第四回 オリンピックは地球規模の「ひとつの体」を学ぶ学校――体育と教育と医療

はじめに

 医療は人間の全体性を扱うものである。
 人の体も、人の心も、部分と全体からできている。全体は部分がないと成立しないし、部分は全体のためにも存在している。全体と部分とは、そうして響き合い、補い合う関係性である。
 人の体も特定の部分ばかりを使いすぎて体の全体性が失われてしまうと、復元力や調和の力がおのずから働いて、バランスをとろうとする。裏側の見えない動きの中で、体や心の症状として表の世界に顕在化してくることがある。全体性の喪失があまりに行き過ぎた場合には、もっと大きな問題として体や心の病のような形で顕在化してくることもある。
 人の体は約60兆(60000000000000)個に及ぶ多細胞生物である。一つの細胞から成る単細胞生物と比べると人間の体が複雑なのは当然のことだ。約60兆個の細胞で体が作られていることを考えると、それぞれの細胞には相応の役割があり、それなりの意味があるはずだ。ただ、そうした人体の壮大な全体像には意識が向きにくい。大事なことは、生命体は部分と全体で役割分担・分業をしながら、同時に協調・協力・調和を図っているということである。その創意工夫は進化の歴史そのものでもあり、同時に生命の前提でもある。
 体だけではなく、心の構造も全体性を持っている。複雑な体を運用するために、心も複雑化せざるを得なかったのは当然なことだ。意識から無意識まで、表層意識から深層意識まで、立体駐車場のような層状の構造として複雑化せざるをえなかった。そうしないと、約60兆個に及ぶ体を滑らかに運用するのは不可能に近くなってしまった。ただ、そうして無意識の世界で体や心が運用されている仕組みをとったのは生命の知恵と言ってもいいだろう。特に意識しなくても、寝ている時でも、命は自動的に最善の選択肢を選びながらよりよい生を支えてくれているのだから。

 臨床医として医療現場で働いていると、「予防医学」の必要性を強く感じる。「病院」は「病」を扱う場所であるため、「病」として発症してしまった切羽詰まった状況に対して、医療スタッフは誠心誠意、必死で対応をする。治療が功を奏することもあれば、もっと早く見つかっていれば色々な手が打てたのに……と、悔しい思いをすることもある。だからこそ、体や心に対する日頃からの養生法や、病に至らない予防を行うこと、未病と言われるように病に転じる前に対策をとること、そういうことも医療では重要なことであると切実に感じている。
 ただ、そうした予防医学自体が「西洋医学」の枠内で論じられることが多いため、予防医学を特定の視点だけで捉えてしまうと、むしろ心身へのアプローチを狭く限定的なものにしてしまう。予防医学において大切なことは、体や心の本質を学び知ることにあると思うのだ。そのことが結果的に予防や未病につながる。それは抽象的で思弁的なものでは決してなく、あくまでも自分自身の体や心を切実な教材として、自分自身の問題として接していくものであると思う。人体は複雑なので、個別にしか適用できないものもあれば、普遍性を持って他の人にも広く適用できるものもあるだろう。個別にしか適用できない方法論は他者に押し付けをせず自分自身のために大切に使えばいいものだし、普遍的に適用できる方法論は出し惜しみせず広く共有していけばいいものだ。体や心の深い本質を学ぶことは、自分自身の心身への感受性を育む土壌となる。まず、自分自身のいのちを感じることが大事だろう。
 現在の学校教育では、体の基礎的なことを学ぶ機会に乏しい。そうすると、大人になり体の不調があるときに、全ての判断を医者や病院へ預けてしまうことになるし、インターネットなどで分かりやすい情報に安易に手を出してしまうことになる。西洋医学で嫌な体験をしてしまうと、反西洋医学の方向へと大きく振れてしまうことがあり、西洋医学と非西洋医学とが対立する構造を引き起こす原因にもなっているのではないだろうかと、患者さんとのやりとりから感じていた。
 だからこそ、ある特定の分野にこだわることなく、体の本質を学ぶ場としての教育の場が必要ではないかと思う。それは本来的には「体育」の目的とも重なるだろう。体や心や命に関することは、頭で理論的に学ぶことも大事だが、それ以上に自分自身の腑に落ちるように自分自身の体で実践的に体験として学ぶことも大事だ。
 「体育」は体を育て、育むことだが、体育の究極の形がオリンピックのような世界規模の体の祭典になるのではないかと思う。体の本質を理解することは、結果的に予防医学になる。医学も体育も教育も、体や心という共通の土台に立てば、同じことを別のやり方で行っていると考えることができる。それぞれの分野の違いも大事だが、共通の土台を探すことも、お互いを分かり合うためには大事なことだ。

