第四回 小山田徹――脱芸術から無技の技へ


(1)二つの「ウィークエンドカフェ」

 骨の髄にまで浸みいるような嫌らしい湿り気を帯びた、京都独特の寒さを身から払いながら、入り口に散らばったたくさんの靴の間に、自分の靴も滑り込ませる。ドアを開けると、小さい火が暖炉の周囲に、火影を揺らしている。そこそこに広い、洋風の重厚な佇まいの広間に、人々が談笑し、あるいは真剣に議論している。私も、見知った顔を宛てに、カウンターで買い求めたワインを手に、この独特の「居心地の良さ」へと混じっていく。
 「ウィークエンドカフェ」。1990年代半ば、京都大学地塩寮に付属するYMCA会館(W.M.ヴォーリズ1931年設計)で、小山田徹をはじめとした数名の有志が運営していたカフェ。隔週の土曜日、夜8時ごろから翌朝空が白み始める頃まで、ただ誰かと出会い、語らうためだけに、人々が集っていた。私は当時東京に住んでいたが、年に数回足を運んだ。私と同じく、遠方から、海外からさえ、訪れる者が絶えなかった。それは、小山田自身も言い、私もそう思っていたように、そこが「奇跡」の空間だったからだ。
 何か特別なイベントがあるわけでもなく、飲食も向かいの酒屋などで仕入れたり、差し入れだったり。アーティスト(の卵)、アート関係者もいれば、京都大学や他の大学の学生たち、「アート」にも「大学」にも関係ない者たちが、ただ出会い、語りあう悦びを求めて集まっていた。何が「奇跡」だったのか。もちろん、小山田が当時属していたアーティスト集団「ダムタイプ」が国内外で知り合ったアート関係者(名だたるアーティストやキュレーター、演劇プロデューサーなど)が「自然に」入り混じり、ビジネスライクなミーティングとは違ったカジュアルでフラットな会話がなされていた、といったこともあったかもしれない。が、それにもまして、見知らぬ誰をも拒まない、この国にはいたって稀な独特のホスピタリティの奥深さにこそ、その「奇跡」は宿っていたのではなかったか。

 それから約20年後、春の麗らかな昼下がり、京都駅の東、崇仁すうじん地区と呼ばれる一角へと、私はそぞろに歩いていった。そこそこ車も行き交う交差点に隣接した空き地に、円錐型のティピテントがいくつか呑気そうに立ち並んでいる。三々五々、人が出たり入ったりしている。私もそこに紛れようと敷地に入ると、いつもの「懐かしさ」をたたえた、無精ひげの、小柄な男が、笑みを浮かべながら、出迎えてくれた。小山田だ。
 この「カフェ」も、「ウィークエンドカフェ」と名づけられていた。それは、現在小山田が教鞭をとる京都市立芸術大学のイベントの一環として、3月から5月にかけて毎週土曜日行われていた註1。名が同じところを見ると、20年前の「ウィークエンドカフェ」の“再演”なのだろう。
 だが、様相はかなり違う。空き地にティピ。そして、暖炉の代わりに、ここかしこに小さな焚き火。屋外での火気が御法度のはずの京都の街中で、平然と焚かれている。その周りに、人々がすずろに腰掛け、談笑する。見知った顔もちらほら。私も、屋台様のカウンターで、ビールと「焼き物」を買い求め、ある火に混ぜてもらう。春とはいえ、まだ空気には肌寒さが篭っているので、小さな温かみがうれしい。カフェの「マスター」は歳を重ね、場所も設えも全く異なるが、変わらず「小さい火」は焚かれ、人々がそれを囲む。はたして再び「奇跡」は起こっていたのか。結局、会期中一度しか足を運ばなかった私には、計りがたかった。

(2)なぜ「カフェ」だったのか?

