第五回 旅のはじまりに(4)


聖餐式が行なわれる寺院

 明治はじめの忘れられた情景のひとつといえるかもしれない、こんな奇妙な、しかしどこかシニカルな感触もある、日本の神々や仏たちと異邦の神との葛藤や戦いのありように眼を凝らしてみるのもいい。いや、正確には、戦いではない、戦っている様子は見られない。欧米人たちは唯一絶対の神を携えて、この鎖国をほどいたばかりの島国にやって来た。すでに近世以来の禁教を解かれたキリスト教は、神と仏をめぐる多神教的な世界の片隅に、排撃されることもなく入り込みつつあった。むろん、信仰として受容されたわけではない。
 築地の埋立地は外国人居留地になっていた。そこにはすべての伝道教会の大きな建物が群れをなして集まり、宣教師の住む家もたくさんあった。宣教師館と教会のほかに、教会が有する女子の寄宿学校がいくつかと、東京一致神学校があり、キリスト教青年会の活動の場も設けられていた(第四報)。明治政府はそうして、外国人居留地にそれらの施設を囲い込むのと引き換えに、布教の自由を認めていたのではなかったか。とはいえ、その外にもかれらの居住と活動の範域は広がっていた。
 そのひとつが、芝の増上寺であったのはいかにも皮肉めいていた。ある日、バードはイギリス公使・パークスの夫人とともに、海軍兵学寮の英語教師であるホーズの住まいで開かれる「午後のお茶」に招かれたのである。パークス夫人の操る二頭立ての馬車は、馬に乗った護衛の警部に案内されて進んだ。馬車の前を走る別当が大声で叫びながら、狭い通路を確保している様子が記されている。当時の日本人は馬車のような速い乗り物に慣れていなかった、とバードは書いているが、道路はそもそも歩く人や遊びに興じる子どもたちのものであり、主人公は馬や馬車ではなかったのだ。
 東京の「みすぼらしく迷路のような道」を通って、ひとつの門をくぐると、増上寺の境内に入っていった。樹々がまるで森のように茂って薄暗い木蔭をつくり、「都市【まち】のざわめき」は遠ざかった。いくつとも知れぬほど多くの堂宇【どうう】、六人の将軍が眠る立派な廟があり、また重厚な赤い門、彩色された回廊、大杉の木立ちと並木、滝、漆塗りや銅製のすぐれた美術品、そして、「死んだような静けさ」があった。増上寺は東京の人々にとって、「最も荘厳で魅力ある行楽地」とされて来た。ところが、ここにも廃仏毀釈の波が押し寄せていたのである。バードはこう書いている。

以前には何百人もの僧侶がこの境内に住んでおり、その住まいや訪問者と参拝者のための宿坊だけで一つの町ができるほどであった。しかし「旧体制」が幕を閉じ、儀式のための装飾が目立つ仏教がそのような飾り気を欠く神道にとって替わられてしまい、僧侶は追い払われた。それで、小さな堂宇の一つでは英国聖公会の礼拝が行われている。日本政府が僧侶の家や参拝者の宿坊、寺院や学寮を外国人の住まいとしてあてがったのである。

