第三回


前回の「前回の問いに答える」の個所への補足


 まずは、前回の「前回の問いに答える」の「第二のポイント」に対するちょっとした補足から。第二のポイントとは、「すでに言うまでもないことであるとはいえ、この「私」は永井均ではない、ということである」であった。「もちろんその私が自分は永井均だと思っていることはありうることだが、そういう中身は関係ないということ」と説明されていた。そうであるとすれば、「もし私自身がデカルト的懐疑を実行し、欺く神と直接対決するなら、私は彼に現実に勝つことができるだろう」とか、「私自身が実行すれば、前段落で「概念的には」と限定した知り方を超えた知り方でそれを知りうる」といったことは、ある意味では、言えないことになる。デカルト的懐疑を実行し、欺く神と直接対決する私と、彼に現実に勝つことができる私には、とくに人格的な繋がりがないからである。この二つは、ただ〈私〉であるという仕方で繋がっているだけだ、と言われていた。
 そうではあるのだが、もはや永井均ではないかもしれないそのだれかも、やはりだれかではあるだろう。あるいは、自分をだれかだと思ってはいるだろう。デカルト的懐疑の線上で考えるなら、もちろんそれは「疑いうる」。しかし、疑いえようがえなかろうが、そのことには関係なく、ともあれここには付け加えられるべき一つのポイントがあるだろう。それは、それゆえ存在の奇跡のほかに受肉の奇跡が付け加わる、という点である。なぜか〈私〉という変なものが存在してしまっているという不可思議さに加えて、他の人でもよかったのになぜかこの人がそれであるという側面が、そこには絡んでくるからだ。「なぜかさ」は存在の事実にだけでなく受肉の事実にもあるのだ。どんな場合にも、この二側面は相即的である。あえてここで触れたのは、今回の主要な議論にこの側面が関連しているからである。
 受肉とは、キリスト教神学においては、子なる神がイエスという一人の人間の形をとってこの世に現れることである。この受肉には、(もちろんこの教義を前提にすればだが)世の中の他者たちと共有可能な実在的[リアル]な寄与成分(この世界に客観的に付け加えられた何か)がある。これに対して、ここで問題にしている受肉には、前回の後半の議論からも明らかなように、そのような実在的[リアル]な寄与成分がない。それゆえ、もしこの受肉こそが哲学的心身問題の原型なのだとしたら、この問題が解かれることはないだろう。

*私がこれまで使ってきた、「実在的」と「現実的」を対比的に使う語法をここでも使うことがゆるされるなら、そこには現実的[アクチュアル]な寄与成分だけがある、といえる。私はこのことを、「自分とは何か」(『知のスクランブル』ちくま新書、所収)においては、「孤独な祝祭」と表現した。

独在性の二重性


 さて、今回の主題に入る。
 前回の最後に、欺く神が二重の意味で負けることを確認した。そして、同じことが創造する神にも当てはまるのではないか、という問いを提出した。もしそうであるならば、この問題はきわめて重要であるはずである。欺く神と違って、創造する神はこの世界を創造したのだから、それはこの世界のあり方そのものの問題と重なることになるからである

*ときに、こういう議論をすると「私は創造する神の存在など信じていない」などと言い出す人がいて困る。もとより、そんなことは関係ない。創造者が神ではなく培養器の中の脳であっても、創造者などおらず世界はたんに自然に成立しているだけであっても、世界は現にこのように在るのだから、「創造する神が創造できなかったもの」に対応する問題の本質は同じである。問題が象徴的に表現された場合、その象徴形象の余剰の部分に惑わされず、問題の本質だけをシャープに捉えることが肝要である。