 90年代当時、「カフェ」という言葉はまだ日本語として全く馴染んでいなかった。わずかに、東京の青山や広尾といった「おしゃれな」界隈に、フランスのカフェのほぼ完全なコピーが何軒か、これ見よがしにその瀟洒を見せつけていたくらいだった。(その後、96年からスターバックスが上陸し、2000年頃から東京を中心に「フレンチ」でも「アメリカン」でもない、独自のスタイルのカフェが現れやがてブームとなる。註2
 なぜ「カフェ」だったのか。ダムタイプは、80年代末から、ヨーロッパやアメリカへと海外ツアーを行うようになる。当然、かの地でカフェを目撃し、立ち寄ったりもしただろう。そうして、カフェが単にコーヒーや酒を飲む店ではなく、コミュニティの重要な拠点の一つ、人々の出会いを潜在的にアレンジし深める結節点の一つであることを発見する。それを何とか自分たちの本拠地、京都にも持ち込めないか。その手作りの実験が「ウィークエンドカフェ」だった。
 歴史的にも、カフェは、文化さらには政治の新しい流れ、変革を醸成する社会的装置であった。17世紀後半から隆盛を迎えるロンドンのコーヒーハウス、そして18世紀のパリを賑わせたカフェなどは、まさに文化・政治・経済の最新情報の集散拠点であり、ファッションの最新流行さえ生み出した。特にパリのカフェの幾つかは、「百科全書派」をはじめとしたイデオローグたちの巣窟であり、フランス革命は温床の一つがカフェであったといっても過言ではないほどだ。
 そして、19世紀末から20世紀初頭にかけては、ヨーロッパの主要都市で、アヴァンギャルドのアーティストたちがカフェと濃密な関係を結んだ。ラパン・アジルをはじめとしたパリ・モンマルトルのカフェと印象主義、象徴主義、キュビズムの芸術家たち、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールとダダイストたち、ベルリンのロマーニシェス・カフェとやはりダダイストやボヘミアンたち、など。
 そうした「カフェ」の文化的・政治的潜在力を、20世紀も終わりに近い京都という文脈で新たに現勢させてみたい――はたしてそこまで明確な歴史的・社会的展望が、小山田を含めた運営者たちにあったかどうかはわからないが、少なくともそこでは新たなライフスタイル、生存の美学とも言うべきものが、そこに集う人々の身体・欲望の中で醸されていた。当時、メンバーの一人古橋悌二のHIV感染に直面したダムタイプは、その圧倒的に過酷な現実に対しそれまでのArtの文法の無力を痛感したことだろう。が、彼らは、その現実を全身全霊で引き受け、そこから前代未聞の「創造」の賭け――Artの根拠のみならず、生存の在り方そのものを問うプロジェクト『S/N』を発明していく。そして、その生存の美学の実験場・醸成場の一つこそ、「ウィークエンドカフェ」だったのである。

(3)『S/N』、生存の美学

 その生存の美学について、20年後の今、再び詳述することは避けたい。私はこれまで幾度か、それこそ本連載の第1回で述べたように、批評家としての「生命」を賭してまで論じてきたし、国内外の多くの論者が、それに魅せられ、あるいは戸惑いながら、己れの存在の奥底から言葉を紡ぎ出してきた註3。だから、この論考の文脈――藝術2.0あるいはGEIJUTSUがより豊かになる範囲に言及をとどめたい。
 瞥見した機会がある『S/N』のある企画書によれば、当時の彼らの世界認識の根底には、もはや「普遍的な世界」はありえないという認識があった。世界は砕け散った断片であり、その互いに孤立しあった断片をつないでいく「交通」にこそ、彼らの活動の基本姿勢があるという。断片としての人、物が出会い、いわば「幸せな事故」を起こす、そういう環境を組織化していくことこそ、彼らの創造行為だ。彼らはその創造行為を二つの位相の絡み合いと見る。「作品の創造」と「場の創造」である。
 「作品の創造」として、彼らはパフォーマンス作品『S/N』を絶えず「work in progress」として創造しつづけ、そこでエイズ、ジェンダー、性、身体あるいはArtを巡る不可視の権力(「沈黙の申し合わせ」)を、自分たちの身体を賭して、問い、観客にもその問いを突きつけた。その「問い」は、Artに限っていえば、Artという欲望と感性の言説をそのゼロ地点まで追いつめ、「芸術」どころか「芸」にすらなるかならないような「下手」なものをあえて「モノ」註4として舞台に乗せる綱渡りのような「問い」でもあった。そして、Artを含めた生存のあらゆる領野を規制する「沈黙の申し合わせ」=不可視の権力の内部に絡めとられながらコミュニケートし、創るのではなく、その〈外〉=“OUT”に出て「愛しあい」「創造する」ことこそ、『S/N』の創造の美学であり、生存の美学であった。「I am “out”, therefore I am.(私は「OUT」している、ゆえに私はここにいる。)」
 その創造・生存の美学、あるいは(当時彼らが好んで引用していたミシェル・フーコーの表現を使えば)「生存の技法」を、「作品の創造」の中のみならず、舞台の外の社会空間にまで生々しく探ろうとしたのが、「場の創造」であった。ウィークエンドカフェの他に、(当時の彼らの用語法では)アートセンター・プロジェクトである「アートスケープ」、HIV/AIDSに関する啓蒙活動「AIDS Poster Project (APP)」、あるいはドラァグクイーンによるクラブイベント「Diamonds Are Forever」などといった「場」を、京都の街中に散種していった。
 「作品の創造」と「場の創造」が相乗的に絡み合った『S/N』の全体は、畢竟、当時のメンバーの一人、ブブ・ド・ラ・マドレーヌがいみじくも言っているように、「アートとアクティヴィズムとのグラデーション」註5、ArtとActとの絶えざる往還、(当時の私の言葉で言えば)すぐれて「脱芸術」的な実践だったといえるだろう。

