第二回


唯物論的独我論をめぐる議論のつづき


 前回の最後の問いに答える前に、唯物論的独我論について補足しておこう。まずは、それにもかかわらず唯物論的独我論が正しいことはある意味ではやはりありえない、、、、、のだ、というところから始まる話。
 なぜこいつ、、、だけが現実に音が聞こえたり痛みを感じたりしてしまうのだろう、と「独我論的心配」をしている人がいて、その人が、それはこいつが人類史上ただ一人だけ他の人間たちとは異なる物理的組成で出来ているからだ、と考えたとしよう。しかし、たとえそれが事実であったとしても、その事実はいわば余剰であることにならざるをえない。たとえその事実がなくても(つまり物理的に普通であっても)、彼はやはり、自分だけは現実に音が聞こえたり痛みを感じたりしてしまうという点で他の人たちと根本的に異なる、と思うはずだからである。このことは、普通の人ならたいてい納得するにちがいない。
 とはいえ、そう説得されたなら、物理主義者である彼はこう反問するはずである。私が物理的に普通であっても、なぜやはり私だけが現実に音が聞こえたり痛みを感じたりするのか。そこが納得できないのだ。もし物理的に他の人たちと同じなら、その他の点でも同じであるはずではないか。
 これに対して、彼を説得する側は「いや、だれもがそう(=あなたと同じように)思うのだ。それは単に、他の人間たちから切り離された一個人であるという事実を語っているにすぎないのだ」と言うだろう。すると、彼はおそらくこう反問するはずである。「みんな「他の人間たちから切り離された一個人」であるのに、なぜこいつ、、、の痛みだけが現実に痛いのか、それを問題にしているのだ。何らかの物理的な違いがなければ説明がつかないではないか」。
 もし彼が、この種の論争に熟達していたならさらに、前回「駄目押しになりうる」と言って導入した「時間的な対比」の議論を持ち出すであろう。「百年前の人間たちだって、みな他の人間たちから切り離された一個人であったはずだ。だが、彼らの感じることのうちのどれ一つも現実には感じられなかった。そしてこれから先、きっとまたそういう時が来る。なぜか、今だけが例外なのだ。このことをどう説明したらよいのだ?」。
 ここまで来れば、すでにもう「彼らもみなそれぞれ…」路線の応答はありえない。それでもやはり、この唯物論的独我論者が他人であれば、彼は馬鹿なことを言っている、と思うだろう。だが、彼が自分であった場合、むしろこの路線こそが最も整合的で唯一誠実な世界観だとさえいえるはずである。このことを確認しておいて、前回の末尾の問いに答える議論に移ろう。

*彼のその物理的原因の探求は決して成功しないではないか、と思う人がいるかもしれない。しかし、それもまた、「彼」をあくまでも他人として措定しているからである。自分の場合は、成功するはずだ、とまでは思えなくても、成功するかもしれない、、、、、、のだ、とまでは思っていただかなければならない。そのように思いにくいタイプの(根深く体制派の)人も、少なくともここでいったんは、そう思えるところまで自己を高めていただきたい。
 もう一点、ある意味では自明なことではあるが、なぜ唯心論的独我論では駄目なのか、という点についても確認しておきたい。唯心論は、一般的に(物と対比された)心というもの(だけ)の実在を主張するのだから、そういう心たちのなかで、どういうわけか私の心しか(心として)実在していないではないか、ということを問題にしている独我論とは、最初から反りが合わない。対して唯物論は、これから物に還元しようとしている心の世界のあり方にかんしては、まったく無思想である。それがどうなっていようと、ともあれこれから物のあり方に還元して説明がつきさえすればそれでよいからだ。だから、ここで問題にしているような種類の独我論者は、唯心論者であることはできないが、唯物論者であることはできるわけである。

前回の問いに答える


 前回の末尾において私は、欺く神と闘って勝つことができるのは、文字通り私だけである、と言った。私がデカルトと同じ全般的懐疑を敢行し、欺く神の欺きと対決したとき、私だけが知りうる仕方で、私は欺く神に勝てることになるのだ、と。なぜ、私だけが知りうる仕方で、なぜ神はそれを知りえないのか。
 デカルトが欺く神に勝ちうる理由は明らかであった。それは、デカルトが自分を捉える際に用いる「ただそれだけが現に与えられているから」という理由を欺く神の側は持ちえないから」であった。しかし、私は、欺く神などではもちろんないとはいえ、またデカルトでもない。「ただそれだけが現に与えられているから」という理由を持ちえないという点では、欺く神の側と同じ立場にある。そうは言っても、欺く神はそのこと(=デカルトの側が勝ちうる理由)を概念的には知っているのではないか、と言われるならば、もちろんそうなのだが、その点でも私は欺く神と同じ立場にある。私は、そのことを概念的には知っており、だからこそ、この闘いはデカルトの側が欺く神の「欺き」を超えた真理を知りうることによって勝利しうるのだ、と考えることができたわけである

