第三回 旅のはじまりに(2)


解読不能のヒエログリフのような

 横浜に上陸してからの日々は、これから始まる北の奥地への踏査旅行のための情報収集と、さまざまな準備に費やされた。横浜と東京のあいだを往復しながら、たくさんの人々に会い、援助の申し出を受けたり、質問をやり取りしたりした。また、従者や馬を探し、持参する食料を選ばなければならなかった。従者とは、通訳にして旅のガイドであるが、すったもんだの末に伊藤という有能な若者に巡り会った。あるいは、馬はそれぞれの土地で駄馬を求める形になる。食料問題は深刻であった。パン・バター・牛乳・肉類・コーヒー・ワイン・ビールなど、洋風の食べ物や飲み物はまず手には入らない。鮮魚すら珍しく、米・日本茶・卵だけで過ごさねばならず、それが耐えがたければ大量の食料を持参しなければならない。食料もまた、ほぼ現地調達となる。そして、旅程表の書き込まれた旅券を内務省からもらう必要があった。なにしろ、これは未踏の大地を掻き分けてゆくイギリス人の女の一人旅なのである。日光へと出発してゆくのが明治十一(一八七八)年の六月十日であるから、旅の準備は三週間足らずでなされたことになる。
 バードが来日以前に、可能なかぎり日本に関する本や雑誌などに眼を通し、情報を集めていたことははっきりしている。どうやら、十八日間の船旅のなかでは、知り合いになった日本人たちを質問攻めにしてたくさんの情報を聞き出していたらしい。上陸の翌日には、すでに、一人で異国にいる寂しさや、まったくの余所者だという意識は消えていた。それどころではなかったのだ。むしろ、珍しい光景や新しい考えが次々と押し寄せてくるために、そのあまりの速度ゆえに頭がまったく混乱し、困惑していたのである。これまでに書物を通じて学んだ知識、船旅で日本人から得た情報といったものは、「ほとんどすべて忘れた方がよいのではないか」(第二報)と思うにいたる。たった二日間の変化だった。
 なんであれ、この異国の地で何カ月も過ごさねばならないのだ。「何でも見、何でも聞き、あらゆるものを読まねばならず、見解をまとめるのはできるだけ先延ばしするのがよい」(同上)と、二日目にして覚悟を固めた。賢明であった。バードはそこに、「この国自体が読解できない象形文字のように、まったく不分明な存在として立ち現わている」という言葉を書きつけた。象形文字、すなわち、有形物の形をかたどって作った文字、古代の中国やエジプトの文字などを意味する。バードのテクストでは、ヒエログリフであり、聖刻文字とも神聖文字ともいわれるものだ(『広辞苑』による)。いずれであれ、バードの眼前に横たわっていたのは、解読不能のヒエログリフのごとき不分明な、とりあえず日本と呼ばれている国の混沌とした現実であった。形あるものに象【かたど】りした聖なる文字を読み解くように、おぼろな形から意味へと遡行し、核心を探り当てること。バードの日本紀行の方向性はそうして、およそ定まったのかもしれない。
 「第二報 旧きもの、新しきもの」の末尾には、いくらか唐突に、こんな一節が見いだされる。

「政府はアジア的であり、独裁的であり、偶像崇拝的である」などというグリフィス教授の断定を出発点とするのはおそらく賢明ではない。私の第一印象では、この国はよく統治されている。外国人は上陸するとすぐに、〈艀〉や〈車〉の料金が「規則」で決められていることや、掲示板に張り出された公告、すぐれた巡査、乗物にかざす提灯、外国の硬貨の排除、郵便制度その他多くのことに出くわすし、言うまでもないことだが、法外な請求なども皆無なのである!

