第二回 わかるとはどういう体験なのか


 子供の頃からスポーツが苦手だった。特に球技はひどいもので、中でも野球となると目も当てられなかった。飛んでくるボールにバットがかすりもしない。ただボールを打つという変哲もない運動は難しく、それ以前にバットをうまく握れるかどうかすら覚束ない。手中にあるはずのグリップとどう付き合っていいかわからないのだ。どのように握ったところで、よそよそしいままだった。
 これはバットに限った話ではなかった。なんであれ道具を使いこなすというような軽やかな感覚が訪れたためしはない。

 今なおそのような身体のもつれる感覚は続いている。コーヒーカップとか、どうということのない重さのものを持つにもぎこちない。身体のどことうまく言えないが、こわばり、滞り、熱を帯びてしまう不快な感覚がつきまとう。のちにそれは力が入りすぎているから生じるとわかりはしたものの、身についた癖は自分自身でもある。私から私を簡単に切り離せるわけでもない。
 自分と一体化しているはずの着ている服の重さを、いちいち感じるとしたらどうだろう。一挙手一投足に違和感を覚えるはずだ。いつも感じるぎこちなさは、それに近いものがある。

 滑らかさの欠けた動きが初期設定なのだから、スポーツなどうまくやれるはずもない。だからやりたくはないが、遊びの輪に加わるためには、野球のひとつも覚えないといけない。気後れして打席に立つものだから、空振りにするためにスイングしているような印象を周囲に与えた。私の打順になると、皆がため息を吐く。役立たずに向けられた視線を浴びる以上に苦しかったのは、いったい何を理解すれば、ボールを打つという動きにつながるのか。それが皆目わからなかったことだ。

 数年前に目の検査を受けて初めてボールをうまく打てない理由が判明した。原因は目の働きの偏りだった。普通は見ているものの動きに応じてピントが合う。ところが私の場合、特に右目に顕著なのだが、ピントと対象を追う動きが連動していない。ボールのように動いているものをうまく捉えられなかったのは、そういうわけだった。
 振り返ると、こういうピントの合わなさはスポーツに限った話ではなかったと思い至る。何か物事を理解する際、滑らかになりようのないズレが身体に絶えずつきまとっていた。

 ズレの最たるものといえば、「わかる」ということが長らく謎だったことだ。学校や職場で「わかったか?」と尋ねられ、同級生や同僚が「はい。わかりました」と答える。それを聞くと、何がわかったのかがわからない自分は限りなくデクノボーであると感じた。
 相手の言っていることと自分の理解とが一致しているかどうかもわからないのに、なぜ「わかった」と言えるのか、という謎ではない。そのようなナイーブな疑問であれば、誰しも思春期に体験する。他人が何を考えているかはわからないのだし、人は会話を通して必ずしも本当のことを知りたいわけではないと、いずれ知ることになる。誰しも理解の水準をほどほどのところで留め、自分なりのわかり方でやり繰りしているのだ。それで人間関係は何の問題もない。
 野球で言えば、「いったい何を理解すれば、ボールを打つという動きにつながるのか」という疑問にこだわるのではなく、練習を続ければそのうちボールに当たるようになり、加えて正しいフォームや理論を身につければ、それなりの成果を出せるようになる。そうすれば謎は消えていく。 
 
 だがデクノボーの骨頂は、「ほどほど」や「そのうち」という、この先の時間の経過の中でわかっていくことができないところにある。それ以前に今この時点で「何をわかればいいのか」すらわかっていないことが多い。
 そのため、およそ「正しいフォーム」の習得法といったマニュアルが身につかない。「やがて、わかるようになる」という上達の道筋を決して辿らない。物覚えが悪いというのでもない。もっと根本的な何かに理解が届かないのだ。