 これもまた、忘れられた明治の風景のひと齣であったにちがいない。そこには将軍の墓があった。増上寺は上野の寛永寺と並んで、幕府の菩提所として重んじられた寺であったからだ。それが厳しい廃仏毀釈に見舞われて、僧侶たちが追放されただけでなく、かれらの家や宿坊や寺院などが、外国人に住まいとして提供されていたのだ、という。ひとつの小さな堂宇は、そのまま英国聖公会の礼拝所にされていた。どこか、仏教にたいする悪意のようなものを感じずにはいられない。いや、ホーズの住まいが、おそらく増上寺の境内か、その近傍にあった小さな稲荷社の宮司の家であったのだから、それをただちに特別な仏教への蔑視と結び付けるべきではないのかもしれない。
 その稲荷社の境内には小さな社があって、宮司はその床下に棲んでいる二匹のキツネかアナグマに、毎朝食物をあたえている。そう、バードはホーズから聞かされた話を書き留めている。稲荷の神への捧げ物として、宮司があぶらげでも供えている姿を目撃したのだろうか。敬虔な国教会派のキリスト教徒であったバードの眼には、それは唾棄すべき異様な光景以外のなにものでもなかったにちがいない。稲荷社にはいたるところに、紅い鳥居があり、キツネに象られた神像が数も知れず安置されていたはずだ。獣の神への信仰など、まさしく異教徒のばかげた所業そのものではなかったか。ホーズの住まいは、「日本の風変わりなものの陳列館」にようになっていたらしい。さぞかし異教徒の精神世界を映し出す愛蔵品の群れは、驚きに満ちた、醜悪にして美麗なものであったことだろう。
 それでも、バードがその翌日に訪れた、芝の、静かな森のなかの小さな寺院に設けられた教会の情景には、なにか心を揺さぶられるものがある。その日は安息日であった。バードは礼拝のためにその教会を訪れている。その道すがら、安息日であるにもかかわらず、人々がみな休まずに働いている姿を見かけて、そこが異教の国であることに気づかされたらしい。まったくそれを反転させたかのように、わたしはあるとき、バードの旅の行程を眺めていて、ふと気づいたことがあった。つまり、バードは安息日にはかならず休息を取り、出立は決まってその翌日、月曜日の朝であったのだ。その旅の作法は厳密なものであり、おそらく例外はなかった。
 こんな一文が挿入されていた。すなわち、「聖餐式が行われるこの寺院では仏壇があったところに簡素な聖餐台が置かれ、畳敷きの床には椅子が数脚、わずかな信徒のために用意されていた」(第五報)と。わたしはいくらかの衝撃を覚えたことを隠そうとは思わない。やはり、日本人の宗教感覚は独特なものがあるのかもしれない。それまで神と仏を一緒くたに信仰の対象にしていた人々が、いきなりそれを引き裂いて仏教にかかわるものを追放したかと思うと、今度はそこに異教であるキリスト教の神を招き入れる。日本人は無神論者なのだと受けとめられても、仕方がない。なにやら聖なるものへの冒瀆の匂いがする。いや、このとき寺院は聖なるものですらなかったのか。
 逆の光景を思い浮かべてみればいい。教会から神父を追い出し、そこに僧侶が招き入れられ、聖餐台を仏壇に変えて、法事を執り行なっているといった図柄であろうか。けっして、どこにでも転がっている、ありふれた情景ではない。念のために、バードは『日本奥地紀行』の初版が刊行された折りに、「日本政府は最近、日光と芝の社寺[東照宮、増上寺]の修復に着手した。それでこれらのすばらしい芸術品が朽ち果ててしまう恐れはなくなった」(第十一報)と注記を施している。バードその人は、事態の異様さをよく認識していたのである。
 それにしても、その寺院は樹々に覆われた堀に面しており、そこには菖蒲と蓮が茂っていた。城の濠や寺院の池は、たいてい蓮の大きな葉で覆われ、青緑色をした葉には露が宝石のように光っていた。この蓮の花と葉は仏教では「聖なる象徴」とされてきたが、それにふさわしく美しく、「宗教的な意味」があるのも納得できる、そう、バードは書いている。バードの眼差しが異教にたいして、けっして閉ざされてはいないことを確認しておくのもいい。

