第二回 ソーシャルデザインのそもそも


「Design for Society」と「Design of Society」

 昨今、さまざまな機会で「ソーシャルデザイン」という言葉を耳にするようになりました。
 特に、これからの社会を担う人材を育む大学や大学院の反応は早く、僕が所属する京都精華大学人文学部でも2015年から「ソーシャルデザイン・プログラム」が展開されているほか、2016年には全国初のソーシャルデザイン学科が九州産業大学芸術学部に設立されるなど、「ソーシャルデザイン」を冠するカリキュラムの設置、さらには類する学部や学科、研究所の設立が増えています。すなわちソーシャルデザインなるものの“学問化”が進んでいるのです。
 一方そうした期待感の裏側に、「現代の日本において、ソーシャルデザイン教育はいかに可能か」という戸惑いが潜んでいるのも事実です。とにかく新しい分野なだけに、何らかの明確な定義が共有されているわけではありません。「ソーシャルデザインの担い手に求められる力とは何か?」という、そもそもの教育理念が問われている段階なのです。
 とはいえ、その足がかりとして、そもそも「ソーシャルデザインとは何なのか」という定義はあった方がいいでしょう。そこで拙著『ソーシャルデザイン』(2012)の中で用意したのは次のようなものでした。

社会的な課題の解決と同時に、新たな価値を創出する
画期的な仕組みをつくること

 この定義には、ふたつの意図を込めています。ひとつは「Design for Society」、つまり「社会的な課題を解決するために、デザインという手法を活用すること」。もうひとつは「Design of Society」、つまり、世界や国、自治体など大きな単位だけでなく、近隣、友人、家族など小さな単位も含めた「社会のあり方そのもののデザイン」のこと。
 シンプルに言えば、多くの社会的な課題は様々な“分断”に起因しています。「自分だけならいいだろう」という行き過ぎた個人主義によって、世界のどこかに不便を押しつけてしまったり、ステークホルダー(利害関係者)同士に見えない壁があって、本当のニーズを伝え合う機会が失われていたり。そうした小さな齟齬や誤解が複雑に絡まった結果、あくまで氷山の一角として顕在化してしまったのが昨今の社会問題なのです。
 だからこそ根本的な解決とは、分断されてしまった関係を紡ぎ直す、だけでなく、新たな関係のあり方をも創造することで、「そもそもその課題が生まれないように未然に防ぐこと」といえるかもしれません。そういった意味で、「Design for Society」と「Design of Society」は相容れないものではなく、より大きな成果を達成するためには、むしろ一致している方が望ましいのです。

ソーシャルデザインの目で見たら

 さて、「ソーシャルデザイン」と聞いて、何やら突飛な、まったく新しい考え方が登場したように感じた方もいるかもしれません。中には一過性のものに思われて、距離をとっているという方もいるでしょう。
 環境問題、人権問題、格差社会、無縁社会など、現代的な社会問題と向き合い、その解決を目指すという意味では、ソーシャルデザインは最先端の分野ともいえます。しかし、わたしたちにとって既に当たり前のもの、定番とされているものの多くも、実は“ソーシャルデザイン”的な営みによって生まれてきたのです。
 その一例として、まずは日本人のふたりにひとりが持っている「メガネ」を、ソーシャルデザインの目で観察してみましょう。

メガネは2000年間で最大の発明だった!?

 「もっとも重要な発明は読書用眼鏡だ。それは読書や細かな仕事をする人の活動期間を事実上二倍に伸ばし、世界が四十歳未満の連中に支配されるのを防いでくれた」
 ちょっとドキッとしますが、これはイギリスのある心理学者が、『2000年間で最大の発明は何か』という本に寄せた一節です。ひとつのユーモアではありますが、社会の世代交代のリズムがメガネというひとつのモノの影響を受けているとすれば、その存在感たるや恐るべし、ですね。
 その歴史を紐解いてみると、切実にメガネを必要としていたのは、中世ヨーロッパにおいて聖書を読むことができるエリート層でした。そんな背景もあり、メガネは身分や階級を象徴するアイコンとなっていきます。
 一方、「年をとって目が見づらくなるのは、神の与えた苦痛だから耐えるべき」、「メガネは悪魔の仕業である!」といった否定派の意見も根強く、メガネが現在のように当たり前のものとなるまで、実に数百年の年月が必要でした。
 では、そんなメガネとソーシャルデザインにはどんな関係があるのでしょうか? ここで注目したいのが、「メガネのファッション化によって、補装具への社会的な偏見を解消した」という点です。
 言うまでもなくメガネは、人類にとって普遍的な課題である「視力の低下」を克服するために誕生しました。それがいまやファッションアイテムとなり、視力がよいにもかかわらず、伊達メガネをかける人さえいます。その結果、いまでは“補装具”として特別視されることもなくなり、「目が悪くなっても、メガネを手に入れられたら不自由なく暮らせる」という安心感を、私たちは当たり前のように享受しています。
 このインパクトは、日本での普及率13.5%という補聴器*の現状と比較してみると、より理解しやすいかもしれません。「イヤホン難聴」という言葉が生まれるなど、若い世代における聴力低下が話題となる一方、あるアンケートでは補聴器のイメージは「お年寄りがつけるもの」であり、装着に抵抗を感じている人もまだまだ多いのが現状なのです。