 そういう状態で社会に出たものだから、入社したテレビ番組の制作会社では、仕事を覚える以前にコミュニケーションがうまく成り立たず、早々にお荷物になってしまった。「クライアントにファックスを送れ」と言われれば、そのまま送った。相手からは「まだ届かない」と連絡が入る。何度も送ったものの「届かない」という。送り状を添えなければ、どこの部署の誰宛なのか受け取る側もわかるはずはなかった。一事が万事、そんな調子で、いったい何度「普通、考えたらわかるでしょ?」と言われたことだろう。
 仕事の内容を指示されれば、頭ではやることがわかっていても、いざ取り掛かるとなるとまったく身体が動かなかった。「ファックスを送る」という簡単なことも、「やらなければいけないこと」と義務感と、そこからくるプレッシャーを付け加えてしまい、それに自分が飲み込まれてしまってフリーズする。
 相手の話す内容がわからなければ、辞書を引くように、自分の中でひとつひとつ確認し、意味をわかる努力をすればいいのだと言われた。
 けれども、例えば料理をしている人に「鍋を見ていて」と言われたとする。「そうか。鍋を見ればいいのだな」と受け取った言葉を確かめ、ただ鍋をじっと見ているだけでは言葉の意味としては合ってはいても、意図を受け取り損ねている。指示した人は吹きこぼれる前に火加減を調節することを期待しているはずだ。私は正しく鍋を見ることはできても、それ以外を理解しないことが多い。

 バットのスイングに始まり、学校の授業、社会に出てからの仕事の段取りに至るまで「こういう風にすればいい」と周囲は親切に教えてくれた。そのようにして手渡された「ちゃんとやれば正しく結果が出る」はずの理解の仕方を、延々と私はただ見送り、空振りし続けた。
 頭の中の霧がいつも晴れない感じだ。「どのように考えたら私は示された『わかる』に至ることができるのかがわからない」状態で足踏みし続けていた。
 言葉の意味はわかっても、それは必ずしも「わかる」につながらない。言外の意味は、話す人や状況によってそのつど違うため、はっきりと「これだ」と特定することはできない。バットを握った時の、いつまで経ってもしっくりこない捻れた感覚を、人との交わり、言葉を交わす際にも抱えていた。
 そのため会話は、絶えず脂汗と冷や汗がつきものだった。自分なりに注意を払っても、仕事であれプライベートであれ、コミュニケーションがもつれにもつれる体験をたくさんした。誤解や行き違いから悶着を起こしたり、修復できずに破綻した例は数多い。
 「いったいどうすれば、わかることができるのか?」と、頭を抱えてそのまま立ち尽くしてもおかしくはなかった。ところが曲がりなりにも他人の話す内容を理解するようになったから、こうしてインタビューの仕事をしているわけだ。

 ある日を境に、といった劇的な転換があったわけではない。以前と比べてコミュニケーション能力が向上したかと言えば、そういうわけではまったくない。拙いのは相変わらずで、しどろもどろな上に、目を合わせて話すこともなかなか困難だ。「言葉の意味はわかるが、言外の意味はわからない」から一歩も離れていない。
 というより、一歩も離れられなかったことがかえって変化をもたらしたのかもしれない。変わろうとするうちは変われなかったのに、進退きわまった時に見えてきた道筋があった。それは言葉の外にある身体への注目だった。

 私がいつも受け取り損ねた言外の意味。言外というからには、言葉の意味には内と外があることになる。内と外で意味が変わるとすれば、その境界線はどこにあるのか。「鍋を見ていて」が単に「見る」ことなのか、それとも火加減を見て調整することを指すのか。その意味の区切りがどこにあるかを理解できれば、言葉のやり取りがうまくできるのかもしれない。
 かといって「相手がこういうサインを出した場合は、火加減を指す」といったように、内外の意味の違いを話し手や状況といった外部に求めては、話は堂々巡りになって、いつまで経っても理解に至らない。では自分の外に根拠を見出せないとしたら? あとは自分の中に求めるしかない。

 そこで意味の境界を探る上での手掛かりにしたのはふたつ。ひとつは話すなり、物を持つなり、とにかく私が何かと関係を持つ時に必ず身の内に生じるもつれ、滞り、捻れる感覚だ。私に「何ひとつ滑らかではない」状態を告げている、あの感覚だ。
 もうひとつは、野球であれコミュニケーションであれ、どちらも運動だという理解だ。バットを振るのも話すのも、手なり口なりが動き続けるというからには運動だ。
 このふたつのことは、何を示しているのか。何かしようとすると必ず伴う、うまくいかない感じが、いつも物事に没頭できない自分と周囲とのズレを、空振りし続ける感覚を、私に与えている。どうにもならない行き止まりのようにも思える。
 だが、大事なのは、ともかく絶えず感覚し続けており、常に運動していることだ。たとえ空を切る動きであっても運動が、身体がなくては始まらない。そして、当然ながら、この身体は言葉の外に存在している。そもそも身体がなければ言葉も生まれなかったのだから。