体の教育

 わたしたちは、生まれた時から「体」を与えられて生まれてくる。体は一朝一夕にできたものではなく、秘められた生命の歴史が詰まった芸術作品のようなものである。ただ、すべての細胞や臓器がどのような性質を持って働いているのか、どういう歴史的な由来があるのかは、自分自身が主体的に体と対話していかないと分からない。わたしたちは誰もが体を与えられているが、その使い方を適切に教えることができる人はいない。生まれてから大人になっていく過程の中で、それぞれが見よう見まねで体を運用しているのが現状である。なぜなら、体は食(固体食、液体食、気体食)さえ維持できていれば自動的に生きて動いて働いてくれる優れた仕組みが備わっているからだ。だからこそ体の使い方はどうしても自己流となる。それぞれに与えられた異なる体の条件の中で、最善をはかりながら体を運用して生きていく。
 体の能力を最大限に引き出して使っている人たちの体の動きは美しい。それは「競技」や「競争」という形をとるほうがわかりやすいため、「勝ち負けを競うスポーツ」という形で、鑑賞し、感動し、歓喜する。ただ、体の使い方は一種類しか存在しないわけではない。体は約60兆個の細胞から構成されているため、その組み合わせは天文学的な組み合わせになるし、一人一人に与えられた体の前提条件は、当然のことながら全員が異なるからだ。

 体が不調和になったとき、調和へと戻っていくお手伝いをする仕事が医療職の役割とも言える。その時に思うのは、人の体は常に調和への道を模索し、常に別の形での調和へと動き続けているということだ。体や生命は、「多様性と調和」という難題をいとも容易く成し遂げている。なぜなら、それは到達すべき目標というよりも、生命の前提であるからだ。体の局所的な部分ではなく、全体を見るように努めていると、そうしたことに気づかされる。

 医療現場では、過剰なスポーツをして体を壊した人も数多く診る。過酷なスポーツの勝ち負けの世界で体や心が壊れてしまった人もたくさん診てきた。人の体を客観的に診ていると、現代スポーツのあり方が本来とは逆の方向へ向かい続けているのはないかと危惧している。運動やスポーツは、体を健やかに維持し続けるために行うことが前提にあると思うのだが、現代のスポーツは体の原理原則を忘れ、一過性の「勝ち負け」の問題だけに強くこだわり過ぎているのではないかと感じてしまう。だからこそ、スポーツの頂点として存在するオリンピック自体が、体の別の在り方を提案してもいいのではないかとさえ思う。

 オリンピックはもともとは平和の祭典である。古代ギリシア時代に、近隣の戦争を一時的にでも終結させる手段として開催されていた。そうであるならば、オリンピックは平和の祭典としての本来の目的に戻り続ける必要があるのだと思う。二〇二〇年は東京でオリンピックが行われる予定だが、オリンピックの祭典を「祭り」という言葉に変えてみれば、「祭り」こそは古来から日本人が行い続けてきた、深い霊性の発露としての伝統行事そのものでもある。

