第四回 複数形のアメリカ

 1915年12月29日。ヴァレーズはニューヨークに到着する。32歳の誕生日は、フランスから乗船したロシャンボー号の上で迎えた*1。彼がアメリカを選んだのは、旧知の指揮者カール・ムックがボストン響の音楽監督を務めていたことが主な理由と思われるが、他にもフランスで一緒に「真夏の夜の夢」プロジェクトに携わった画家のアルベール・グレーズが、同1915年の秋にニューヨークに渡っていたことも、その選択を後押ししたことだろう。
 マンハッタンに落ち着いたヴァレーズはセントラルパークの西、88丁目のアパートを拠点にして、写譜の仕事をしながら新天地でのチャンスをうかがうことになった。

■サティからの手紙
 アメリカに住み始めて間もない1916年2月6日、アルクイユに住むサティから、手紙が届いた。ヴァレーズとサティを含む複数の作曲家による戯曲「真夏の夜の夢」の企画は、大戦勃発とヴァレーズのアメリカ移住のため中途半端なままに消えてしまったが、実は律儀なサティのみが楽曲を書きあげていたというのは、前回述べたとおりである。

古きよき友よ――木曜の伝言が届きましたか。ルアールに「ジムノペディ」を送らせました。『真夏の夜の夢』の音楽は遠慮させていただきます。よろしいですか。それに、この曲は最終的には仕上がっていないのです。代わりに、弟子のひとりであるA.ヴァルレーの奇妙な作品を一つ送ります。この曲は私がピアノ連弾曲に編曲し、オーケストラ化しました。というか、オーケストラ化してからピアノ連弾曲に書き直したのです。あなたにこの曲を推薦します。これが本当の協力ですよ。いつもの明晰さをもって、親父さん(モン・グロ・ペール)、この作品をお読みください。この曲の純真で優しい単純さがお気に召すことでしょう。ヴァルレーは色彩効果が巧みです。ぜひ、アメリカのお友達に紹介してやってください。さあお互いに協力し合ってゆきましょう。頼りにしてますよ*2

 一読すると、意味をつかみかねる文章ではあるが、上記の経緯を考え合わせると、徐々にサティの言わんとすることが見えてくる。
 サティ研究家のオルネラ・ヴォルタによれば「・・・ヴァレーズがこの作品を米国で演奏したいと許可を求めてきたとき、サティには多分、しっぺ返しのつもりがあって、あまりぱっとしない弟子の作品だが、サティ自身がオーケストラ化した曲を代わりに提供した」ということらしい*3。「真夏の夜の夢」のためにサティが作曲した作品を、ヴァレーズは何らかの形でアメリカで演奏するつもりがあり、楽譜を送ってくれと頼んだのだろう。しかし、企画途中でアメリカに移住してしまったヴァレーズに腹をたてていたサティは、その楽譜を渡さずに、弟子の作品を送ってきたというわけだ。なるほど、そう考えれば「これが本当の協力ですよ」というあたりなど、いかにもサティらしい、皮肉の効いた文章ではないか。
 しかし一方で、17歳違いの二人(サティは1866年生)の間に、いくぶんかは友情のようなものが存在していたことも、まぎれもない事実のように思われる。実際、先の手紙の追伸部分に、サティはわざわざ「先日、ドビュッシーがあなたの噂をしていました」と書いているし、のちにドビュッシーが死去した際には「我々のあわれなドビュッシーが死んでしまいました。大事な友人であった彼は、長い間、病をわずらっていたのです」と、報告の手紙をアメリカにまで送っている*4。また、サティにピカソを紹介したのはヴァレーズだった。サティはピカソに肖像画を書いてもらうのみならず、翌1917年の「パラード」では美術を依頼することになるのである。
 いくぶんねじれた形で感情を表現するサティと、常に直情的なヴァレーズとは、確かにそれほど気が合う関係ではなかったかもしれない。それでもヴァレーズはサティの音楽を高く評価していた。彼は晩年のインタビューの中で、ドビュッシーに対する賞賛に続いて「サティもまた、いくつもの注目すべき音楽を書いています。たとえば『貧者のミサ』のキリエ。これを聴くと、きまってダンテの『煉獄』を思い出しますね。そして、初期電子音楽を耳にしたような衝撃を受けるのです」と述べているし*5、アメリカでの二度目の演奏会ではシンシナティ交響楽団とともに管弦楽版の「3つのジムノペディ」を演奏している。
 そしてドビュッシー、サティに加えて、ヴァレーズがその生涯で常に敬愛をささげたフランスの作曲家が、オーケストラの職人エクトール・ベルリオーズだった。アメリカでの最初の大きな仕事は、この作曲家の作品から始まる。

■アメリカの第一次大戦参戦と「レクイエム」
 「ミサを歌う350人 ヒッポドロームにおける無宗派の戦没者追悼礼拝」という見出しのもとに、1917年3月19日のニューヨーク・タイムズは、ヴァレーズについての大きな記事を掲載している。
 記事はベルリオーズの「レクイエム(死者のための大ミサ曲)」の演奏が、ヨーロッパにおける大戦の戦没者たちを追悼して4月1日にヒッポドロームで行われること、そこに350人の大合唱隊が出演することなどを伝えたあと「このミサ曲はエドガー・ヴァレーズによって指揮される。彼はパリの〈民衆の城〉合唱団を組織した人物であり、フランス軍を傷病兵として免役されているところである」と述べている。
 筆者の調べた限りにおいて、これ以前のニューヨーク・タイムズにはヴァレーズの名はあらわれないので、これは彼にとって最初の大きなチャンスだったはずだ。演奏会はギボンズ枢機卿をはじめとする聖職者、財界人、芸術家などの支援を受けた「無党派的・無宗派的」なものであったが、なにより象徴的に思われるのは、ヴァレーズが新大陸でのデビューを飾ったこの演奏会が、アメリカが第一次大戦に参戦する5日前という、きわめて特別なタイミングで行なわれていることだ。
 1914年7月に第一次大戦が勃発したとき、時の大統領ウィルソンは「モンロー・ドクトリン」(ヨーロッパ諸国の紛争に対する不干渉政策)を掲げて、まずは静観の構えをとった。ヨーロッパからの移民で構成されているアメリカ合衆国の場合、国内に連合国側(イギリス、フランス、ロシアほか)、同盟国側(ドイツ、オーストリアほか)の双方の出身者を多数抱え込んでいるから、どちらかに肩入れすることはそのまま国内の情勢が不安定になることを意味する。19世紀半ばの悲惨な南北戦争を乗り越えたアメリカにとって、それはできる限り避けねばならないことだった。
 しかし、中立の立場をとるとはいっても、実際にアメリカが集中的に軍事物資を輸出したのは、イギリスやフランスといった連合国側だった。ゆえに、もしも彼らが大戦に負けることがあれば、物資にかかわる債権がすべて焦げついてしまう。債権、つまりはカネを通じて、もはやアメリカと連合国側は半ば一蓮托生ともいえる関係になっていたわけだ。さらに1915年5月7日、イギリス船籍のルシタニア号がドイツの潜水艦によって撃沈されると、犠牲者の中に128名のアメリカ人乗客が含まれていたことから、アメリカの対ドイツ感情は悪化してゆく。同様の被害が幾度か繰り返されたのち、1917年3月19日に米客船がドイツの潜水艦に沈められる事態に至って、アメリカの参戦はほぼ決定的なものとなった。
 ウィルソン政権はドイツの行為を「人類にたいする戦争」と定義し、1917年4月1日に国会で大統領演説を行うとともに(ヴァレーズの演奏会はこの日に行われている)、6日には議会で正式に参戦を決定した。
 大戦の戦没者たちのための「レクイエム」を演奏しようというヴァレーズにとって、これはある意味で理想的なタイミングというべきだろう。実際、アメリカ音楽史の専門家キャロル・オジャは、この演奏会をヴァレーズによるきわめて「政治的な」意図の産物だとみなしている。