 では、言外の意味とは何か。言葉で確実に言い当てることのできない、そのつどの感覚を含んだ領域を指すのであれば、それはすなわち身体のことではないか。身体は言葉の内と外の汀にあるのではないか。

 「鍋を見ていて」の言外の意味は「吹きこぼれに注意しろ」であり、ともかく「変化に応じろ」ということだった。応じ方にこれだという正解はない。なぜなら鍋は吹きこぼれるかもしれないし、そうでないかもしれないからだ。
 そうなると、言外の意味とは、煮炊きの「運動し続けている様子を見て、応じろ」になる。「運動し続けている」限り固定した意味にならないということだ。変化に応じて、吹きこぼれたら蓋を取るとか火を弱めるといった、目や手の働きが欠かせない。そのような身体によって状況を測定することを「言外の意味」というのではないか。

 煮える鍋も会話も私にとっては飛んでくるボールと同じだ。私の目は外部で動いているものを見るには向いていない。加えて身体はもつれ続けてぎこちない。出来事と関係するときに身の内に必ず起きる、解消されない違和感。それは身体による滑らかな測定にノイズを走らせ、決して確定した意味をもたらすわけでもなく、微細な振動を止めない。それは生きている証のようなものだ。生きている限り起こることなら、なくすべきものでもない。
 思うように動かない身体の緊張は、「なんとか解決しなくてはいけない」課題ではなく、いまの自分が置かれている状況に対する、それ以外にない応じ方だ。それは意識でどうこうできない正直な身体のありようそのものだ。

 身体の滞り、捻れた状態を通じて相手の話を聞き始めた時、わかったことがある。今まで私は話がわからないのは、確定した意味を探り当てられないからだと思っていた。だから相手の話す内容をなんとか理解しようとした。
 ところが、相手の口ぶりが滑らかで、はっきりとした内容を伝えていたとしても、実は微細な震えをはらんでいることに気づいた。

 例えばアスリートやアーティストは、整然とした説明を不得手とする人が多い傾向がある。そもそもプレイや作品ですでに表しているのだから、わざわざ言葉で言う必要をあまり感じていない。オノマトペや感覚的な表現が最も感じていることに近いのだが、それでは表現力が足りないように受け取られる。
 だが、そうではない。彼ら彼女たちが言葉になりようもない世界を見ているのは確かだ。注目すべきは断片的な言葉ではなく、言い尽くせない際のもどかしげで身をよじる様子、言い淀みもつれる舌といった、確実な意味にならない「振動」のほうだ。それは言外の意味であり、つまりは身体であり、その人のことである。
 
 人は、言っていることの意味ではなく、言わんとすることを理解されたいと思う。言わんとする行為そのものが、その人の存在に関わることなのだ。それは表向きの会話に注目するだけではわからない、うずうずとした思いだったり、胸の高まりだったり、塞ぎ込む気持ちといった、身体の浮かべる表情だ。交わされている会話を通じて、その身体の表情に応じるとき、相手は安堵した顔つきをする。そこで私は初めて知った。わかるとは感じて応じることであって、意味を求め、正解を探すことではないのだと。

 私は他者を理解してはいない。だが他者性を理解するようになった。私はあなたのことはわからないが、私の中にある「あなた」はわかる。私の身体は常にもつれ、綻んでいる。それはなんとなく痛む、理由はわからない不快さといった微振動として私には感じられる。
 しかし、他者の中にあるそれは、時に喜びや悲しみとして表現されている。私の中にある「あなた」の微細な運動を感じる時、わかるという体験が訪れる。それは意味を知ることではない。他者との間につかの間、決して確定されることのない理解という名の橋をかけようと試みることなのだ。

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尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
http://nonsavoir.com/

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