第四回 「ついで」が構築するセーフティネット


 前回、香港在住のタンザニア人たちが組合を結成していることを説明し、主として難民や亡命者、不法滞在者、売春婦たちといった「善き市民」「善き友人」「善き隣人」ではない人々、互いに互いを「信頼できない」と言い切る人々による組合活動、流動的な移民たちの一種の市民社会活動における助けあいの仕組みと論理とは何かという問いを提示した。今回は、具体的な組合活動の事例からこの問いについて考えてみたい。

誰にでも訪れうる不幸における助けあい

 タンザニア香港組合の活動のうち、最も重要なのはメンバーの逝去の際の、遺体の搬送費用の寄付である。多くのアフリカ諸国の出身者の間では、旅先や出稼ぎ先で亡くなった者は必ず故郷で埋葬されるべきだという半ば規範的な理解がある。タンザニア国内でも遺体の搬送にはトラックの手配などに多くの費用がかかるため、都市へと出稼ぎにきた貧しい人々は回復の見込みの薄い病にかかったら、大病院での治療を諦めてでも、家族に負担をかけないよう自力でバスに乗る体力があるうちに故郷へと帰ることを選択することが多い。いわんや海外で死去した場合、遺体の搬送にかかる費用は一般家庭には捻出しがたい額となる。異国での死は、「誰であろうと同胞からの支援を必要とする不幸」として承認されることが比較的に容易な事態である。
 2016年10月から2017年3月の間、わたしは計4回の訃報に接した。そのうちのひとつの事例をもとに、彼らがどのような組合活動をしているのかを具体的に説明したい。
 2017年2月9日、タンザニア香港組合の設立メンバーの一人であり、長年、香港・中国を主とするアジア諸国とアフリカ諸国のあいだで交易活動をしていたメンギが亡くなった。彼の逝去は、2週間ほど前に中国からタンザニアに帰国したジョセフからの深夜の電話で知ることとなった。彼は「メンギが亡くなったというニュースを聞いたか」とやや焦った声で尋ねた。じつは当日の朝、わたしはチョンキンマンション2階のいつものパキスタン料理店の長机で偶然にメンギに会って一緒に紅茶を飲んでいた。彼と話したのはそれが2回目であり、その時の彼は冗談を言って快活に笑っていた。驚いた私はすぐさまカラマに電話し、残念なことにメンギの死亡が事実であることを確認した。
 メンギは、商品の仕入れからチョンキンマンションに戻る途中、鼻から出血して倒れ、仲間たちにすぐさまクイーン・エリザベス病院へと担ぎ込まれた。しかし4人の医師と5人の看護師による治療の甲斐なく、深夜に脳死が確認されたのだという。脳卒中だった。
 翌日、タンザニア香港組合の現組合長であるイッサから緊急集会の呼びかけがWhatsAppのグループページに流れた。19時半、仕事を終えた46人のメンバーが、尖東(East Tsim Sha Tui)駅の屋上庭園に集まった。冷たい風が吹きすさぶ中、彼らはばらばらとやってきて庭園内の思い思いの場所に陣取り、雑談したり、タバコを吸ったり、メールを確認したりし始めた。このような弛緩した空気が漂う中、緊急集会は始まった。
 カラマはまず、集まったメンバーにメンギが逝去したことを説明し、「[死は]みなが通る道であり、先に逝ったメンギを自分のことのように考えて欲しい。残された者で力をあわせて彼[の遺体]を帰国させるミッションをやり遂げよう」と呼びかけた。
 メンギはイスラーム教徒であったが、集会では最初にイスラーム教徒のメンバー全員でクルアーンの一節が斉唱され、続いてキリスト教徒のメンバーが代表して聖書の一節を暗唱し哀悼を捧げた――組合員はイスラーム教徒が約8割、キリスト教が約2割で構成されている。その後に、チョンキンマンションのアフリカ料理店の料理人ショマリがメンギの最後の様子についてつぶさに説明した。それを聞いた女性の組合員たちの間で啜り泣きが漏れた。カラマは「メンギ[との思い出]について語りたいメンバーはいるか」と集まった人々の顔を見渡した。1人が手を挙げて前に進みでた。
 30代半ばの男性は、初めて1人で広州に仕入れに行った際に見ず知らずの若者であった自分を親切に助けてくれた人物こそがメンギであったこと、彼の訃報を聞いて大変なショックを受けていると語り、最後に「彼のために力を合わせよう」と呼びかけた。
 次に、香港・マカオ・タイのビジネスを切り拓いたタンザニア人先駆者の一人であるという年配男性が手を挙げ、メンギは苦楽を共にした戦友のような存在であったと述べ、アジア諸国でのビジネスを切り拓いた彼に後続者であるタンザニア人は誰しも恩を受けていると主張した。
 続いて南アフリカ人の女性が手を挙げた。彼女は、「タンザニア人ではない自分にも親切にしてくれた彼のことを父のように思っている」と英語で語った後、「彼はいつも冗談を言っていたので、今日の悲しい知らせもジョークだと思っていた。混乱して何を言ったらよいか分からない」と声をつまらせ、泣き出した。