 欺く神が二重の意味で負けうるのは、勝つ側に、すなわち〈私〉に、二重の意味があるからだ。前回の最後の個所で、私はまず、「それでも、それがなぜか〈私〉であるならば、それは(疑う余地なく)存在する」と言った。ポイントは「なぜか」にあった。それは、存在しないこともありえた(そのほうが普通である)はずなのに、なぜか、、、(驚くべきことに)現にこのように、、、、、存在してしまっている! この存在はだれにとっても、、、、、、、想定外なのである。次に私は、しかし「そのことは概念的に保証されてもいる」とも言った。つまり、欺く神は、そういう〈私〉を実存させてしまわざるをえない、、、、、、のだ、とも。結論として、欺く神はたまたま負けうるだけでなく、必然的に負けもするのだ、この二重性こそが哲学的な問題なのだ、と。その正体を明らかにすることこそが今回の主題である。
 それはまた、前回の「前回の問いに答える」の後半において論じた、次の二つのことの「相互依存関係」の問題とも繋がっている。一つは、たとえば欺く神との闘いにおいて(他者にすぎない)デカルトの側が勝利できるということの意味を理解する場合においてさえ、その理解には「現実にそこに〈私〉が実現しているから」といった端的な実存の理解が含まれていなければならない、という事実であり、もう一つはその逆、すなわち、この私における端的な勝利の場合でさえ、一般にこのような場合には勝たざるをえないということの概念的理解が含まれていなければならない、という事実である。この二つの含み込み合い、すなわち相互依存関係が不可欠なのであった。しかし、それはなぜか。それを明らかにすることこそが今回の主題なのである。
 かつて一時期使っていた表記法をここで復活させるなら、これは〈私〉と《私》の二重性である、ともいえる。もちろん、前者が「なぜか」に、後者は「ざるをえない」に対応する。そして、どちらにかんしても、デカルト的な意味での「疑いえなさ」が同様に成立する。何度も繰り返して言ってきたことではあるが、何度言っても理解が得られないのでもう一度言っておくなら、この二重成立こそが「独我論は語りえない」ということの真の意味なのである。
 しかしここでは、これまで何度も言ってきたことと実質的に同じことなのではあるのだが、違って見えるかもしれない新たな理解の仕方を提示してみたい。それによれば、この二つは理解の仕方は方向が逆なだけで、(ある意味では)まったく同じ事態を表現している。一方は偶然性から可能性を導き出し、他方は可能性から偶然性を導き出す。その方向性の違いに応じて、「偶然」が(ある意味では)異なる二つの意味を持つことになる。

両方向からの説明


 前者の、「なぜか」に対応するほうの〈私〉は、誰でもないのはもちろん、何でもない。それは、文字通り何の一例でもなく、まったく類例のない何かである。それは、なぜか在る、わけのわからない何かであって、隣人(仲間・同類)は存在しない。それは、空前絶後の、まったく端的な、世界の開けそのものであって、他に、それと同じ種類の「わけのわからない何か」は存在しない。現に存在していない。(存在しえない、ともいえるのではあるが、こちらの方向づけからは、それはむしろ到達点の側にある捉え方である。)
 重要なことの一つは、この論脈においては、この事態を観念論的に表象する必要はない、ということである。少なくともその側面を強調する必要はない。この事態の観念論的な表象の仕方とは、たとえば、次のような表象の仕方である。

 それは、史上初めて成立した、森羅万象をそのまま表象する、森羅万象の独特の一部である。しかし、その独特さは、それがじつは森羅万象そのものであるのか、それとも森羅万象を表象しているにすぎないのか、決して分からないように出来ている、という点にある。なぜわからないのかといえば、その外には決して出られないからである。それゆえ、森羅万象はそれの外にあって、それはたんに森羅万象を表象しているにすぎない、という理解それ自体もまた、じつはそれの内部で完結していざるをえないわけである。

 この捉え方が間違っていると言っているのではない。いや、むしろ正しいだろう。しかし、この論脈ではそこに強調点が置かれるべきではないのだ、と言っているにすぎない。理由はたんに、そこに強調点が置かれると、ここで私が問題にしようとしている問題とは別の問題に注意が逸れてしまうからである。この問題は、むしろ一見まったく実在論的に表象したほうがよい。たとえば次のように。