インクルーシブな社会へ

 このような偏見の解消、あるいは社会的な習慣のアップデートも、ソーシャルデザインとして取り組むべき課題のひとつといえます。
 2009年に発表された内閣府「障害を理由とする差別等に関する意識調査」によれば、「障害を理由として差別を行っている人の意識」について、約2/3の回答者が「無意識に行われている差別が多いと思う」と答えています。この結果は、社会的な弱者やマイノリティと呼ばれる人たちを暗黙のうちに排除してきた、これまでの社会のツケといえるかもしれません。
 障害者を前にしたとき、多くの健常者は「何か力になりたい」という気持ちを持つはずです。しかし実際に関わる機会が少なかったために、「よかれ」と思って発した一言が、思いもよらない差別につながってしまっている……だからこそ、ここで必要なのは、高齢者や障害者、ベビーカー利用者、外国人など、「自分とは違う誰かの視点に立ち、行動すること」。このような考え方は「ユニバーサルマナー」とも呼ばれ、「新しいおもてなし」のあり方として広がりつつあります。
 排除(エクスクルーシブ)から包摂(インクルーシブ)へ。その流れと呼応するように、最近では、アクセサリーのように身につけたくなるような小型の補聴器をはじめ、義肢、車椅子など補装具の分野全体で急速にイノベーションが進んでいます。
 記憶に新しいところで言えば、2016年のリオデジャネイロ・パラリンピックでは、最新技術の粋を集めた義肢のデザイン性が話題となりました。また、「車いすに見えないこと」を目指した日本発のパーソナルモビリティ「WHILL」など、誰もが「これは乗ってみたい!」と思わせる電動車椅子も登場しています。
 これらの次世代型の補装具は「障害を持って生まれたとしても、あるいは、突然、障害を持つことになったとしても、不自由なく暮らすことができるかもしれない」という前向きな希望を、私たちにもたらしてくれています。そしてその代表的な存在こそ、メガネという愛すべき必需品なのです。