 まず、現代スポーツの頂点として君臨しているオリンピックの歴史をひも解いてみることから始めてみたい。

オリンピックの歴史 平和の祭典

 最初の古代オリンピックは紀元前776年に始まったとされる。日本史でいえば縄文時代である。その後、約1000年後の西暦393年に一時中止となったが、1896年に近代オリンピックとして第1回アテネ大会が復活し、2016年の第31回リオデジャネイロまで続いている。オリンピックは、そうして紀元前の古代オリンピックと、1000年の時を経て1896年に復活した近代オリンピックに大きく分かれる。
 紀元前の古代オリンピックは近代のように世界規模のものではなく、ギリシア内を中心に行われ、ポリスという小さな都市国家が多く集まって開催されたものだった。世界最初の民主主義もギリシアから生まれたとされているが、小さな都市国家であるポリス(polis)を語源として、ポリティクス(politics:政治)、ポリシー(policy:政策)、ポリス(police:警察)など、現代でも使われている言葉が生まれており、現代でも大きな影響が残っていることが言葉の中に込められている。

 紀元前の古代オリンピック自体はどのように始まったのだろうか。それはギリシア神話で語られていた神々の競技会を神託で受けたことが始まりとされる。紀元前776年に古代オリンピックが始まる前、オリンピア周辺の地はポリス(都市国家)間の戦争に明け暮れていた。『ギリシア案内記』を記したパウサニアス(115-180年頃)によると、戦争と疫病で国土が荒廃した状態を見かねたエリスの指導者であるイフィトスがデルフォイにて神託を受けた。「あなたたちの力でギリシア神話の中で語られているオリュンピア祭を復活させなさい」と。神話で語られているオリュンピア祭を復活させることで、戦争に使われていた破壊のエネルギーを平和の祭典としての競技会へと向けさせることにしたのだ。こうして第一回の古代オリンピックは紀元前776年に開催されることになる。大祭の期間中は休戦を布告し、イフィトス自らが競技の審判も行なったとされる。第50回大会(紀元前580年)まではエリスの王が大祭を取り仕切り、オリュンピアのゼウス神殿内には休戦の女神から冠をうけるイフィトスの像もあった。ちなみに、古代オリンピックでは「聖火リレー」は行われていなかった。「聖火」は近代オリンピック以降の第9回アムステルダム大会(1928年)に作られ、「聖火リレー」は第11回ベルリンオリンピック(1936年)から行われたものである。
 ただ、古代オリンピックでは祭典が始まる前に「選ばれた三人の使者がオリンピアから出発して、ギリシアのすべてのポリスを巡る」ことが儀式的に行われていた。三人の使者はオリーブの葉を編んで作った冠をかぶって杖を持ち、「スポンドフォロイ」と呼ばれていた。「スポンドフォロイ」とは、「停戦を運ぶ人」という意味である。使者の最も大切な目的は「オリンピック停戦」を宣言して回ることであり、祭典の期間中にはすべての戦闘行為を禁止する宣言をしてまわった。戦争だけではなく、死刑の執行や訴訟行為までも禁止されたとされる。「スポンドフォロイ(停戦を運ぶ人)」は、多くの人々の平和への思いを背負って、「一切の争いをやめよ!」と叫びながらギリシア中のポリスを巡り走り続けた。

 古代オリンピックが始まって約300年経った頃、ギリシアの隣にあったペルシア(今のイラン)が何度も戦争を仕掛けて来たことで、いくつものポリスが支配された。その後、ポリス同士が、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟と二手に分かれてギリシア全域を巻き込む三十年近いペロポネソス戦争(紀元前431年-404年)を続けたこともあった。しかし、その間も平和のための古代オリンピックは続けられていた。
 古代オリンピックは、オリンピアを中心として一地方の競技会として始まったが、次第にギリシアの人々の支持を集め、エジプトやシリアをも含む地中海周辺を巻き込んだ大競技会へと発展して行った。このことは、ヒッピアスが作った「オリンピック優勝者年表」が残っており、その優勝者の出身地から分かったことである。

