第三回 「棄民」か「棄国」か――出ニッポンの今・昔


はじめに

 出ニッポン――。冒頭から個人的な思い出を書いてしまうことになるが、このテーマを考えたときに、どうしても忘れることのできない経験がある。
 もう10年以上前になるが、2000年代に入ってから、私はエルサレムで奇妙な共同生活を送ったことがある。東エルサレムと西エルサレムのほぼ境界に近い立地で、ギリギリ東側に、つまりアラブ側に入るところにあった安ユースホステルに長期逗留していた。ヘブライ大学の学生寮の滞在期限を過ぎて、しかし、個人向けアパートやフラット・シェアがうまく見つからないでいた、その繋ぎの時期であった。
 いまはもうないユースホステルだが、パレスチナの第二次インティファーダ(民衆蜂起)が起きたあとの治安情勢の悪化で、観光客が激減し、エルサレム旧市街から徒歩数分の立地ながら少し奥まっていたのと、古くて設備が悪かったせいもあり、一般の宿泊客は皆無であった。静かな環境が勉強は向いていると思い、また1泊わずか20シェケル(当時のレートで500円ほど)という安さもあり、アパートが見つかるまで2カ月近く滞在しただろうか。その間ずっと、1人の中国人労働者と、そして1人の日本人労働者が、やはり定宿として長期滞在していて、私たちはよくいっしょに食事をしながらとりとめもなくおしゃべりをした。ちなみに、その安ユースホステルの雇われマネージャーは、ロシアから移民してきたキリスト教徒の若い男性であったが、夏場でいつも上半身裸でうろついていたので、堂々と十字架のネックレスを見せつけていた。「アラブ人もユダヤ人も嫌いだ」と言い放ち、「たんに労働機会のために、遠縁にユダヤ教徒がいるってだけでイスラエルに移民してきた。いずれユダヤ教に改宗するって約束さえすれば移民なんて簡単なことだ」、と。
 そこに長期滞在していた1人の中国人労働者も興味深かった。中国で大学を卒業してすぐに、労働者のリクルート情報に飛びついてイスラエルに来たという。彼は英語が得意だったので、アメリカ合衆国から西エルサレムに移民してきた高齢のユダヤ教徒の日常的な介護をする介護労働者であった。中国人労働者の場合、多くが大都会のテルアビブ近郊で建設労働者になるが、彼はやや例外的であった。そのために彼と私とはエルサレムで出会うことになった。
 彼の話はとても面白かった。ひじょうに勤勉で無駄遣いをせず、しっかりと貯金をして人生設計を考えていた。彼は中国には戻るつもりはないと言った。「中国はどこでも競争が厳しすぎる。いま中国に帰っても、自分はレストランのウェイターにさえなることができない。中国にはプロのウェイターが山ほどいる。でも自分は、イスラエルにいるかぎり、中華レストランのシェフにさえなることができるんだ」、と。たしかに、西エルサレムの自称日本食レストランに一度だけ行ったことがあったが、あれはいわゆる「日本食」とはまったく別の種類の料理でまず二度と行くことはあるまいと思った。だが、それなりに繁盛していたようだった。「中華」であれ「和食」であれ名乗ったもの勝ちなところがあったろう。
 その中国人労働者は、あと2年は西エルサレムで介護労働を続けて貯金をして、ニュージーランドあたりで大学院に入って経営学の勉強をして、と夢を語ってくれた。その後、彼の夢が実現したかは定かではないが、道を切り開く強い意志と行動力はともなっているように感じられた。