*哲学的には余計な話ではあるが、多少神学的な議論をここで挿入することがゆるされるなら、こんなことも考えられる。(欺く神ではなく)創造する神は、初めからそういう同格の(すなわちある点で神に勝利しうる)他者をこそ被造物として創造したのだ、と。「出エジプト記」において、神は「私は存在するものだ」と自己を本質規定した。すなわち、実存が本質である唯一のものである、と。これを、神自身の「コギト・エルゴ・スム」であると解釈することができる。だからこそ、デカルトの「私」と同様に、実存がそのまま本質なのだ、と。そして神は、世界創造によって、その「実存(存在)する」という性質を被造物にも与えた。それはつまり、被造物にも懐疑の果てのデカルトのごとく考える可能性を与えたということなのだ、といえるだろう。それゆえにこそ、被造物たるデカルトは欺く神に対して、当然のごとく「私こそが存在するものだ」と主張できたのだろう。

 しかし私は、デカルトという他者にかんするかぎり、そう考える、、、ことができるだけである。だがもし私自身がデカルト的懐疑を実行し、欺く神と直接対決するなら、私は彼に現実に勝つことができるだろう。私自身が実行すれば、前段落で「概念的には」と限定した知り方を超えた知り方でそれを知りうるからである。その神がどのように私を欺こうと、私が何かを思っているかぎり(その内容に関係なく)思っている私は現に存在している。
 ここで第一のポイントは、このことが一般論として言えるのではなく、なぜか現実に、、、そうなっている、ということである。(そして、後にも別の観点から改めて指摘するが、たとえばデカルトという他者にかんしての場合のように、このことを一般論として理解する場合にも、その理解のうちにはこの現実性が概念的に反復されていなければならない、ということが肝要である。)第二のポイントは、すでに言うまでもないことであるとはいえ、この「私」は永井均ではない、ということである。もちろんその私が自分は永井均だと思っていることはありうることだが、そういう中身は関係ないということこそがポイントなのである。
 さて、しかし、そうだとすると、「もし私自身がデカルト的懐疑を実行し、欺く神と直接対決するなら、私は彼に現実に勝つことができるだろう」とか、「私自身が実行すれば、前段落で「概念的には」と限定した知り方を超えた知り方でそれを知りうる」といったことは、じつは言えなかったことになるだろう。デカルト的懐疑を実行し、欺く神と直接対決する私と、彼に現実に勝つことができる私は、当然のことながら、とくに人格的(=内容的)な繋がりがあるわけではないことになるからである。これまで私が用いてきた(そしてすぐ後でもう一度ここでも導入する)表記の仕方をあらかじめ使って表現するなら、この二つはただ〈私〉であるという仕方で繋がっているだけなのである。ある時点での〈私〉と別の時点での〈私〉が、ただともに〈私〉であるということだけによって、何らかの繋がりがあるといえるかどうか、という問題はここではまだ主題的に論じることはできない。
 この問題はさしあたって棚上げしたとしても、ともあれ、私だけが知りうる仕方で私は欺く神に勝てるのだ、と言えはする。しかしここで第三のポイントは、私は私のその勝利を、私以外の人に伝えることは決してできない、ということにある。今度は、私以外の人はそれを概念的に知りうるだけだからである。
 『時間の非実在性』(講談社学術文庫)の中で、私はそのことをこう書いている。

端的にそれしか存在していないという境遇に追い込まれた者のみが知りえ、たしかにその視点に立てばそう見えるに違いないということを知っているだけの者には知りえないような、そういう真実が存在しなければならないのである。(二四三頁)