 古代オリンピック最盛期のプログラムの例を紹介する。

午前午後夕方
1日目選手と審判の宣誓式、神への祈り哲学者の演説、詩人や歴史家の朗読自由行動
2日目戦車レース、競馬五種競技宴会
3日目ゼウス神殿までのパレード・礼拝行事徒競争宴会(満月)
4日目レスリングボクシング・パンクラチオン武装競争
5日目優勝者のゼウス神殿までのパレード・表彰式・宴会

 当時の競技場の収容人数は約四万人と見積もられており、かなり大規模な催しだったことが分かる。
 五日間のプログラムの中で、中心日である三日目が満月になるように日程が構成されている。これは、天地自然のリズムと月のリズムの中で古代の人々も暮らしていたことを物語るものである。また、初日の午後にはオリンピックの始まりとして哲学者の演説、詩人や歴史家の朗読が行われていることも特筆すべきことである。哲学は非常に重要な地位を占めていたことがわかる。体を動かすことと、頭を使うこと、心を使うこととは同じ次元のものとして組み込まれていた。古代オリンピックでは、哲学だけではなく、詩や歴史の朗読も行われており、オリンピックと芸術や歴史などの学問との関係性を考えなおす上でも非常に示唆に富むものだ。現代ではそれぞれの分野があまりにも分離・分断されて隔たったものになっているが、古代オリンピックでは体を使うことと、哲学や詩や歴史とが一つの場で統合され、周囲の地域(ポリス)を結びつける役割をも担っていたことが分かる。
 ちなみに、ヘロドトス(紀元前485-420年頃)という学者は、第84回古代オリンピック(紀元前444年)にて自作の『歴史』という文章を朗読し、大きな評判になった(ヘロドトスの『歴史』は現代でも岩波文庫から発売されていてわたしたちが手に取ることができる)。オリンピックという舞台で自身の哲学や詩を発表したいと思う人は、ゼウスの神殿の中で自由に発表できた。そこではフリーマーケットのように各地の特産品や食料の売り買いもされ、彫刻作品などの芸術作品も発表・販売できるようになっていたらしい。そうした自由で開かれた場としても、古代オリンピックは存在していた。
 二日目には戦車レース、競馬が行われている。これは、戦争をするために作られた戦車を別の競技へと変換することで、戦争の無益さを客観的に考え直す効果もあったのではないだろうか。勝ち負けが目的ならば、人を殺める必要は全くないのだ。
 二日目の午後から、はじめて五種競技がはじまる。五種競技は、一人で徒競争、幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリングの五種を競うものであり、五種競技の優勝者は全競技の優勝者とみなされるほど、人びとから賞賛された。当時、体を部分的ではなく総合的に使う能力に秀でたものこそが、最も高い評価を受けていたわけだ。
 三日目にはゼウスへの生贄をささげる重要な宗教的儀式が行われていた。大祭壇の前では牛が百頭近く解体され、焼かれていたとされる。この日は満月に行われている。多神教に基づくゼウスやギリシアの神々という超越的な存在を軸としてオリンピックは構成されていた。
 四日目にはレスリング、ボクシング・パンクラチオン、武装競争などが行われている。パンクラチオンは、噛みつくこと・目をつくこと以外は何でもあり、という激しい格闘技だった。こうした競技も、戦争に使われた個人の怒りや憎悪のエネルギーを、スポーツに変換させて別の形へ昇華させていたのだろう。それは国内外で起きている戦争へのアンチテーゼとしてもオリンピックが開催されていた意義でもあったと思われる。
 五日目の最終日には優勝者を讃える日となる。ゼウス神殿の前で一人一人名前を読み上げられ、オリーブの葉冠をかぶせてもらう。式の後には盛大な宴会が催されていたようだ。