 さて、出ニッポンをしてしまった日本人労働者の話にいよいよ入る。彼も私とほぼ同い年ぐらいだったろうか。30歳前後で、アメリカ合衆国で大学を卒業後、ウォール街で金融マンとして働いていた経験があった。だが彼は人間関係のトラブルからその仕事を離れて、そのときは東エルサレムの安ユースホステルに滞在しながら、清掃や建築などの日雇い労働をして暮らしていた。英語は完璧に話せるが、ヘブライ語とアラビア語はまったくわからず、わかろうともせず、「ただアメリカから逃げるように観光気分でエルサレムに流れ着いただけ。適当に仕事が見つかるからそのまま居着いてしまった」と彼は言った。ロシア人マネージャーや中国人労働者と同様に、現地社会や文化には何の関心も持たず、違いがあるとすれば、不幸にもアメリカで挫折をして、その後の目的意識もなく漂流しているということだろうか。収入は私たちのなかで最も不安定で、貯金をするどころか、むしろアメリカ時代の貯蓄を切り崩していただろう。そして彼は、日本に戻る可能性も含めて、先のことについてはまったく語らなかった。実際、語ることができなかったのだろう。全財産とも言えるトランクのなかにある彼の持ち物のなかで最も高額な一眼レフカメラをやたらと手入れし(しかしジャーナリストのような現地への関心は皆無であったため撮影で使っている様子もなかった)、そのカメラの「敵」である野良猫(抜け毛が本体やレンズに入り込むのを嫌がった)を徹底して撃退する彼の日常の姿に違和感をおぼえた。そして先行きのなさのためかやや不安定な言動と、ユースホステル滞在の中国人労働者と私以外に一切の人間関係がなさそうな点(生活感のなさ)で、彼の存在は正直なところ、私の目にはやや奇妙なものに映っていた。
 ここでふと、東エルサレムにいるにもかかわらずパレスチナ人不在の景色であることに気がつく。この状況は、いわゆるネオリベラリズム的なグローバリゼーション、および、イスラエルのアメリカ的ネオリベ化と排外主義の結果なのか。ロシア脱出の経済移民のマネージャー、富裕なアメリカ人ユダヤ教徒移民を介護する中国人労働者、アメリカの金融街を挫折した日本人元金融マンの日雇い労働者。これらの労働現場は、元々は、東エルサレムのパレスチナ人か、西岸地区からの出稼ぎ労働のパレスチナ人によって担われてきたはずだ。ところが、その位置を、日本人も含む外国人労働者が占めていた。
 ところで、失礼にも、私はその日本人日雇い労働者を「奇妙な」と表現してしまったが、彼から見れば私自身もまた「奇妙」であったことは否定できない。そして実際、当時の私の身分はと言えば、研究就職の保証のないオーバードクターの研究者であり、周囲からは将来性の乏しいカネにならないマニアックな研究をする物好きな変人として見られていたことは間違いない。しかも「高学歴ワーキングプア」なる言葉が流行し始めてもいた。そして実際私もまた、1泊500円の安宿にひっそりと滞在して身を窶[やつ]している点では、彼と変わりない不安定者であった。
 トータルで2年ほどにわたりエルサレムで研究滞在をして(その後、東エルサレムでアラブ人学生とのフラット・シェアができたので、安ユースホステル滞在を脱することができた)日本に戻ったが、不安定であることに変わりはなかった。大学の非常勤講師を仙台と東京とでかけもちで担うことによって少ないながら収入を得たが、交通費と宿泊費を節約するために高速バスとインターネットカフェを多用する日々。ときあたかも「ネットカフェ難民」という言葉が社会現象として知られていった時期でもあった。

