第五回 痛くないけど痛い脚


 前回まで、さまざまな中途障害の体をとりあげてきました。中途障害の人の体では、しばしば「障害を得る前の健常者としての体の記憶」と「現在の体」がダブルイメージのように重なっています。そのことによって、常識的に考えるとちょっと不思議な、さまざまな現象が生じます。
 今回は、これまでとは違い、先天的に障害のある方の体を扱います。「先天的に障害がある」とは、生まれつき全盲の人や、片腕だけで生まれてきた人などのこと。こうした方たちの場合には、通常、記憶という意味でのダブルイメージは生じません。中途障害のような、時間的な断絶がないからです。
 ところが、今回扱う方の体はその中でも特殊です。時間的な断絶はありませんが、空間的な断絶がある。上半身と下半身で体の状態が違っているのです。そのため、上半身の記憶が下半身の経験に重なる、というようなことが起こります。
 ご登場いただくのは、かんばらけんたさん。前回ご紹介した大前光市さんと同様、リオパラリンピックの閉会式に登場し、車椅子を使ったパフォーマンスを披露されていたダンサーです。ふだんはシステムエンジニアとして企業で働いていらっしゃいます。

腕に脚の機能もついている

 かんばらさんは、二分脊椎症という病気で、生まれつき脊椎が二つに分かれています。同じ二分脊椎症でもいろいろなタイプがあり、杖や装具を使って歩く人もいれば、かんばらさんのように車椅子で生活をしている人もいます。神経がほぼ途切れているので、腰から下は、触っても感覚がありません。立ったり歩いたりといった動作は難しいですが、全く動かないわけではなく、左脚はちょっと動かすことができます。「便座に座るためにつかまり立ちをするようなときに、ちょっとついたりする」そうです。右脚は全く動きません。
 一方、腰から上の運動機能は全くの健常者。というより生活のなかで下半身を補う役割を果たしているので、むしろ健常者よりも発達した上半身を持っています。よく動く肩甲骨に筋肉のついた腕。特に肩甲骨はまるで羽のようで、横から見ると体全体が白鳥のようです。「ぼくの場合は腕に脚の機能もついてるという感じです。手で這っていくのも『歩く』ですし、もうちょっと言うとこの車椅子も、ちょっと脚に近いです。腕は胴体と同じくらいの存在ですかね」。
 実際、私が初めてかんばらさんにお会いしたときに目の当たりにしたのも、まさに「腕が脚のように働く」さまでした。その日、私はあるダンスのワークショップに参加する予定でした。場所は渋谷の駅近く、会場のある建物に遅れて到着すると、車椅子のかんばらさんもちょうど着いたところでした(その時は、あのリオのダンサーだとは分かりませんでしたが)。会場は地下で、行くための階段は中程で90度折れ曲がったつくりになっていました。
 お手伝いしましょうか、と声をかけると、車椅子をちょっと押して欲しいというのがかんばらさんの答えでした。車椅子を離れて地面に座りこんだかと思うと、おもむろに腕を杖のように使って這っていき、そのまま下半身をひきずりながら階段を一段一段……いやすべるように一気に下りて行くかんばらさん。はしごを下りるように後ろ向きではなく、スキーのモーグル選手のように前向きで頭から突っ込んで行きます。いったいどうやって体重移動をしているのか、まったく解読できないほどスムーズな移動で、腕も「ついている」というギクシャクした感じがありません。まるで軟体動物のように、地面の段差に体がぴったりと吸い付いているように見えました。
 私は率直に驚いてしまいましたが、かんばらさんからすれば、別に努力したり工夫したりしている感覚はありません。私たちの足が、仮に考え事をしていたとしても、ちゃんと段差を捉えて階段を下りていくように、かんばらさんにとっては、そうやって階段をすべっていくことは当たり前だからです。かんばらさんは言います。「ぼくも手で移動しているときは意識はしていないですよ。たぶん歩いてるのと同じだと思う。階段を上り下りするときすら、意識していないですね」。
 いわゆる健常者のやり方とは違っていても、体の制御がオートマ化していることは、先天的に障害のある体らしい特徴です。かんばらさんは、小学校も普通の学校に通っていて、「1階から4階までの各階に車椅子を一台ずつ置いてもらって、階段の横にカーペットを敷いてもらって、手で這って各階を移動していた」と言います。自宅も「坂の上にあるので、駅から徒歩20分ひたすら登らないといけないので、それが英才教育になったんですかね(笑)」。かんばらさんの上半身は、意識して鍛えたわけではなく、幼い頃からの生活のなかで自然に形成された「脚の機能を持った腕」なのです。