 古代オリンピックが始まって600年ほどした頃(紀元前146年)、ローマがギリシアのポリスを支配するようになったが、ローマ支配下になってからも古代オリンピックは継続され、その後さらに500年もの間継続して開催された。特筆すべきは、古代オリンピックは約1200年もの間(約300回)、一度も中止されずに継続されていたということだ。戦争中であっても、むしろ戦争を中断してオリンピックを継続していたのだ。というのも、そこにこそオリンピックの大きな意義があったからだ。
 古代オリンピックは少なくとも5回は中止された、という意見もある。しかし、その内訳は以下のようなものだ。3回は、ギリシア人内部の開催主導権争いがあったため正式なオリンピックではない、とする説だが、オリンピック自体は開催されている。1回はローマの独裁官スッラが、ギリシアのオリンピアではなく無理やりローマで開催したためである。しかし、その次のオリンピックは再度オリンピアで開催されるように戻されている。残りの1回は、ローマの皇帝ネロが個人的都合で無理やり2年遅らせて開催した大会があるためである。確かに開催が2年遅れたのは事実のようだが、次のオリンピックはその2年後に行われ、再び4年周期の開催に戻されている。いずれにしても、多くの人が、オリンピックの伝統や思いを尊重し、戦争中であろうとも中断せずに継続していたことは重要な事実だろう。

オリンピックの中断と復興 宗教・戦争

 その後、古代オリンピックは残念ながら西暦393年が最後の年になってしまった。
 その主な理由は、ゼウスやアポロンというギリシアの神々を信仰することが391年にローマ帝国で禁止されたからだ。このことが古代オリンピックの終わりを決定的なものにした。バラバラになっていたローマを一まとめにするために、当時は大きな力を持っていたために異教として排斥していたキリスト教を、コンスタンティヌス皇帝が313年に公認した。その考えを継いだテオドシウス皇帝は、390年にデルフォイの神託所を閉鎖し、391年にはキリスト教以外の宗教を全面禁止とし、キリスト教を正式にローマの国教としたのだった。そうしてローマの信仰形態が多神教から一神教へと大きく変更された後に、多様な神々の庇護の下で行われていた古代オリンピックも393年に中止されてしまった。多様な価値観を受け入れられなくなったときに、古代オリンピックも終わりを迎えた。
 426年には皇帝テオドシウス二世の命令で、オリンピアの競技場の建物も徹底的に破壊されてしまう。競技場の跡も、2回の大地震と洪水により4mの土砂に覆われ、再び発掘されるまで1000年以上もの間静かに地下に埋もれてしまうことになるのだ。
 もちろん、その間にもオリンピックの精神は細くとも残り、別の形で続いていた可能性も指摘されている。歴史家トインビーは、600年頃まではシリアのアンティオケイア近くのダフネで、「隠れオリンピック」が古典的な規定に従って開催されていたと指摘している。

 紀元前776年に始まり、紀元後393年に中止となるまで1000年近く続いていた古代オリンピックだが、実際には古代オリンピック自体も宗教的色彩が強くなり娯楽性が高まると同時に、ポリスの名誉や個人の名声を求め、勝ち負けに金銭のやり取りが行われていた形跡もある。選手のプロ化や対戦相手の買収、審判の不正なども生じるようになり、古代オリンピック本来の平和や調和の目的が失われていたことも衰退の背景にあっただろう。  古代オリンピックの終わりは、「古代」という一つの時代の終わりを告げる出来事でもあった。これ以降の時代は「中世」と呼ばれ、古代と区別される。

 その後、1500年もの間忘れられていた古代オリンピックを復活させたのは、クーベルタン(1863-1937年)というフランス人である。1896年に近代オリンピックとして第一回アテネ大会を開催するきっかけを作った重要な人物である。
 ただ、クーベルタンが提唱する前に、古代オリンピック復活の兆しはイギリスの地方を含め小規模な形で芽生えていた。1850年頃から、イギリスのマッチ・ウェンロックという小さな町で、地域住民が参加する「ウェンロック・オリンピック」という小規模の競技会が開かれていたのだ。これは、地元の医師ウィルアム・ブルックスが、同時期のオリンピア遺跡の発掘に刺激を受けて始めたとされる。貧富の差や階級の違いを超えて住民が参加する催しは、当時としても画期的なものだった。この競技会の規模が大きくなり、1860年にはウェンロック・オリンピック協会、1866年にイギリス・オリンピアン協会が設立される。
 1890年、ウィルアム・ブルックスはイギリスに滞在していたクーベルタンを「ウェンロック・オリンピック」に招待した。クーベルタンはフランスの教育にイギリスのスポーツ教育を取り入れようと学びに来ていた時だったが、クーベルタンはこのブルックスの新しい試みに感激したのだった。このとき、クーベルタンは27歳、ブルックスは81歳だった。