 なにか奇妙に引っかかるものがある。ここに登場するグリフィス教授は、一八七〇年に宣教師として来日し、福井藩や大学南校で教え、一八七四年に帰国してからは、日本研究に貢献したウィリアム・エリオット・グリフィスというアメリカ人である(金坂清則の訳注による)。そのグリフィス教授が、日本政府は「アジア的であり、独裁的であり、偶像崇拝的である」と断定している、という。出典は明示されていない。あくまで、グリフィスの主著『皇国』(初版は一九七六年)の第二部の邦訳である『明治日本体験記』を読むかぎりでは、という限定のうえだが、このグリフィスの言葉とされるものには違和感を覚えずにいられない。
 すくなくとも、『明治日本体験記』のグリフィスは圧倒的な共感と同情をもって、誕生したばかりの明治日本について、みずからの滞在時の体験をもとに語っていた。そこに描かれた日本人は、けっして「アジア的」「独裁的」「偶像崇拝的」ではない。いや、それは新生日本を支配する政府、いわば薩長閥の国家にたいして向けられた評価であったか。それならば了解できないわけではない。しかし、グリフィスはそれを、むしろ肯定的に評価していたのではなかったか。たとえば、明治国家はきわめて中央集権的に、古い封建制度とその伝統を終熄させ、国内に平和と秩序をもたらし、進歩を合い言葉として新しい社会体制を創ろうとしているといったことが、その「第十五章 封建制度の最後の年」には書き留められている。「アジア的」「独裁的」「偶像崇拝的」などの負の色合いの濃い言葉には、くりかえすが違和感を拭うことができない。
 まさに、グリフィスはたんなる「第一印象」ではなく、「この国の人たちとの八年間の生き生きとした接触」を通じて、「この国はよく統治されている」という評価を下していたのである。艀や人力車の料金が規則で決められていることや、掲示板に張られた公告、すぐれた巡査、外国の硬貨の排除、郵便制度その他が、驚くほどに整然と機能していたことなどは、グリフィスの著書にもまた周到に描かれていたといえるかもしれない。
 『皇国』の初版の「序文」には、こんな一節がある。

 アジアの国々の中で最初に近代生活に入り、世界の先進国の一つにその位置を占める国が生まれる輝きをアメリカは歓呼して迎える。日本を東洋の謎、すなわち隠遁者の国、富の豊かな国、放縦のあまねき国、エデンの園さながらの清浄な国、裏切りと移り気の乗組員の隠れ場、純真な子供の楽園、画家や詩人の理想国とは違った別のものとして書く時が来た。誇張の免許をとりけし、日常の光にてらして、偏見なしに好意をもって、大日本の現在と過去を探知する時がやって来た。

  グリフィスの筆致や文体はたいへん明るい。そして、これが太平洋をはさんだアメリカ合衆国からの眼差しであったことに、注意を促しておきたい。そこには、欧米列強が日本に加えてきた「きびしく残忍な行為」、いわば植民地主義的な振る舞いに向けての責任追及すら見いだされるのである。あるいは、バードがこの先行する日本研究の書にたいして、ことさらに距離を置かねばならなかった事情があったのかもしれない。グリフィスが指摘していた、イギリスとアメリカとのアジアを舞台とした対峙の構図や、イギリス人への批判的な言及をめぐって、バードは反発心を煽られていたのか。キリスト教の内なる派閥抗争の影といったものはなかったか。そして、日本研究の先行するライバルであったことを忘れるわけにはいかない。いずれであれ、バードはグリフィスの『皇国』による影響から無縁ではなかった。いや、あきらかにその影響を受けた痕跡が認められる。あらためて触れることにしたい。

将軍の江戸から、天皇の東京へ

 そこでは、いまだ江戸/東京という首都の名称が混在していた。バードの書簡に出てくる江戸湾はむろん、東京湾を指している。バードはどうやら、英国公使館の慣例にしたがって江戸と記していたようで、一般的には、すでに東の首都を意味する東京という新しい名称が使われていた。それに合わせて、京都は西の首都という意味合いで西京と呼ばれるようになったが、もはや天皇(ミカド)のいない街にその名はふさわしくなかった。「江戸は旧体制と幕府にふさわしいのに対し、東京は新体制と一〇年の歴史をもつ維新政府にふさわしい」と、バードは書いている。
 ともあれ、劇的な権力の交替が存在したのである。将軍の江戸から、天皇の東京へ。五月末のある日、バードは英国公使のパークス夫妻とともに吹上御苑を散策している。もとは吹上御庭といわれた江戸城西の丸の背後の園地であり、皇居が置かれてからは吹上御苑となった(金坂の訳注による)。この天皇の私的な園地は日本庭園として最高のものであったが、この頃には土曜日ごとに有料で一般開放されていた。かつて将軍家とそれに仕える大名たちは、そこで、国民には見られることなく「不可解な儀式」をひっそりと執り行なっていた。それがいまでは、はるかに下の階級に属する、何千人もの物静かで礼儀正しい人々が、明るい午後のひとときを愉しむ場所に変わっていたのだ。
 また、別のある日の午後、バードは外国人居留地になっていた築地へと人力車を走らせた。かつての大名屋敷の跡を過ぎ、いくつもの川や濠や運河を渡った。藁葺きの屋根のある小舟が水面【みなも】に浮かび、干潟に横たわっていた。どす黒い下水溝からは、臭気が立ちのぼっている。蓑笠をつけた人々が忙しく立ち働いていた。築地は隅田川の河口に近く、江戸湾に面した埋立地だった。そこには、アメリカ公使館と、すべての伝道教会の建物が集まっていた。そのひとつ、英国教会伝道協会で、新潟と函館からやって来たイギリス人宣教師たちに会い、旅の情報を手に入れようとしたのである。
 人力車から眺めた東京の街の印象であったか。バードは江戸/東京が混在する景観に眼を凝らしている。そうして、「西洋の建築思想」が東京の街に深く浸透しつつあることに驚きながら、江戸/東京という新旧ふたつの首都を象徴する建築や景観について、ささやかな比較を試みていた。