 この会合には、香港・広州のケニア人組合とウガンダ人組合の代理人も参加していた。ケニア人組合の代理人は、「タンザニア人の同胞たちに、心から哀悼の意を捧げたい。われわれケニア人は、同じ東アフリカ共同体のメンバーである同胞と悲しみを共有し、苦難を共に乗り越える用意をしている」とやや畏〔かしこ〕まった形のスピーチをスワヒリ語でおこない、ウガンダ人組合の代理人は、「私がこの場で発言できることは、ただタンザニア人の同胞に対する心からの哀悼の意だけである」と淡々と英語で語った。他にも何人かが、メンギとの思い出や人となりを語りながら、彼のために協力をする必要性を訴えた。
 スピーチが終わると、集会は悲しみで包まれるとともに、ある種の連帯感が即興的に醸成されていた。いまや誰もが環になってカラマを取り囲み、彼の発言を待っていた。そのタイミングを計っていたようにカラマは、緊急集会の主な目的である遺体搬送の手続きと、それに必要な経費の寄付について説明し始めた。彼は、これまでの経験から遺体の搬送には、約10,000米ドル(約78,000香港ドル)が必要であるが、幸いメンギは(難民ではなく)パスポートでアジア諸国とアフリカ諸国を行き来していたことから、病院での手続きや行政手続きに時間がかからず、8,000米ドル(約63,000香港ドル)ほどで何とかミッションを完了できるとの見通しを立てた。また、中国には彼の娘が中国人と結婚して住んでいること、広州市のタンザニア組合とも連絡を取っており、中国側が必要経費の半分を負担すると申し出ていることを述べた。
 この説明を受けて、現組合長のイッサが「1人1,000香港ドル(約120米ドル)の寄付を募りたい」と提案した。売春を生業にしている女性から「香港で商売をしている者なら、それがどんなビジネスでも1,000香港ドルくらいは用意できるはずだ」と声が上がり、それに同意する声が続いた。またケニア人組合とウガンダ人組合の代理人からも「ベストを尽くして組合員から寄付を募る」ことが約束された。
 その後にカラマは、各手続きを担当する者を順番に指名していった。寄付を集める係が4人、行政的手続きを担当する者2人、棺桶やエンバーミングの手続きを担当する者2人、家族との連絡係1人、中国のタンザニア人組合との連絡係1人。寄付を集める係りが任命されると、すぐさまカンパ帳がまわり始めた。
 しばらくして、20代後半の男性イマが「香港にいるタンザニア人の名前と連絡先をすべて書き出すべきだ」と叫んだ。彼は「(今日の集会に来ていない者で)寄付しないのに、自分の時には助けてもらおうという輩がいるのはおかしい。この際に誰が同胞nduguであり、誰がそうではないかをはっきりさせようじゃないか」と主張した。それに賛同する者もいたが、反対の声もあった。ある女性は、「さっき香港にいたら1,000香港ドルくらいなんてことはないという意見が出たけれども、私たちは他のメンバーがどんなビジネスをしているのか干渉しないことにしている。だから、それぞれがいくら払えるかを知ることはできないはずだ」と意見を述べた。それに何人かの若者が賛同し、「寄付額はそれぞれの財政力に応じて変化させるべきだ」「今回、寄付できない者に裏切り者のレッテルを貼るのはおかしい。たまたまビジネスが不調であるだけで、次回は寄付するかもしれないのだから」といった反論が寄せられた。カラマは、「寄付は寄付であり、1,000香港ドルはあくまで目標に過ぎないのだから、余裕がない者は可能な範囲で寄付をすればよい」と述べ、イマと彼に賛同した者たちに「それぞれ他人には言いにくい事情があるのだから、寄付を強制してはならない」と釘を刺した。
 手持ちがあるものはその場で寄付し、手持ちがない者は1週間をめどに係りの者に寄付を届けることとなった。またこの日の集会を欠席したメンバーには、手分けして寄付を募ることが確認された。
 その後にメンバーたちは再びばらばらと散っていった。じつは寄付がひと段落した後に、ちょっとした事件があった。先にスピーチをした南アフリカ系女性が、「脳死」に疑問を持ち、アフリカ人の患者を長期に受け入れるのを快く思わない医師たちにメンギは殺されたのではないかと発言したからだ。植物人間状態になった彼の生命維持装置を外したことは殺人ではないかといった討論が始まり、結局、翌日彼の死がどのような状態だったのかを病院に行き、確認することになったそうである。
 およそ1週間後、タンザニア香港組合は、中国広州市の組合、ケニア人組合、ウガンダ人組合からの寄付とあわせて、11,700米ドルの寄付を集めることに成功した。遺体搬送にかかる経費を引いた残りの金額は、メンギの娘の学費に当てられることで同意されたという。