異邦人が見た演劇興行

 バードの紀行のなかでは、第七報に演劇がテーマとして取りあげられている。簡略版ではまるごと落とされている部分である。ここには、明治十年代はじめという過渡の季節に見いだされた歌舞伎興行についての見聞記録が、異邦人によるドキュメントとして残されている。詳細な訳注を施した金坂清則は、バードの記述の一部に誤りが見られることを指摘しながら、臨場感にあふれ、率直に私見を述べているバードの記録は、とりわけ「歌舞伎史に関わる歴史資料」としても評価される、という。ここではもっぱら金坂の注釈に拠りつつ、わたし自身の関心にしたがって、いくつかのバードの記述に触れてみたい。
 明治十一(一八七八)年の六月七日のことである。バードは正式招待を受けて、「日本の演劇に新時代をもたらす」と評判になっていた新富座の開場式に出かけている。ここでの演劇とは歌舞伎である。この新富座は、守田座の座元である十二代目守田勘弥が、明治五(一八七二)年に守田座を浅草猿若町から新富町の島原遊郭跡に移した劇場である。明治九(一八七六)年に火災で消失したあとに、近代的な様式を多く取り入れ、二千名近くを収容する大劇場として、明治十一年六月に完成した、という。「我邦の劇場に於て古今未曾有の盛事」(朝野新聞)と評された開場式に、バードが招待客として出席していたのである。
 バードは書いている。「日本人の芝居好き」は国全体に広く及んでいるが、芝居見物は慣例的に中・下流の一般大衆だけの娯楽であり、天皇や国政をつかさどる政治家たちが劇場に出かけることなどはありえない、途方もないことと考えられていた。そこで、新富座の座元である進取に富んだ守田勘弥は、「日本が非常に多くの面で西洋を模範にしていること」に着目して、舞台の構造を改めるとともに、客席の照明と換気をよくすることによって「演劇を刷新すること」を思いついた。そうすれば、ヨーロッパの国々と同じように、劇場は「その国で最も身分の高い人々にふさわしい娯楽の場」になると考えたのである。
 そして、「人々を身分を超えて一つにするものは芸能集団をおいて他にない」という『明六雑誌』の至言が指し示すものを、劇場こそが生み出すと考えたのだ、そうバードは指摘している。文脈は定かではないが、近世的な身分制度による分断を超えて、国民国家としての日本を構成する国民=「日本人」のアイデンティティを確立するために、演劇・劇場・芸能集団などが重要な役割を果たすといった議論が、メディアを賑わしていたのであろう。こんな一節が見られる。

役者稼業は世襲制で、手書きの秘伝書は役者の家に代々注意深く受け継がれてきている。役者は卑しい身分の者と見られてきたが、穢多といわれる被差別階級の人々の場合とともに、彼らの差別も今や撤廃されている。ただ、現在活躍中の役者の中で最も有名な市川団十郎がその一員である役者の家[成田屋]だけは、例外的にこのような身分に従来から貶められてこなかった。

 だれからの情報であったか、バードは近世の身分制度のなかでの差別の一端に触れており、「穢多」という呼称も、役者にたいする蔑視についても知っていた。むろん、そうした差別の制度はすでに廃されており、だからこそ、かれら伝統的な芸能集団が担い手であった演劇、そして劇場が、新しい時代の「日本人」の創出のために大きな役割を果たすことを期待されたのである。そうした意味合いにおいて、一般大衆のみならず、上流階級の人々をも巻き込んだ観劇の場が必要であると信じられたのである。守田勘弥によって、外交官やお雇い外国人、日本政府の高官たちが招待されていたらしい。あたり一面がほとんどお祭り騒ぎだった。舞台に面する桟敷席は、前半分が外国人の席になり、後ろ半分は日本人高官の席になっていた。外国人の眼を強く意識した様子が知られるだろう。
 開演は遅れた。海軍と陸軍の楽隊がやかましいだけの音楽を交互に演奏していたが、それが我慢の限界に達したとき、ようやく舞台の脇の幕が横に引かれて、守田が舞台中央に進み出た。それに伴われて登場した役者たちはみな、燕尾服に惨めに身を包んでおり、女形の役者たちは羽織・袴姿だった。パークス公使の六歳の娘は、「あの気持ち悪い人たち、みんな、なんて変な感じなの!」と、小さく叫んだらしい。じつに的を射た表現ではあった。バードは書いている、「どの顏も黄色くて特徴がなく、頭蓋骨は丸味を帯び、ぞんざいに刈った髪の毛は逆立ち、胸はうすく猫背で、脚は貧相で形が悪い。洋装なのでその醜さが際立ち、金輪際見たくないものだった。〈略〉細い腕を両脇にだらんと下げ、手には山羊皮の白い手袋を窮屈げにはめて立っているその立ち姿は、まるで懲罰を待つ悪党だった」と。そこまで言うか、と思わずにはいられないが、まっすぐな印象の吐露ではあった。バードが洋装の日本人の男たちにたいして、その不格好さや醜悪さを口をきわめて罵る姿は、ほかにも見いだされる。
 さて、舞台の端に進み出た守田(金坂によれば、尾上菊五郎)が、日本語で挨拶を読み上げた場面についての、バードの感想はたいへん適確である。