〈江戸〉を象徴するものといえば、城の荘厳な石垣や土手、濠、〈屋敷〉と、問屋や卸売商が集まり日本の道路原点をなすといわれる日本橋とその界隈の人出の多い街路群である(そのうち屋敷の多くはどんどん衰退していっている感じを呈している)。これに対し、〈東京〉と新〈時代【レジーム】〉は建築的には、大臣が住む赤い煉瓦塀で囲まれた石造りの邸宅や、堅牢で立派な工部大学校、そして多数の兵舎や省の建物、警察署、複数の単科大学や学校によって象徴される。このうち石造りの邸宅と工部大学校以外の建物は、品のない欧米式の木造建築物で、白いペンキを塗り長方形のガラス窓をふんだんに用い、通常はベランダがない。まるで粗末な倉庫かサンフランシスコの場末にある居酒屋のようであると言いうるほどに低俗でひどく見苦しい。建物というよりも砂糖菓子だと言う方がよい代物である。(第四報)

 あくまで建築的にではあるが、きわめて辛辣な比較となっている。江戸城の荘厳な石垣や土手や濠、鬱蒼とした木立ちに囲まれた大名屋敷、商いでにぎわう日本橋とその界隈など、江戸を象徴するものはみな、おそらく衰退のなかに美しい景観のかけらを留めていたのではなかったか。それにたいして、新しい時代を体現する東京を象徴的に表わすものは、どれもこれも、「品のない欧米式の木造建築物」であり、まるで「粗末な倉庫かサンフランシスコの場末にある居酒屋」のように低俗そのもので、まったく見苦しい、砂糖菓子のような代物である、という。例外的に評価されたのが、石造りの邸宅と工部大学校であったことには、なにか隠された事情があったかもしれない。
 これに続けて、バードはこんなふうに書いていたのである。

工部大学校を設計した建築家チャステル・ドゥ・ボワンヴィル氏の助言を仰がなかったために、日本政府は新しい首都をこのように俗悪なものにし、清潔で手入れの行き届いた道だけは別として、この都市を東洋都市よりもシカゴやメルボルンの場末を思わせるような都市にしてしまった。このことは明白である。(同上)

 ここにいささか唐突に召喚されていたボワンヴィルは、明治五(一八七二)年に来日して、八年あまりお雇い外国人として活躍した、フランス系イギリス人測量士・建築士であり、工部大学校や皇居謁見所などの建設に携わったらしい(金坂の訳注による)。この建築家の助言を仰がなかったから、新しい首都・東京がこれほどに俗悪なものになった、そう、バードは慨嘆していたのである。ボワンヴィルがフランス系イギリス人建築家であったことに、関心をそそられる。そして、つねに俗悪な建築物として引き合いに出されるのが、サンフランシスコやシカゴの場末であることを見過ごすわけにはいかない。東京に深く浸透しつつある「西洋の建築思想」には、あるいはイギリス系/アメリカ系の新旧ふたつの流れがあり、その見えにくい相剋が存在したのかもしれない。とりあえずはほんの憶測にすぎない。
 いや、バードの批判はむしろ、東京が「東洋都市」としての歴史的なアイデンティティを抹消しつつあることにこそ向けられていたのではなかったか。おそらく、江戸に繋がる建築や景観は十分に美しかったのである。江戸という前代の首都のまわりには、美しい田園風景がどこまでも広がっていた。明治五年の九月に開業した、東京と横浜を結ぶ鉄道の車窓から眺める風景については、以下のように描写されている。