1 「外こもり」

 私のエルサレム在住時にしばらく生活をともにしたその日本人は、ときおり日雇い労働をしていたので、引きこもっていたわけではないが、何か特定の目標もなく、安定した雇用状態にもなく、いわゆる「ニート」(Not in Education, Employment or Trainingの頭文字の略語NEETで、就学・就労・職業訓練のいずれも行なっていない若者世代)に近い状態にあった。ニートというイギリス発祥の言葉が日本社会で使われ始めたのも、ちょうどこの時期、2000年代に入ってからであった。
 この時期なぜこの言葉が流行したのかについては具体的な理由がある。第一には、1993年から2005年がそうだとされている「就職氷河期」の問題だ。いわゆるバブル経済が崩壊してからこの時期は、求人倍率が1.0倍以下で新卒者の就職が困難になり、派遣労働やフリーターといった非正規雇用の労働者が増加した。実際に私自身が1993年の大学入学であるため、このことは同時代に見聞きした経験からたいへんに実感をともなって理解できる。
 第二に、1999年に「労働者派遣法」が改訂されて、派遣業種が原則的に自由化され、さらに2001年に発足した小泉純一郎内閣が強力に推し進めた構造改革の一環で、それまで禁止されてきた製造業への派遣労働が自由化の名の下に解禁となり、その他の専門的な26業種で派遣期間が3年から無制限に自由となった。この頃から派遣業者が急増し、非正規雇用の労働者も急増している。安倍晋三内閣が強引に進めようとしている「働き方改革」もその延長だ。
 派遣労働、パート、アルバイトといった形態の雇用は、言うまでもなく、非正規であるがゆえに雇用期間は短く不安定であり、そして賃金も低い。これは「労働形態の自由化」という大義名分で、実際には雇用主にとって人件費と社会保障費を引き下げ、景気や経営状況によって柔軟に解雇できる、都合のいい制度改定であった。しかし被雇用者からすれば、日々の生活の維持から将来設計に関わる深刻な問題である。厳しい労働条件で、手取り給与を増やしたければ、ひたすらに勤務先の掛け持ちによって労働時間を増やすほかない。しかし、物理的な時間と体力の限界から、それを無尽蔵に増やすことにも続けることにも限界がある。物理的な限界を追求し続ければ、次にはどこかで精神的な限界が来る。正規雇用による常勤就職ができなかった者が、どこかで限界を感じ絶望し、一定数が「ニート」になっていくということは、個々人の事情を見なくとも、ほとんど論理必然的な帰結であった。そのニートのなかで、社会的な接触をもつことなくほとんどを自室で過ごすことになった者を「引きこもり」と呼ぶ。
 ニートが社会現象として注目されてからまもなくのことであった、「外こもり」という奇妙な造語が広まり始めたのは。ニートが広く認知され始めたのが2004年頃、「外こもり」が使われ始めたのが2006年頃からとされる。外こもりとは、文字どおり、「海外」で「引きこもり」のような生活をすることを指す。留学や就労が目的ではなく、国際結婚が理由でもなく、むしろ社会関係を断ち切るために、日本を離れて静かに暮らすというわけだ。おもに、物価と航空運賃の安い東南アジアの都市部で外こもりをする日本人が多いという。日本で短期アルバイトなどである程度稼いだお金を、生活費の安い東南アジアに持ち出して、お金が尽きるまで引きこもりのような生活を引き延ばす。そしてそれを繰り返す。
 外こもりをしている日本人はどういう人たちなのか。本人の意志に反して、すなわち正規雇用を望んでいるのにそれができずに非正規雇用となってしまった者もあれば、自らの意志で何かしらの理由で正規雇用を辞した者もある。ただ、自らの意志でと言っても、職場の人間関係のトラブルや、過酷な労働条件に耐えられなかった、などの理由であれば、それは好き好んで安定雇用を捨てたとは言えないだろう。それゆえ、海外に脱出するのは、就職できなかった若者だけではない。会社の倒産、整理解雇、親族間トラブル、そういった理由で日本社会のなかに居場所を失い、あるいは、限られた貯金を物価の安い地域で活用するために、海外に脱する中高年もいる。就職氷河期だけの問題ではない。「構造改革・規制緩和」としての「自由化」の波は、雇用の自由化=不安定化を生み出しただけでなく、社会福祉・社会保障の切り下げという自己責任化をももたらした。つまり日本社会は、自由の名のもとにネオリベラリズム的な競争社会・格差社会へと移行してきたのであった。
 そうしたなかで、海外脱出をテーマとした本が目につくようになる。タイで外こもりをする日本人の若者を取材した『日本を降りる若者たち』(下川裕治)が刊行されたのが2007年、失業や離職でカンボジアやフィリピンに移住した中高年を取材した『老いて男はアジアをめざす』(瀬川正仁)が2008年、『日本を捨てた男たち』(水谷竹秀)が2011年の刊行であった。すなわち、その少し前の時期から日本社会の「生きづらさ」が加速し、そこから逃れる手段の一つとして曖昧な海外脱出が注目されるようになったと言える。
 もちろん、海外に逃れれば問題がすんなり解決するわけではない。留学や海外勤務などと異なり、明確で安定したポジションがあるわけではない。またとにかく脱出をということで出てきた人びとには、語学力をはじめとした海外生活上のスキルが欠けていることも多い。周囲の環境に依存した場当たり的な生活となり、思うような生活再建ができないケースも多い。貯金が底を尽きれば現地での生活がままならなくなり、最悪の場合、日本に戻ることさえもできずに不法滞在を続けるしかなくなることさえある。
 しかし、そうした海外でのさらなる困窮や不安定さが知れ渡っていてもなお、脱出の一手段として海外移住が社会現象となっていったということも重い事実である。日本人はかつてバブル経済時には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と豪語しすでに欧米社会を超えたと嘯[うそぶ]いた。その後バブル経済は崩壊したとはいえ、なおも世界でトップクラスの経済大国を自任しつづけているはずである。それなのに、どうして不安定雇用、ワーキングプア、引きこもり、生活困窮、果ては餓死や孤独死や自殺が絶えないのか。そして、どうして日本を脱出するという手段が選ばれるのか。