(4)「大工」か「美術家」か?:バザールカフェを営みながら

 小山田は、盟友古橋悌二の死後(1995年)、ダムタイプが『S/N』から新作『OR』の制作・上演へと進んでいく中で、美学的・思想的に徐々に変質し、しまいには「転向」すら厭わなくなっていく過程で、他の何人かのメンバー同様、その変質に違和を覚え、悩み、微妙な距離をとっていったように(少なくとも私には)見えた。その「距離」には、私がこの「転向」について書かざるをえなかった批評文がメンバーの間に引き起こした「衝撃」も間接的に影響していたかもしれない。
 おそらくは、そうして少しずつダムタイプの活動から離れていく中で、「ソロ」としての活動・仕事が増えていっただろう。しかし、当時の活動・仕事は「アーティスト」のそれというより、むしろ「大工」のそれと言ったほうが適切であった。ちょうど当時彼と行った対談の中で、彼自身「最近の僕の職業は『大工』なんです」と明言している註6。「大工」として、店舗などの内装工事を請け負いつつ、その一環として1998年ごろから「バザールカフェ」なる新しいカフェ・プロジェクトを有志と立ち上げ、実行していく。同志社大学のすぐ近く、ある宣教師館(これもヴォーリズ設計)の一階部分を自分たちの手で改装し、毎週木金土と営業していたカフェ(現在も小山田の手から離れたが存続している)。少なくとも小山田の中では、先のウィークエンドカフェをより進化・深化させていった「共有空間」の試みであったろう。それは名こそ「カフェ」とあるが、喫茶(滞日外国人たちが日替わりで自国の料理を作る)以外に、あらゆる種類の「障害」のケア、ガーデニング、あるいはNGOに携わる研修生の育成など、通常のカフェの枠組みを超えた多岐にわたる活動を行った。
 当時、おそらくは小山田らの「カフェ」に触発された幾人かのアーティストたち(小沢剛、きむらとしろうじんじんなど)が「カフェ」という装置に着目し、「カフェ」をめぐる作品・活動を行いはじめていた。アート業界は、それらを「アートカフェ」などと呼びたがり、私と小山田との対談も、編集部によりその文脈で組まれた(原題は「特集=アートカフェ対談 コミュニティとしてのカフェ、ノードとしてのカフェ」だった註7
 しかし、小山田は、バザールカフェは「アートカフェ」ではないと言う。確かに自分=アーティスト、より正確にいえばアートというスキルをもっている者が関わってはいるが、「少数派」であって、しかも、他のスキル・経験をもつ人たち(医師、看護師、身障者、患者会、フェミニスト、庭師、大工など)がやはり「少数派」であると同様、そうであるにすぎない。そこには、「アーティスト」としてのいかなる特権も、優遇もない。
 バザールカフェも、ウィークエンドカフェ同様、「コミュニティのカフェ」だと言う。エイズのケア・サポートの世界で知り合った人たちは、その志の高さにもかかわらず、往往にしてストレスで疲弊していた。「そんなときに、グチでもええから、別の活動ではあるにせよ同じベースを持った人たちが集まる時間と場所を自分たちで獲得するのが一番近道と違うか、という話になったんですね。そのとき僕たちが先行してやっていたウィークエンド・カフェのノウハウをそれにつなげたんです」