それは抜け目のない行動だった。彼は、当時の新聞や雑誌が明らかに示していた、アメリカ人をとらえる戦争への強迫観念をうまく掴んだのだ。(中略)彼のタイミングはブリリアントだった。(中略)かくして、フランス人の指揮者-もちろんアメリカの同胞国である点が重要だ-が、フランス人作品を、アメリカのもっとも大衆的な広場、すなわち6番街のヒッポドロームという6千人収容可能な場所で演奏することになったわけである。これはカーネギー・ホールのかわりにヤンキー・スタジアムを選ぶようなものではないか。ヴァレーズはまた、前年の冬にアメリカ・ツアーを行って好評を博したロシアバレエ団の舞台美術家レオン・バクストを広告に起用するという、近年の便乗商法のようなことも行ったのだった*6f

 演奏会の企画にどこまでヴァレーズが主導的な役割を果たしていたかは不明ながらも、150人のオーケストラと350人(広告チラシでは「300人」)の合唱という大規模な「レクイエム」を、巨大なヒッポドロームにおいて、同胞のフランス人指揮者が戦争犠牲者たちのために演奏するというこの企画は、演奏会というよりは、一種の政治的な集会に近いものだったというべきだろう。
 4月1日付のタイムズは「今週の演奏会」の欄で、当日の夜に行われるヒッポドロームの演奏会をヴァレーズの顔写真と共に大きく掲載し、「エドガー・ヴァレーズに関するいくつかの事柄」と題されたコーナーで彼を次のように紹介している。

今夜、ヒッポドロームでベルリオーズのレクイエムを指揮するエドガー・ヴァレーズは、若いフランスの兵士であり、作曲家である。もともと彼は、両親から工科学校に進むように命じられていた。しかし音楽への愛が彼をコンセルヴァトワールに導き、彼はヴァンサン・ダンディとルーセルのもとで修業を積んだ。「芸術奨学金」、すなわちパリ市奨学金を得て学校を卒業したあとは、ドビュッシーやロマン・ロランに注目されることになった。ドイツでは、リヒャルト・シュトラウスやカール・ムックに、そしてウィーンではグスタフ・マーラーから支援を受けた。ベルリンでは2シーズンにわたって「交響的合唱団」を指揮し、マックス・ラインハルトのプロダクションのための付随音楽を書いた。プラハ交響楽団の指揮者として招かれ、彼自身の作品とウルトラ・モダニストである友人たちの作品を、プラハとブダペストで演奏した。大戦の勃発によりパリに戻ると、オペラ座の監督から指揮を依頼され、さらにはガブリエル・アストリュクの仲介によってシャンゼリゼ劇場におけるコンサートシリーズを行って、ロシア、イギリス、そしてスカンジナビア半島のツアーに出かけた。その後ヴァレーズは戦争で負傷し、肺炎に罹り、除隊した。彼は昨年、休息と回復のためにアメリカに来たのである。

 記事はこのあと、アメリカに着いてすぐ、彼が車に轢かれるという事故があったことを記し、「彼は[この車の事故に比べれば]塹壕で軽傷を負ったときの方が、まだましだったと言っている。彼は今のところ足の怪我が治っておらず、指揮棒ではなく杖をついている」と結ばれている。
 ……いかがだろうか。おそらくヴァレーズ自身へのインタビューを基にした記事なのだろうが、微妙に話が「盛られている」印象がある。彼は音楽院を卒業していないし、マックス・ラインハルトの劇の付随音楽(「真夏の夜の夢」)に関しては、企画を途中で放り出したために、サティから顰蹙を買っているではないか。アストリュクの仲介による演奏会だって、プラハの一回だけで終わってしまったはずだ。さらにはヴァレーズが本当に「塹壕の中」を知っていたのか、という点も気になる。この点は重要なので、あとで慎重に吟味しよう。
 さて、イヴェントの評判はいかなるものだっただろうか。翌4月2日のイヴニング・メールは「指揮者としてアメリカ・デビューを飾ったヴァレーズ氏は天賦の才を持っているように思われる」と賛辞を送り*7、ニューヨーク・ヘラルドは「このニューヨーク初登場の指揮者は、実にうまい具合に音楽家たちに火をつけた」*8と記している。面白いのはサン紙で、全体に絶賛なのだが、ヴァレーズについて「この追悼行事を計画し、この演奏会を振るためにこの国に来たのである」としている。もちろんヴァレーズは、この演奏会のためにアメリカに来たわけではない。
 一方で、ニューヨーク・タイムズの評価は芳しいものではなかった。

……昨夜ヒッポドロームで、ベルリオーズ「レクイエム」の演奏が行なわれた。すでに告知してあったように、これは全ての国の戦争犠牲者追悼のためのものである。(中略)ヴァレーズ氏の指揮は失望を免れるものではなかった。彼の楽譜の解釈からは生気が感じられず、音楽の重要な細部への彫琢も足りない。単に外面的な効果が求められただけである。この演奏は全体としては刺激的というよりは、退屈なものであった。この作品自体、霊感にあふれたものとはいえないが、それでも昨夜明らかになったもの以上ではあるはずだ。もっとも、このような機会における演奏でヴァレーズ氏の指揮者としての能力を図るのはフェアではないだろう。

 もちろん実際の演奏の様子を我々が知る由もないが、全体を読んでみると、このタイムズの批評はかなり客観的に様々な要素の評価を試みているようにみえる。あの巨大な「レクイエム」全体を、説得力をもって仕上げるのは、ヴァレーズの経験ではまだ難しかったと考えた方が自然ではあろう。それでも、彼の名はこの演奏会で一躍知られるようになり、翌年にはシンシナティ交響楽団の指揮へとつながることになる。

「レクイエム」演奏会の宣伝チラシ(出典:Odile Vivier. Varese [editions du seuil, 1973], p.32) 「レクイエム」演奏会の宣伝チラシ
(出典:Odile Vivier. Varese [editions du seuil, 1973], p.32)