流動的なメンバーシップが生きる組合運営

 タンザニア香港組合が緊急集会をしていた頃、タンザニアの首座都市ダルエスサラーム市マンゼッセ地区にあるメンギの自宅前では、偶然に香港や中国から帰国していた組合メンバーたちが緊急集会を開いていた。ダルエスサラームでは、メンギの死去が伝えられた夜から通夜が始まり、結局、遺体が到着した19日まで10日間に渡って続いた。
 メンギの自宅前に集合した帰国メンバーたちは、メンギの通夜と葬儀の段取りとそれに必要な寄付額を話し合っていた。私にメンギの逝去を確認する電話をかけてきたジョセフが、メンギの家族代表者かつ帰国メンバーによる集会の委員長に就任した。
 タンザニアの通夜および葬儀には、弔問客に朝、昼、晩の食事を用意する必要がある。世界最貧国のひとつであるタンザニアにおける葬儀には、故人の親族や友人のほかに、生前の故人とは全く交流がなかった無数の近隣住民も「食事」を目当てに集まってくる。とりわけメンギのように地元の名士とされる者が亡くなった場合、膨大な数の弔問客のもてなしは、故人の名誉と家族の威信をかけて行なわれる。突然の夫の逝去に茫然自失となったメンギの二人の妻に代わり、百人を超える弔問客の食事の準備を取り仕切ったのは、中国広州市から帰国したばかりのメンギの義理の妹(弟の妻)アンジェラであった。彼女は、香港に居住していた頃には、チョンキンマンションでタンザニア人たちに料理を販売した経験があり、広州市でも倉庫業を営む夫の仕事の手伝いや貿易業をしながら、広州市に住むタンザニア人たちに故郷の料理を作り販売していた。もちろん彼女も広州市のタンザニア組合のメンバーであるし、ジョセフたちとは家族同然の付き合いをしている。
 ジョセフたちは、香港・中国での交易やビジネス経験者(帰国メンバー)からは、タンザニア香港組合のメンバーの寄付額と近い1人あたり100米ドルを、それ以外の地元の弔問客からは1人あたり5,000~25,000タンザニアシリング(約2米ドル~11米ドル)の寄付を目安に募ることとした。寄付額から食費に使える額を計算し、毎日アンジェラと料理のメニューを相談する事が彼らの主な仕事だった。私は、2月13日に香港からダルエスサラームに渡航し、帰国メンバーの会合に合流した。
 メンギの遺体は2月18日にタンザニア香港組合のメンバーにより航空貨物として香港空港を出発し、19日15時過ぎにダルエスサラーム空港に到着した。メンギのパスポートに人生最後の入国スタンプを押してもらい、涙ぐむ帰国メンバーたちで軽トラの荷台に棺桶を載せ、葬儀が執り行われるメンギの自宅へと戻った。すすり泣く弔問客の間を縫って棺桶が自宅の中へと運び込まれると、メンギと対面した家族の悲痛な泣き声が響き渡った。しばらくしてメンギの弟(アンジェラの夫)であるドットが出てきて、遺族を代表して弔問客に挨拶を行い、弔問客と共にドゥアー(祈祷)を唱和した。その後、弔問客らはモスクへと移動した。