 そうした「時間」――社会的に制度化され強迫的に脅かしにくる“時”の隙“間”を広げ、弛ませるような“時−間”とでもいうべきものを生み出すためには、各々が一度「自分の職業性、ラベル」を外さないといけないという。完全に外すことは不可能ながらも、とりあえず外してみるからこそ出会えるような、社会的制度に規制された空間の外に半ば開ける“空−間”とでも言うべき場所。「お医者さんではあるけれど皿洗いもできるしコーヒーも飲んでいる、でもお医者さん。それが会話している中で医療的な問題に出くわし専門性が必要になったときにサジェスチョンできる立場に」なれるような、半ば〈外〉の“時空–間”こそが、バザールカフェ。
 「バザール」――持ち寄り、雑居、交換、賑わい。この場を立ち上げていった十数人は、もし各々が「理念」を持ち寄り、「組織化」の経験・ノウハウを持ち込もうとしたら、いつの間にか「理念」「組織化」が優先し、人々を統制しはじめ、やがてはその活動が硬直化することが身に沁みてわかっていた。だから、彼らは「理念」や「組織」よりも「楽しみ」を優先させた。「楽しみ」を持ち寄り、交換=交歓するカフェ。
 だから、モノのデザインも「モダニズム」。が、小山田の言うそれは、エッジの効いたよそよそしいデザインではなく、むしろ「ちょっとダサ目」。「白くて、プレーンで、しっとりくるデザインで、安くて効率的」、「従業員のエプロンや調度品にしても、できるだけ特殊なデザインを放棄して、でもギリギリ保てるものを選択したんです」
 小山田の他のデザインもそうだが、この「モダニズム」は、モノが安らぎ、ゆとりが人を受け入れてくれるような、「しっとりとした」懐の深さをもつ。モノ同士が慎ましく囁きあいながら、そこに居る人たちを仄白く抱擁する。その場の“時空–間”をやさしく開いて、静かな賑わいを醸すデザイン。
 そうして、「デザイン」がないかのようにデザインされた場に、人々は受け入れられ、開かれて、プライベートでもなくパブリックでもない、中間的な、小山田が「共有空間」と呼ぶ〈共〉の“時空–間”を、都度、紡ぎ出す。それは、「バリアフリー」の“時空–間”でもある。もちろん、物理的にもこのカフェはバリアフリーにできているが、同時に社会的・心理的バリアからもフリー、すなわち「沈黙の申し合わせ」としてのあらゆる不可視のバリアの〈外〉=“OUT”を互いに志向しあい、「交通」しようとする場。フランスの思想家、ジャン=リュック・ナンシーの言葉を使えば、まさに「ex-position(外–置=露–呈)」の場(フランス語「exposition」は、通常の用法では「展示・展覧」「露呈・露出」などを意味するが、ナンシーは、「-」を挟むことにより単語をその成り立ちに解体しつつ、存在者が自らをたえず自らの「外(ex)」に「置く(position)」=「さらす」ことでしか実存しえない、そして他者へと開かれえない様をこう表現した)。そこに集う者たちは、戸惑いながらも互いに自己の外、バリアの外へと存在を開きあい晒しあい、〈外〉=“OUT”を深めあっていく。ただそれは、単に互いの「弱み」「傷」を見せあうのではなく、それらを晒しあいながらも、同時に労わる、慈しむ、「ケア」する場でもある。
 小山田は、20年後、当時のことを振り返り、こう発言する。

