェは次のように回想している。「ヴァレーズが毎週持ってくるのは、ほんの数小節の小さなスケッチでした。先生はこう言ったものです。『ヴァレーズさん、とても興味深い音楽ですよ。まずはこれをそのまま続けて、最後まで書いてみましょう』という具合に。ところがヴァレーズは次の週にはまた違う断片を持ってくるのです。さらに次の週にはまた別のものを」*25
 1906年5月末。結局、ヴァレーズはコンクールに作品を提出できず、さらには次の学期に在籍することも選択せず、わずか4か月あまりでパリ音楽院を去ることになった。なんとあっけない幕切れ。フォーレもヴィドールもマスネも、もはや彼を引き留めることはしなかった。
 しかしヴァレーズのふてぶてしい態度は、パリ音楽院の保守性にうんざりしていたこと、自らの「暗く深き眠り」の出版が決まったこと、様々な芸術仲間からの評価を得ていたことなどに加えて、この年から民衆大学の合唱団指揮者として活動を始めたことによるものだと筆者は考えている。生涯にわたって、さまざまな労働運動にかかわることになるヴァレーズにとって、この民衆大学の経験はかなり大きなものだったと想像されるのだ。
 フランスの民衆大学は、19世紀末、ドレフュス事件の再審を求める運動の中で、左翼知識人と労働者が連合する中で生まれた労働組合系の教育機関である。具体的な活動は、1896年、印刷工エドゥエルムが労働者の意識の向上を目指した冊子「思想の協力」を発行したことに始まる。彼は「……もっとも必要な活動は、労働運動と協同組合の中で[労働者を]良識ある人間に育てることであるとわれわれは考えている。そのためには社会倫理教育を組織する必要がある。講演会や講義や読書が必要となる。民衆劇場、ポスター、絵画、小冊子も同様に必要である。(中略)われわれはサン・タントワーヌ街に、このようなものを開設し、そこで社会倫理教育を開始するつもりである」と宣言し*26、1898年からさっそく講演会を組織した。この動きはやがて夜の6時から8時という時間を基本にした、労働者のための「大学」という形態をとるに至る。
 もちろん大学といっても正規のそれではなく、一種のカルチャー・センターのようなものと言ってよいと思うのだが、しかし最盛期には、こうした「民衆大学」はフランスに160以上も存在した。ヴァレーズが講師になったのは、その中でももっとも古い、本家のフォーブル・サン・タントワーヌ民衆大学である。ここでは哲学、歴史、文学、政治、経済などさまざまな講義が行われていたが、音楽、とりわけ合唱はきわめて重要な科目として認識されていた。
 ヴァレーズはベルリンに移るまでのおよそ1年間、この急進的な左翼の牙城といえる民衆大学で合唱団を組織し、指導を行なっている。主なレパートリーは民謡とルネサンス音楽で、定期的に「民衆の城」と名付けられた会場で演奏会を開いた。晩年にいたるまで、彼は様々な場所で労働者の合唱団を組織することになるが、その思想的基盤と運営ノウハウの源泉はおそらくこのフォーブル・サン・タントワーヌにある。そして同時に、ヴァレーズの反骨精神――あるいはブルゴーニュ的反骨精神――がこの学校と共鳴するにしたがって、パリ音楽院という権威は彼から遠いものになっていったと推察されるのである。

■パリ→ベルリン
 若きヴァレーズは、パリで大きな成功を勝ち取ることはできなかった。しかし最初の楽譜を出版し、合唱団を組織し、そして何よりさまざまな芸術家たちと知己を得ることができた。生涯にわたる親交を結んだポール・ル・フレム、スコラ・カントルムの「下級生」にあたるエリック・サティといった作曲家たちはもちろんのこと、レオン・ドゥーベル(一時期、ヴァレーズは彼と一緒に暮らしていた)、マックス・ジャコブ、ギョーム・アポリネール、レミ・ド・グールモンといった文学者、パブロ・ピカソやフリオ・ゴンザレス、アメデオ・モジリアーニといった美術家、そして神秘思想家のペラダン……。こうした出会いが、彼をどれだけ成長させたかは想像に難くない。また、のちに電子楽器「ダイナフォン」の発明者となるルネ・ベルトランとの出会いは、やがて直接的な影響をヴァレーズに与えることにもなるだろう。
 そして音楽院から離れて久しい1907年秋、ヴァレーズにセーヌ県芸術特別研究員奨学金の授与という朗報がもたらされる。国外での研修が可能となったヴァレーズが選んだ都市は――ドイツ語がまったく話せないにも関わらず――ベルリンだった。かくして彼は11月のある日、大きなカバンを持って、ドイツへと向かう列車に乗りこむ。結論から言えば、この時期、この都市を選んだヴァレーズの選択は正解だったように思われる。というのも、そこにはブゾーニ、シェーンベルク、シュトラウス、ロマン・ロラン、ホーフマンスタールといった、20世紀前半を代表する芸術家たちとの出会いが待っていたのだから。