 若きクーベルタンが青春時代を送ったフランスは、普仏戦争(1870-1871年)の敗戦を引きずった暗い時代だった。この状況を打開するにクーベルタンは教育改革が最も重要だと考え、当時のエリートコースである軍人の道を捨てて教育者の道を選んだのだ。スポーツをどのように教育改革に取り入れるか模索しながら、スポーツが国際交流や平和へのきっかけになる可能性も感じていた。
 1767年、オリンピアの遺跡の一部がイギリスの調査隊によって発見され、1852年にドイツの考古学調査隊によりオリンピア遺跡の全容が発掘された。そのためにブルックスの「ウェンロック・オリンピック」を始めとして、小規模なものではあったがヨーロッパ各地で「オリンピック」と銘打った競技会が行われていた(スカンジナビア・オリンピック、ギリシア・オリンピックなど)。クーベルタンは1890年にイギリスでの「ウェンロック・オリンピック」を見て古代オリンピックの理念が継承されたあり方に深く感動し、スポーツ教育の理想の形として「古代オリンピックの近代における復活」を思い描くようになった。つまり、クーベルタン自体も勝ち負けを競うものではなく、あくまでも「体の教育」が国際平和にもつながるものとして近代オリンピックの復活を考えたのだった。

 1894年6月、パリの万国博覧会の時に開かれたスポーツ競技者連合の会議で、 クーベルタンは「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために古代オリンピックを復活させよう」と、オリンピック復興計画を議題に挙げた。その場で、2年後の1896年に近代オリンピック復活の第1回目がギリシアのオリンピアで開催されることも同時に採択された。その時に4年ごとの開催や国際オリンピック委員会(IOC)などオリンピックの枠組みも同時に決定された。

 オリンピックのシンボルである五輪のマークもクーベルタンが考案したものだ。青、黄、黒、緑、赤の色は、地色の白を加えれば世界の国旗のほとんどを描くことができるという理由で選んだと、クーベルタン自身が書き残している。また、五つの輪が五大陸の結合・調和をあらわしていると、オリンピック憲章にも記されている。
 クーベルタンが古代オリンピックのあり方に大きなヒントを得て、体の教育と世界の平和とを結びつけた国際競技大会を実現しようとしたことが、オリンピック復興への大きなムーブメントのきっかけになったのは間違いない。ただ、それはクーベルタン一人だけの発案ではなく、当時の草の根的な人びとの思いや動きとリンクしたものだった。

近代オリンピックと日本

 では、日本は近代オリンピックとどのような関係を持っていたのだろう。日本の近代オリンピックの参加は、1912年の第5回ストックホルムが最初とされている。参加選手はマラソンの金栗四三(かなぐり しそう)、短距離走の三島弥彦の大学生二人、役員は団長の嘉納治五郎、監督の大森兵蔵の2人とごく少数だった。
 ただ、日本人の初参加は1904年の第3回セントルイス大会が最初ともされている。なぜなら、この大会には北海道から4人のアイヌ民族が参加し、やり投げで3位、アーチェリーで2位という好結果を得ているからだ。ただ、この第3回セントルイス大会はいわくつきの悪名高い大会ともされる。というのも、第3回は第2回パリ大会と同様に万国博覧会の中で開催された競技会だったのだが、万国博覧会は西洋文明の進歩を称賛する場として構成されていた。その演出の中で、文明国の進歩を引き立たせるために、「未開」の民族の展示場が作られ、そこにアメリカの先住民であるスー族やプエブロ族、フィリピンのネグリトなどの少数民族、アフリカのピグミー族やズールー族、そして日本からアイヌ民族が集められたために、4人のアイヌ民族が参加していたからだ。