90年代は、ダムタイプをやっていたっていうのがあって、まわりの人はみんな「美術家」って呼ぶんですよ。「パフォーマンスアーティスト」、「美術をやっている人たち」って。でも、エイズにまつわる様々な活動をしていくなかで、アートの欺瞞とか、そういうのをみんなで話し始めて、積極的にアートであることを否定してみたり、外してみたり、コミュニティカフェをつくってみたりと、逆にすごく意識してアートから外れようとしていた感じがあるのね。でも、外れようとする行為こそが、そのときはアートになって、笑、「めんどくさいなー」とか思って。そのあとソロをやって、食うていくために大工になるわけですよ。いろんな内装工事をやったりとか。食うていくために、朝起きたら「今日の私の職業」っていうのを作り出して、日雇いでも、なんでもやっていく状態のなか、人が集まる場所をつくることに関わるような形で、なんとか活動をしてた註8

 『S/N』を通して、ArtとActを往還する中で、いつぞや「脱芸術」的ヴェクトルが振り切れ、小山田はArtの零度に触れ、身を置き始めたにちがいない。社会的に「アーティスト」として生きるのではなく、「大工」として、あるいはただの「人間」として生き始めたにちがいない。ただ、彼の内には長年培ってきた美術家としてのスキルが身体化されていた。そのスキルを活かし、毎日、「今日の私の仕事」を作り出していたのだろう。「日雇い」の大工仕事でも、知り合いの店舗の内装工事でも、あるいはたまに「アート」的な場づくりでも、彼にとっては、自分の身体化されたスキルが活かされ形を成す点では、同列の「現場」だったであろう。その、Artの零度の地平では、他者から「アート」とみなされる作業も、彼にとっては「アート」だからといって特別な、特権的な作業ではなく、他に作り出していた「職業」同様、(ちょうどバザールカフェの立ち上げ・運営において「アーティスト」が「少数派」であったのと同じように)「少数派」の仕事だっただろう。
 こうして、Artの零度に身を置きつつ、それぞれに「マイナー」な現場をかけもち、小山田は自らのスキルを形にしていった。ところが、いくら自分がArtという言説を身内から振り払っても、自分の外では依然としてその言説は幅をきかせている。今だにその言説に雁字搦めに絡め取られている輩が跳梁している。そして、それらマイナーな現場・仕事を「アート」の新しい試みとみなし、意味づけ、言説に回収しようとする。

でも、そういうことをするようになってからのほうが、俺もうアートから離れて大工をやってるのに、まわりの人がその現場を見たら「アーティストがやっている」と見えている。だから、いちいち反論するのが面倒くさくなって、それを甘んじて受けて、利用する感じになったらすごい気が楽になった。他者が編んでくれた言葉を引き受けて、自分の言葉に変えたりとか、ちょっとも〔ママ〕整理ができて。ことさら自分から「美術」と呼ばなくても、勝手にだれかが「美術」と呼んでくれるっていう並行ラインがあるので、すごく動きが楽になった感じがあった註9

 Artという言説は迫りくる。しかし、それを否定したり、それに反抗するのではなく、「甘んじて受けて」「利用する」。つまり、Artにもはや頓着せず、他の言説に対してと同様、それと戯れ、時にはいなしてみる。ある種の武術にも似た、身の構え、身のこなし。そこに、私が探っている藝術2.0へのとば口が開いているのではないか。

(5)女川常夜灯は100年つづく……

 無残に剥き出しになった土地に、薄闇が滲んでくる。あちらこちらに焚かれた小さな火が、厳かな賑わいを灯す。それらの火を囲み、人々が静かに語らい、笑いさざめき、あるいは黙しながら、霊たちを迎える。津波にさらわれた多くの命、そして先祖たちの霊を迎え、ひとときを共に過ごし、交歓する依り代としての火。
 「女川常夜灯」。小山田は、「対話工房」というチームの一員として、地元の女川町復興連絡協議会と組んで、震災の翌年から、この「迎え火プロジェクト」を立ち上げ、現場の指揮をとった。私も、ふた夏、学生たちを連れ、手伝った。
 またしても、火。なぜ、火なのか。焚き火なのか。小山田によると、おそらくは人類と共に古く、我々のDNAにも刻み込まれているはずの焚き火が、ここ40年ほど、特に都市部でほとんどなされなくなった。その、人類としての「不全」に気づき、それを取り除く行為こそが「アート」だという。いや、彼流の言い方では「たまたま『アート』というのを使ってみた」註10という。
 震災直後、女川でも、他の沿岸の被災地同様、人々は火を焚くことで辛うじて生き延びた。「あの時の火は命に見えた」という地元の人の言葉に、小山田も感じ入る註11。それなのに、復興が進み、仮設住宅から復興住宅へと移り住みはじめると、それまで焚き火を囲みながら語らい、物事を相談していたはずが、よそよそしい「会議室」での「会合」になってしまい、いつの間にか、居住の安寧を慮って焚き火がご法度になるという「不全」が、ここ女川でも起こっていた。
 その焚き火を、なんとかお盆の時だけでも復活させたい。命の、生存の象徴ともいうべき火、そして死者たちの霊を迎え、共に語らう霊媒としての火を。しかし、「大きな」火――「大きな中心性を帯びたイデオロギーめいた」註12火ではなく、「小さい」火をたくさん。かつて「生活」が営まれていた各々の「家」のあたり、、、で、火を起こし、囲みながら、この世とあの世の「家族」が、しばしの間、団欒を楽しむ。かつて「町」であった、今やむき出しの土地のあちらこちらに、それぞれのやり方で灯される小さい火。そこに、小山田や私のような外から来た者たちが混じり、団欒のお裾分けをもらったり、各々の今の生活、これからの生活への思いを交わす。
 「迎え火を『今後100年継続するぞ』という地元の方々の決意を聞かされ、私は、女川との関係性も100年継続することを私の子どもの代まで含んで考えねばならないと強く思うのである註13
 100年の後、もはや小山田も、私も、そして今ここに生きている住民たちのほとんども、霊と化しているであろう時、この「常夜灯」は、災厄の記憶と共に、受け継がれ、町のここかしこに「小さい」火を灯しつづけていることだろう。それは、もはや「アート」でも、「プロジェクト」でもなく、この町の営みにしかと根づいた「祭り事」と化していることだろう。