 時間についての本であるから、これは主としては「現在」という存在者の存在の仕方について言われているのではあるが、同じことは「私」についてもそのまま当てはまる。私は前回、「心と物」や「私秘性と公共性」といった枠組を拒否して、「あえて伝統的な枠組で分類するなら、それは「実存と本質」の対立に属する問題である」と言ったが、ここに登場しているのが、まさにその「実存と本質」の問題である。どちらも「在る」ことなのだが、実存は「~がある」で、本質は「~である」だ。デカルトという他人のケースで考えているかぎり、それが何である、、、かという本質を概念的に理解することはできるが、現にここにそれがある、、、というその実存そのものを直に捉えることはできない。
 だから、ここで私は読者を想定した文章を書いているわけだが、もはやこの状況を読者と共有することはできない。もし読者がこの文章の真意を理解しようとするなら、真意を理解するための通常の仕方(言った人と聞いたあるいは読んだ人が同じこと、、、、を理解することを理想とするような)は断念し、この議論を他人の書いた文章から知ったことは忘れて、あたかもすべてを自分で考えたかのようにこれを捉える必要がある。
 しかし、なぜそんなことができるのか。その問いへの答えは、すでに第一のポイントを指摘したときに(そこの括弧の中で)言われていた。たとえば欺く神との闘いにおいてデカルトという他者が勝利できることの意味を理解する場合においてさえ、その理解は「現実にそこに〈私〉は実現しているから」といった端的な実存についての概念的理解が含まれていなければならない、のであった。端的な実存についての概念的理解、すなわち、たんなる実存でもたんなる本質でもなく、いわば実存という本質という理解の仕方が必要不可欠なのである。
 このことはしかし、その逆もいえるはずである。私における端的な勝利の場合でさえ、一般にこのような場合には勝たざるをえない、、、、、、、、ということの概念的把握が必要不可欠だからである。私はこの相互依存構造を、これまでずっと「累進構造」として論じてきたし、先に言及した『時間の非実在性』においては、時間におけるA事実とB関係(=A変化)の組み込み合いとして、何度も繰り返し指摘している。本質的な構造は同じである。
 この連関の必然性からも明らかなことだが、ここで欺く神が負けるのは、一面では確かに、それが欺くことしかできない神であるからである。もし(真に創造する神の対極にある)破壊する(消滅させる)神が相手であったなら、彼は私を消滅させることによって即座に勝利を手にするであろう。しかし、欺く(すなわち偽なることを信じさせる)ことしかできないのであれば、現にその偽なることを信じている者はどこまでも残存してしまう。それが偽だといくら言ってみても、「何を思っていようと、現に思っているのはいつも私である」という構造は破壊できない。このことは思っている内容の真偽には関係ないからである。

〈私〉の実存は世界の内容にいかなる影響も与えない


 本質そのものの中に概念としての実存が入り込んでくる(そしてその逆でもある)という問題はもちろんきわめて重要ではあるが、それについては後に検討することにして、ここではまず、少しも「概念として」ではないような、剥き出しの実存そのものについて、直接考えることを試みてみよう。
 現在の世界には現実に一人だけ他人たちとはまったく違う種類の人間が存在している。現実に、、、見えたり聞こえたり、痛かったり痒かったり、何かを覚えていたり何かを欲したりしている人間である。人類史は相当に長いが、つい最近まで、そんな人間はいなかったし、もう少ししたらまたいなくなるであろう。そいつはいったい何なのか。そこで何が起こっているのか。
 前段落の文章を読む人は、それぞれ違う人間を念頭に置いて言っていることを理解するだろう。そこで共通に、、、理解されている内容に焦点が移されてしまえば、ここで問題にしていることは即座に消滅してしまう。共通に理解されている内容でよいなら、千年前でも(もし人類が滅亡しなければ)千年後でも同じようにだれにでもあてはまるであろうからだ。そこで起こることの仕組みの問題ももちろん興味深い問題ではあるが、それについても後ほど機会があれば検討することにして、ここではまず、先ほど「もし読者がその真意を理解しようとするなら、通常の共有的理解の仕方は断念して、……」と言った時と同じように、自分ひとりだけが自分の実存にかんしていきなりこの問題に襲われている、という形をとってこの問題を考えていただきたい。私も私自身のことだけを考えて書いていく。
 現在の世界にはなぜか存在している、一人だけ他の人間とはまったく違うあり方をしている人のことを、〈私〉と表記することにする。何よりもまず驚くべきことは、〈私〉という存在者の持つ極端な二面性である。一面においては、それが現に存在していることはもちろん疑いなく(なぜか最も、、疑いなく)、しかもそれが存在したからこそ他のすべて(森羅万象)はその存在を初めて開示された(もっと強く言えば初めて得た)とさえいえる。それにもかかわらず他面では、それは幽霊以上に幽霊のようなあり方をしている。
 第一に、それは他人たちからはその存在を決して認められない(先ほどのデカルトをめぐる議論が正しければ、神からも)。他人たちから見れば、私はたんに永井均という一人の人間にすぎない。他の人たちがそれぞれ彼らの持つ諸特徴によって識別されるように、彼もまた彼のもつ諸特徴によって他から識別されているにすぎない。そこに、彼が〈私〉であることが関与する可能性はない。
 第二に、じつは同じことだともいえるが、それが存在しているという事実は世界の内容にいかなる影響も与えない。世界の内容が(物的であれ心的であれ)なんらかの因果連関によって成り立っているとすれば、永井均という人間も(彼の心も体も行為も)その連関の内部にある。彼も(それらも)世界のさまざまな出来事から影響を受け、また影響を与えている。しかし、彼が〈私〉であるという事実は、その連関にまったく関与しない。〈私〉であるという成分は、世界の進行からいかなる影響も受けず、その進行にまったく寄与しない。ただ、史上初めて成立した、その世界を開く唯一の原点である、というだけである。それは、先ほど述べたような意味で、このうえなく貴重なものであるにもかかわらず、実在してはいない。
 世界の内容がそのような因果連関によって成り立っているだけでなく、いわゆる理由の空間によっても成り立っているとしても、事態に大きな変化はない。永井均という人間は(彼の心も体も行為も)もちろん理由の空間の内部にあって、彼も(それらも)さまざまな意図や正当化から影響を受けまた影響を与えているではあろうが、彼が〈私〉であるという事実はこの空間における理由連関にまったく関与していない。ただ、ある意味ではやはり、史上初めて成立した、その空間を開く唯一の原点である、というだけである。それは、この空間にとってもやはりこの上なく貴重なものであるにもかかわらず、その内部に位置を持たない。
 何ひとつ寄与していないとは、つまり、あってもなくても同じだ、ということである。それならばなぜ、私はこのような(いまここでやっているような)議論ができるのか、という疑問をもつ人がいるかもしれない。これは、論じること自体が不可能な主題であるはずではないか、と。あるいはそれ以前に、なぜそもそも私は「私は永井均である」と言える(思える)のだろうか。このとき私は何を言っている(思っている)のであろうか。何と何を結合しているのだろうか。無寄与成分が寄与してはいないだろうか。
 これらの問いに対する答えは、「前回の問いに答える」という項目のもとの議論においてすでに与えられている。「〈私〉の実存は世界の内容にいかなる影響も与えない」という項目のもとでのこの議論は、あくまでも「少しも「概念として」ではないような、剥き出しの実存そのものについて、直接考えること」の「試み」なのであるが、どうしてそんなことが可能であるのかという問いに対する答えも、やはりそこで与えられていると考えるべきであろう