「辛子明太子」「雪まつり」「カープ」もソーシャルデザイン

 ソーシャルデザインは、ある時代に代表的な課題を解決するだけでなく、新たな定番を生み出す。そのさらなる例として、日本人なら多くの人が知っている「辛子明太子」「さっぽろ雪まつり」「広島東洋カープ」をソーシャルデザインの目で観察してみましょう。何の脈絡もなさそうですが、これらの共通点はいったい何でしょうか?
 まずは「辛子明太子」のストーリーから。「明太子をつくった男」として知られているのが、「ふくや」創業者の川原俊夫氏です。長者番付に掲載されるほどの財を築きながらも、私財のほとんどを山笠中洲流の立ち上げや博多川の浄化に投じるなど、「中洲の日蓮さん」とも呼ばれた伝説的な生き様は、2013年『めんたいぴりり』というタイトルでドラマ化もされました。
 そんな「ふくや」の創業は1948年。中洲市場で食料品店を営みながら、「ふくやにしかない新しい商品」を開発しようと川原氏が注目したのが、子どもの頃に釜山で食べた“明太”でした。そこから日本人の味覚に合うように10年という歳月をかけて商品化したところ全国的な評判となり、今や高級フレンチでも愛用されるなど一躍グローバルな食材となったのです。
 川原氏の有名なエピソードが、「明太子はお惣菜」として特許を取得せず、請われたら誰にでもレシピを教えたことです(ただし、調味料の配合などは企業秘密だったそう)。その結果、博多には明太子業者がたくさん誕生することになり、次第に「博多土産といえば明太子」というパブリックイメージができあがっていきました。今風にいえば、「ふくや」は、つくり方や設計図を無料で誰にでも使えるように共有する「オープンソース」の思想によって地域を創生したのです。
 福岡で「ふくや」が創業したすぐ後の1950年、今度は北海道で新たな祭りが産声を上げます。日本最大級の真冬のイベント「さっぽろ雪まつり」です。
 地元の中高生が6つの雪像を大通公園に設置したことで始まった雪まつり。わずか数年後には自衛隊の協力によって雪像の巨大化が進み、現在では250万人が訪れる日本の風物詩となっていきました。
 「さっぽろ雪まつり」で注目したいのは、親しみがありながらも困りごとでもあった雪という地理条件を、自然環境によって形成される財産としての「自然資本」として捉え直していることです。暑い、寒い、遠い、といった風土のデメリットは、「○○だからできること」というおまじないによって、その季節、そこに行かないと体験できない独創的な価値へと転換できるのです。
 一方で、ここ最近は、気候変動の影響で雪不足も懸念されています。環境問題というと、どこか遠くの国の出来事のように感じてしまう方もいるかもしれませんが、現在進行形で雪まつりが直面している現実そのものが、図らずも子どもたちをはじめ地域住民にとって、社会的な課題に気づく入り口にもなっているのです。
 そして「広島東洋カープ」の誕生も1950年でした。原爆によって焼け野原になってしまった広島の人びとの心の支えとなったのが、「廃墟の街に球団を」という掛け声だったのです。
 復興のシンボルとしてのカープは、日本のプロ野球で唯一親会社を持たない市民球団です。そのため、発足当時は経営も不安定で、たびたび球団消滅の可能性が取り沙汰されていました。そのときに力を尽くしたのが当事者である広島市民で、自分たちの球団は自分たちで守ろうと、今でいうクラウドファンディングの手法でその危機を脱したと言われています。そのときに始まった「たる募金」は1960年代まで続き、2005年に一時的に復活した「新球場建設たる募金」では1億2000万円もの寄付が集まりました。
 他球団に比べて資金が潤沢ではないからこそ、カープは育成に力を入れていて、そんな若手選手のひたむきな姿に共感する「カープ女子」も増えているそうです。そうした努力が実を結び、2016年には20年ぶりのセ・リーグ優勝、2017年も圧倒的な強さで連覇を果たすなど、その人気は全国的なものとなりました。
 個人の原体験を拠り所にしている、オープンソース戦略で全体の利益を最大化する(明太子)。ちょっとした遊びが起点となっている、目の前の制約条件を前向きに生かす(雪まつり)。ほしい未来をつくるために自ら動く、ないものねだりではなくあるものから始める(カープ)。これらの考え方はソーシャルデザインを実践するために欠かせないものです。つまり、いまや“定番”となった明太子、雪まつり、カープが地域に根づいていく歴史そのものが、ソーシャルデザインの重要なケーススタディなのです。

斬新なアイデアが、いつかの当たり前になる

 携帯電話を挙げるまでもなく、いま当たり前となっていることのほとんどは、初めて登場した当時はセンセーショナルだったはずです。その紛れもない事実は、常識を外れたような自由奔放なアイデアも、これからの定番になる可能性は十分にある、という希望を私たちに与えてくれます。
 また、明太子も雪まつりもカープも、戦後直後という変動期に重なっているというのも何だか示唆的です。ちょうど私たちも、金融危機から東日本大震災、原発事故などを経て、これまでのものさしでは測れない新たな社会のあり方を模索している変動期にあります。ソーシャルデザインはそのような時代的な要請に応える、ひとつの有望な選択肢なのかもしれません。
 ソーシャルデザインの最初の一歩は、「私たちの社会が既にソーシャルデザインによって成り立っている」という事実に気づくこと。ぜひみなさんも、身の回りにあるものをソーシャルデザインの目で観察してみてください。学校や郵便、病院といった社会的な仕組みから、自転車や茶器といった日用品まで、それらの意外な歴史のなかに、未来をつくるヒントが隠されているはずです。

ソーシャルデザインに必要な力とは?


ソーシャルデザインの担い手=菩薩!?