ダラエルサラーム市での葬儀の様子
ダラエルサラーム市での葬儀の様子
メンギの棺桶を受けとる帰国メンバー
メンギの棺桶を受けとる帰国メンバー

 19時半、遺体を載せた車を先頭に、埋葬に立ち会う弔問客を乗せた十数台の車が一列に連なってモロゴロの村に向けて出発した。帰国メンバーはみな香港で中古車を購入し自家用車として所有しており、彼らが手分けして埋葬に立ち会う弔問客を村へと運んだ。遺体が振り落とされないよう低速度で向かったため、モロゴロの村についたのは23時近くになっていた。
 メンギの遺体はそのまま屋内に運び込まれ、親族と思われる女性たちの泣き声が外へと漏れ聞こえてきた。彼の実家の前には、ビニールシートの上に巨大なテントが組み立てられており、ダルエスサラーム市からの弔問客は、その上に雑魚寝することとなった。このテントは、中国から建築資材とともにダルエスサラーム市を経由して輸入したものであり、さらに翌日の埋葬の儀式のための食事代は、親族が村人から集めた寄付金とジョセフたちが集めた寄付金の残りでまかなわれていた。テントやジョセフらが集めた寄付は、ダルエスサラーム市とモロゴロを行き来する商売人たちの手で事前に村の親族に届けられていた。
 翌20日、埋葬の参列客たちに朝食と昼食がふるまわれた後、ふたたびドゥアーを斉唱し、男性たちによって遺体は埋葬地へと運ばれ、儀式のあとに埋葬された。そして参列者たちの一部はダルエスサラーム市へ、さらにその中の何人かは香港や中国へと帰っていった。

 以上で描写したとおり、香港で突然の死を迎えたメンギの遺体がダルエスサラーム市へと輸送され、故郷のモロゴロで埋葬されるまでのプロセスは、流動的にアジア諸国とアフリカ諸国とを行き来する人々による「連携プレー」によって実現した。
 タンザニアの交易人たちは、中国本土の広州市と香港、中国・香港とタンザニア、タンザニアの都市と農村とを行き来しながら、寄付や必要な物資を届けあい、異なる役割を担った。現在では、国境をまたいだ連携は、情報通信技術の発展に伴ってさらに便利になりつつある。ダルエスサラーム市での通夜や葬式、モロゴロの村での埋葬の様子は、WhatsAppのグループページに投稿された動画やinstagramのライブ配信によって香港のメンバーと同じ時間に共有されていた。ダルエスサラーム市で葬儀が行なわれていた頃、香港では故人を偲ぶ会合が開催され、彼らは香港とタンザニアの葬儀をともに経験していた。
 カラマはいう。「本人が退会を望まない限り、どこに移動しようとメンバーシップは継続するのだ」と。現在では、交易人たちの多くは香港や中国からタイやインドネシア、アメリカなどへとビジネスの場を拡大し、複数のビジネス拠点をつないで商売しているが、このことは「商業的旅行者」「Frequent Travelers」として居所が定まらない彼らが、どこでも生きていける、あるいはどこで死んでも故郷に戻ることができる可能性を強めている。