■突然の移住と年齢詐称の理由
 さて、そろそろ、前回の最後に触れた謎について考察しなければならない。なぜヴァレーズは突然にアメリカ移住を決めたのか、そしてなぜ年齢を2つ偽っていたのか。結論からいえば、これは全て兵役から逃れるためだったと考えられる。
 少しばかり事情が複雑なので、以下、少し時代をさかのぼって、ヴァレーズと兵役をめぐる状況を整理してみたい。
 20世紀初頭のフランスの男子は18歳から22歳までの間に、基本的に2年間の兵役義務があった。ゆえに、1883年生まれのヴァレーズは、満22歳を迎える1905年までにそれを履行しなければならないのだが、どういうわけか彼はそれを果たさず(これについては後述する)、のちの1907年9月19日、時の首相ジョルジュ・クレマンソーと直談判して徴兵義務を免除されている。当時、パリ音楽院を離れて民衆大学の合唱団指揮者を務めていたヴァレーズは、この会見の直後にパリ市の奨学金を得て、ベルリンに留学することになった。
 「虎」の異名で知られる政治家クレマンソーは、フランスの政治家に多くみられるように、一流といってよい文化人だった。そもそも彼は首相になる前にはジャーナリストとして日刊紙「オーロールを主宰し、ドレフュス事件の際にはエミール・ゾラによる有名な文章「我弾劾す」を掲載した、硬派の左翼である。のちには保守派に転向するとはいえ、彼はモネをはじめとする画家たちと交流し、音楽に関してもマーラーをはじめとする当時の最先端の芸術家たちと親交を結んでいる*9。マーラーとヴァレーズが出会うのは1909年のことだから、マーラーの紹介で会見を行ったわけではないだろうが、若い芸術家、それも意欲ある芸術家に対してクレマンソーが特別な配慮を行った可能性は十分に考えられよう*10
 ただし、この1907年は、まだ「平時」である。
 1913年、ドイツとの緊張関係が高まってゆくと、兵役が2年から3年に延長される「3年兵役法」が成立する*11。さらに1914年7月に第一次大戦が勃発すると、8月2日には「国家総動員令」が発令され、健康な青年男子には例外なく兵役の義務が生じた*12。戦争勃発時に30歳であり、健康に特段の支障がなかったヴァレーズもこれを逃れることはできなかったはずだ。
 果たして、ヴァレーズにも召集令状が来る。1915年の3月28日、彼は身体検査を受け、翌日から軍事学校に入った*13。4月18日、フランスの日刊紙「非妥協」は「ギョーム・アポリネールが前線に到着。音楽家のエドガー・ヴァレーズは軍事学校に配属された。アンドレ・ビリーは再び兵役に就いている」と記しているし*14、またこの1915年春に撮影されたとおぼしき、ヴァレーズが軍服に身を包んだ写真がわずかに一点だけ現在もザッハー財団に残されているから、彼が軍事学校に入ったことは間違いない事実とみてよいだろう
 ここで彼は自転車メッセンジャーとして訓練を受け、その後に軍隊でも働くことになったらしい。ちなみに、どうもヴァレーズはこの職種を不満あるいは不名誉に感じていたようである。というのも、のちに伝記作家のウェレットには「マシンガン部隊に配属を希望したのだが」*15と述べ、他方、妻のルイスにはもう少し現実的に「ドイツ語通訳を志望したのだが」*16と、いずれも言い訳がましいことを述べているのである。とりわけ前者の「マシンガン部隊」というのは、どこか子供じみた虚勢のようでなんだか可笑しい。おそらくは後者が本当のところではなかったか。
 しかし、ヴァレーズはほどなくして両側肺炎を患い、軍隊を除隊。その夏はヴァル=ドワーズ県で静養することになる。正確な除隊時期は明らかではない。ただしウェレットが、軍隊に在籍していた期間を「およそ半年」と漠然と記しているのに対して、ヴァレーズの残存資料を精査したフェリックス・メイヤーは「少なくとも6月には除隊していたはずだ」と判断している*17。というのも7月頭には先の静養先にいたことが明らかになっているからだ。
 とすれば、ヴァレーズが軍事学校および軍隊にいたのは1915年3月29日から、最長でも6月末まで、すなわちわずか3ヶ月ほどだったと判断するのが妥当だろう。この短期間では、たいした任務にはついていないはずであり、妻ルイスが「彼は一度も塹壕にまでは行かなかったはずだ」と書いているのも肯ける*18
 前回の連載で、ヴァレーズのアメリカ時代のパスポートが1885年生まれ(本当は1883年生まれ)になっていることを記した。筆者の知る限り、このことは誰も指摘していない。しかしこれまでのヴァレーズ関係の論文の中に、ひとつだけ大きなヒントがあった。初期ヴァレーズについて論文を書いたディーター・ナンツがその論文の注でひっそりと、ヴァレーズが20代初頭に所持していた軍隊手帳の生年が1885年になっていることを指摘しているのだ*19。つまり、年齢詐称の源流は、フランスでの最初の軍隊登録の時にさかのぼるのである。
 考えてみれば、22歳までに兵役義務を果たさねばならないにも関わらず、22歳になる年の1905年には何事もなくパリ音楽院で過ごし、その後1907年9月になってからクレマンソーとかけあって徴兵から逃れたというエピソード自体がきわめて不可解なのだ。それならば1905年から1907年の間、徴兵から逃げ回っていたことになるではないか。筆者は、当時はそれほど時局が切迫していないこともあって、徴兵制も緩かったのだろうと漠然と考えていた。しかし、兵役は国家の重大事であるのだから、それほど簡単に逃れられるものでもないだろう。ヴァレーズはのちに肺炎を患うとはいえ、当時、とりたてて健康に問題がある青年でもなかった。
 しかし、以上の情報すべてを考え併せてみれば、ヴァレーズの目論見が徐々に浮かび上がってくる。パズルはほぼ解けた。