(6)火と人間

 「およそ人類のあらゆる発明の中で、火をおこす方法の発見こそは、最も記念すべきものであり、その影響力も大きかった註14
 「生命の長い歴史のなかでも特筆すべき“変移”であるホモ属(ヒト属)の出現をうながしたのは、火の使用と料理の発明だった註15
 小山田は今や、Artの零度どころか、文化の零度、いや文明の零度に赴く。「人類」とともに古い火――寒気から守り、野獣を遠ざけ、料理を可能にし、魂の交流を促す火。人類が人類であることの基底に、何百万年と灯されつづけてきた火。私たちの藝術2.0の特徴の一つに「原点回帰」を挙げたが、火はいわば「原点の原点」、人類とその文明を誕生から灯しつづける「原点」に他ならない。
 人類は、まさに火と共に「共進化」してきた。「人間は火を発明したのではない。デボン紀初期から存在するプロセスをとらえ、飼いならし、人間の目的に合うように変化させる方法を見つけたのである。人間が火を利用した期間は、長く見積もっても(ホモ・エレクトゥスも含めて)、地球上に火が盛大に燃えていた時間の0.5パーセントにも満たない。しかしながら、その時以来火と人間は、互いの数を増やしながら、共生そのもののような共進化を遂げてきたのだ。註16
 火、とはそもそも何なのか。突発的な熱エネルギーが投入され、酸素が急速に炭化水素と結合し光と熱を放出する酸化反応である。この反応を生じさせるには、だから熱・燃料・酸素という「火の三角形」が必要である。その「三角形」が地球上で最初に現れたのが、古生代であり、以来、火は、稲妻や火山の噴火、あるいは木々の摩擦熱などにより発生し、生態系を間歇的に作り直してきた(火の第一の時代)。しかし、今から約200万年前、それまで物理的なプロセスでしか発火しえなかったところに、人類が火を手に入れ、起こすという「革命」が出来する。しかも、多様な生物種の中で人類だけが、火の扱いを独占することになる(火の第二の時代)。そして、今から約200年前から、人類は化石燃料を燃焼させ、産業の基幹エネルギーとした。「人類は地質学的な過去から化石燃料を取り出して燃やし、地質学的な未来に燃焼による排出物を放出している。そして今日の人類は、有毒な排出物と温室効果ガスという重荷を背負うことになった註17」「人新世 (anthropocene)」としての火の第三の時代。こうして、人類は、地球上での火の歴史に棹差し、火の扱いを独占しつつ、火と共に共進化してきたと言えよう。
 私たちは、火を前にし当たっていると、存在の内奥、生命の源が心地よく疼き、その絶えず揺らいでやまない炎に魅せられる。確かに人間は火と共に共進化してきたがゆえに、そうであるとも言えるだろう。しかし、それだけではない。実は、火と生命には、さらにミクロな、分子的親和性があるのだ。私たちの生命を司っている呼吸とは、「ゆっくりした」燃焼に他ならないのだから。
 呼吸は、酸素を用いて有機物を、水と二酸化炭素に分解し、エネルギーを生み出す反応である。火による燃焼の反応も、これと全く同じ過程をとる。違いは、①反応のきっかけが燃焼の場合、発火などの高温であるのに対し、呼吸の場合は、低い温度で酵素の働きにより反応が進む。②燃焼の場合、光と熱エネルギーが一挙に放出されるのに対し、呼吸の場合は、反応がゆっくりと進み、化学エネルギーが放出され、細胞内のATP(アデノシン三リン酸)に蓄えられる。
 私たちは、前回、発酵が、光合成や呼吸という「効率のいい」エネルギー獲得方法に対し、「効率の悪い」エネルギー獲得の「第三の道」であることを見た。そして、ATPが、こうして生態系を巡る生命エネルギーの環=ギフトエコノミーの循環における「共通通貨」であることを確認した。その環を、火が、燃焼が、時折、諸処で焼尽し、更新する。
 だから、呼吸は、細胞内で起こる「ゆっくりした」「低温」の燃焼とも言えるし、逆に燃焼は、細胞外で起こる「素早い」「高温」の呼吸と言えなくもないのだ。
 呼吸する生命の一つ、人間は、燃える火に独特の親和性を感じる。生命の根源が疼くほどに魅せられる。なぜなら火は、呼吸する生命の外在化、急速な焼尽に他ならないから。
 「あの時の火は命に見えた」という女川の人の言葉は、まさにその親和を直感的に言い当てたものだ。