 このセントルイス大会には、IOC委員がほとんど参加しなかっただけでなく、正式な公式オリンピック記録が出版されなかった特異な大会である。人種差別や見世物の風潮が背景にあるとしてクーベルタンはこの催しに不快感を表し参加すらしていない。第3回セントルイス大会は近代オリンピック史上の汚点の一つとされている。
 ただ、この大会で特に何の練習もしていないアイヌ民族が好成績を収めたことも忘れてはならない。そこには、生きた知恵として生活に根付いた合理的な身体技法があったのだと思われる。

 また、1912年の第5回ストックホルムでの団長だった嘉納治五郎(1860-1938年)は、柔道家、教育者にして講道館柔道の創始者であり、スポーツや教育分野の発展に人生を捧げ、「柔道の父」とも「日本の体育の父」とも呼ばれた人物である。嘉納は1936年にベルリンで開催されたIOC総会で、1940年の東京オリンピック招致に成功したが、1938年、カイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上、横浜到着の直前に氷川丸の船内で肺炎により逝去した。当時の日本は、1937年には日中戦争がはじまり、欧米では1940年の日本での開催に大きな反対の声があがっていた。結局、嘉納の死から2ヶ月後には、日本での開催が中止となり、1940年の第12回はヘルシンキ、1944年の第13回はロンドンで開催されることになった(しかし、結局はいずれも第二次世界大戦のため中止となった)。古代オリンピックは戦争中であっても、むしろ戦争中だからこそ開催が継続されていたものだったのだが、近代オリンピックでは2016年の第31回大会までに合計3回が中止となっている。第一次世界大戦中の第6回ベルリン(1916年)、第二次世界大戦中の第12回東京→ヘルシンキ(1940年)、第13回ロンドン(1944年)の3回である。当時の嘉納の思いも、平和運動としての東京オリンピック開催を強く願っていたが、ドイツではベルリン大会がナチス宣伝のために逆利用されたこともあり、当時の状況で日本やほかの国が開催することは不可能なほど戦争の影が世界中を大きく覆っていたのだった。
 戦後は1948年のロンドン大会から開催されているが、日本とドイツは戦争責任国ということから招かれなかった。戦後に日本が初めて参加したのは1952年のヘルシンキ大会であり、1964年には嘉納の悲願でもあった東京にて第19回オリンピックが開催された。それから60年近く経った2020年に、再度東京にて第32回オリンピックが開催される予定である。

オリンピック憲章(Olympic Charter)

 オリンピック憲章(Olympic Charter)は、国際オリンピック委員会(IOC)によって採択されたオリンピズムの根本原則、規則、付属細則を成文化したものである。
 オリンピック憲章によるオリンピズムの理念として、「肉体と意志と精神のすべての資質を高め」、「バランスよく結合させる生き方の哲学」であると書かれている。また、「スポーツを文化、教育と融合」させ、「生き方の創造を探求」し、「教育的価値、社会的な責任、普遍的で根本的な倫理規範の尊重」を基盤とし、「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進」を目指し「人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」を目的にすると明記されている。
 このことは、オリンピックがスポーツの祭典だけに留まらず、医療や教育的な働きも併せ持っていると考えられるだろう。人間は人種を超えて共通の体の構造を持ち、その共通点に立脚した上で、与えられた体を健やかに調和的に使うことも、大事な目的の一つと考えられるからだ。

 ここまで長くオリンピックの歴史を紹介してきた。こうした歴史を踏まえながら、オリンピックとは果たして何のために生まれたのか、その原点を改めて考え直したい。その上で、日本がオリンピックの意義をどのように捉えて世界に表現していくのか、その全体像こそが世界からも問われていると言える。

 オリンピックを、体の本質を扱う場として捉えなおし、体の普遍性を探求し共有していく場として機能すれば、生命の在り方としての多様性と調和の場を学ぶことになる。オリンピックは古代の本来の目的に戻るのではないだろうか。