■虚偽、あるいは誇張された経歴
 すなわち、兵役をできる限り遅らせたかったヴァレーズは、最初から軍隊には2歳若い1885年生まれで登録していたのだろう(もちろん、どうしてそのようなことが簡単にできたのかは謎のままだが)。これはナンツが調査した軍隊手帳の生年から間違いない。ゆえに、登録上の22歳を迎える1907年まではパリで悠々と暮らしていたのである。
 しかし1907年の12月22日を過ぎてしまうと、彼は表向きにも22歳になってしまう。当時の彼は「暗く深き眠り」を出版した直後、いわば作曲家としてようやく形を成し始めたところであるから、なんとしても兵役を忌避したかったに違いない。そこであわてて、何らかのつてをたどって首相のクレマンソーにたどり着き、直談判の末、同年9月19日に兵役を免除してもらった。考えてみれば、これはリミットまであと三ヶ月しかないというぎりぎりのタイミングなのだ。当然ながら、クレマンソーの前では殊勝にも21歳の若者を演じていたのだろう。
 ところで、駆け出しの無名作曲家が、自らの徴兵免除に関してフランス首相と直談判するためには、よほど強力なコネクションが必要なはずだ。先にはクレマンソーが芸術パトロンとしても有数の人物であることを述べるにとどめたが、しかし一歩踏み込んで、この視点から当時のヴァレーズの交友関係を考えてみると、ひとり、うってつけの人物がいることに気づく……ロマン・ロランだ。証拠はないものの、筆者は彼がその仲介を行ったのではないかと想像している。ただし、ルイスの回想録の中に直談判の会話が再現されているとはいっても(詳細は省くが、例によってちょっとした「武勇伝」である)、本当にヴァレーズがクレマンソーと顔を突き合わせたのかどうかは、例によって不明だ。単に政治家に手をまわして免除を得たのかもしれないが、その場合においても、ロマン・ロランという大作家の影響力を利用しない手はなかっただろう*20
 ただし、いずれにしても深刻な戦争が勃発してしまえば、このような平時における免除など一瞬にして吹き飛んでしまう。皮肉なことに、大戦勃発時の1914年7月にはヴァレーズの表向きの年齢は28歳(本当は30歳)、むしろ働き盛りの年齢になってしまった。ゆえにかつて徴兵を免除されたとはいえ、1915年9月、彼はいとも簡単に軍事学校に招集され、自転車メッセンジャーとして、3ヶ月程度働かねばならなかった。
 その後、肺炎を患ったというのは、決して嘘ではないのだろう。たしかに彼は、晩年に至るまで肺と気管支の不調に苦しんでいる(妻ルイスは、身体の不調を訴えるヴァレーズの「……息ができないんだ」という苦しげな言葉を、生涯に何度も聞いたと述懐している)。
 ただし同時に、この時点での肺炎はそれほどの重症ではなかったはずだ。なにしろ、その後すぐアメリカにわたって元気に活動しているのだから。当時のヴァレーズの心境を想像するに、幸いにも(?)肺炎で除隊することにはなったものの、しかし再度の招集がいつかかるか分からない、という不安が日に日につのってきた、というあたりではなかろうか。実際、当初の予想に反して、大戦はあきらかに長期化の兆しを見せていた。ドイツ軍はリエージュの戦いでベルギーを粉砕しており、この1915年にはフランス北東部を中心にして、いつ果てるとも知れない塹壕戦が延々と続いていた。
 ヴァレーズが除隊したのが1915年6月頃。ボルドーの港からアメリカ行きのロシャンボー号に乗るのが12月18日。この間の動きはかなり迅速だ。戦況をも反映して、おそらくヴァレーズは一刻も早くフランスを離れなければいけなかったのだ。そして軍隊手帳が1885年生まれになっている以上、パスポートも同じく1885年生まれにするほかなかったはずである。こうして彼は、2歳若い年齢として、アメリカにわたることになった。古い文献のいくつかがヴァレーズを「1885年生まれ」としているのには、このような理由がある。
 それにしても、大西洋を越えたアメリカという国までが第一次大戦に参戦することを、ヴァレーズは想像していなかったはずだ。客観的にみても、少なくとも1915年末の時点においては、その可能性は低かった。しかし1917年、アメリカは連合国側で、すなわちヴァレーズの祖国フランスと共に、ドイツと闘う道を選ぶ。
 軍隊を半ば逃れてアメリカに渡ったヴァレーズは、この状況の中で、自らが正当な義務を果たして新天地に暮らしていることを、常に言明・証明しなければならなくなってしまった。読者は既に、当時の新聞資料で、不自然なほどにこの点が強調されていたことに気づいているはずだ。
 1917年3月19日のニューヨーク・タイムズにおける「フランス軍を傷病兵として免役されているところである」という記述、同紙4月1日の「ヴァレーズは戦争で負傷し、肺炎に罹り、除隊した。彼は昨年、休息と回復のためにアメリカに来たのである」という記述、「フランスの兵士、作曲家」という肩書、「塹壕で傷を負ったときの方が、まだましだった」という述懐、そして同紙4月2日の「塹壕の中で役目を果たした」後にアメリカに来て音楽活動を行っている、という記述……。
 しかし、おそらくヴァレーズは塹壕になど入ったことはなかったし、戦争で負傷したこともなかったはずだ。決してまるごとの虚偽とはいえないにせよ、かなり誇張のある自己申告であることは間違いない。
 ちょうど同じころ、彼の尊敬するドビュッシーは、高齢ゆえ戦場に出ることこそなかったものの、ひたすら祖国を案じながら6つの「古典」ソナタを書こうとしていた。虚弱体質ゆえに兵役検査に落ちてしまったラヴェルは、それでも自ら志願してトラックの運転手となり、砲弾の下をかいくぐって物資を届けた。イベールは海軍士官として海に出ていたし、パリで活動を展開していたオネゲルは元の国籍であるスイスに戻って従軍した。一緒に「夏の夜の夢」を計画したコクトーは健康上の理由で兵役を免除されたが、自らフランス負傷兵救援教会に志願し、戦線の後方を巡回しながら救急活動にあたった。懇意にしていた詩人のアポリネールは、極度の太っちょにもかかわらず前線に送られ大きな傷を負った……。
 この中でヴァレーズは年齢を偽ってアメリカにわたり、「任務は果たした上で、音楽活動を行っている」と、あくまでも主張し続けたのだった。もちろん、筆者は彼を責めているわけではない。そもそも32歳でアメリカにわたったヴァレーズは、10代をイタリアで過ごし、20代の6年間はほぼベルリンを拠点にしている。この時点で人生の半分は外国生活というコスモポリタンなのだ。そして何よりも彼自身、フランス人であるまえに「ブルゴーニュ人」と称していたことを忘れてはならないだろう。
 ヴァレーズは、戦争が終わったら、すぐにヨーロッパに戻ろうと考えていた。パリのアパートに自筆譜などを多数置いたままであったことが、それを如実に証明している。しかし、大戦が終わっても、彼は結局アメリカにとどまりつづけ、ニューヨークで生涯を終えることになった。そのささやかな理由のひとつに、祖国に対する負い目があったと考えるのは、うがった見方に過ぎるだろうか。

■在米ドイツ人音楽家の悲劇と、その余波
 一方、ヴァレーズよりも一足先にアメリカにわたり、ボストン響の音楽監督をしていたカール・ムック、そして同じく在米のドイツ人音楽家たちには悲劇的な物語が待っていた。以下に説明するように、アメリカの同胞フランス人であるヴァレーズと、敵国ドイツ人であったムックは、この大戦中に完全に明暗を分けるのである。
 まず、1917年にアメリカが参戦すると、国内に在住するドイツ系市民およそ50万人には写真、指紋の登録義務が生じた。さらに挙動不審だと判断された2000人以上のドイツ人が、次々に収容所に送られた。この時期の異常なほどの反ドイツ感情について、音楽学者のエドマンド・ボウエルズは次のように述べている。

第一次大戦が開戦してから数年の間、アメリカの反ドイツ感情はヒステリーのレベルに達した。ドイツ語という言語自体も攻撃の対象になり、公的な場でドイツ語を話すことはまかりならなくなった。(中略)多くの学校でドイツ語を教えることは禁止され、図書館のドイツ語蔵書はしばしば燃やされた。(中略)ドイツ系偉人の石造は倒され、ドイツ語風の響きを持つ通りは名前が変えられた。ハンバーガーは「リバティ・バーガー」と呼ばれることになり、「ドイツはしか(風疹)」は突然に「リバティはしか」になったのだった*21