*1 LouiseVarèse . Varèse : A Looking Grass Diary Volume 1:1883-1928.Eulenburg, 1973, p. 18.ちなみに、筆者はこのアンケート回答のタイプ打ち原文をザッハー財団で閲覧している。
*2 一方で、ヴァレーズはなぜかこの年に、祖父に捧げた交響詩「ブルゴーニュ」のスコアを破棄してしまう。引用文中にもあるように、この曲は初めて公の場所で演奏されたオーケストラ作品であり、しかもヨーロッパからアメリカにわたる際に持参した、唯一のオーケストラ・スコアなのに。この作品が現存していれば、初期ヴァレーズの作風がより鮮明になるはずなのだが、自ら破棄してしまったのでは仕方がない。この、晩年のヴァレーズをめぐる一種の闇については、連載の後半でまた触れることになるだろう。
*3 アナトオル・フランス長篇小説全集2「鳥料理レエヌ・ペドオク亭」、朝倉季雄訳、1940年、白水社、307頁。
*4 たとえばLouise, p.67を参照。
*5 Louise, p.20.
*6 Fernand Ouellette. Edgard Varèse ,1966 (English translation, 1968), p.10.
*7 もっとも、彼は変則的なチューニングで奇妙な音ばかりを出していたという。Ouellette, p.9参照。
*8 Louise, p.24.
*9 Gunther Shuller. “Conversation with Varèse ”Perspective of New Music 2/3, 1965, p.32.
*10 以下の論文も、「マルティン・パス」が単にラフなスケッチのようなものだったのではないかと推測している。Heidy Zimmermann “The Lost early works: Facts and Suppositions” Edgard Varèse : Composer, Sound Sculptor, Visionary. 2006.
*11 Dieter A. Nanz. “A student in Paris: Varèse from 1904 to 1907” Edgard Varèse : Composer, Sound Sculptor, Visionary. 2006, p.27.
*12 「スコラ・カントルムのカリキュラムは、声楽、器楽、作曲のそれぞれのコースがすべて初級と上級に分かれ、声楽と器楽の初級コースでは実技の基礎能力の習得、上級ではより芸術的・精神的な発展に重点が置かれ、さまざまな時代のさまざまな様式の作品を勉強するようになっていた。」今谷和徳、井上さつき「フランス音楽史」春秋社、2010年、378-379頁。
*13 今谷和徳、井上さつき「フランス音楽史」春秋社、2010年、378-379頁。
*14 面白いことに、ルーセルは「音楽は人生にもたらされる、音響現象を組織した芸術である」との言葉を残しており、これはヴァレーズの有名な概念「組織された音響」を思わせる。Nanz, p.29参照。
*15 Nanz, p.30.
*16 バルザック「ガンバラほか」博多かおる他訳、水声社、2010年、39頁。
*17 前掲書66頁。
*18 Ouellette, p.19.
*19Malcom Macdonald. “Only one thing of Value: Varèse the Burgundian” Edgard Varèse : Composer, Sound Sculptor, Visionary. 2006, p.22.
*20 Malcom Macdonald. Varèse : Astronomer in Sound, 2003, p.14.
*21 Larry Stempel. “Not even Varèse can be an orphan” The Musical Quarterly LX,1, 1974,p.57-60. ちなみに、この論文のタイトルは「孤児にさえなれなかったヴァレーズ」の意。
*22 ただし、若干の第三者の証言がないわけでもない。例えば「一日の終わりの前奏曲」に関して、当時の親友ドゥーベルは「彼はちょうど、『一日の終わりの前奏曲』を書き終えたところだ。この作品は120人の奏者という途方もない編成で書かれている」と述べている。ただし、これは妻ルイスによる「そのような手紙があった」という記述(Louise, p.35)。そもそも120人のオーケストラという巨大な編成による楽曲を当時のヴァレーズが本当に書いたのだろうか?
*23 ルイスによれば、La Chronique de Parisと名付けられたイヴェント冊子に、その旨が記されていたという。ただし詳細は未確認。Louise, p.43参照。
*24 これらの作品の実在については、注10で記したツィンマーマン論文が、網羅的にその状況を整理している。ちなみに、彼もまた多くの作品の実在を疑っている。
*25 “Elle est la musique en personne: A Reminiscence of Nadia Boulanger” Elliott Carter, Collected Essays and Lectures, 1937-1995, p.282.
*26 末本誠「フランスにおける民衆大学運動の展開」『教育学研究』Vol. 44 /3、1977年、20頁。

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社、近刊)など。

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