*この問題に関しては、『存在と時間――哲学探究1』の末尾に「付録」として収められている「風間くんの質問=批判」を(できれば本文においてそれにふれている第17章とともに)参照していただけるとありがたい。彼の「質問=批判」は、むしろ逆に、このような議論ができてしまうことによって失われるものに焦点を定めていた、と見なすことができる。すなわちここでは、それは語りえないはずではないか、という議論と、それは語りえてしまうではないか、という議論が、同時に成り立ちうるわけである。

 後に述べるべきことではあるが、〈今〉についても同じことがいえる。何かが過去でも未来でもなくまさにその時点で起こっているという事実は(たとえば利今的考慮という形で)人々の意思決定に影響を与えうるが、それはたんに、その人が自分であるという事実が(たとえば利己的考慮という形で)その人の決定に影響を与えうるという事実と同じことにすぎない。そうした諸今の中に、ただ一つの端的な〈今〉が存在するという事実が、そうした連関に関与することはありえない。
 にもかかわらず、〈私〉の存在が世界の内容の一部である永井均という人間とつながっているとすれば、それはどのようにしてか。この無寄与成分が、意識(精神)とか主観(主体)とかいった不可思議な一般者を介して、世界の内容に寄与している(ように見える)のはなぜか。これが心身問題の原初形態だろう。心身問題のみならず、他我問題や、人格同一性の問題や、自由意志の問題や、……も、この系統の問題はみな、この根本問題からの派生形であろう。しかし、どの問題も当初の問題と少しずつ焦点がずれており、いわばすでに出来上がった世界像を前提にして立て直されて(しまって)いる。たとえば心身問題であれば、心と物(精神と物質)の関係の問題というように。すでに指摘したように、〈私〉は心(精神)ではなく、永井均は物(物質)ではないのだが。

欺く神、ふたたび


 今回の最後に、欺く神の問題に戻って、重要な二点(その区別と重なり)を確認しておこう。
 欺く神の側はもちろん、その自己意識の存在そのものが偽だ、おれが騙して在ると思わせているにすぎないのだ、と言うだろう。また、本当にそう信じてもいるだろう。それでも、それがなぜか〈私〉であるならば、それは(疑う余地なく)存在する。欺く神は、その意図と無関係に、なぜか〈私〉を実存させてしまったのである。それはもはや偽であることはできない。これが第一の確認事項である。しかし第二に、そのことは概念的に保証されてもいる。つまり、欺く神は、ある意味では、そういう〈私〉を実存させてしまわざるをえない、、、、、、のである。彼はたまたま負けただけでなく、必然的に負けもするのだ。これが第二の確認事項である。そして、この二重性こそが哲学的な問題なのである。
 破壊する神の場合には、このような繊細な事情は成立する余地がなかった。だが、その対応者である創造する神の場合はどうだろうか。ひょっとして、欺く神と同じ事情が成り立つのではなかろうか。その「同じ事情」こそがこの世界の在り方なのではあるまいか。(続)

第三回へ  

ページトップに戻る

永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

Web春秋トップに戻る