 繰り返しになりますが、ソーシャルデザインが目指す根本的な解決とは、分断されてしまった関係を紡ぎ直す、だけでなく、新たな関係のあり方をも創造することです。と、言うだけなら簡単ですが、これはかなり骨の折れる仕事です。それでもなお、ソーシャルデザインをテーマとするウェブマガジン「greenz.jp」編集長時代に出会い、拙著『ソーシャルデザイン』(2012) や『日本をソーシャルデザインする』を通じてインタビューしてきた人たちは、あらゆる試練と向き合いながらも、むしろ楽しんでいる様子さえあったのでした。
 「どんだけ失敗しても、ホームレスにならない社会」を目指して19歳でNPO法人を立ち上げた「Homedoor」の川口加奈さん、“もっとでかけたくなる”パーソナルモビリティを開発して、車いすユーザーの気持ちを解放する「WHILL」の杉江理さん。コスメを通じて、ネパールの人身売買被害者の女性の雇用創出と自尊心の回復に取り組む「ラリトプール」の向田麻衣さん。
 あるいは、廃棄ゴボウを美味しいゴボウ茶に変えて、青森の農家さんとシャッター商店街を元気にする「Growth」の須藤勝利さん。「いつ、どこで、どのような形で大切な人を亡くしても、確実にサポートを得られる社会」を目指す「リヴオン」の尾角光美さん。まだまだ何人もの顔が頭に浮かんできます。
 確かに彼らは多くのことを成し遂げてきた人たちです。しかしその道は常に険しく、今なお次から次へと、未知なるジレンマと向き合っています。心が折れそうにもなったと思います。でも、その気持ちを誤魔化すことなく、まずはどっしり受け止める。そして切り替える。
 「起こったことはしかたない。今できることってなんだろうな」
 「まあ、きついけど(笑)これも次に向けたギフトだと思えば」
 こうした彼らのあり方に触れていると、何だか火照ってしまう。「何か自分にもできることがあるのではないか」と、エネルギーが湧いてくる。そしてそのときふと、こんなことに気づいたのです。
 「僕が出会ってきたあらゆるソーシャルデザインの担い手は、菩薩のような存在なのかもしれない」
 ここで文殊菩薩や観音菩薩でおなじみの「菩薩」と聞いて、大袈裟に聞こえたかもしれません。しかし、もともと「菩薩(菩提薩埵)」とは、シンプルに「悟りを目指す人」を意味する「ボーディ・サットヴァ」の漢訳であり、「悟りを目ざして励むあらゆる修行者」という意味もあります。ですから、ここでは崇拝対象としての菩薩というよりは、もっと身近なところにいる先達としての菩薩像を思い描いてみてください。
 とはいっても、これは僕の勝手な思い込みなので、どこまで本人たちが意識しているかどうかはわかりません。また、彼らが仏教徒であるかどうかもここではあまり関係ありません。僕の試みは、昨今注目される「ソーシャルデザイン」という考え方において、真言密教や弘法大師・空海の教えがいかに応用可能か、ということを明らかにすることだからです。
 もちろん他宗の仏教や神道、キリスト教、イスラム教などの諸宗教にも、現代に応用できる普遍的な智慧はたくさんあるでしょう。そういう意味では、あらゆる「○○とソーシャルデザイン」という試論を期待しているところです。

彼らが試練を選ぶ理由

 それにしても、どうして彼らはソーシャルデザインという道を選んだのでしょうか。そこで僕たちは、彼らのストーリーを丁寧に伺うことにしました。やがて、100人を超えそうなとき、いくつかの共通点がみえてきました。
 例えばプロジェクトを始めたきっかけについて。
 「よく聞かれるんですけど。本当に『たまたま』としかいえないんですよね(笑)」
 ほとんどの方が言う「たまたま」の力。
 「起業したい」が先ではなく、「何とかしたい」と強く思ってしまうような状況に、不意に出会ってしまった。しかも、「そこまで突き動かされたのはどうやら自分だけらしい」。
 「自分がやらないとすれば、誰もやらないかもしれない」
 「どうしよう。できることから小さくやってみようか」
 不安からのスタート。
 そうして動き出してしばらくすると、彼らは自分自身と向き合うようになります。
 「本当にこれ、やりたいのだろうか」
 「本当にやりたいとすれば、自分のどんな原体験が、この活動とつながっているのだろうか」
 「ああ、あのことをもう繰り返したくないから、いまこうして活動しているのかも」
 そんな自分のルーツとの対話。
 そうした試行錯誤を続けていくと、自然と世の中を眺める解像度は高まっていきます。すると表面的な良し悪しを超えた、奥深いつながりを見通せるようになっていくのです。
 「ホームレスのおっちゃんが悪いんじゃない。たった一度の失敗でホームレスになるような社会の構造が変わらないといけない」
 だから川口さんが目指すのは、「どんだけ失敗しても、ホームレスにならない社会」。
 そうやっていまある課題をひっくり返したところに、彼らは「ほしい未来」を描く、だけでなく、努力を重ねて行動で示していく。
 大きなゴールの前では、小さなこだわりはとても些細です。というのも彼らの歓びは、自らの利益というよりも、「ほしい未来にどれくらい近づいているか」という事実にあるからです。こうして「自分の原体験」と「ほしい未来」がいよいよ一致したとき、どこからともなくエネルギーが湧いてきます。そしてその熱源が、いつかの火照った僕がそうだったように、また誰かに前向きな影響を与えていくのです。
 現在の彼らの姿だけを見たら、眩しすぎるかもしれません。とはいえ最初の一歩はとってもささやかでした。計画なんてなかったし、お金も十分ではなかったから、ひとつひとつの出会いが奇跡だったし、感謝の連続だった。そういう意味では、確かに彼らは運がいいといえるでしょう。まるで宇宙さえも、彼らを味方しているかのように。

