第四回 新しい言葉を見つけるために


 2020年から小学校で、コンピュータに意図した処理を行うように指示する体験を踏まえたプログラミング教育が開始される。その影響からか、ここしばらくプログラミング教育関連のインタビューが続いている。先日もマイクロソフトへ赴き、プログラミング学習支援の実情に関する取材を行った。こちらは、ICT(情報通信技術)の利活用という文言を聞き知っているだけの、その界隈にはとんと詳しくない身ではあったが、担当者の話はすこぶるおもしろかった。マイクロソフトが社会貢献を強く意識しており、担当者の言う社会が多様性を前提にしていたからだ。

 社会貢献も社会の多様性も既に多くに知られた、馴染みのある古い言葉であり、右から左に聞き流しかねないものだ。特に多様性の内実については注意が必要だろう。「多様性が大事だ」という時、それを標語として掲げながら、概念としての「多様性」を大事にするあまり、実際は目の前の人に「人並み」や「普通」の振る舞いを求めてしまうと言うのはよくあることだ。だから多様性という語を聞くと、身構えてしまうのだが、その担当者はまったく違う発想をしていた。
 また彼の指し示す「社会」についてのイメージが私のそれとまったく違っていた。多様性も社会も人それぞれイメージが違うのは当たり前だと思うかもしれない。自分が感じた驚きを説明する前に取材当日のマイクロソフトに向かう途中で見た光景について触れておきたい。

 マイクロソフトのある品川駅の港南口方面にはオフィスビルが林立しており、利用者も多いことから構外に向かう通路は20mはあるかというほど広い。通勤ラッシュのピークをすぎた午前10時でも、通路の真ん中は駅からオフィスへ向かう人の流れで、両側は駅へ向かう人で溢れていた。通路に沿って数メートル間隔にディスプレイが取り付けられている。それらは歩行者の頭上高くに据えられており、奥行きのある長い通路を行き交う人の目には、デジタルサイネージが連続的に飛び込んでくる仕掛けとなっている。その日の時間帯はビールと行楽のコマーシャルが交互に映し出されていた。

 最新の仕掛けでありながらどこかで見たような気がするのは、SFで描かれた近未来の風景に似ていたからだ。とりわけジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』を思い出した。あの作品では、特殊なサングラスをかけて周囲に溢れる広告を見ると、「考えるな」「買え」「権力に従え」といったメッセージが隠されていることがわかる、という場面が描かれていた。品川駅のデジタルサイネージから『ゼイリブ』を連想するのは別に飛躍でもなく、確かに目前にあるのはあの世界そのものだった。
 企業が私たちに今すぐ飲みたいわけでもないビールを買わせようとし、今行きたいわけでもない旅をさせようと宣伝するのは、今更いうまでもなく、欲求に訴えているのではなく欲望を焚きつけるためだ。そこに必然性などないのはコマーシャルを作る側だけでなく、受け取る側ももちろんわかっている。
 「考えるな」「買え」「権力に従え」という文句がコンコースを飛び交っているのは、互いに先刻承知ではあっても、こうも露骨だと辟易する以外の態度しかとりようもない。だからと言って、長い通路を歩いている間、目を瞑るわけにもいかず、そのため情報を拒絶しようとすると、周りの景色は目に映っていても何も見ていない、といった感覚を閉ざす状態にするしかない。こんなにも人が多いのにまるで活気がないのは、少なくない人がそうしているからだろう。

 閉じることを強いられるせいだろう。品川駅を歩いていると、誰ともわからない者から与えられた情報によって管理、拘束される不快さを感じ、次第にイライラとした気持ちが募ってくる。怒りを覚える。
 かといってその怒りに身を任せることもできない。というのも「社会に違和感を募らせる」という自分の中に定番として確立された回路があることも知っているからだ。何を見ても「こんな世の中に誰がした」という嘆息をつい漏らしてしまい、「社会というものは生きづらいものだ」と不全感から世を眺めてしまうのが習い性になってしまっている。デジタルサイネージであれなんであれ、自分が見たものすべてについて違和感を覚えるとしたら、それは自分の中にある憤懣を再確認する行為でしかない。同じものを見ても楽しめる人がいるのに、私の場合は鬱々とする。社会に対して常に怒りを覚えるような関係性しか結べていないのだ。

 話はマイクロソフトの担当者に戻る。彼が「社会」について話すとき、私が感じてしまうような怒りの色合いがなかった。彼の関心の根底には「どう現状を書き換えるか」があるように感じられた。多様性のある社会が望ましいのは、そのような世の中であればこそクリエイティビティが養われるからだという。ただ、それを道徳的なものとして捉えると、「多様性が大事だからクリエイティビティを尊重しよう」ということになってしまう。だが彼の話から伺えるのは、「クリエイティビティを発揮するには身も蓋もなく実際に多様性が大事なのだ」ということだった。
 とかく教育と名のつくものは、人と違う振る舞いをする者に「そうではなくて、こうしましょう」と介入し、一律に揃えさせたがる傾向がある。そこにあるのは逸脱されることへの恐れだろう。
 他人と違う試みをすることを恐れず、その振る舞いが存分にできる環境を整える。そのことによってクリエイティビティは十分に発揮される。協調性ありきではなく、まず個の振る舞いを認める。それが彼の言う多様性である。
 この話を聞きながら感じたのは、クリエイティビティとは、同じような言葉、同じような振る舞いをしなければいけないという恐れの果てに学習し、発揮するものではない、ということだった。