 数億年前、地球は生命のいない冷えた天体であった。おそらくは自然の法則にしたがって、その天体の表面に生命が発生し、その生命体のいくつかは意識を、そして自己意識を持つにいたった。この過程のすべてが自然法則に支配されていたと仮定しよう。どんな物質の配列が生命を、意識を、そして自己意識を生み出すかは、すべて自然法則によって決定されていた、と考えることができる。また、どんな脳状態がいかなる意識状態を生み、いかなる記憶を、いかなる人間性を成立させるかも、すべて自然法則が決定している、とみなすことが可能である。しかし、このとき自然法則によっては決して決定されえないことがある。それは、このようにして成立した諸個人、諸精神のうちに、〈私〉が含まれているかいないか、含まれているとすれば、どれがそれであり、どれがそれでないか、ということである。自然法則が決定できることは、せいぜい、特定の物質配列が特定の性質を持った人間を作り出す、ということである。そのようにして作り出された人間のうちに、〈私〉がいるのかいないのか、いるとすれば、どれがそれであるのか、これは決定されえないのである。

 これは、じつは拙著『〈魂〉に対する態度』(勁草書房)所収の「〈私〉の存在」(一七〇-一七一頁)という論文からの引用である。ただし、原文では使われていない〈私〉という記法を使って、部分的に書き換えてある。同様の仕方で書き換えを加えつつ続けるなら、次の段落では、「自然法則など持ち出す必要はない」と言われ、法則があろうとなかろうと、そんなことには関係なく、永井均を生み出すにいたる宇宙史の全プロセス「をどれほど詳細に記述したとしても、そのときそこで生まれた人間が〈私〉であったという事実に割り当てる場所はない」とされている。そして、「はっきりしていることは、永井均を含む多くの人間を産出した現実とまったく同じ歴史的経過が、〈私〉を産出しないことも可能であった、ということである。それゆえにまた、べつに人間が〈私〉であることも……」とされる。これが前回「無関与」「無寄与」という表現によって言われたことの言い換えであることは明らかだろう。また、もはや言うまでもないことではあるが、この議論は、他人が言っていることをそのまま読んで理解する(という仕方で理解する)ことはできない。
 さて、この引用文では、先ほど「観念論的な表象の仕方」と言われた要素は〈私〉という表記の内にその含意の一部として溶け込んでおり、もはや表立っては主張されていない。たとえば「森羅万象そのものであるのか、それとも森羅万象を表象しているにすぎないのか、決して分からないように出来ている」という点は、ここではもはや問題にされていない。観念論(唯心論)者なら、このことをすべての意識的存在者にかんして主張するであろうが、ここではまさにそのことが否定されており、議論の焦点はむしろそちらに移行しているからである

*時間論において、この型の観念論に対応するのが現在主義である。現在主義は、存在するのは現在だけだと主張する。この主張もまたある意味では自明に正しいといえる。いつでも現在だからである。過去を想起している時も、未来を予期している時も、過去や未来が存在しているわけではなく、現在において過去を想起し、現在において未来を予期しているにすぎない。この構造は、いつでも変わらないからだ。しかし、そのようなことが「いつでも変わらない」ということには矛盾が含まれているともいえる。いつでも現在であるならば、過去の現在と現在の現在と未来の現在があることになるからだ。つまり、いつでも現在ではないことになるわけである。だからここでも、本文で述べられているのと同じ仕方で、「議論の焦点」をそちらに移行させることができることになる。

 ここで強調されているのは、世界を開闢する唯一者の存在と、そのことの偶然性(あるいは無根拠性)である。この方向の説明においては、これが出発点である。すべてはここから出発する。為すべき主要な仕事は、この端的な事実を一般化・相対化し、すべての「私」に起こることのたんなる一例と見る見方を開発することである。先ほど使った実在性と現実性の対比をここでも使ってよいなら、これは現実性から実在性にいたる方向である