かれらが猿真似の洋装であるためにその挨拶を聞いてばかばかしい気になりはするけれど、守田の挨拶は「内からの改良」を求めるいま一つの証左として、また西洋文明化に向かって日本が大きく動いていくのに同調するものとして、実に興味深く重要ではあった。舞台を洗練したいというその願いは、政府が不道徳になりがちな絵画や人物画[浮世絵]の販売を禁止したり、多くの不道徳的な興行をやめさせたり、都市では戸外に出る際に衣服の着用を強制したり、公衆浴場での混浴を禁じたりするなどして、少なくとも外面的には公衆道徳の改善を標榜していることと、軌を一にしているのである。

 洋装がどれだけ日本人の男らの体型に似合わぬ、不様なものであったにせよ、西洋文明化はやはり避けがたい変容のプロセスであったにちがいない。演劇の「内からの改良」はたしかに、欧米からの眼差しが不道徳と見なす浮世絵(つまり春画か)・興行・裸体や混浴などを禁止し、公衆道徳の改善を政策として掲げざるをえない明治政府の求めるものでもあった。それはまた、おそらくは、国家による干渉や弾圧を搔いくぐりながら、伝統的な卑賤視を超えて、歌舞伎のような伝統芸能が生き延びてゆくための、数少ない選択肢のひとつであったはずだ。
 ところで、実際に舞台を見たバードは何を感じたのか。

芝居の語りは力強いとのことだが、身のこなしや顏の表情は、西洋人の考え方からすれば、不自然で大げさである。また、陰気な音楽と謡(コーラス)の哀調を帯びた声には、哀しみや絶望があまりに強調されている。日本の古い時代の事物に興味を抱き、日本語がある程度わかっている多くの外国人は、古典劇に大いに魅せられているが、新富座の出し物がもしその典型だとすると、退屈でつまらないと言うほかない。
チェンバレン氏は、私をこの古典劇にいささかなりとも夢中にさせようとされたが、どれだけ説明を受けても、装束がどれだけみごとであり、演者にどれだけ古式ゆかしい重々しさがあろうとも、私にはこの上なく単調で退屈なものだった。また、伝統的な所作に伴うお囃子や悲鳴にも似た猫の鳴き声にも似た声、そして床を踏み鳴らす音は、門外漢にはこのうえなく苛立たしいものだった。

 説明はいらないだろう。バードにとって、それはかぎりなく大仰で、退屈で魅力に欠けるものだったのである。バードは歌舞伎と能との区別ができずに、その記述には随所に混乱や誤解が見いだされる。もしバードの見た舞台が、たとえば夢幻能のような演劇であったとしたら、「不自然で大げさ」といった印象は大きく異なったものとなったにちがいない。異邦人の記録は、情報が限定されているがゆえに、ときに偏ったものとなることは覚えておく必要がある。

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赤坂憲雄(あかさか・のりお)

1953年生まれ。学習院大学教授。福島県立博物館館長。『岡本太郎の見た日本』でドゥマゴ文学賞受賞。同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。著書に、『性食考』『司馬遼太郎 東北をゆく』『北のはやり歌』『ゴジラとナウシカ――海の彼方より訪れしものたち』『東西/南北考』『異人論序説』『山の精神史』『漂泊の精神史』『遠野/物語考』『境界の発生』『子守り唄の誕生』『結社と王権』など多数。

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