誰もが発起人となる時代

 ソーシャルデザインの担い手のエピソードを手短に紹介したところで、第一回「はじめに」で引用した言葉に戻ってみましょう。弘法大師・空海が開いた真言密教の重要な経典『大日経』にあり、「菩薩」という生き方を端的に表現しているとともに、「空海の教えの核心がすべて詰まっている」とも言われている一節です。

菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす
さとりを求める心を原因とし、大いなるあわれみを根とし、手だてを究極的なものとするのである。

『大日経』、『密教経典』講談社学術文庫、p31

 あるときふと彼らは、「自分にもできることがあるかもしれない」と自覚しました。それこそが「菩提心」なのではないでしょうか。
 やがて彼らは、放ってはおけない課題と実際に出会い、困っている当事者のために動き出します。それこそが「大悲」なのではないでしょうか。
 そして彼らは、誰かに頼まれる訳でもなく、新たなプロジェクトを始めてゆきます。それこそが「方便」なのではないでしょうか。
 プロジェクトを立ち上げた人のことを「発起人」と呼びますが、実は「発起」も仏教由来の言葉です。誰かが発起して行動する、その充実した姿こそこれ以上ない「究竟」の姿といえるのではないでしょうか。
 21世紀が「ソーシャルデザインの世紀」だとすれば、いよいよ誰もが「菩薩」として生きる時代が訪れたのかもしれません。

ソーシャルデザインのための“五つの知恵”

 いかがでしょう、ここまでお読みいただいて、ソーシャルデザインに興味を持っていただけたでしょうか? あるいは、「そうはいっても何だかハードルが高そう」と感じた方もいるかもしれません。
 でも、安心してください。その道に惹かれた誰もがソーシャルデザインの入り口に立つことができるように、この連載では「greenz.jp」編集長として3,000以上のソーシャルデザインの事例を眺めてきた経験から、ソーシャルデザインの担い手に共通する力、あるいは求められる力について、その見取り図を描いてみたいと思います。
 それこそが空海の教えからインスピレーションを得た「ソーシャルデザインのための“五つの知恵”」であり、これからの「ソーシャルデザイン教育」の指針として提案するものです。
 ちなみに仏教の文脈で「知恵」とは、「仏教の真理に即して、正しく物事を認識し判断する能力*」のことをいい、それが転じて「事に当たって適切に判断し、処置する能力」を意味するようになりました。ですから、「〜する知恵」という表現がしっくりこなければ、「〜する力」と置き換えていただいて構いません。  ここで敢えて「五つの“知恵”」としたのは、真言密教のなかでも特別な立ち位置にある「五智如来」の配置を、フレームワークとして援用したからです。つまり「空海とソーシャルデザイン」とは、僭越ながらも五智の現代的な解釈を試みようとするものでもあるのです。
 「五智如来」とは、真言密教の本尊である「大日だいにち如来」、「揺るぎないもの」を意味する「阿閦あしゅく如来」、「無限の寿命をもつもの」あるいは「無限の光明をもつもの」を意味する「阿弥陀如来」、「宝よりうまれたもの」を意味する「宝生ほうしょう如来」、「充実しているもの」を意味する「不空ふくう成就じょうじゅ如来」を指します。
 『大日経』と並ぶ、真言密教の重要な経典である『金剛頂経』をわかりやすく表現したとされる「金剛界曼荼羅」の中心に座しているので「金剛界五仏」とも呼ばれ、五重塔で有名な世界遺産・東寺の講堂内にも五体の像が並べられています。

 「五智」とは、これらの五仏それぞれが備える知恵であり、阿閦如来の「(1)大円だいえんきょう」、宝生如来の「(2)平等性びょうどうしょう」、阿弥陀如来の「(3)みょう観察かんざっ」、不空成就如来の「(4)じょう所作しょさ」、大日如来の「(5)法界体性ほっかいたいしょう」のことをいいます。そして、この(1)から(5)までの知恵がそっくりそのまま、以下、「ソーシャルデザインのための“五つの知恵”」と響き合うのです。(とはいっても、今はまだそれらの共通点がイメージしづらいと思います。これから一つずつ説明してゆきますので、どうぞお楽しみに!)