ドイツの都市ハンブルグに由来する「ハンバーガー」が「リバティ・バーガー」になるくらいならば、ユーモラスな事態という程度ですむが(そもそも「バーガー」という語尾は一体なんなのだ、と問いたくなるではないか)、在米ドイツ人たちにとって、状況はきわめて深刻なものとなった。
 オーケストラの中でドイツ人に対してもっとも厳しい拒否反応を示したのは――やや意外なことに――むしろ濃厚なドイツ色を誇っていたボストン響である。1918年のシーズンが終わる際に、ボストン響は代理指揮者のエルンスト・シュミット、そして18人のドイツ、オーストリア人団員をすべて解雇し、「すべてのゲルマン的なもの(everything Teutonic)を排除する努力の一環だ」と説明した*22。アメリカのメジャー・オーケストラは、ほぼ例外なく多くのドイツ・オーストリア人団員を抱えていたが、彼らにとってはこの戦争は災難というほかないものだったろう。
 音楽監督のムックの場合も、最悪といってよい状態に陥ることになる。きっかけは、彼が「星条旗よ永遠なれ」の演奏を拒否したことだった。1917年の参戦以来、管弦楽を含む編成の演奏会の場合には、この曲を演奏会の前か後に演奏することが徐々にアメリカ全土で習慣化されるようになっていたのだが、ムックはこれを認めなかった。「交響楽団が軍楽隊だと思っている聴衆がいるだろうか?いないはずだ。これはクラシック音楽の演奏会なのだから」というのが、ムックの言い分である*23。ドイツのマイスターらしいこだわりであるが、当時のアメリカの反ドイツ感情は、彼の想像をはるかに越えるものだった。
 1917年10月30日、ボストン響の演奏会で「星条旗よ永遠なれ」を演奏しなかったムックは、世間から大きな非難を浴びる。前大統領のセオドア・ルーズベルトが「国歌の演奏を拒否する人物はアメリカから出ていってもらいたい」と宣言したのを受けて、聴衆の不満は、ほとんど暴動と呼び得るほどに大きなものになっていた*24。続くボルチモアの演奏会は「ムックを殺せ!ムックを殺せ!」と叫ぶ大衆が押し寄せたためにキャンセル。翌月のニューヨークの演奏会も厳重警備のもとに行われた。
 この騒動の中、ボストン郊外の別荘にラジオ受信機を保有していたムックは、ドイツのスパイ容疑をかけられて1918年3月25日、ついに連邦政府当局に逮捕されてしまう。当時、ラジオ技術はまだ黎明期にあり、一般人でラジオ受信機を持っている人物はさして多くなかった。ムックはこの点を当局に突かれたわけである*25
 オーストリア出身で、シンシナティ交響楽団の音楽監督を務めていたエルンスト・クンヴァルトも、ほぼ同様の経緯で1918年1月12日に身柄を拘束された指揮者である。彼もまったく理不尽な言いがかりによって、ムックと同じく、ジョージア州のフォート・オグルソープの収容所で終戦まで拘留されることになったのだった。
 そして――ここから再び話はヴァレーズへと戻る――、実はこのクンヴァルトが演奏するはずだった1918年春のシンシナティ交響楽団の演奏会の指揮は、前年にセンセーショナルなデビューを飾った新人ヴァレーズのもとへと転がり込むのである。なんというめぐり合わせだろうか。
 ヴァレーズはこれを引き受け、1918年3月17日、日曜日の午後3時半から、シンティナティの音楽ホールにおいて演奏会が行われた。彼がこの時にどんな心境だったのかについての資料は残っていないのだが、しかしひとつだけ面白い事実がある。
 当時のアメリカにおいて、ドイツ音楽はほぼ追放されていたにも関わらず、ヴァレーズは、恒例となっていたアメリカ国歌の演奏のあと、演奏会本体をワーグナー「ローエングリン」第1幕への前奏曲で始めるというプランを主張したのである。ここにはおそらく、ムックやクンヴァルトへの思いがあったはずだ。確かにヴァレーズはフランスの兵役から逃れてきた「卑怯者」だったかもしれないが、彼は同時に、生涯にわたってあらゆるナショナリズムを激しく嫌悪した人物だった。ヴァレーズにとって、二人の指揮者に対する措置は許しがたいものだったと想像されるのである。
 ボストンやニューヨークではなく、オハイオ州シンシナティという土地も幸いしてか、あるいは演奏会の期日が迫っていることもあってか、ヴァレーズのプランは無事に通った。かくして当日演奏されたのは、ワーグナー作品に続いて、ビゼー「アルルの女」からパストラーレ、ボロディン「中央アジアの平原にて」、サティ「ジムノペディ」から2曲、ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、デュカス「魔法使いの弟子」というもの。ほかにゲストの歌手がヴェルディとシャルパンティエのアリアを歌った。
 批評は上々だったようだが、ヴァレーズはどのような気分であったのだろう。ワーグナー作品の演奏によって、クンヴァルトやムックに対する少しの義理は果たしたと感じていたのだろうか。いずれにしても、ドイツ系音楽家の過酷な体験は、やはり外国人であるヴァレーズに強い印象を残したはずである。もちろんヴァレーズがこの時期に直接的な不運をこうむることはなかった。しかし、外国人である限り、ちょっとした情勢の変化によって投獄されかねない不安定な身分であることを思い知らされたに違いない。この認識は、やがて第二次大戦中のヴァレーズの行動に一定の影響を及ぼすことになるだろう。

■ニュー・シンフォニー・オーケストラ
 臨時編成の大オーケストラによる「レクエイム」演奏会、そしてシンシナティ交響楽団との共演を経て、ヴァレーズはいよいよ、自らが全面的な責任をもってプログラミングをなし得る、まったく新しい演奏団体を設立することを決意する。1918年終わり、第一次世界大戦がドイツの敗北によって終結すると、ヴァレーズは迅速に動き出した。
 「ニュー・シンフォニー・オーケストラ」と名付けられたこの団体は、最も新しい現代作品と、そして古典ではあってもニューヨークの他の2つのオーケストラが演奏しない曲を採り上げるという、啓蒙的かつ挑戦的な方針を掲げて出発した。メンバーは様々な音楽家(他のオーケストラの団員を含む)の寄せ集めであったために、他のオーケストラとは異なる不規則な活動形態をとらざるを得なかったが、まずは春のシーズンとして4月から5月のうちに3回の演奏会が予定された。
 ジャーナリストたちに向かってヴァレーズは力強く宣言する。「音楽史は現在も更新され続けている。アメリカの作曲家たちはそのメッセージを、まさに彼らが望む人々-すなわち現在に生きる人々の耳に伝える機会を持つべきだ」*26。この高らかな口調は、後の「国際作曲家組合」設立を予感させるものだ。
 団体に関する記事が、最初にニューヨーク・タイムズにあらわれるのは1919年3月9日である。「オーケストラと共に」と見出しが付けられたこの記事は、4月11日、12日にニューヨークのカーネギー・ホールにおいて最初の演奏会が開催されることを淡々と伝えているが、興味深いのは次の部分である。

先頃、社交界の女性にも認知されたニューヨークの「ザ・ニュー・シンフォニー・オーケストラ」は、200人のアクティヴな団員によって共同経営され、また同時にニューヨーク音楽連盟に所属するニュー・シンフォニー・オーケストラ協会という形態をとる予定である。

 すなわちこのオーケストラは、協同組合的な理念を掲げている点において、既存の団体とは大きく異なっていた。ギャランティを当分に配分するという運営方法は、このあともヴァレーズの音楽活動を特徴づけるものになる。かくして1919年4月11日、彼らの最初の演奏会が行なわれた。プログラムは以下のようなものである。

J. S. バッハ:カンタータ第31番(抜粋)
C. ドビュッシー:ジーグ
A. カゼッラ:五月の夜
B. バルトーク:2つの映像
G. E. X. デュポン:運命の歌

 このうち、ガブリエル・エドゥアール・グザヴィエ・デュポン(1878-1914)は、ヴァレーズとパリ音楽院の同門にあたる作曲家*27。また、ドビュッシーはともかくとしてカゼッラ、バルトークは共に、当時のニューヨークの聴衆にはまだ馴染みのない名前であったと推察される。
 曲目の中では、冒頭に置かれたバッハ作品がやや唐突に感じられよう。もちろんヴァレーズはスコラ・カントルムや合唱団においてバロック音楽に親しんでいたし、このオーケストラは過去の不遇な作品にスポットを当てることを謳ってはいる。しかし記念すべき出発の日に、バッハの「カンタータ」というのは、どこか奇妙ではなかろうか。大規模な合唱をこの曲のためだけに導入した気配はないから、おそらくは器楽合奏による第1曲のみが演奏されたのだろう。以下は、トリビューン紙による演奏会評。

コンサートは、バッハによる復活祭のカンタータの第1曲で始まった。これはおよそ200年前に書かれたものであるが、ヴァレーズ氏による当日のプログラムの中で最も新鮮で面白い作品だった。ただ、全てのプログラムが終わる頃には、この曲を前奏曲として聞くのではなく、この曲だけで終えることができたら良かったのに、という思いを抑えることができなかった。1時間にわたる超モダンな作曲家たちの作品の後には、部屋の空気を入れ替えねばならなかった*28