2 「棄国」

 2013年と15年に「棄国」という文字をタイトルに含む二冊の著書が相次いで刊行された。片岡恭子さんの『棄国子女』と増田幸弘さんの『棄国ノススメ』だ。時期的には、前記の非正規雇用や失業・離職を理由とした海外脱出に関する数々のルポルタージュに連なるものであり(こうした海外脱出ルポはその後、現在までコンスタントに刊行され続けている)、どちらの著者も日本社会に対する「生きづらさ」を海外移住=棄国の理由としている点で、閉塞的な社会背景を共通して見ることができる。
 だが大きな違いもある。それは、前記の脱出もののルポは、ジャーナリストが脱出者を取材して執筆したものであるのに対して、この二著は、日本脱出をした張本人が自らの体験を執筆しているということである。もう一点は、「棄国」というタイトルに見られる、自分の意志で「国を棄てた」という能動的な意識と姿勢である。これは、自らの体験の執筆ルポであるという能動性にも通じているものだ。
 片岡さんは、小学生時代から学校の同調圧力にすでに息苦しさを覚えていて、また家族関係にも長年苦しめられたこと、やはり非正規雇用による不安定な経済状況、田舎の閉鎖的な人間関係などが重なり、かなり重度の精神疾患を発症するに至る。そうした時期に転換点となったのは、2011年9月11日のアメリカ同時多発攻撃、いわゆる〈9.11〉だ。テレビを通して目撃したのは、ニューヨークの貿易センタービル「ツインタワー」が崩落する場面。友人からそこで働く先輩が行方不明だというメールが届く。「海外在住の花形ニューヨークで順風満帆にキャリアを積んでいた人が、なんの落ち度もないのにある日いきなり不条理に命を絶たれる。そんなありえないことがこの世の中では起こるのだ。明日のことはわからない。それなら、どこでも好きなところへ行って、なんでも好きなことをやったほうがいいに決まっている。9.11を境に、正気と狂気の狭間を漂っていた私は、やっと負のスパイラルから抜け出せた」
 こうして片岡さんは、2001年から2年半にわたって南米放浪をすることになるのだが、治安や衛生の良くない場所も厭わず南米各地を回るなかで、次々と泥棒、強盗、遭難、暴動、食中毒に遭う。不法労働もやっていた。しかしそれは必要な荒療治であったのだ。生きるか死ぬかの瀬戸際の経験のなからの生還。生かされたのだという自覚。そうして向精神薬を飲まなくても済むようになったという。同書はその旅の記録であり、また精神の回復と思索の稀有な記録である。
 そんな経験をしてきた片岡さんから見ると、日本はひじょうに殺伐としている。「こんなに殺気立った緊張感が張りつめている国を私は他に知らない。誰もが雨露と糊口を凌ぐために精一杯で、疲れ切って苛立っている。働いて働いてそれだけで一日が終わる現状に抗うこともなく、従順なまでのあきらめに覆われている」という。そんな自分の社会をより良いものにする責任はあるし、そういう努力も必要だとは思うが、しかし、多くの人びとにとっていまの日本社会は苦しすぎるのである。それは、年間2万人から3万人、ときにはそれ以上の自殺者を出し続けていることからも、そして、把握できないほどの数の海外脱出者がいることからも、明らかである。

ここではないどこかが常に心の中にないと、あまりにつらすぎてとても日本では生きていられない。正気と狂気の、そして生と死の境からの生還者である私にとっても、日本は生きるには過酷な国なのだ。私は今日もここではないどこかを想って日本を生きる。(…)世界は会社だけじゃない。世界は学校だけじゃない。世界は日本だけじゃない。日本に住んでいる、日本しか知らない日本人は、全然それが分かっていない。なにも死に急ぐことはない。ここではないどこかはあの世だけではない。

 このような思いで片岡さんは日本脱出=棄国を繰り返している。

 『棄国ノススメ』の増田さんのほうは、棄国の決断のきっかけはむしろはるかに漠然とした社会への不安であることが興味深い。病気をしたわけでも失業をしたわけでもなく(多少景気の悪化は影響したが)、家族関係も良好そうに見える。海外に仕事を見つけたわけでもないし、新しく仕事を始める具体的な計画があるわけでもない。人から理由を聞かれても、言葉に窮したという。にもかかわらずなぜ棄国なのか。あえて背景を説明しようとすれば、1995年の阪神・淡路大震災が一つのきっかけになっているようだ。