(7)藝術2.0の方へ

 私は前回、小倉ヒラクの「発酵文化人類学」について考察しながら、藝術2.0は「冷たい」クリエーション(みそ作りや酒造りのような先祖伝来回帰的に営まれてきたモノ・コトづくり)へと原点回帰しつつも、それを「熱い」クリエーションによって再デザイン化する技ではないか、と問うた。そして、「熱い」クリエーションが起動する基盤には、小倉が「OSとしてのアート」と呼ぶものがインストールされているが、その実態は、デジタル・メディアを手にした「小さなクリエーター」たちがサンプリングし編集してきた“美”のシミュラークルと、彼らが地球をめぐる「リアルな」旅の途上で「狩猟採集」してきた文化的・美的断片との奇妙な混成体、各々が両者を特異な形で編み込んだ「小さな物語」なのではないか、と問うた。
 小山田もまた、焚き火という「原点の原点」、おそらくは人類にとって最初の「冷たい」クリエーションにまで回帰する。では、小山田において、それを再デザインする「熱い」クリエーションとは何なのか。それこそ、彼の内に身体化された「スキル」、彼がいまだに辛うじて「美術」と呼んでいる技なのではないか。その「スキル」「美術」を、彼は世界的に活躍するアーティスト集団の一員として、Artの真っ只中で、しかし、それを零度に至るまで縦断する形で、体得し、発酵させ、さらには蒸留していったことだろう。それこそ、彼が逆説的に「モダニズム」と呼んでみせる、デザインなきデザインの技、限りなく零度に近いデザインなのだろう。「白くて、プレーンで、しっとりくる」「ちょっとダサ目」な「できるだけ特殊なデザインを放棄して、でもギリギリ保てるもの」なのだろう。「なにかの間にあるものをさわる」ことによって「新しい価値観や回路をつくる」こと。「だから焚き火場を開くときも、ロケハンから始まり、ちょっとした距離とか、ベンチの置き方とか、火の大きさの具合とか、受付の方向とかね、細かいところなんやけど大切で。そして、そういうところはなかなか説明し得ない。こだわりと、ある種の勘になってる感覚がある気がする註18
 その、デザインの「吟醸」ともいうべき「美術」に、彼のもう一つの欲望、狩猟採集癖が混入する。彼は、地球のいたるところを歩きながら、人間が打ち捨て、忘れ去ったモノの断片を拾い集め、「デザイン」の、「美術」の素材とする。都市を彷徨しながら「ゴミ」を拾い、洗い、屋台様のカウンターで訪れる者たちと共に小さな板の上に「コラージュ」する(「カラス板屋」)。あるいはアメリカ合衆国を3ヵ月かけて横断しつつ、時には荒野をさまよい、原住民たちの「遺品」を拾い集める(「風景の記憶」)。さらには、洞窟に入り込みながら未知の空間を「採集」し、実測図を作る(「Com-pass Caving Unit」)註19。そうして、小山田は、人類により忘れ去られた断片を採集し、蘇らせ、新しい関係性、「回路」を紡ぎだしていく。小山田の「小さな物語」、「OSとしてのアート」とは、だから、地球上(中)から「狩猟採集」してきた断片たちの「間にあるものをさわる」、デザインなきデザインの「モダニズム」=「美術」と言えるだろう。
 その「美術」「スキル」を、彼は、いわゆる「美術界」「アート界」で活かすだけでなく(その場合でも「たまたま『アート』というのを使ってみた」にすぎなかろうが)、むしろ積極的に他の世界――彼にとって「アマチュア」にならざるをえない世界に持ち込み、試し、磨きをかける。「自分がプロフェッショナルとしているスキルを翻訳してアマチュアの世界に持ち込んで通用した時に、初めて本当のスキルになるのではという気がしています。美術業界、ダンス業界のスキルは、業界で通用するスキルなんです。それが、自分にとってのアマチュアの世界で本当に活かせる時が、良いスキルになるのかなと註20
 そうして小山田は、己れの「スキル」「美術」を、カフェに、屋台に、焚き火に、さらには大学、塾(彼はパートナーと塾も営む)、家庭にまで持ち込み、その技を磨く。しかし、その技は、およそ「技巧を凝らす」という意味でのそれではなく、むしろそれが「技」なのかどうかさえ気づかれないほどの技、「無技の技」とでもいうべきものに近づいていく。
 モノとモノの間をほんの少し「さわる」だけで、その「無技の技」に無意識に促されて、人々が集い、語らい、黙しあい、その沈黙、呟きを通して、ex-poser(露–呈=外–置)しあい、“OUT”=〈外〉で「交通」し交歓する「共有空間の獲得」。そして、彼らの間には、火が、呼吸する生命の疼きそのものである火が、その炎を閃かす。炎が刻々と姿を変えるように、私たちの生も生滅流転する。そうして森羅万象、生きとし生けるものが、燃えては消え、消えては燃える中で、今ここだけの一期一会を楽しむ。「サムシング・スペシャル」な共有空間。