 惨憺たる批評である。つづいて4月12日に掲載されたニューヨーク・タイムズの批評。まずはヴァレーズの紹介の部分で、戦前に「リヒャルト・シュトラウスのアシスタント・コンダクターを務めていた」とあるのが目を引くが(もちろんこのような事実はない)、ともかくこちらの批評も芳しいものではない。評者は、ヴァレーズは魅力ある音楽家だと言われているものの、当夜はほとんどその片鱗が見えず、鈍い指揮ぶりによって繊細な音色がつぶれてしまった、とまずは総括している。そのうえで、アメリカ国歌の演奏の冒頭部分で指揮がまごついたことに始まり、「バッハ作品は、単にのこぎりで木を切るような音だった」という具合に、各曲すべてに厳しい批評を加えている。そして最後に「ヴァレーズ氏は、次のマチネー演奏会では同じ曲目をもっとうまく演奏するだろう。しかし、このニュー・シンフォニー・オーケストラの運命は神のみぞ知るといったところである」と結ぶ。
 全体の曲目の中でも、とりわけバルトークの作品はあまりにも新しすぎたのか、ほとんど聴衆の理解を得られなかったらしい。ヴァレーズは終生、批評家に酷評を受け続けることになるわけだが、この演奏会から、既にそれは始まっていたともいえる。
 こうした状況は当然ながら、団員にとっても不本意なものであった。「現代音楽」にこだわるヴァレーズと、ポピュラーな作品をも演奏するべきだという団員の姿勢は演奏会後に露骨に表面化し(もともとこのあたりには大きな齟齬があったのだろう)、なんと演奏会からわずか9日後、4月20日のニューヨーク・タイムズは、ヴァレーズがこのオーケストラの指揮者を去ること、そしてかわりにアルトゥール・ボダンツキーが就任するというニュースを伝えている。この失敗は彼を、少数の作曲家のみによる国際作曲家組合の設立へと向かわせる一因となったことだろう。
 ちなみにオーストリア生まれのボダンツキーは、ウィーン宮廷歌劇場でマーラーの助手をつとめ、当時はメトロポリタン歌劇場の首席指揮者の任にあった。つまりヴァレーズとは異なり、指揮者として、きわめて正統的なキャリアを持った人物だ。オーケストラは彼のもとで一転して普通のレパートリーを演奏するようになり、一時期はメンゲルベルクも指揮者として名を連ねたのち、1921年秋にニューヨーク・フィルハーモニックに吸収されるかたちでその生命を終えることになった。あのニューヨーク・フィルの一つの源流がヴァレーズの作ったオーケストラにあるというのは、なかなか面白いエピソードのようにも思われる。

■なぜバッハ「カンタータ31番」だったのか
 ところで、ヴァレーズにとって最初で最後になってしまったニュー・シンフォニー・オーケストラの演奏会において、なぜ彼はさして有名でもないバッハの「カンタータ31番」を選んだのだろうか。この小さな謎について、少々考察を加えてみよう。まずは「31番」の基本的なデータを紹介しておく。

 ヴァイマル時代の1715年に初稿が書かれ、後の1724年にライプツィヒで改訂。編成は、独唱3、合唱5部、トランペット3、ティンパニ、オーボエ3、ターユ、ファゴット、ヴァイオリン2部、ヴィオラ2部、チェロ2部、通奏低音。さらにオーボエ・ダモーレを用いた異稿もライプツィヒ時代に作成された。演奏機会は、復活祭初日を想定。ザーロモン・フランクによる歌詞の最初の文句に従い「天は笑う!地は歓呼す」というタイトルで一般に知られている。全体は9曲からなる。
 まず目を引くのは、このカンタータが復活祭のために作曲されていることだ(復活祭の初日用に書かれたカンタータは、31番と4番の2つだけしかない)。イエスの復活を祝う復活祭は、降誕祭(クリスマス)と並んで、キリスト教の最も重要な儀式であるが、前者が12月25日に固定されているのに対して、後者は「春分の日(3月21日)の後の満月を過ぎた最初の日曜日」と定められている。ゆえにその期日は年によって異なり、3月22日~4月25日の間を揺れ動くことになる。
 では、ヴァレーズの演奏会が行われた1919年の復活祭は、何日だったのだろうか。過去に遡ってこの期日を調べてゆくと、この年の復活祭がかなり遅めの4月20日であったことが分かる。とすれば、ニュー・シンフォニー・オーケストラの演奏会当日である4月11日は、聖金曜日のちょうど一週間前の金曜日ということになり、当然ながら主の復活を準備する四旬節に含まれる。
 すなわち、ヴァレーズが「第31番」を選んだのは、まず第一に、それが復活祭シーズンにふさわしい音楽だったからに違いない。本来のカンタータの精神にのっとったプログラム選択が行われたとも言えるし、喜ばしい復活を歌ったカンタータに、自らの船出を象徴させるという意図もあっただろう。
 さらに、この曲の楽器編成を眺めてみると、それがバッハのカンタータとしては、かなり大きなものであることに気づく。3本のトランペットと3本のオーボエ、ティンパニ、ターユとファゴットという管楽器の編成はライプツィヒ時代以前のカンタータとしては最大規模に属するし、何よりも、ソプラノが2部に分かれた5部合唱というのが珍しい。
 楽曲の内容も、編成にふさわしく祝祭的なものだ。全体を構成する9曲の中では、とりわけ第1曲と第2曲にその傾向が顕著で、第1曲では冒頭から金管群が華やかに響きわたり、中間部に入るとトランペットとティンパニが一群となって総奏との掛け合いを演じる。そして第2曲でも、力強い合唱群が導入された後に金管・木管群が交錯し、立体的な音響を形づくる。トランペットとティンパニによる力強いアクセントはもちろんのこと、時には男声、時にはオーボエ、時には弦楽器群が全体をリードしながら、推進力にあふれた音楽がイエスの復活を祝うさまは圧巻だ。つまりこれはバッハのカンタータの中でも、特別に派手でダイナミックな曲の一つなのである。
 してみると、ヴァレーズが「カンタータ31番」を選んだのは、復活祭のシーズンという条件に加えて、この曲が持つ大規模なエネルギーに惹かれたからだと考えて、まず間違いないだろう。
 ちなみに、当日の他のプログラムとの兼ね合いからも、いくつかの面白い事実が指摘できる。プログラムに含まれているドビュッシーの「ジーグ」では、主要パートにオーボエ・ダモーレという珍しい楽器が用いられている(このために、「ジーグ」は再演の機会が少なかった)。この楽器は、通常のオーボエよりも短3度低いA管で、バロック時代には用いられていたものの、一旦は歴史の表舞台から姿を消した。しかし、19世紀末にあらためて復活を遂げて、主にバッハ作品の演奏などに活躍していたものだ。
 前述したように、「第31番」にはオーボエ・ダモーレを含んだヴァリアントが存在する。19世紀末に完結した旧バッハ全集の楽譜にはオーボエ・ダモーレの指定は無いが、ヴァリアントに関しては序文において記述がなされているから、ヴァレーズが旧全集を参照したのならば当然これを読んでいたはずだ。ヴァレーズが用いた楽譜については不明ではあるものの、ドビュッシー作品との兼ね合いから考えると、バッハ作品においてもオーボエ・ダモーレが使用された可能性は十分にある。むしろ、この楽器の特殊性を鑑みれば、ドビュッシー作品とバッハ作品のいずれかが最初に選択され、続いて楽器を有効利用するという観点から、もう一曲が選ばれたという可能性さえ考えられなくもない。
 いずれにしても、ヴァレーズが生涯持ち続けた、ゴシック的でマッシブな音響空間に対する偏愛、そしてそれと並行する金管楽器と打楽器への偏愛は、確かにバッハの「31番」と響き合っている。復活祭の四旬節という時期、そしてダイナミックな響きのカンタータという二つの条件が偶然に重なり合った時、バッハの「第31番」は、他には代替曲が存在し得ないほどの輝きをもって彼の前に現れたに違いない。