横浜を出るとすぐに美しい景色となる。木々に覆われた切り立った小山と絵のように美しい小さな谷が交互に展開するのである。だが、神奈川[停車場]を過ぎると汽車は広大な江戸平野に入る。(略)その北と西の端には、非常に高い山並みが、薄靄のかかる青空の上に青く浮かび上がり、幻想的だった。また、その東には、江戸湾の紺碧の海がさざ波をたてながら何マイルにもわたって美しく広がり、無数の漁船の白帆がそれに映えて鮮やかだった。肥沃にして実り豊かなこの平野には一〇〇万人の首都だけでなく、人口の多いいくつもの都市や数百の繁栄する農村がある。汽車から見渡す限りは一片の土地までも鋤によってこの上なく入念に耕されている。またその多くは灌漑されて稲田になっている。小さな川がたくさんある。茅葺きの木造の家からなる村や不思議な曲線を描く屋根をもつ寺院が密度高く、あたり一面に展開している。家も、茅葺きの屋根も、寺院もすべてが灰汁色【グレー】をしている。どこも健全で住みやすそうで美しい。勤勉なる人々の土地である。雑草はまったく見かけない。(第七報)

 ほんの短い一節に、「美しい」という形容が幾度見いだされることか。たとえばこれは、バードが江戸湾を北上する蒸気船の甲板から眺めた海沿いの村々の景観を、その懐に抱かれて走る蒸気機関車の車窓から捉え返したものであったかもしれない。なぜ、それはバードにとって、美しく幻想的ですらある景色でありえたのか。そこにくり広げられていたのは、手つかずの原生的な自然景観といったものではない。紺碧の美しい海のうえには、白帆の漁船が数も知れず浮かんでいた。肥沃にして実り豊かな平野が広がり、首都や町や村々が点在していた。入念に耕された稲田、小川、茅葺きの家々はみな、勤勉な人々によって健全で住みやすく、また美しく保たれていたのだ。「雑草はまったく見かけない」という言葉が、バードの景観評価において大切な意味合いを帯びていることを、記憶に留めておきたい。その審美眼はあくまで反自然的なものであった、とだけ言っておく。
 外国人居留地であった横浜の山手について、バードがボストンの郊外を思わせると書いていたことを想い起こさねばならない。この山手にあらためて触れた一節がある。

山手はとても美しい。ニューイングランドと同じ美しさがある。すべてのものが小ぎれいで、小ざっぱりしている。急な坂道を伴ってうまく地取りされ、その両側には平屋の瀟洒な家が、密植された低木と生垣や躑躅・薔薇などの背丈の低い花木で半分隠れたようになって並んでいる。花木が真っ盛りなので、品のよい庭は華やいでいる。また丘の傾斜がたいへんきついので、海側も陸側も眺めがよく、朝と夕方にちらりと見える富士山は実に荘厳である。眼下には日本人の町が展開し、見たこともないものにあふれている。ただ、まだほんの輪郭さえ掴めていないので、今のところは、見えるものを記そうという気持ちにはなれない。日本は実に古くて精緻な文明を有する深遠な国であり、見たこともないものが多く、まるで他の惑星に出かけてきたようである!(第六報)

 ニューイングランドはアメリカ合衆国北東部の六つの州を合わせた地方であり、その中心となる都市がボストンである。一六二〇年には植民地作りが始まり、インディアンを絶滅に追いやる戦争がおこなわれ、また独立戦争の発祥の地ともなった地方である。いわば、名前からして植民地の記憶を背負った地方・ニューイングランドと植民都市・ボストンとの対比によって、横浜の山手が似たような美しさをもつエリアであることが指摘されていたのだった。くりかえすが、そこは外国人居留地であった。まさしく植民地的な景観が広がっていたのだ。
 そして、この山手からは、荘厳にして聖なる山である富士山を朝夕に眺めやることができたし、眼下にはネイティブ・タウン(つまり、日本人が暮らす町だ)を見下ろすことができた。そこには、いまだ見たこともないモノがあふれ、ほんの輪郭すら掴むことができずにいた。判断は停止だ。バードはいう、日本はほんとうに「古くて精緻な文明を有する深遠な国」であり、まるで「他の惑星」にでも降り立っているかのようだ、と。たしかに、バードにはこの未開のアジアのなかに目覚めつつある日本にたいして、一定の敬意と留保らしきものが感じられる。日本という国は、解読不能のヒエログリフのごとき混沌のなかに、古風にして精緻でもある深遠な文明を覗かせながら、遠いユーラシアの果ての国・イギリスからやって来た旅人の心を捉えていたのである。

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赤坂憲雄(あかさか・のりお)

1953年生まれ。学習院大学教授。福島県立博物館館長。『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ文学賞受賞。同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。著書に、『司馬遼太郎 東北をゆく』『北のはやり歌』『ゴジラとナウシカ――海の彼方より訪れしものたち』『東西/南北考』『異人論序説』『山の精神史』『漂泊の精神史』『遠野/物語考』『境界の発生』『子守り唄の誕生』『結社と王権』など多数。

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