神戸の街を大きな地震が襲って間もないときのことである。被災者に対する国のもどかしい対応に、いざというとき頼りになるのは、国でも町でもなく、近隣の人びとだと考えた。(…)日本にいても仕方がないとは思っていた。世界が根元から大きく変わっているはずなのに、古い仕組みにしがみついたまま、何も変わらない社会にも、変わろうとしない人びとにも、変われないぼく自身にも、ほとほとうんざりしていた。

 得体の知れない不安、漠然とした社会の変化、閉塞する空気。自殺者が2万人、3万人と出るこの日本社会では、少しの失敗で取り返しがつかなくなり、自殺が現実的な逃げ道となってしまう。増田さんの親しい友人も自殺をしたそうだが、それもまた棄国の一因をなしているだろう。この国では家族を守ることができない。ただただ日本から離れようと焦る気持ちで、増田さんは2006年に、家族とともにかつて仕事で訪れたことがあり知人もいるチェコのプラハに移住先を定めた。仕事や学校や地域で、成長もするが失敗やトラブルもあり行き詰まる。そしてチェコ移住から4年後には隣国スロヴァキアのブラチスラヴァへ再移住。同書は、その具体的な移住体験とさまざまな試行錯誤をする家族の物語である。

3 原発棄国

 さて、この両著が共通して論及することがある。2011年3月11日の東日本大震災、とくにそのなかでも東京電力福島第一原子力発電所の重大事故だ。この事故対応が、いやもっと言えばそもそも原発の存在そのものが、国家の性格とその限界を露呈させた。学者やジャーナリストでなくとも、ごく普通の生活者たちが、その生活感覚から、日本という国家は国家秩序を維持することが最優先であり、個々の住民の生命・生活を守ってはくれない、ということを感じ取った。私自身も震源地に最も近い宮城県で被災し、原発1号機が爆発してすぐに避難を決断した。移動を開始した3月14日には途中で3号機の爆発のニュースにも接し、もはや故郷には帰ることはないだろうと覚悟を決めた。
 案の定と言うべきか、日本の政府は、どの政権に変わろうと、安全キャンペーンに徹した。原子炉・核燃料の破損状況は隠蔽され、放射能汚染の状況把握は遅れに遅れ、しかも汚染の程度とその健康影響については、調べる以前からあからさまに否定された。避難指示は原発周辺地帯の狭い範囲(20km圏内)に限られ、実際の放射能汚染はそれよりもはるかに遠く100km以上に200km近くにまで広がったのだが、そうした地域の住民は「安全キャンペーン」のもと汚染地にとどめ置かれ、放射線の影響にさらされ続けた。避難をするにも自己判断・自己負担でするしかなかった。なお、核燃料が融け落ちるメルトダウンはもちろん、それが原子炉を突き抜けたメルトスルーであることが後々明らかになるが、それを収束させる目処はいまだ立っておらず、原子力緊急事態宣言は事故発生から丸7年が過ぎた現在も発令中である。
 そうした原発事故を受けて、先の片岡恭子さんはやはりすぐさま日本を脱出しようとした。実のところ、『棄国子女』の冒頭はその場面から始まる。南米での経験から、「為政者と既得権益者の言うことを決して信用してはいけないことも、嫌というほどよく知っていた」。片岡さんは勝手知ったるメキシコへ向かった。「目に見えない劇毒にじわじわ蝕まれていくよりは、あからさまな暴力のほうがまだましだ。日本よりもずっと治安の悪いメキシコで、私はようやく落ち着きを取り戻した」、と。