*私の解釈によれば、このことこそが超越論的哲学に課せられた課題であり、カントが為そうとした(一部成功した)仕事である。

 どのようにして、それは為されるだろうか。「何の一例でもなく、まったく類例のない何かである」はずのそれに類例を与え、それを何かの一例とすることによって、言い換えれば「隣人(仲間・同類)」を与えることによってである。それは、もともと無いものを在らしめることなので、そこに「ひょっとしたらそれは無いかも知れない」といった懐疑論を混入させるのは的はずれである。話は逆なのだ。むしろまずは無いことが疑う余地のない前提なのであって、そこから出発してその無いものを在ると見なす新たな世界像を構築することこそが課題なのである。
 一般に、この木は木というものの一例であり、この雷は雷というものの一例である。このような場合、われわれは複数の木、複数の雷を問題なく捉えられる(逆にいえば「観念論的な表象の仕方」はできない)。ここで求められているのは、原理的にそのような捉え方ができない(逆にいえば「観念論的な表象の仕方」ができてしまう)存在者にかんして、木や雷の場合と同じ捉え方をあえてすることである。その結果、本質的に類例がなく、本質的にその一つしかありえないものを、同種の複数のものの一例とみなす、という矛盾した事態が成立することになる。
 どうしてそんなことができるのだろうか。ここに先ほど指摘した受肉の事実が関連している。あの受肉の意味においては、〈私〉は最初から人間の一例でもある(もちろん他の動物その他を含めてもかまわない)。そこには必ず「他の人でもよかったのになぜかこの人が……」という意味が伴っているからだ。その意味では、最初から「隣人(仲間・同類)」の存在が前提されている。
 前提されているとはいっても、「……なぜかこの人がそれである」という形でなのだから、「他の人」は「それ」でない、、こともまたその前提の一部をなしてはいる。まさにそのことが問題だったのだから。どうやってこの断絶を乗り越えることができるだろうか。最もポピュラーなやり方は存在論的断絶を認識論的断絶に変換することによってである。実際、この変換は哲学史的にはすでに成功している。「他人の心の中は知りえない。だから、極端なことを言うなら、もしかするとそれは無いかもしれない!」などと主張され、それに対抗して、「在る」と言わざるをえない理由や、「知りうる」と言える理由などが議論されたりしているのだから。つまり、他我問題という公認の哲学問題が存在してしまっている。
 見逃されがちなことだが、この変換における最も本質的な点は、出発点となる自己が任意の自己に置き換えられている点である。先ほど「観念論(唯心論)者なら、このことをすべての意識的存在者にかんして、、、、、、、、、、、、、、、主張するであろう」(傍点は今回付加)と言われた「この事態の観念論的な表象の仕方」は、この置き換えの産物である。この変換は自明のことと見なされており、われわれの公認の世界像は、この他我問題を含めて、ほぼ例外なくこの変換が為され終わった後の地点から出発している。
 しかし、一見したところのポピュラリティーはないとはいえ、その本質はこれと同じで、もっと直截な方法が存在する。それは、認識論的変換なしに、ただたんに、出発点となる自己を任意の自己へと置き換える方法である。そして、驚くべきことに、それは不可避なのだ。なぜなら、この変換なしに、この問題をひとに伝達する方法はないからである。
 この連載は「唯物論的独我論」という一見風変わりな発想から出発していた。できればここで、第1章の最初の段落だけでよいのでもういちど読み返してもらいたい。その段落の結論は、元来の問いの趣旨は「なぜこの一つ、、しか感じられないのか」にではなく、「なぜこの、、一つしか感じられないのか」にあった、というものであった。これで問いの意味が明らかになったかのように見えるかもしれない。しかし、それに続く議論もずっとそうなのだが、じつのところはその記述それ自体に明らかな二義性が隠されている。いかに「この、、一つ」と強調されても、著者と読者のあいだで、強調された「この、、」の指すものが異なっているからである。それは結局、読者それぞれ、、、、にとっての「この、、一つ」を意味することになり、そうである以上、実質的には、そこで否定された「この一つ、、」と同じことになってしまってはいまいか。
 いや、そうではあるまい。ある一つの世界の中に、複数の〈私〉が存在することはありえないからだ。もしそんなことがあったら、それらのうちどれが私の、、〈私〉であるのか、が分からなくなってしまい、それを識別するためのさらなる方途を探らねばならなくなってしまうだろう。〈私〉とはその、、方途そのものだったはずなのに。ここで、この困難を逃れるための唯一の方法は、〈私〉ごとに世界を分裂させて、世界そのものを複数化することである。すると、それぞれの、、、、、世界に唯一の〈私〉がいることになる。
 もちろん、そんなことをしても問題が解決するわけではない。今度は、そのように中心化された複数の世界のうち、どれが現実世界であるか、という問題が起こるからである。この世界そのものがなぜか中心化されたあり方をしていたから(いま想定されたような複数の世界の存在を前提にするなら、そのうち一つの世界がなぜか端的に現実の世界であったから)、そこから問題が始まったはずなのに、どの世界もそうなっていることになってしまっては問題は消滅してしまう。にもかかわらず、ある意味ではやはり、そうなっているのでなければこの問題提起が他者に伝わることはありえない