「無理しないこと」を基準とする

 だが、死が誰にも訪れることは、時としてメンバー間の互酬性を超えた論理を必要とする。2016年12月に香港において亡くなったタンザニア人は、人生初の香港への渡航で命を落とした。タンザニア香港組合のメンバーは誰も彼を知らなかった。それでも、カラマたちは中国北京市のタンザニア大使館からの協力要請を受けて、彼の遺体を引き取った。彼の家族を見つけだし連絡を取ると、家族は遺体を搬送する財政力がないという。カラマたちは仕方なく、寄付を集め、同胞の遺体を母国へと搬送した。
 香港や中国に短期間しか留まらず、カラマたちディーラーも使わずに、タンザニアとアジア諸国とをごくたまに行き来する商業旅行者のなかには、香港あるいは中国のビジネス環境に不慣れであるがゆえに、香港の南アジア系の移民や中国系のビジネスパートナーとの間で無用なトラブルを引き起こす者も存在する。こうした場合にも、組合はその仲裁や解決を要請される。そうした者たちに親切にしたところで、ビジネスに失敗して二度と香港・中国に戻ってこない場合も多い。その結果、香港や中国に長く留まっている者たちは必然的に、たまにしか香港・中国に渡航しない者よりも多くの死や多くの困難の解決に金銭と労力を費やすことになる。
 さらに、組合員によっても組合活動への貢献に違いがある。タンザニア香港組合のメンバーは多かれ少なかれ「法」に違反しているが、それでも麻薬の売人や窃盗を兼ねて違法売春をする者と、仲介業をしたり衣類や電化製品などの交易に従事する者とでは、「刑務所の近さ」あるいはトラブルの性質や頻度に違いがある。宗教的な信仰か個人の信条か冷静なリスク計算かは不明瞭だが、「密輸はするが、麻薬には手を出さない」「違法売春はするけど、盗みはしない」と固く決意している者も多い。彼らは「犯罪」に手を染める同胞を否定/拒否しない――犯罪で稼いだ大金を派手に浪費するパーティに誘われれば、もちろん参加する――が、自分が負わないことにした他者のリスクを背負わされることとなる。
 互酬性を基盤に組合が運営されていると仮定した場合、組合活動に貢献しない者をも支援する理由は何だろうか? リスクの高い犯罪行為に手を染める仲間が困難に陥ったからといって、彼らを助ける必要がどこにあるのか? それは自業自得ではないのか?
 カラマたちと暮らしていると、組合活動への実質的な貢献度や、特定の困難や窮地に陥ることになった「原因」をほとんど問わず、たまたまその時に香港にいた他者が陥った状況(結果)だけに応答して、可能な範囲で支援するという態度がひろく観察される。それは、「死」という特別な事態に限らない。また組合活動や他者への支援に関わる細かな規則や規範を可能な限りつくらない/曖昧なままにしておきたいという態度もひろく観察される。上述の事例に示されるように、彼らの集会では様々な意見がでるが、最終的には「いろいろな事情があるんだから、細かいことをいうのはやめよう」といった結論に落ちつく――フリーライダー問題も寄付額の傾斜配分の提案もそれ以降、蒸し返されなかった。
 彼らのこうした態度には、いくつかの背景がある。第一に、香港組合の集会で一人の女性が発言したように、基本的に彼らは助言を求められない限り、他者のビジネスや行為に踏み込まないので、その人間の「事情」を完全に知りえないものと了解している。わたし自身は研究者として彼らの生活史や意見を聞き取り調査するが、本人があっけかんと話す事柄について、周囲の者から「彼/彼女には話しにくい事情があるかもしれないから、ほっといてやれよ」と諌められることがある――または「それ以上は知らないほうがお互いのためではないか」と助言される。事情は知りえない/知りたくないものなのだから、自己責任なのかどうかを判断することは難しい。2017年4月に亡くなったショマリは重度のアルコール依存症患者で、ある日とつぜん仲間の前で昏倒した。だが、なぜ彼がアルコール依存になったのかを問うて答えを見つけるのは至難の業だ。