■複数形の「アメリカ」
 指揮者として一進一退を繰り返していたヴァレーズは、渡米直後はほとんど作曲活動をストップしていたようだが、ニュー・シンフォニー・オーケストラの失敗のあと、本格的に新しい作品、それも巨大なオーケストラを用いた新作に取り掛かることになる。
 1918年頃から構想が練られ、1920年から本格的に作曲作業が進められた「アメリカAmériques」である。初稿の完成は1922年*29。我々の知るヴァレーズの音楽が最初にはっきりと姿をあらわした、記念すべき作品だ。
 アメリカで書いたから「アメリカ」と名付けられたのだろう、と早合点されがちだが、タイトルには若干の注意が必要だ。わざわざフランス語の綴りで記されており、しかもその単語は複数形をとっている。すなわち、これは単に「アメリカ合衆国」を示しているわけではなく、まずは広く「北・中・南アメリカ」のことを指していると考えてよい*30。実際、ヴァレーズはこのあと生涯にわたって、中米、南米出身の作曲家たちと密接な関係を保持し、「パン・アメリカン作曲家協会」などの活動において、積極的に「複数形のアメリカ」というコンセプトを推し進めてゆくことになる。また、改訂稿の初演を行ったストコフスキは、この複数形には「過去・現在・未来」という含みもあると解釈していた。そしてヴァレーズ自身は、オディール・ヴィヴィエへの手紙の中で、「アメリカというタイトルは、単に地理的な意味としてではなく、様々な発見の象徴という意味をも持っています。地上の、空の、そして人の心の中の新しい世界を示しているのです」と述べている*31。そう、おそらくは様々な複数の「アメリカ」がこのタイトルには込められているのだ。
 作品は奇妙なことに「名も知らぬ友人たちに」捧げられている。これは当時、ヴァレーズに定期的に資金援助を行ってくれた匿名の人物をさしているのだが、のちに明らかになったところによれば、その人物とはガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニー(1875-1942)にほかならない*32。今でもボストン郊外の「ホイットニー美術館」に贅を尽くしたコレクションをのこす彼女は、大富豪のひ孫にして裕福な銀行家の妻であり、若い頃にはパリで彫刻を学んだ人物。夫と共に多くの芸術家たちを支えた大パトロンだが、この時期には知人を通じてヴァレーズへの援助を匿名で行っていたのだった*33。のちにもヴァレーズは、このホイットニー夫妻に様々な形で援助を受けることになる。
 初稿の編成は巨大なものだ。ピッコロ3、フルート4、アルト・フルート1、オーボエ4、ヘッケルフォン1、クラリネット5、バスクラリネット1、コントラバスクラリネット1、ファゴット4、コントラ・ファゴット2、ホルン8、トランペット6、トロンボーン4、バストロンボーン1、チューバ、コントラバステューバ2、ハープ2、ティンパニ、打楽器、そして16-16-14-10-10という弦楽器の指定があり、さらにはバンダ(離れた場所に置かれる楽器群)として、トランペット4、トロンボーン3が求められている。これらの人数を単純に計算すれば、打楽器の人数にもよるが130人ほどを要することになろう。少なくともこの頃までのヴァレーズは、オーケストラは大きければ大きいほどよいと考えていた節がある。
 弟子のチョウによれば、最初期のスケッチには、Es管のオーボエ、そしてオーボエ・ダモーレ(!)が含まれていたという。これらは最終的には普通のオーボエに置き換えられたというが、当初オーボエ・ダモーレが想定されていたというのは、やはりニュー・シンフォニー・オーケストラの演奏会において、バッハとドビュッシーの双方にこの楽器が用いられていた可能性を示唆するものだ。
 楽曲は冒頭、静かに奏されるアルト・フルートの旋律で始まり、そこにハープ、続いて打楽器の響きが重ねられる。この原旋律は、バンダも含めた金管楽器が稼働し始めるといったん影を潜めるものの、ふとした隙間にするりと回帰して、常に呪術的な陰影を曲に与える。強いて言うならば、「春の祭典」冒頭部と似たアイディアかもしれないが、まずは見事な構想といってよいだろう。中盤では、のちのヴァレーズを特徴づける強力な打楽器パートが縦横無尽に活躍するとともに、重層的・立体的に大オーケストラが絡み合い、何度も強烈な爆発を呼び込んでゆく。音響の色合いが時にフランス風、時にドイツ風、そして時には南米風という具合で次々に変化するのもユニークだ。全体の構成はやや並列的でたどたどしいようにも思われるが、しかし何かに憑かれたような、切迫した気合いが全編に漲っている点がなによりも魅力的だ。とりわけ壮絶なエンディング部は過去の音楽史に類をみないものだろう。
 曲の詳細について、ここで分析的に触れるわけにはいかないが、いくつかの特徴について触れておきたい。
 まず、先の原旋律はきわめてダイアトニックな音高構成を持っているが、2小節目でハープ、3小節目でファゴットが入ると、全体としてEs音を除くオクターヴ内の11の音高が提示される。続く練習番号1でのファンファーレも11音からなるから、明らかにこれは意識的なものだろう*34。こうした12音セットの意識は、楽曲のほぼ隅々まで浸透している。
 様々な種類を含む打楽器群の中で注目されるのが、ある意味ではその後のヴァレーズのトレードマークとなった2台のサイレンである(初出は練習番号5)。このサイレンは、ときおりオーケストラのサウンドの背後で響き渡り、独特の緊張感を与えることになる。ただし、のちのフランスにおける演奏で、このパートがオンド・マルトノに置き換えられていることを考えれば、ヴァレーズが欲したのは具体的なサイレンの音というよりは、あくまでも自在にポルタメントを続ける音響体だと考えた方がよいだろう。
 中盤で2か所にわたって(練習番号29、32)、ヴィオラ・パートに四分音の指定があるのも注目される。ただし、これらはいずれも、ヴィオラのソロ(ソリではない)の中で控えめに与えられており、ちょっとした音のニュアンスといった粋を出ないものではある。
 そして、この曲のさまざまな分析例が示しているのは、随所にみられる先人の直接的な影響だ。例えばマルコム・マクドナルドは、その音響が随所でドビュッシーやストラヴィンスキーを思わせることを指摘しているが*35、ディーター・ナンツはさらに詳細に、シェーンベルク「5つの管弦楽曲」、シュトラウス「サロメ」、ドビュッシー「聖セバスチャンの殉教」「牧神の午後への前奏曲」「ペレアスとメリザンド」、ストラヴィンスキー「春の祭典」「火の鳥」などとの直接的な類似箇所を、およそ百ページ余りを費やして具体的に指摘ながら、これらの影響関係について論じている*36
 ただし、もちろんこれらはヴァレーズ作品のオリジナリティをいささかも揺るがすものではない。部分的な音響の類似を越えて、既に「アメリカ」にはひとりヴァレーズのみが持つ特性が、色濃く埋め込まれている。敢えて言語化するならば、全体を覆う、一種のモノ的な立体感と言えるだろうか。先人たちの音楽作品が持つ、滑らかに機能する生物的質感とは異なり、ヴァレーズの作品はやはりサン・フィリベール修道院を思わせる建築的質感が支配的なのだ。こうした志向は、彼の以下の言葉からも理解されよう。