コタツの中の脚

 そんな「ムキムキ」の上半身に対して、下半身は細く、感覚もほぼありません。腰を境に全く質の異なる二つの身体をもつかんばらさん。まさにハイブリッドの身体です。もっとも、感覚がある場所とない場所の境界線はそれほどはっきりしているわけではないそうです。人に触ってもらうと、腰のあたりから「感覚が弱くなる」そう。興味深いのは左脚です。左脚は、動かすことはできますが、感覚はない。「頭の中で動けという指示を出せば動きますけど、何かに当たっても全然分からない」そうです。
 それゆえ、腰から下の皮膚は、外界の状態を感じる器官としては使えません。たとえばコタツに入るとき。感覚があれば、脚を入れることで暖まりますが、かんばらさんの場合は脚を入れても暖かくない。そこでコタツは手を暖めるために入ることになります。ところが手を入れようとすると、よくこんな笑い話のような出来事が起こると言います。「コタツに入るときは(…)手を入れるんですけど、他人の脚を触ったと思って『あ、ごめん』って言ったら自分の足だった(笑)」。つまり、触っている手のほうには感覚があるけれど、触られている脚の方には感覚がない。ゆえに他人の体を触ったように感じてしまったのです。部分麻酔をしているときのような、自分の体が自分の体でなくなったような感覚でしょう。
 コタツの場合は笑い話で済みますが、自分の体を感じられないということは、体がきわめて無防備な状態にあることを意味します。先に「左脚は動かせるけど、何かに当たっても分からない」と語っていましたが、かんばらさんは、自分の脚に起こる痛みを感じることができません。ということは、怪我をしたとしても、すぐに気がつくことができないのです。★1
 実際、脚を怪我してしまったことは、数知れずあると言います。「たとえば幼稚園くらいのときに、手で這って友達と鬼ごっこしてたら、いつのまにか脚が擦り傷で血が出ていたりとか」。擦り傷とはいえ、放って置いたらばい菌が入って化膿してしまうかもしれません。痛みはないけれど、怪我には違いありませんから、生理的にはまずい状態です。ということは、かんばらさんのような体を持つ人は、痛くないにもかかわらず、頭で「これはまずいな」と判断する必要がある。怪我に気づいたときの感覚を、かんばらさんはこう語っています。「『うわーやっちゃった』という感じですね。『あ、これ気をつけないとダメなんだ』みたいな。まわりに「気をつけなさい」と言われてというより、自分でそう思うようになりましたね」。

脚に意識を置いておく

 そもそも痛みとは、私たちにとって、自分の身体を守るように教えてくれる重要なサイレンです★2。いざというときはこのサイレンが鳴るからこそ、ふだんの私たちは自分の身体の安全を意識しないでいられる。ところがそのようなオートマチックな機構がないかんばらさんの場合には、自分で意識して、身体を監視下に置かなくてはなりません。怪我をしていないかどうか、おかしな姿勢になっていないか、常に気遣っていないと、手遅れになってしまうかもしれません。
 そのような監視体制を、かんばらさんは、「脚に意識を置いておく」と表現しています。「脚に意識を置いておくのは、純粋に怪我のためです。怪我しないのであれば意識する必要はないんですけど、感覚がないから、怪我をしないように意識を置いておくんですよね」。
 「脚を意識しておく」ではなく「脚に意識を置いておく」という言い方なのが面白いところです。脚の存在を自分の内側から感じることができれば、それは「脚を意識しておく」ということになるでしょう。ところがかんばらさんは、脚を実感として感じることができない。だから「脚に意識を置いておく」という外側から注意を払うような言い方になります。そこには、こたつの中で自分の脚を他人の脚と間違えたときのような、脚が自分の外にある物のように感じられる感覚と似ています。
 そう、かんばらさんの身体の特徴は、脚の状態を内側からではなく外側から感じるところにあります。内側から自分の身体の状態を感じるのは、体性感覚の働きです。筋肉や腱に埋め込まれた受容器が伸び縮みの具合を感知し、それによって身体がいまどのような姿勢を取っているかが内側から分かるのです。それに対して外側から感じるのは、視覚や手の触覚の働きが中心になります。
 先のコタツで自分の脚を掴んでしまったエピソードも、コタツの中にある脚を視覚的に確認できなかったために起こったエラーだと考えられます。当たり前ですが、床に車座になっているときに、自分の脚を他人の脚だと間違えることはないでしょう。コタツの場合は、見えなかったから、思っていたのとは案外違う位置に脚があった、ということでしょう。
 手の触覚で脚を確認するのは、たとえば脚の温度を確認するときです。「脚が冷えているかどうかを手で確認したりしますしね。脚の感覚がない分、その感覚を補うために視覚を使ったり、触覚を使ったりしていますね」。視覚ではなく触覚で感じる場合には、経験そのものがかなり特殊なものになります。感覚があれば、自分の身体に触るとは、常に「触られる」感覚とセットになった双方向的な経験です。ところがかんばらさんの体の場合には、そうではない。触るという外側からだけの経験として感じられることになります。
 ちなみに、こうした「意識を置いておく」感覚は、義手ユーザーとも共通する部分です。ただし、義手の場合には、自分ではなくもっぱら他者の怪我を気にすることになります。電車の中のような混んだ場所では、義手でまわりの人を傷つけてしまう可能性があるからです。もっとも、かんばらさんのように習慣になっている場合を別にすれば、「意識を置く」ことそのものがわずらわしく感じられることもあるでしょう。たとえば倉澤奈津子さんは、骨肉腫で右腕を肩から切断しています。しかし現時点では、肩パットのみで義手はつけていません。その理由を倉澤さんはこう話します。「肩は、ないと洋服が落ちてしまって気になります。だから、肩パッドがあると、やるべきことに集中できる。(…)腕は、義手があるとどこにいっちゃったかなというのが逆に気になってしまいます」。