 逆に増田幸弘さんのほうは、2011年はすでに移住先。原発避難については『棄国ノススメ』の末尾「エピローグ」で触れられる。原発事故のニュースに釘付けになりながら、海外避難・移民の可能性に思いめぐらせていた。現実には大量の海外避難が出たわけではなかったが、それでも一定数は海外に逃れ出た。ほとんど動かない現実と、それでも自分を変えようと動き出す一部の人たちを見て、増田さんはかつて阪神大震災を契機に国家への不信を強め移住を決断した自分を重ねる。「動機はもっと深いところにある。日本という国に絶望したのだ」と。
 日本という国家そのものへの絶望。それには思い当たるところがある。
 私自身、原発避難も経験し、避難・移住・保養の受け入れ活動の全国ネットワークを立ち上げて活動をしていると、まれに海外の受け入れ支援団体からも連絡が入ったり、あるいは、東アジアや欧米はもちろん、東南アジア、豪州、南米などに避難移住したといった話が聞こえてきたりする。たとえば、北アフリカのチュニジアに数世帯の避難移住者コミュニティがあるという話を、そのうちの一人が日本の家財整理のために一時帰国した折りに直接聞いたことがあった。その人自身は関東のなかでも汚染のとくに酷い千葉県柏市からの避難移住者だったが、そのチュニジアのコミュニティにはほかに関西から来ている人もいるという。一般に関西は原発事故による汚染をほぼ免れており、東北・関東の汚染地帯からの避難移住者をもっぱら受け入れる側の地域と見られているが、この関西からの海外移住者は放射能汚染から避難をしているだけではなく、日本の政治・社会から避難しているということなのだ。メルトダウン事故が収束せず(融け落ちた核燃料の位置と形状も一部しか確認できず原発緊急事態宣言が発令中で)、新たな放射性物質の漏洩が継続しているにもかかわらず、被曝の影響は終始否定し、既存の原発は再稼働へと舵を切っている。メルトダウンしたのは日本社会そのもの、日本人の思考回路だと言いたくもなる。日本という国への絶望、そこからの脱出、すなわち棄国。
 しかし、生まれたのは絶望だけではないだろう。増田さんはこうも続ける。「社会が変わらない以上、自分を変えるしかないのだ。そして、自分を変えることではじめて社会が変わることに気づく。社会とは他者ではなく、自分そのものである。(…)なにかに依存せず、自分の足で立ち、歩こうと覚悟して移民する。震災の示した新しい移民のありようがそこにはある」
 片岡さんのほうも、絶望のなかに希望を見つける。「3.11は日本という国が持つ同調圧力を露呈した。これは社会構造的なものというよりも空気だ。(…)他人と違うことやお上から与えられたものに疑問を抱くことさえ、この国では全部悪いことなのだ。(…)3.11を境にやっとその異様さに多くの人が気づき始めたことは、不幸中の幸いにして、この国に差すひとすじの光だと、日本人である私としては信じたい」
 二人に共通するのは、しかし、脱出した先にどこか安住の場所があるというわけではない、という重要な点だ。片岡さんは、南米各地で災難続きであったことは先に書いたとおりだ。増田さんも、チェコで人間関係や仕事や子どもの学校の問題が重なり、スロヴァキアに再移住したが、その先でも深刻な問題はついてまわった。さらに言えば、原発移民たちについても、海外で理想郷を見つけたという話は聞かない。おそらくそんな場所は地上のどこにもないのだ。脱出した先で感じた新鮮な非日常は、時間とともに陳腐な日常と変わり、人間関係の新たな構築は同時に重荷にもなっていく。思い描いていた理想や期待は容易に裏切られる。だがそれでも変わらないのは、「ここではないどこかへ」という思いだ。