註1:「still moving(PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭 特別連携プログラム/京芸 Transmit Program #6(京都市立芸術大学移転プレ事業))の一環として行われた。(会期:2015年3月7日~5月10日)
註2:かつて私は、カフェの「脱資本主義的」可能性について論じたことがある。「カフェは〈脱資本主義〉的文化の温床たりえるか?」(熊倉敬聡『美学特殊C』、慶應義塾大学出版会、2003年、96-106頁)。
註3:ダムタイプについての、私の代表的な論考として以下がある。「ダムタイプ――愛=交通としての身体へ」(熊倉敬聡『脱芸術/脱資本主義論』、慶應義塾大学出版会、2000年、100-118頁)、「ダムタイプ、二つの『memorandum』――それは、我々に投げかけられた問いなのか?」(熊倉敬聡『美学特殊C』、159-171頁)。昨年、『S/N』を中心としたダムタイプについての国際的論集が出版された。The Dumb Type Reader, edited by Peter Eckersall, Edward Scheer and Fujii Shintaro (Copenhagen: Museum Tusculanum Press, 2017).なお、私の後者の論も収録された(“Two Memoranda: Was That a Question Thrown to Us?”, pp.179-187.)
註4:「通常の価値観でいえば、それは単なる“下手”とか呼ばれるものですが僕は一層そこを注意深く見つめたい。そんな自分勝手なノイズを見せられる観客もたまったものじゃないですが、でもそんなノイズを人様にお見せできるような“モノ”にする」(西堂行人「古橋悌二にきく」における古橋の発言。『第1回神奈川芸術フェスティバル コンテンポラリー アーツ シリーズ』パンフレット、神奈川芸術文化財団、1994年)。
註5:『review』、6号、1996年1月。
註6:「もう一つのカフェの可能性――バザール・カフェ」、熊倉『美学特殊C』、107-124頁。
註7:『Artscape』、2000年7月31日号、
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/special/0007/artcafe/taiwa_1.html
註8:小山田徹、桜井肖典、熊倉敬聡「プリミティブな感覚から生み出されてきた術は言語を越えて交換できる」、『PLAY ON』、2017年11月11日、
https://playon.earth/think/dailogues/koyamadatoru/
註9:同上。
註10:同上。
註11:小山田徹「迎え火考」(『ネットTAM』、「震災復興におけるアートの可能性 第6回 女川常夜灯『迎え火プロジェクト』」所収、https://www.nettam.jp/society/fukkou/6/?utm_source=internal&utm_medium=website&utm_campaign=author
註12:小山田徹「対話をし続けること 共有空間の獲得」(『生きることが光になる』、http://100.itogazaidan.jp/report/report_8
註13:小山田「迎え火考」。
註14:J.G.フレイザー『火の起源の神話』、青江舜二郎訳、ちくま学芸文庫、2009年、12頁。
註15:リチャード・ランガム『火の賜物』、依田卓巳訳、NTT出版、2010年、3頁。
註16:スティーヴン・J・パイン『図説 火と人間の歴史』、鎌田浩毅監修、生島緑訳、原書房、2014年、22-23頁。以下、火と人類の関係については、主に同書のプロローグ「三つの火」と第1章「燃焼を創造する」を参考にした。
註17:同書、9頁。
註18:小山田、桜井、熊倉「プリミティブな感覚から生み出されてきた術は言語を越えて交換できる」
註19:彼は、洞窟探検グループ「Com-pass Caving Unit」メンバーであり、日本洞窟学会会員でもある。
註20:小山田徹、坂本公成、座談会「空間は制度をつくるか? オルタナティブとパブリック」(『KAB Dialogue vol.17:インスタレーションの実験場から、場の共有に向けて』、http://kyoto-artbox.jp/dialogue/13027/

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熊倉敬聡(くまくら・たかあき)

1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours
タイトル絵:熊倉百香

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