 第二に、彼らの独自の人間観・主体観である。自己責任とはどこまでを指し、どこからが「不運」の領域かを問うことは元来、非常に難しいことであるが、そもそも彼らは、個々の実践・行為の帰結を他者の人物評価――「努力が足りない」「考えが甘い」「優しさが足りない」等――に結びつけて語ること自体をほとんどしない。前回述べたように、彼らは常々「誰も信用しない」と断言している。それは、「素性」「裏稼業」を知らないからというより、誰しも置かれた状況に応じて良い方向にも悪い方向にも豹変する可能性があるという理解に基づいているように思われる。カラマたちは、「彼はいま羽振りが良いから、おカネを貸しても大丈夫だ」「彼はこの間、輸入した天然石の品質が悪く大損したから、少し気をつけたほうがいい」「彼の恋人も一緒なら、彼は良い奴だから遊びにいきな」と「いま」の状況に限定した形でしか他者を評価しない。つまり「ペルソナ」とその裏側に「素顔」があって、「素顔」が分からないから信頼できないのではなく、責任を帰す一貫した不変の自己などないと認識しているようにみえるのだ。
 第三に、難民として居住する者を除くと、メンバーは流動的にアジア諸国とアフリカ諸国とを行き来するため、成員の間の厳密な互酬性を考慮/計算することが困難である。わたしは上記の香港組合の緊急集会に参加し、1,000香港ドルを寄付した。数日後にタンザニアに渡航して帰国メンバーの集会に参加した時にも寄付が始まったので一度は財布を開いたのだが「香港の寄付額と同程度なんだ」と感想をもらすと、「へえ、そうなんだ」と香港での寄付額を知らなかったと述べた後に、「もしかしてあっちで寄付した? それなら、こっちではしなくてもいいよ」と寄付を断られた。つまり、誰が他の場所でどれだけ貢献したのかは共有されていなかったのである。
 また、確かに本人が望めば、どこに移動しても関係性は続くが、望まなければ、自然消滅する。2018年3月に渡航した際、難民として8年以上滞在していた二人のタンザニア人が、香港でのビジネスから足を洗って帰国した。彼らといつも一緒にいたザハブに「寂しくないか」と聞くと、彼は「少しのあいだ寂しく感じても、すぐに忘れるよ」と微笑んだ。このような不安定なメンバーシップで、組合への貢献度を「助けあい」の条件にすることは難しい。
 要するに、彼らは「助けあう人間を区別・評価する基準を明確化すること」と「助けあいの基準・ルールを明確化すること」のどちらもしていない。むしろ彼らの組合運営やそこでの相互扶助は、厳密な基準やルールを設け「互いに無理やストレスを強いること」を、できるだけしないことをルールとしているように思われる。
 「チョンキンマンションのボス」であるカラマは、これまでに見ず知らずの若者をふくめて膨大な数の人間の面倒をみてきた。彼にその理由を尋ねると、「だって俺はチョンキンマンションのボスだからね」と返答された。だが、面倒くさがりのカラマが多くの若者の面倒をみることのできる秘訣は、「適当」にやっているからだとわたしは考えている。彼らの日常的な助けあいの大部分は「ついで」で回っている。例えば、2017年1月頃、カラマたちはオーバーステイの罪状で3ヶ月間収容され、刑務所から出てきたマバヤの面倒を見ていた。マバヤが無一文になったことをカラマは知っており、昼食や夕食の時間に偶然に彼と居合わせた時には彼に奢っていた。だが特に彼を気にして誘う様子は見られず、タイミングが合わなければ、それっきりだった。それでもその日に羽振りが良かった誰かは偶然に彼と居合わせたので、マバヤはいつも食事にありつけていた。案内して欲しい場所が通り道なら連れて行くし、ベッドが空いていたら泊めてあげる。知っていることなら親切に教えるし、ついでに出来ることなら、気軽に引き受けてくれる。だが、無理な相談はさわやかに聞き流し、自分の都合に応じて約束を連絡なしですっぽかす――そして悪びれた様子はなく、「やあやあ、ジャパニーズ!」と笑顔でやってくる――。