 何を見ても怒りを募らせる回路に収斂させてしまうのは、根底に恐怖があるからだ。現状の社会の不満を数え上げることに長けても、怒りを生み出す力が決して新たな行動に転化されないのは、これまでと違った行動に踏み出すことを恐れるからだ。社会の中で生きていけないことへの恐怖がある。「そんなことで生きていけると思うのか?」「そんなことも知らないのか」と言われるのが怖いのだ。世の中で知られている職業や資格、知識、法、秩序に則らなければ、まともに生きていくことができないという教育によって恐怖が内在してしまい、何らかの決断を迫られると生理的な反応が起きる。身が竦み、自分が襲われている恐怖の実態について考えようとはしなくなる。ただ怒りに逃げ込む。

 身体に起きる生理的な反応はあまりにリアルだ。だが、これは本当に自分の身に差し迫った危機への反応なのか。酸っぱい梅干しを想像すると唾が出る。唾が出るのはリアルだが、梅干しはバーチャルだ。それと同じようにここで言う生理的な反応は、想像された恐怖に対するリアクションにすぎないのではないか。
 野生動物は恐怖を感じると、咄嗟に攻撃するか逃げるかする。逡巡するような隙を自分に与えない。生存を脅かす危機に対しては無我夢中で、一つの明確な行動に出ることよって、そのとき必要な解を導き出す。
 一方、私は恐怖を感じても踏み出しも逃げもしない。これまでとは違う一歩を踏み出せば、社会に居場所がなくなってしまうと想像してしまう。すると途端に動けなくなる。その時の想像には自分のポジションを群れの中に見出して安堵したいという思いも入っている。他人の眼差しの中に自分がいてほしいという望み。しかし、そこに新たな可能性は何も生まれない。

 物事に夢中になっているとき、他者は眼中にない。恐れもない。それはある意味、自分の中に閉じている状態だと言える。明確なゴールはなく、期待もなく、ただ何かに没頭している行為があり、そして結果が生じる。その成果物を見て、人はクリエイティビティを認める。だが、本当はある種の自閉性によって必然的にもたらされる状態そのものがクリエイティビティなのではないか。
 マイクロソフトの担当者の話が示唆していたのは、そういうことだった。ITを用いたコミュニケーションのあるべき姿は、互いの自閉性を保ちながら共存を確保することだろう。それが実現したら、確かに新しい社会と言えるかもしれない。

 新たな社会を作るためには、それを形作る新たな言葉が必要だろう。だが誰も聞いたことのない、他人に届かない言葉を使っても全く意味をなさない。既に知られた言葉であり、なおかつ新しい言葉を手にするには、どうすればいいのか。それは共存の前提となる自閉性と向き合うことではないか。
 社会に居心地の悪さを感じ、生きづらさを感じる。いつも感じている違和感であるがゆえに、「まったく価値のないことだ」と切り捨ててしまっては、自分の感覚を殺して生きることになりかねない。たとえ自分の感覚を言葉として表現したものが陳腐に思えても、その根底には表出されたがっているものがあるのは確かだ。

 それははっきりと言葉にならないし、まだ行為にならない何かではあるだろう。それに対し、外から与えられた言葉をひたすら被せ、形にならない感じや思いをわかりやすく整えていくのは、既に知っている現実を受容することでしかない。自らの内から湧き上がってくる必然性に従って言葉を見つけていかなければ、新しい言葉にはならない。

 与えられた言葉の体系の中にいかに収まるか。それを学習だと思ってしまっては、自分の中の言葉にならない。表出されたがっている何かに光を当てることの大切さもわからなくなる。言葉にならないものを新たな言葉で尋ねる術を知らないままで生きていくことになる。それは恐ろしいことだ。
 怒りと恐怖から離れるには、いったん閉じるという過程が必要なのかもしれない。それは品川駅を行き交う人々に要請される、目を開いていても閉じた状態を指すのではない。
 出来合いの言葉で世界を理解しようとした時に訪れる恐怖を観察する必要がある。私の中の恐怖と不安の穴を埋めるために、他人の提供してくれる言葉を用いない。そういう閉鎖性が必要かもしれない。
 他人とつながることを奨励し、心に湧くざわめき、居心地の悪さを消すように努める言葉は世に溢れている。それもしばらくは必要ないかもしれない。ざわめきや居心地の悪さこそが表出されたがっているものかもしれない。それがまだ私の知らない、出会うべき言葉なのかもしれない。

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尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
http://nonsavoir.com/

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