第四回 旅のはじまりに(3)


中国人・英国人・日本人

 明治維新はすでに遠い。その過渡の時代に、ほんのつかの間、思いがけず姿をさらしたものがすくなからず存在する。そのほとんどはしかし、記録に残されることなく視界からまったく消え失せている。日本人がそれを書き留めることは、むしろまれであった。そこに特別な意味を認めていなかったからである。だから、維新のあとに日本にやって来た異邦人たちの紀行文のなかに、ときに見いだされる情景に関心をそそられる。わたしがイザベラ・バードの日本紀行から掘り起こしておきたいのは、そうした日本人の記憶から脱落している異相の情景である。
 そのひとつが、近代の黎明期の日本にいた異邦人たちの姿である。
 たとえば、明治五(一八七二)年の九月に開業した東京と横浜を結ぶ鉄道について、バードは「第三報 江戸」のなかで、短い報告を残している。実際に、横浜から新橋まで乗車した見聞記である。ターミナル駅としての新橋停車場と横浜停車場を一時間ほどで繋いでいた。この「すばらしい鉄道」は長さが一八マイル[二九キロ]の複線で、鉄橋や小ぎれいな停車場があり、ターミナル駅は広々としていた。横浜停車場などは石造の堂々たる建物で、英国式の切符売場、等級別の広い待合室、屋根付きの石を敷きつめた広いプラットホーム、回転式の改札口があった。下駄を履く日本人への配慮のゆえに、待合室には絨毯が敷かれていない、といった観察はいかにもこまやかである。
 停車場の外には辻馬車ではなく、人力車が待っていて、人や荷物を運んだ。日本人は人力車と同じように、鉄道にもすぐに馴染んでいる、そう、バードは書いている。上・中等車には乗客はすくなかったが、下等車は日本人でいっぱいだったのだ。すでに桜の季節は終わっていたが、新緑の若葉は生気にあふれていた。このあとに、あのシティ・オブ・トキオ号の甲板から眺めた美しい風景が、汽車の窓からの眺めとして描写されている。樹々に覆われた切り立った小山と、絵のように美しい小さな谷が交互にあらわれ、江戸平野の北と西のはずれには、高い山並みが青く浮かびあがり、幻想的であった。東側には、東京湾の紺碧の海が広がり、数も知れぬ白帆の漁船が浮かんでいた。品川に着くまで東京という街はほとんど見えない。品川も新橋も村であった。工場の高い煙突はなく、背の高い建物もなかった。寺社はみな深い木立ちによって隠されていた。新橋停車場に着くと、日本人の乗客たちは下駄の音を鳴らして降りていった。
 こうした見聞のはざまに、こんな気になる一文がさりげなく挿入されていることに注意したい。すなわち、「改札方は中国人、汽車監察方と汽車機関方は英国人だが、職員は日本人で、洋式の制服を着ている」と。バードはたしかに、きわめて明敏な観察者であったかと思う。この明治維新から間もない時期に、新国家が総力を挙げて開通させた鉄道という新時代の乗り物は、きっと場違いなまでに豪華な異空間であったにちがいない。そこに見いだされた、中国人/イギリス人/日本人をめぐる役割分担はじつに絶妙なものだ。鉄道建設のいっさいはイギリス方式であり、資金もイギリスの外債に求められ、イギリス人の技師たちが造った。鉄道建設にしたがったお雇い外国人の大半はイギリス人だった、という(金坂による訳注)。そして、鉄道の開通後は、その運行の責任がイギリス人に委ねられていたことがわかる。それにたいして、中国人は改札という金銭にかかわる仕事を担当し、日本人は洋装を凝らして、イギリス人や中国人の下で職員として働いていたのである。
 さて、バードは新橋停車場を降りて、麹町にあった英国公使館に幌付き馬車で向かった。その英国公使館では、使用人頭と召使いは中国人であった。ともに背が高く弁髪をし、黒い繻子(サテン)の帽子をかぶり、丈の長い青色の上着を着ていた。料理人も中国人であった。それ以外の使用人はみな日本人で、女性も一人いた、という。
 あらためて中国人の姿に眼を凝らさねばならない。鉄道そのものはイギリス風であり、それを運行していたのもイギリス人であったが、横浜停車場の改札方は中国人であった。そして、英国公使館の使用人頭と召使いもまた、弁髪の中国人であった。それはおそらく、偶然ではなかった。「第六報 中国人と従者」には、この横浜にいた中国人の姿が一節を当てて描写されている。
 横浜には、小柄なからだに薄着で、貧相に見える日本人とはまったく異質な東洋人たち、とりわけ中国人が一一○○人以上もいた。中国人移民、つまり華僑は欠かすことのできぬ存在であり、バードの眼には、かれらの姿が「まるで自分が支配する側の民族の一員であるかのよう」に堂々として見えた。背が高く大柄なうえに、立派な綿織の上着を着て、爪先がいくらか反った踵の高い靴を履いているので、なおさら大柄に感じられる。頭は後頭部の髪だけを残して剃り、それを編んで膝まで届く弁髪にしている。