*マクタガートが『時間の非実在性』第55段落において指摘したのと同型の「悪しき無限系列」の開始をここに読み取り、彼が同書において時間の存在に認めたのと同型の「矛盾」をここにも認めることが可能である。それは結局、唯一端的な現実の〈今〉が、どの時点であってもその時点にとっては必ず成立するような各々の「今」のたんなる一例であると同時に決してそうではありない、という矛盾だからである。

残された方策はただ一つ、そのこと、、、、を伝えることである。そのことを伝えても問題は消滅しないだろうか。答えは「消滅し、かつ、消滅しない」であろう。問題を伝えられた人が、伝達場面に固執して問題を理解しようとしたなら、それは即座に消滅する。中心化された世界は複数個存在することになり、それはつまり、一つの世界の中に複数の主体が存在することと実質的に同じことだからである。問題を受け取った人は、伝達場面で現出した中心化された世界の複数性を即座に拒否しなければならない。すなわち、中心化された世界は現実には、、、、自分に中心化された世界ただ一つしか存在しないという事実に、即座に目覚めなければならない。
 この伝達は大乗仏教の菩薩業に似ている。自分の側を殺さないと問題は伝えられないからである。ここに「現実には、、、、」という形で新たに登場した現実性は、最初の伝達者の〈現実性〉から見れば、いわば《現実性》である。だから、問題を伝えうる相手は、現実性という概念にかんする隣人(仲間・同類)であるにすぎない、ともいえる。しかし、それこそが本物の隣人(仲間・同類)であるともいえるだろう。それはまったく異質な存在であると同時に奇跡的な同類でもあるのだ。存在と無ほど根源的に異なっているにもかかわらず、たんに存在と無という点でしか異なっていない本質的な仲間である、ともいえるわけである

*ここでさらに先鋭な問題提起をしておきたい。かりにこの世界には他に可能的受肉対象が存在しなかったとしよう(要するに他者というものが存在しない場合である)。それでも、いま述べてきたのと同じ問題は成り立つだろうか。可能的に存在するだけの人にも、ここで述べたのと同じこと(現実世界の共存者についていえるのと同じこと)がいえるであろうか。この問題に答えるのは難しいとしても、その前段階で、ここにおいて本質的に同じことが二回繰り返されていることを見抜くのは比較的容易だろう。私と他者との間に起こることが現実世界と可能世界のあいだにも起こり、この問題提起はその二つが重ねられているのだ、と。だから、この問題提起に答えるのがたとえ難しくても、現実世界と可能世界とのあいだにも、いま述べてきたのと同じ問題は成り立つだろうか、という問いに答えことはできるだろう。そして、可能世界にかんして、実在論と反実在論との矛盾する二つの立場が現に存在することが、その答えになるだろう。〈私〉の伝達の問題は、むしろその構造を反復しているにすぎない、ともいえるはずである。