私にとって、オーケストレーションは作品の構造の本質的な部分なのです。音色とその結合―より正確にいえば音の質、そして異なった音高の合成は、形式の一部といえます。決して付随的なものではありません。それは平面と立体を区分けし、彩色するものであり、ゆえにそれぞれの部分は混じりあっていないという感覚を与えるでしょう。この合成物における特定の音の強度のヴァリエーションこそが、平面と立体の構造を変更してゆくのです*37

 音の塊を結合し、その構造を様々な観点から調整するという建築的な特質は、この「アメリカ」ではっきりと表面化し、生涯変わることがないヴァレーズ作品の特徴になったのだった。

■そしてICG設立へ
 130人のオーケストラを要求する大作「アメリカ」を書き上げたとはいえ、情けないことに、ヴァレーズにはまったく初演のあてがなかった(初演は4年後の1926年まで待たねばならない)。38歳の作曲家は次の大きな賭けにでる。国際作曲家組合(International Composers’ Guild)の設立である。結果として、これはアメリカ音楽史に残る大きな業績にはなったものの、しかし団体の運営という重責は、ヴァレーズの心身を激しく蝕んでいくことになる。次回は、この団体の活動を中心にしながら、中期ヴァレーズの音楽活動を検討する。

*1 ただし、パスポートは1885年生まれになっているから、満30歳として入国審査を受けたはずだ。
*2 オルネラ・ヴォルタ「書簡から見るサティ」(田村安佐子、有田英也訳、中央公論社、1993年)、147頁。
*3 同書146頁。
*4 Fernand Ouellette. Edgard Varèse (English translation, DaCapo Press, 1981), p.44.
*5 Gunther Schuller “Conversation with Varese” Perspectives of New Music vol.3. no.2 (spring-summer, 1965), p.33.
*6 Carol Oja Making Music Modern: New York in the 1920s (Oxford University Press, 2000), p.29.
*7 Ouellette, p.49.
*8 Louise Varèse. Varèse: A Looking Grass Diary Volume 1:1883-1928 (Eulenburg, 1973), p.129.
*9 とりわけ、義理の妹ソフィーは、ウィーンにおいてマーラーを支えるパトロンでもあった。ちなみに
クレマンソーとマーラーの関係の源流にはドレフュス事件がある。詳細はクルト・ブラウトコップ「マ
ーラー 未来の同時代者」(酒田健一訳、白水社、1974[原書1969]年)、227-232頁参照。
*10 ヴァレーズはこのクレマンソーとの会見の様子を、好んで妻のルイスに話したという。Louise, p.73.
*11 「3年兵役法」の制定と、その反対運動に関しては以下の文献に詳しい。横山謙一「三年兵役法とフランス社会党(SFIO)-ジョレーヌの「新しい軍隊」についての構想の起点を探りつつ-」『国学院法政論叢』第20号、 国学院大学大学院編、1999年。
*12 久保昭博「表象の傷 第一次大戦からみるフランス文学史」(人文書院、2011年)、37頁。ちなみに、「良心的兵役拒否」がフランスで法制化されるのは、ヨーロッパでももっともおそく1963年のことである。これに関しては以下の文献が詳しい。上村貞美「フランスにおける良心的兵役拒否-現代フランスにおける国防と人権-」香川大学教育学部研究報告 第1部 (56), 1982年。
*13 Felix Meyer,“Catalogue 1-33” in Edgard Varèse: Composer, Sound Sculptor, Visionary (The Boydell Press, 2006), p.74.
*14 Ouellette, p.42.
*15 Ibid., p.42.
*16 Louise, p.113.
*17 Meyer, p.74.
*18 Louise, p.114.
*19 Dieter A. Nanz. “A student in Paris: Varèse from 1904 to 1907” in Edgard Varèse: Composer, Sound Sculptor, Visionary (The Boydell Press, 2006), p.33, note57.
*20 ただしルイスは同時に、1911年にヴァレーズはジョゼフ・カイヨ―(クレマンソー内閣時代の財務大臣で、1911年6月からは首相)の知己を得たと書いているから、彼は様々なかたちで政治家たちとのコネクションを持っていたのかもしれない。さらにルイスによれば、ヴァレーズがアメリカを選んだのは、カイヨ―からアメリカのマネージャーを紹介されたためかもしれないと述べている。Louise, p.118.
*21 Bowles, Edmund A. “Karl Muck and His Compatriots: German Conductors in America during World War I (And How They Coped)” in American Music 25, No.4 (Winter, 2007), p.406.
*22 Ibid., p.408.
*23 Ibid., p.412-413.
*24 正確にいえば「星条旗を永遠なれ」は国歌ではないが、ほぼそれに匹敵する国民歌になっていた(アメリカ国歌は「星条旗」。ただし正式に国歌として法制化されるのは1931年である)。。
*25 彼が逮捕される前の1917年の10月に録音されたムック指揮ボストン響によるSPが残されているが(「ローエングリン」第3幕への前奏曲ほか。米Victrola547)、面白いことにレーベル面にはムックの名前が一切なく、単に「Boston symphony orchestra」としか記されていない。おそらく発売が1918年以降だったからだろう。このように、いわば徹底した形でドイツ人ムックは排除されたのだった。
*26 Ouellette, p.53.
*27 前回に記したように、ヴァレーズはこの「運命の歌」を、1914年のプラハにおける演奏会でも指揮している。
*28 Louise, p.143.
*29 この曲の献辞に「1921年春」とあることから、一般に1921年版とよばれることが多い。しかし最終的に清書楽譜が書きあげられたのは1922年であり、ゆえにリコルディ社から出版されているチョウ・ウェン・チュン校訂版、および多くの研究書は、現在これを「1922年」作曲とみなしている。
*30 このことに十分に意識的だった秋山邦晴は、平凡社の音楽事典の「ヴァレーズ」の項目の中で、あえて「3つのアメリカ」というタイトルを提唱している。慧眼というべきだろう。
*31 Odile Vivier. Varèse (editions du seuil, 1973), p.35.
*32 Chou Wen-Chun “preface” Amerique (1922) Full Score (Ricordi, 2001), v.
*33 当然ながら、ベルリオーズ「レクイエム」の演奏家、そしてニュー・シンフォニー・オーケストラ設立時にも、彼女は多額の資金提供を行っている。これらのパトロネージュの詳細に関しては以下の文献を参照。Sylvia Kahan. “Edgard The Whitney Connection: Varèse and his New York Patrons” in Edgard Varèse: Composer, Sound Sculptor, Visionary (The Boydell Press, 2006), pp.92-100.
*34 マクドナルドにも同様の指摘がある。Malcom Macdonald. Varèse: Astronomer in Sound (Kahn &Averill, 2003), pp.112-113.
*35 Ibid., pp.111-131.
*36 Dieter A. Nanz. Edgard Varese: Die Orchestra Werke (Lucas Verlag, 2003), pp.192-315
*37 “Edgard Varese and Alexei Haieff questioned by 8 composers” Possibilities, NewYork, Winter, 1947-1948, note8.

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社、近刊)など。

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