見るからに「裕福」そうである。いやな顔つきではないとはいえ、中国人を見た人は、我は中国人(セレスティアル)なるぞといった感じで見下されているかのように感じるだろう。また、もしある商会で何か尋ねたり、金貨を〈札〉に両替しようとしたり、汽車や汽船の切符を買ったり、さらには店で釣銭をもらおうとすると、必ずや中国人(チャイナマン)が現れる。(略)謹厳で信頼もできるが、雇い主から金をくすねるというより、金を「搾り取」って満足する。人生の目的は唯一金なのである。というわけで勤勉で忠実で、自己抑制的であり、それによって報われるのである。

 背が高く弁髪の中国人が、横浜停車場の回転式の改札口にもいて、バードは横浜・新橋間の切符を差し出したのだろうか。かれらはきまって、金銭のやり取りがなされる場面にもっぱら姿を現わしている。その人生哲学がはたして、「唯一金」であったのか否か、わたしには判断が及ばない。ともあれ、かれらの謹厳・勤勉・忠実・自己抑制といった心的な態度は、経済的な利害に特化した場面に見いだされると、バードが感じていたことは否定しがたい。あらためて取りあげることになる。
 それにしても、なかなか辛辣な、批評的でもある眼差しではなかったか。このあたりの記述には、グリフィスの『皇国』(初版は一八七六年)の影が射しているのかもしれない。バードはむしろ、このグリフィスの著書にたいして批判的な評価を語っていたが、その記述のうえにはグリフィスの影響があきらかであり、その影をいかに消すか、抑制するかに腐心している気配が感じられる。『皇国』の第二部の邦訳である『明治日本体験記』の、以下のような一節に眼を凝らしてみるのもいい。

中国人の数は横浜で千人、日本全国では二千五百人になるかも知れない。彼らは金回りがよくて、両替屋や仲買人はみな中国人であり、金融市場での予期せぬ変動の責任はそれらの中国人にある。仲買人でない者は、いわゆる「買弁」か書記か役に立つ職人である。この階級は日本で最も勤勉な国民性を発揮する。彼らは自分たちの寺、墓地、組合、救済会を持っているが、自分を守りもし苦しめもする領事や官吏は持っていない。太っていて身なりのいい、小ざっぱりした中国人で、おせじたっぷりの性格と肉づきのいい体格で、服を着ると傲然たる態度でゆったりしているので、どうしても日本人と比べて見てしまう。中国人を優秀な人種と考える人もいる。

 同じ極東の民族であるからこそ、日本人/中国人のあいだの外面的な差異がきわだったものに感じられるのではなかったか。服装その他がやがて、洋風に収斂されていけば、その差異は次第に沈んでゆくのかもしれない。国家や民族を背景とした分業体制が、政治ではなく経済の領域においてむきだしのものとして現われている。いまだ資本主義の論理によって縛られていない、近代の黎明の過渡期に生きるさまざまな民族の人々が、ほんのつかの間交わした競争/共存の姿には、なにかそそられるものがある。ここで「買弁」と呼ばれる中国人たちが焦点となっているのは、偶然ではありえない。