 地球を一つの人体としてとらえてみると、すべての国や人種、宗教が、それぞれの役割を果たしながら協力して調和して生きていく必要があるだろう。全体は部分からなり、部分は全体のためにある。体が病んでしまうと細胞は生きる場を失ってしまうことと同じように、地球が病んでしまうとすべての人たちは生きる場を失ってしまうのだ。自然や体の原理から、地球や自然との関係性に関しても多くを学ぶ必要がある。オリンピックはそうした地球規模の「ひとつの体」を学ぶ学校でもあるのではないだろうか。そうすれば、老いも若きも、病や障害を持つ人も、あらゆる人が主体的に参加できる開かれたものになる。

 体や命の本質を学ぶことは、平和運動でもあると思う。なぜなら、体や命はまさに多様性と調和の原理で生きているからだ。競争原理ではなく、協力原理により生命は生きている。全員がそうした体を与えられて、共通の土台として同時代に生きている。オリンピックが、そうした体の学びの場になることを提案したい。全員が学びの徒として同じ立場であり、お互いが教えあい、学びあい、成長しあう場として。日本が世界の中で大きな役割を果たせるように、歴史や伝統から多くを学び、次の世代へと受け渡していく場になるはずだ。

 生きる人生そのものが一人の人間の統合化、全体性へのプロセスだ。そこには生も死も光も闇もすべてが包含されている。体育やスポーツだけではなく、同時に行われる文化事業である芸術も、体や心を調和へ戻すお手伝いをする医療も、創造や全体性という言葉を共通項とすれば同じテーマを共有していることが分かる。なぜなら、生きることは、部分化された自分自身の全体性を取り戻し、日々の自分を創造して生きていくことだからだ。体育も教育も医療も、ひいては芸術も、人類はなぜこのようなものを必要として生まれてきたのか、そうした原点を問い直し続けることが重要だと思う。わたしたちは、一見違う領域で生きているように見えても、いのちの原理を共有して生きているため、深い場所では必ず分かり合えるし、協力し合えるようにできているのだと思う。そのためには、深いところで働いているいのちの声に、耳を澄まさないといけない。いのちは、ずっとわたしたちを支えてくれているのだから。

参考文献:
吉田秀樹『オリンピックと平和』仮説社(2012)
ジュディス・スワドリング(Judith Swadding)、訳:穂積八洲雄『古代オリンピック』NHK出版(1994)
村川堅太郎『オリンピア―遺跡・祭典・競技』中公新書(1963)
楠見千鶴子『ギリシアの古代オリンピック』講談社(2004)
トニー・ペロテット(Tony Perrottet)、訳:矢羽野薫『驚異の古代オリンピック』河出書房新社(2004)
石出法太、石出みどり『これならわかるオリンピックの歴史Q&A』大月書店(2016)
公益財団法人 日本オリンピック委員会より(http://www.joc.or.jp/olympism/charter/

初出:「身心変容技法研究会 科研研究年報誌第六号 心身変容を科学する「体育と教育と医療 ‐オリンピックの可能性」」を加筆・改変。

  第三回へ

ページトップに戻る

稲葉俊郎(いなば・としろう)

 1979年熊本生まれ。医師。2004年東京大学医学部医学科卒業。2014年東京大学医学系研究科内科学大学院博士課程卒業(医学博士)。現在、東京大学医学部付属病院 循環器内科 助教。
 東大病院では、心臓を内科的に治療するカテーテル治療や先天性心疾患を専門とし、往診による在宅医療も週に一度行いながら、夏には山岳医療にも従事している(東大医学部山岳部監督)。医療の多様性と調和への土壌づくりのため、西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修める。国宝『医心方』(平安時代に編集された日本最古の医学書)の勉強会も主宰。
 古来の日本は心と体の知恵が芸術・芸能・美・「道」へと高められ心身の調和が予防医療の役割を果たしていた、という仮説を持ち、自らも能楽の稽古に励む。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業・・・など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている。

Web春秋トップに戻る