4 「棄民」か「棄国」か

 「棄国」というのは、「帰国」と同音反意語であると同時に、「棄民」と表裏一体の言葉でもある。国が民を棄てるという意味の「棄民」。その逆に、民が国を棄てるのが「棄国」。しかし、棄民と棄国とは区別がつかないぐらいに同じ事態の両面だったり、あるいは、当人の意識の違いだったりする。
 かつて日本の歴史のなかで、日本を棄てて、あるいは日本から棄てられて、海外に移民をしていった人びとが膨大にいたことは、周知のことのようで、しかし、各方面への移民が各時代にそれぞれいたというような断片的な認識にとどまっているように思われる。だが、日本の移民=棄民の歴史は、明治維新=明治元年から戦後まで綿密につながった全体像をもっているのだ。
 日本から最初の移民は、明治元年である1868年にハワイへ渡った153人だ。「元年者」とも呼ばれるが、たんに開国による渡航の自由化で出た移民ではない。そもそも1800年代に入り、英米仏などの奴隷貿易大国でも奴隷制度廃止の動きが強まり、アメリカ合衆国では最終的に1863年に奴隷解放宣言がなされる。そうした動きのなかで、1800年代の半ばからは中国やインドをはじめアジア地域からの「移民労働者」が急増していくのは、明らかにアフリカ系奴隷の「代用物」が必要とされたためだ。雇用する大農場の側ではアジア系労働者たちの扱いも、奴隷同然の極めて劣悪なものであった。当時のハワイは独立した王国ではあったが、すでに合衆国の白人農園主による大農場が進出し、サトウキビ畑と製糖工場を開発して、多くの労働移民を必要としていたなかでの最初の日本人移民であった。
 1885年の移民条約からは、政府が募集・斡旋をする「官約移民」の時代になり、1894年に民間に委託されるまでの10年間に約3万人がハワイに渡航した。1900年にハワイがアメリカ合衆国に併合されると、移民の渡航先が急速に北米に傾いていく。しかし、急増するアジア系移民に対する排斥運動の結果、日本人の移民も1907~08年の日米紳士協約によって禁止され、結果として1908年からのブラジル移民をはじめ中南米に移民先が変わっていく。
 そのブラジルが日本人移民に制限をかけるのが1934年だが、ちょうど1931年に満州事変により中国東北部「満州」の全土を軍事占領、32年に「満州国」を宣言、33年から満州移民政策が始まっていた。一気に移民の行き先が中南米から満州へと切り替わった。満州移民の国策は、第二次大戦の終わる1945年まで続く(最終的には27万人が移民した)。
 ただし満州移民の前史には、もう一つ、朝鮮半島の植民地化と朝鮮移民があったことも重要だ。すでに日清・日露戦争はともに朝鮮半島の権益争いの戦争であり、日本人の移住は始まっていたが、日露戦争によって日本が朝鮮を保護領化、事実上の植民地としたのが1905年(併合は1910年)。同時に、南満州の権益もロシアから奪い取った。以降、朝鮮植民地への移住は「国内移動」に準ずるものとなり、朝鮮移住がやはり国策として推奨されていた。満州は朝鮮半島とそのまま地続きであり、植民地拡大の延長線上にある。
 次の大量移住の局面は、第二次大戦の敗戦による、満州・朝鮮半島・台湾などの植民地、その他軍事占領地などからの日本人の大量引き揚げによってもたらされる(軍人350万人に民間人300万人、合計約650万人)。敗戦直後の混乱と貧困のなかにあって、引き揚げによる人口の急増は、さらなる貧困層を創出し、戦後の移民運動再開を誘発する。サンフランシスコ条約による主権回復が1952年であり、各国との国交も回復され、中南米への戦後移民が再開される。1950年代~60年代を通して、約8万人が中南米へ移民していったが、日本の高度経済成長を経て経済大国になっていくにつれて、移民の動きは終息していく。

 以上が明治に始まる移民史、その行き先の変遷の概観であるが、そもそもこの一連の移民推進運動のなかで、「棄民」という言葉は誕生した。とりわけ、官約移民や国策移民は、あからさまに農村の過剰人口対策や不況・恐慌による失業者対策として政策的に海外に出されたのであり、しかもハワイであれ、中南米であれ、満州であれ、その環境や条件は過酷でとても非人間的なものだったにもかかわらず(奴隷労働的だったり原野を開拓させられたり現地住民の農地を奪ったり)、移民の募集にあたっては、あたかもそこに「豊穣な地上の楽園」が待っているかのような甘言が弄[ろう]されていた。端的に貧しさにつけこんで騙して、楽園などないのを承知で海の向こうに放り出したのだ。まさに「棄民」だ。「棄国」というのは「棄民」の意趣返しの造語である(と同時に片岡さんの著書では「帰国」の同音異義語でもある)。
 明らかに政策的には棄民であっただろう。だが、海外に出ようと決意した人びとは必ずしもなすすべもなく振り回されたばかりではないだろう。
 新田次郎の小説『密航船水安丸』のモデルとなった及川甚三郎は、北米(米国・カナダ)での日本人移民排斥運動の高まりで、日本政府からもカナダ政府からも渡航許可が出ないなかで(正式に移民禁止となるのは1907-08年)、1906年に故郷の宮城県北部地域から約80人を連れて密航を企てた。もともとは農家の三男として生まれ、川船運送業の家に婿養子となった。以降、同地域に初めて製糸業を普及させるなど、農家の収入を増やそうと新しい事業を模索していった。その流れで、カナダの塩鮭を日本に出荷する事業を発案し、カナダへの集団密航を実行するにいたったのであった。
 日本を脱出したのは、寒村の農業者ばかりではなかった。炭坑労働者のルポルタージュで知られる上野英信は、『出ニッポン記』という大著で、炭坑の閉山によって職を失い、南米へ移民していった人びとを丹念に追った。坑夫たちはどの時代でも底辺労働者であり、過酷で危険な労働でありながら、会社の都合で容易に切り捨てられてきた。すでに第1回ブラジル移民(1908年)のなかに元坑夫が確認されているし、1930年前後の世界恐慌=昭和恐慌による炭坑不況のときにも多くの炭坑離職者が移民している。戦後は、先に見たように最初の移民再開が、講和条約発効の1952年であり、1950~1953年の朝鮮戦争が終わって「戦争特需」も終わると、また炭坑の閉山が進み、そこから南米移民が排出された。そして炭坑からの離職のピークは1959~1960年の三井三池争議(大量解雇に対するストによる抵抗)の敗北であり、最後の南米移民のピークもこのときであった。そのときのことが『出ニッポン記』ではこう記されている。