買弁という名の仲介者たち

 影響関係といったものを、あえて考慮する必要はないのかもしれないとも思う。しかし、このあとの買弁をめぐる記述となると、金坂清則が訳注のなかで指摘しているように、バードがグリフィスの著書を精読したうえで、グリフィスの名前を出さずに曖昧なかたちで引用していることは否定できないだろう。そもそも、バードはごく短期間の滞在者にすぎなかった。みずからの見聞だけによって、以下のような買弁についての記述が可能になったとは思えない。情報提供者はかたわらに存在したはずだが、グリフィスの『皇国』を参照せずには、それは不可能であったにちがいない。
 横浜に着いた人は間もなく、「買弁(コンプラドール)」という、「かつて聞いたことのない言葉を耳にする」だろう。買弁とはだれか。バードは次のように述べている。

中国人がこの外国の地域社会で信頼を得、とくに商業活動にあってはそれを幾分牛耳っていられるのは、この買弁としてである。どの商会も中国人の買弁を抱えており、召使頭や仲介人をしているが時には暴君にもなる。日本では生産者、否たいていは仲介業者でさえ外国人商人には会わず、中国人を介して取引する。(略)雇い主の要請には一定程度従いながら、商品の仕入や販売、人夫(クーリー)の雇用や人夫への賃金の支払い、両替その他多くのことを処理するのである。買弁は、外国人の商人からは信用され、正当な「手数料」だと見なしているものを嫌がらずに払ってもらっているものの、日本人の商人からは毛嫌いされている。買弁がすべてに対して「手数料」を強要する一方で、自分たちが買弁の強奪を阻めないからである。中国人は買弁でなければ両替商か仲介業者か店員である。だから中国人がその気になればいつだって横浜の資金調達は立ちいかなくなってしまう。ここでは、艶のあるよい服を身にまとい、ものごとに動じず、「ふてぶてしいまでに寛いだ」中国人(チャイナマン)に頼み込まないことには、自分の所持金がいくらの値打ちがあるのか、為替レートがどうなっているのかを知ることができないし、資金調達がどうなっているのかも皆目わからない。

 買弁とはたしかに、奇妙な存在である。買弁をつとめる中国人は、すくなくとも横浜における商業活動のある部分を「牛耳って」いたらしい。かれらは「ピジン」の日本語と英語、そして漢字をたくみに操り、日本人の生産者や仲介業者と外国人商人とを仲立ちして、取り引きが円滑に進むように働いた。「ピジン」とは、取り引きや商売において、「異なった言語の話し手の間で意思疎通のために用いる言語」(金坂の訳注)を指している。そして、外国人、つまり欧米の商人や商会が、買弁に支払われる手数料を正当なものと認めているのにたいして、日本人商人はそれを嫌悪していた、という。
 バードによる買弁についての記述の随所に、あきらかにグリフィスの影があるが、その名前は見いだされない。バードが「ふてぶてしいまでに寛いだ」と括弧つきにすることで引用であることを示唆していた箇所は、そのままにグリフィスの選んでいた表現であった。金坂が訳注のなかで周到に指摘している。それでは、グリフィスの著書の第一章から、この同じテーマにかかわる記述を引いてみることにしよう。

これらの大きな商社は横浜の、実に日本のほとんどの輸出業を牛耳っている。茶、絹、銅、米などが日本各地の主に西部と北部から集まってくると、日本商人が仲買人や「買弁」の手を経てそれを売る。たいていの場合、日本人生産者は、いや仲買人でも取引き先の外国人に会うことがない。外国の商社で重要な人物は隠然たる勢力を持つ「買弁」である。この実力者は日本語のよくわかる中国人で、特に漢字を駆使して日本の商人、生産者、仲買人と取引きをする。「買弁」は日本人との取引では商社の調達者であり勘定方である。商人の意見を聞いて売買と商品の引渡しをまとめる。日本人の使用人を雇って賃金を払う。そしていっさい信用されているので、堂々としていて自負心の強い男で、商社の片腕的存在である。能力にも機会にもめぐまれ、日本人客から金を絞りとる飽くことない欲望にも富んでいる。また自分の特権に恥じない行動をする。この憎まれ役の中間商人をその地位からひきずりおろし、商取引きから完全に追い出そうと、日本人商人によっていろいろな方法が講じられた(『明治日本体験記』)