 隣人(仲間・同類)が出来たところで、最初の、偶然性から可能性を導き出す方向の議論が目標地点に到達したと見なし、今度はその逆の、可能性から偶然性を導き出す方向の議論に移りたいと思う。前者にかなりの字数を費やしてしまったので、こちらは簡略に。
 こちらの出発点は、ごくふつうの客観的世界描写である。観念論でも実在論でも、唯心論でも唯物論でも、その種のことはどうでもよいのだが、よけいな問題を混入させないためには、素朴実在論的に描写するのが最もわかりやすい。
 ともあれ宇宙があり、そこに生命が発生し、人間も生まれた。そして人間には意識がある。その程度の共通了解で十分だ。さて、この世界で、任意のひとりの人間は自分を他の人間たちからどのように識別するだろうか。顔かたちや指紋や遺伝子によってでもなければ、性格や思想信条や記憶内容によってでもない。そういうものはどれも、自分を識別するのには使えない。それをするのがすでにして自分だからだ。どんな特異な体験をした人でも、その記憶の存在によって自分を他の人たちから識別することはできない。どんな内容であれ、もし何らかの記憶が現に与えられていれば、それは必ず自分に与えられている。他人に与えられている記憶のことは分からないのだから、それは当然のことである。その意味では、それは必ず自分の記憶である。そのことによって自分を識別するほかはない。記憶の内容が安倍晋三の自民党幹事長時代のものであろうと、小池百合子のカイロ大学時代のものであろうと、そういう内容はまったく関係ない。記憶以外の、願望であろうと、思考であろうと、情動であろうと、知覚であろうと、その点は同じことである。何であれ、現にそうした何かが与えられている(現れている)という事実によってしか、自分というものは捉えられない。
 どんな風景であろうと、それが現にまざまざと見えているなら、それを見ているのは私であり、どんな情動であろうと、それが現にひしひしと感じられているなら、それを感じているのは私である。これをこのように言語で表現してしまえば、他人が現にひしひしと感じていることだってあるではないか、と言われてしまいうるが、そうであっても、言語的にはこのようにしか表現できないことが、ここでは起こっているのである。(言語的には表現不可能な)このような事実によってしか「私」の存在は把握できない。そこには誤認の可能性はない。感じているのがじつは他人であるという可能性はない。だれもが同様にこのように自己を捉える(このようにしか捉えられない)のではあるが、それでもその「だれも」の視点にはだれも立てない。だれもがある一つの視点に立てるだけで、そこから出ることはできない。そのことがすなわち各人における《私》の存在である。だから、各人は文字どおり完全に隔絶した世界を持たざるをえない。あるいは、世界が文字どおりそこからだけ開けている唯一の原点であらねばならない。
 それゆえ、「私とは何か」と問われたなら、それを表現できる言語表現はもちろんないのだが、「現に与えられているこの森羅万象」という意味での「これ」というような表現を使って、「これである」と答えるのが最もふさわしい。すべての「私」にとって、である。これはつまり、すべての「私」が〈私〉としてしか――そういう種類の捉え方によってしか――自分を捉えることができない、ということでもある。「なぜかここに私(という不思議なもの)が存在してしまっている!」という、端的な、しかしその当人にとってしか意味を持たない、事実が存在することになるだろう。それはつまり、ここには「何の一例でもなく、まったく類例のない何か」が、「空前絶後の、まったく端的な、世界の開けそのもの」が、現出しているといわざるをえないということなのではあるまいか。
 そうであればまた、すべての「私」は受肉の偶然性も感じうる(感じざるをえない)はずである。「私はなぜこいつなのだろうか」と。それはつまり、受肉の偶然性を感じることができるすべての「私」たちのうち、なぜ現実にはこいつが〈私〉なのだろうか、と問いうるということである。すべての「私」が、であるから、百年後の世界においてもそうであり、百年前の世界においてもそうであったはずである。
 さてこれで、〈私〉から出発した第一の経路と、逆にそこへ到達しようとしたこの第二の経路は、たがいに逆方向から出発して、きれいに重なったのであろうか。それとも、なお重なりをはみだすものが残されているのだろうか。もし残されているとすれば、それは何か

*慧眼な読者はお気づきのことと思うが、ここに現れている問題は、私がマクタガートの「時間の非実在性」の内に(A事実とA変化=B関係のあいだの相互的関係として)見出した「矛盾」の問題と同型である。それは『存在と時間-哲学探究1』(文藝春秋社)においては「アキレスと亀」の関係に喩えられている。後者はさらにいわゆるルイス・キャロルのパラドクスとも関係している。様相にかんしても同型の問題が存在しており、この両方向からの説明を開始する直前に私は「一方は偶然性から可能性を導き出し、他方は可能性から偶然性を導き出す。その方向性の違いに応じて、「偶然」が(ある意味では)異なる二つの意味を持つことになる」と書いた。にもかかわらず、今回これらの点について触れることができず、さらに欺く神の問題との関係にも立ち戻る余裕がなかった。次回は、少なくともそのどれかを論じることになるだろう。
(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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