痛いような気がしてくる

 このようにかんばらさんの体は、脚についての情報を、脚そのものではなく視覚や手の触覚を通して得ている点で、いわゆる健常者の体とは情報収集の経路が異なっています。しかし、本題はここからです。事態はそれほど単純ではありません。確かに、神経の物理的な情報伝達の実態としては、かんばらさんが脚について知る方法は「外から」です。しかし感覚としてかんばらさんが感じていることは、必ずしもそうではありません。「内からか外からか」が明確には区別できない、もっと曖昧な領域が存在するのです。
 たとえば、脚を怪我したとき。自分の皮膚が傷つき、血が出ているのを見ていると、「脚には感覚がない」「痛くはない」という事実がゆらいでくると言います。「脚から血が出ているのを見ていると、不思議なんですけど、なんとなく痛いような気がしてくるんですよね(笑)。痛くはないんですけど、血が出ているということで、痛いっていう感じになってくるんですよね」。そう、視覚的に感じているはずの「怪我」が、単なる「外側からの情報」では収まりきらなくなり、内側からの感覚のようなものが伴いはじめることがある。そうかんばらさんは言うのです。
 もちろん、痛みといっても「ヒリヒリする感じ」や「ズキズキする感じ」をはっきりと感じるわけではありません。「明確に痛いわけじゃないんだけど、足元がモワモワするというか、痛いような気がする状態、なんか違和感がある状態です。怪我に気づいていないと、モワモワしている感じもないので、目で見て、脳が何かしら理由をつけようとしているんじゃないですかね」。
 もし、かんばらさんが下半身だけでなく全身の感覚を欠いていたら、このようなことは起こらなかったでしょう。おそらく、上半身での痛みの経験があったから、視覚的な怪我の情報に刺激されて、「痛いような感じ」が再生されたのだと考えられます。いわば、上半身の経験が下半身の経験を意味付けるのに援用された状態。空間的な断絶があるかんばらさんの体だからこその、二重化のパターンです。「脚の感覚がない分、その感覚を補うために視覚を使ったり、触覚を使ったりする」とかんばらさんは語っていましたが、この補完作業が習慣の果てにほとんど無意識化された結果、感覚レベルの転写が起こったと考えられます。
 ちなみにこの「モワモワ」は、やけどしたときには起こらないと言います。起こるのは、あとから「水ぶくれができているのを見た」とき。やけどそのものは、怪我だとしても血が出る場合とは異なり、視覚的な特徴が強くはありません。したがって補完が起きない。ところが「水ぶくれ」という明確な特徴が出てくると、「モワモワ」が生じます。このことは、かんばらさんの感じる脚の痛みが、あくまで外側から捉えた情報の「補完」であって、神経そのものの再生でないことを意味しています。
 しかしひるがえって考えてみれば、私たちの痛みの感覚というのは、そもそもかなり曖昧なものです。映画などでカミソリを肌に当てているシーンを見ると、自分の身体に起こったできごとではないのにぞくぞくして、思わず「痛い」と叫んでしまうことがあります。また幻肢痛のように、存在しないはずの腕が痛むこともあります。「自分の守るためのサイレン」でありながら、同時に自分の体の物理的な境界をゆるがすものでもある痛み。かんばらさんの体に起こる現象は、その謎へと私たちを誘い込みます。

★1 厳密に言えば、怪我の種類によっては、気づくこともあるそうです。たとえば脚を強くぶつけたとき。ぶつけた箇所に感覚がなくても、振動がお腹にまで伝わるので、ぶつけたことが分かるそうです。ただし、この場合も痛みはないそうです。
★2 現代の私たちは、痛みを「身体を守るよう知らせるサイレン」だと感じていますが、これは普遍的なものではなく、時代や文化について大きく変化します。『痛みと感情のイギリス史』(伊東剛史・後藤はる実編、東京外国語大学出版会、2017年)は、この点に関する興味深い研究です。

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伊藤亜紗(いとう・あさ)

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)がある。同時並行して、作品の制作にもたずさわる。

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