 ここに示された買弁をめぐるイメージは、その著書を読んだバードにも確実に踏襲されている。もはや具体的に該当する箇所を指摘することはしない。二つのテクストの訳者が異なっていることもあり、じかに重なる箇所を例示することはむずかしいが、たしかに類似する表現は多いのである。
 それにしても、中間搾取をおこなう買弁にたいする対抗策が取られてはきたが、うまくいっていない、という状況は続いている。グリフィスは『明治日本体験記』のなかで、こうした買弁に仲介される「時代遅れの商売のやり方」は、いずれ「新しい商社の企業と活力」によって乗り越えられてゆくだろう、と書いた。日本側でも、買弁を追放するための大胆な試みが、横浜市長・大江卓によってなされたが、技術的な不備のために失敗したらしい。グリフィスの指摘していたところだ。欧米出身の外国商人は中国語を知らず、それを覚える苦労もしないで生活し、金持ちになった。日本語を身につけようと努力した者もまた、ほとんどいなかった。そうした事情のもとでは、買弁は必要悪であるほかなかったのだ。しかしそれも、新しい商社が買弁を雇わず、社員が商売相手の国の言葉を習得しはじめていることから、やがて変わらざるをえない。グリフィスには独特の内省的な眼差しがあったことを、興味深く思う。
 いまだ未成熟な資本主義、その商慣行の民族的な違いの隙間を縫うようにして、買弁という名の、弁髪の中国人たちの活躍が見られたわけだが、忘れられた明治初年の人間模様の一端ではなかったか。弁髪やちょんまげが消えていったように、買弁もまた商交易の現場から没していった、古さびた情景のひとかけらであったのかもしれない。とても唐突ではあるが、宮沢賢治の「山男の四月」(『宮沢賢治全集 8』所収)に登場する、「大きな荷物をしよつた、汚い浅黄服の支那人」を想い起こしてみるのもいい。その奇妙な風体の男は、支那反物と六神丸を売りあるく行商人ではなかったか。それはきっと、賢治の脳髄に宿ったたんなる幻ではなかったと、ひそかに想像しているが、言い捨てにしておく。
 さて、バードに戻らねばならない。買弁について論じたあとに、こんな言葉がさりげなく投げ出されてあった。

日本人の礼儀正しさはその物腰や言葉づかいに関しては卑屈と言えるほどなのに対して、中国人は気ままで、横柄といっていいほどである。死後も生きている間も、中国人はだれにも借りを作らない。自分たちの慈善団体・同業組合や寺院をもっており、不幸にして生きて母国に戻りそこで稼いだ金を使うということができない場合があるとしても、遺体を永眠のため母国に運んでもらえる手筈をきちんと整えている。これほど勤勉で逆境をものともしない国民性は日本には存在しない。

 きわめて透徹した観察ではなかったか。日本人/中国人のあいだに、これほど深い民族性をめぐる隔たりが存在したことを、バードはまったく冷静に見つめていたのである。日本人も中国人も勤勉な人々ではあったが、どうやらその向かうヴェクトルは大きく異なっていたようだ。生きている間も死んでからも、中国人は「だれにも借りを作らない」。不幸にして異国で死んだ場合のために、あらかじめ「遺体を永眠のため母国に運んでもらえる手筈」すら整えておくといった、苛烈な民族性は、たしかに日本人には見いだしがたい。死生観、または他界観において、彼我のあいだには大きな隔たりが横たわっているのではなかったか。

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赤坂憲雄(あかさか・のりお)

1953年生まれ。学習院大学教授。福島県立博物館館長。『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ文学賞受賞。同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。著書に、『性食考』『司馬遼太郎 東北をゆく』『北のはやり歌』『ゴジラとナウシカ――海の彼方より訪れしものたち』『東西/南北考』『異人論序説』『山の精神史』『漂泊の精神史』『遠野/物語考』『境界の発生』『子守り唄の誕生』『結社と王権』など多数。

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