この国の地底深くにとじこめられた“下罪人”にとっては、三池こそ、呪われた日本という国の底の底であると受けとめられていた(…)。彼らはその底をぶち抜かないかぎり、みずからを救いだすこともできなければ、解き放つこともできないことを知っていた(…)。そして、国を棄てるべき秋[とき]がきたことを、深い慟哭のうちに悟らずにはいられなかったのである。(…)まさに棄国とは、そのようにみずからを、この国のもっとも底部に生き埋めにした人間のみがとることのできる行動であり、思想でこそあれ、単に棄民があれば棄国があるというような論理のあやではない。

おわりに

 明治元年から、すなわち近代国家の始まりから、戦中・戦後を経て、いま現在にいたるまで、「出ニッポン」の動きは、さまざまなかたちで続いてきている。国が民を棄てたのか(棄民)、民が国を棄てたのか(棄国)なのかは、上野英信が書いていたように、峻別はできないし、表裏でもない。国はつねに民を棄てる。あからさまに排除されることもあれば、じわじわといつのまにか居場所を失っていることもある。そのことを自覚していることもあれば、無自覚のこともある。その棄てられた側が、棄てられた状態から自らを救うために「棄国」という手段があるのだろう。そう明示的に名指すかどうかは別としても。
 従来の同化圧力社会に加えて、21世紀に入り「労働の自由化」の名の下の格差社会が追い討ちをかけはじめたところに、史上最悪の原発事故とその忘却強制がさらに重なった。棄民されたことに気づき、棄国を選ぶ人が日々出るのは必然的なことのように思える。それは、まさに絶望のなかにかろうじて見出される、小さく不確かな希望ではないだろうか。

【参考文献】
上野英信『出ニッポン記』(潮出版、1977年/現代教養文庫、1995年)
片岡恭子『棄国子女――転がる石という生き方』(春秋社、2013年)
塩出浩之『越境者の政治史――アジア太平洋における日本人の移民と植民』(名古屋大学出版会、2015年)
下川裕治『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書、2007年)
瀬川正仁『老いて男はアジアをめざす――熟年日本男性のタイ・カンボジア移住事情』(バジリコ、2008年)
高橋幸春『日系人の歴史を知ろう』(岩波ジュニア新書、2008年)
新田次郎『密航船水安丸』(講談社、1979年/講談社文庫、1982年)
野添憲治『塩っぱい河をわたる――ある開拓農民の記録』(福音館日曜文庫、1994年/社会評論社、2006年)
二松啓紀『移民たちの「満州」――満蒙開拓団の虚と実』(平凡社新書、2015年)
増田幸弘『棄国ノススメ』(新評論、2015年)
水谷竹秀『日本を捨てた男たち――フィリピンに生きる「困窮邦人」』(集英社、2011年)
安岡健一『「他者」たちの農業史――在日朝鮮人・疎開者・開拓農民・海外移民』(京都大学学術出版会、2014年)

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早尾貴紀(はやお・たかのり)

1973年生まれ。東京経済大学准教授。専攻は社会思想史。著書に『ユダヤとイスラエルのあいだ』(青土社)、『国ってなんだろう?』(平凡社)。共編書に『シオニズムの解剖』(人文書院)、『ディアスポラから世界を読む』(明石書店)、共訳書に『イラン・パペ、パレスチナを語る』(つげ書房新社)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(青土社)、ジョナサン・ボヤーリン/ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力』(平凡社)、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』(法政大学出版局)、ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム』(作品社)ほか。

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