●ソーシャルデザインのための“五つの知恵” ≒ 五智
(1)「本来のわたし」を表現する知恵 ≒ 大円鏡智
(2) 秘められた価値に光を当てる知恵 ≒ 平等性智
(3) 小さな煩悩を大きく育てる知恵 ≒ 妙観察智
(4) 導かれるままに自ら動く知恵 ≒ 成所作智
(5) 大いなる源を生きる知恵 ≒ 法界体性智

 「五智」について、次回さらに掘り下げてみていきますが、まずは先達たちの表現をお借りしながら、概観してみたいと思います。
 昭和が平成になるときに、有識者として「元号に関する懇談会」にも列席した日本を代表する仏教学者・中村元氏の『新・佛教辞典(増補)』(誠信書房)によれば、「大円鏡智」=「鏡の如く法界(真理の世界)の万象を顕現する智」、「平等性智」=「諸法の平等を具現する智」、「妙観察智」=「諸法を正統に追求する智」、「成所作智」=「自他の作すべきことを成就せしめる智」、「法界体性智」=「法界の自性を明確にする智」とあります。初めての方にはとっつきにくい感じがあるかもしれませんが、流石それとしかいいようのない説明です。
 また、宮崎アニメを密教的に読解するなど宗教図像学を専門とする正木晃氏は、「大円鏡智」を「鏡がすべての対象を正しく映し出すように、すべての対象を正しく映し出す働きをもつ智恵」、「平等性智」を「わたしたちのような凡人には千差万別にしか見えない森羅万象の、差異の底にある平等性や共通性を知る智恵」、「妙観察智」を「平等に見えるもの、共通に見えるものの、そのなかにある差異を正しく観察する智恵」あるいは「全体のなかの部分を正しく観察する智恵」、「成所作智」を「ものごとを生成する智恵」あるいは「人間の身体と経験を媒介としてはたらく実践的な智恵」、「法界体性智」を「絶対真理の世界(法界)の実在性(体性)そのものの智恵」であり「普遍性と絶対性をもつ智恵」である「ありとあらゆる知恵を知る知恵」としています*。
 便宜的にまとめてみれば、(1)ありのままを映し出す、(2)共通点を見つける、(3)相違点を見つける、(4)自他のために実践する、(5)絶対真理の世界を受け取る、ということです。(5)についてはなかなか捉えにくいかもしれませんが、何となく大切にしたいキーワードが見えてきたでしょうか。
 真言密教では、これらの五智をついに感得したとき、修行者はただちに仏となることができるとされています。その真理は、社会的な課題の解決にどのように応用できるのでしょうか? いよいよここから、「空海」と「ソーシャルデザイン」をめぐる驚くほどの共鳴がはじまります。

*補聴器ユーザーと難聴者の大規模調査「ジャパントラック」より
*コトバンク「知恵・智慧・智恵」より
*正木晃『現代日本語訳 空海の秘蔵宝鑰』(春秋社)p.200

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兼松佳宏(かねまつ・よしひろ)

勉強家/京都精華大学人文学部 特任講師/「スタディホール」研究者

1979年生まれ。ウェブデザイナーとしてNPO支援に関わりながら、「デザインは世界を変えられる?」をテーマに世界中のデザイナーへのインタビューを連載。その後、ソーシャルデザインのためのヒントを発信するウェブマガジン「greenz.jp」の立ち上げに関わり、10年から15年まで編集長。 2016年、フリーランスの勉強家として独立し、著述家、京都精華大学人文学部特任講師、ひとりで/みんなで勉強する【co-study】のための空間づくりの手法「スタディホール」研究者として、教育分野を中心に活動中。 著書に『ソーシャルデザイン』、『日本をソーシャルデザインする』、連載に「空海とソーシャルデザイン」「学び方のレシピ」など。秋田県出身、京都府在住。一児の父。http://studyhall.jp

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