 上述した国境を越える「連携プレー」もこの「ついで」の論理で動いている。その時に偶然に中国から香港へ来た人が連絡係や寄付金の配達をする。仕入れを終えて母国に帰国する人が香港・中国から寄付金やテントを運ぶ。この「ついで」の連携は、遺体搬送に限ったことではない。香港に「難民」として居住するタンザニア人は、母国に残してきた家族への贈物を偶然帰国する交易人に託して「ついで」に届けてもらう。資金がなくて香港に渡航できない者は、スーツケースのスペースに空きがある分だけ交易人に自分の商品も「ついで」に仕入れてきてもらう。誰もが「ついで」を目的にしないことで「無理なくやっている」という態度を押し出しているので、この助けあいでは、助けられた側に過度な負い目が発生しない。
 彼らは「他者を助けることができる者は必ずいる」という。儲け話に釣られて先人がくれた紙切れ一枚の「道案内」を頼りに中国・香港に乗り出した彼らに「窮地に陥った経験」について聞けば、無数の人生の危機を語ってくれる。それらの危機を乗り越えることができたのは、集会で人びとが語ったように偶然に出会った誰かに助けてもらったからである。だが、この「誰かは助けてくれる」という信念は、「同胞に対して親切すべきだ」という期待ではなく、それぞれの人間がもつ異なる可能性にギブ・アンド・テイクの機会を見いだす個々の「知恵」に賭けられている。連載の最初の回で述べたように、カラマの携帯には、政府官僚や大企業の社長、詐欺師に泥棒、囚人まであらゆる人間が登録されている。これらの人々とのネットワークは、「ついで」によって築かれてきた。助ける人間を問わないのは、困ったときに役立つ人物が異なるからだという――曰く「詐欺に遭った時に最も役立つ情報を教えてくれるのは、詐欺師である」――。このように他者の「事情」に踏み込まず、メンバー相互の厳密な互酬性や義務と責任を問わず、無数に増殖拡大するネットワーク内の人々が、それぞれの「ついで」に「できること」をする「開かれた互酬性」を基盤とすることで、彼らは気軽な「助けあい」を促進し、国境を越える巨大なセーフティネットをつくりあげているのである。
 この「開かれた互酬性」は、メンバー相互の信頼や互酬性を育むことで「善き社会」を目的的に築こうとする「市民社会組織」の論理よりも、情報通信技術(ICT)やモノのインターネット化(IoT)、AI等のテクノロジーの発展にともない注目されるようになったシェアリング経済やフリー経済の思想により近しい。すなわち彼らの組合とは、配車サービスUberや空き部屋の宿泊サービスAirbnb、あるいは不特定多数のユーザーの投稿によって様々な情報を無料で利用できるようにする多様なインターネット・サイトと同じような「プラットフォーム」だと考えると、筋が通りやすい。そして実際に、彼らの組合活動は、彼らがビジネスのために構築したSNS上のオークション・システムや電子マネーによるクラウドファンディングと密接に連動している。次回からは、彼らのビジネスの様子とその仕組みについて踏み込んでいきたい。

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小川さやか(おがわ・さやか)

1978年愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程単位取得退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教を経て、2013年より立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に、『都市を生きぬくための狡知』(サントリー学芸賞受賞)、『「その日暮らし」の人類学』がある。

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