第五回 ICGの興亡-1920年代の闘争-

 アメリカに渡ったヴァレーズは、1917年、ベルリオーズ「レクイエム」の指揮で鮮烈なデビューを飾った。その後、同時代の音楽を演奏するための協同組合組織「ニュー・シンフォニー・オーケストラ」を立ち上げるも、記念すべき第一回の演奏会直後に方針の違いをめぐって対立が生じ、その結果、代表を辞職。こうした徹底的な非妥協は、のちにも彼をたびたび孤立させることになるだろう。実際には「馘首」といってよい事態のあと、ヴァレーズは少人数による緊密な作曲家集団を組織する必要を感じるようになる。そして、彼の理念によれば、この新しい団体は断固として「国際的」な拡がりを持つものでなければならなかった。

■「国際作曲家組合」の設立
 1919年3月23日付のニューヨーク・タイムズには「芸術における国際連盟」という見出しで、ヴァレーズからの投書が掲載されている。タイトルは明らかに、その2か月前のパリ講和会議において決定された「国際連盟League of Nations」の設立に絡めたものだ。第一次大戦後の混乱した状況の中でヴァレーズは、むしろ大戦を契機にして世界は相互理解に近づいているのだ、という積極的なヴィジョンを開陳する。

私は、芸術における国際連盟(League of Nations in Art)を提唱しようと思う。ここには政治家たちの論争を巻き起こすような、契約も草稿も法廷の調停も組織も必要ない。この連盟は単に、世界に対する精神の態度の中に存在するものなのである。世界大戦は、明らかに地球の人々を近しいものにした。我々は今やお互いを以前より近い距離から眺めており、こうした接近によって様々な差異は無効になりつつある。真に理解しあっている国々ならば、些細な国民的特徴を理由にして仲たがいすることはないだろう。そして芸術――音楽、文学、絵画――の自由な交流こそが、こうした人々の相互理解を可能にするのである。
 ヴァレーズのこの考え方は、続く1920年代の活動にダイレクトに反映されることになる。パリで生まれ、ブルゴーニュで幼少期を過ごし、トリノでの少年時代を経て、ベルリンで頭角をあらわし、ニューヨークで仕事をするヴァレーズにとって、偏狭なナショナリズムは本能的に相容れないものだった。
 世界の芸術家の交流を呼びかけるのみならず、当時のヴァレーズは、アメリカという新しい土地における創作に注意を向けてほしいと、折に触れて主張している。
 例えば、先の投稿からおよそ一週間後の3月30日付のタイムズには「ヴァレーズ氏との対話」という見出しの記事が掲載されているのだが、ここで彼は「音楽の歴史は今、現在も作られています」「アメリカの作曲家たちは彼らのメッセージを、現在に生きる人々の耳に届けなくてはならないのです」と熱く語っている。ニュー・シンフォニー・オーケストラの失敗は、結果としてヴァレーズをオーケストラの指揮から遠ざけたものの、しかし一方でそれは「国際的な」「作曲家の共同体」という別のアイディアへと彼を導くことになった。
 ヴァレーズと共に、この新しい共同体の中心を担うことになったのは、ハーピストにして作曲家であるカルロス・サルセードである。ヴァレーズより2つ年下にあたり、同じくフランスからアメリカに渡っていたサルセードは、1918年にヴァレーズと知り合ったその日から彼の人柄、そして芸術に対するヴィジョンに強く吸引されてしまう。ヴァレーズの側からみても、ヴィルトゥオーゾとして絶大な知名度を誇るのみならず、高い音楽能力を持ち(のちの演奏会ではしばしばサルセードが指揮やピアノを担当した)、さらには音楽界に様々なコネクションを持っていたサルセードの存在は、新しい団体の発足には欠かせないものだったろう。さらにサルセードは、自らが創刊していた雑誌「エオリアン・レビュー」(1925年からはエオルスEolusと名称を変更)を、この新団体の強力な広報誌として用いることになるのである。
 1921年5月31日、この2人を中心にして「国際作曲家組合International Composers' Guild」(以下、ICG)は出発した。ザッハー財団に残っているヴァレーズ資料の中には、ニューヨーク州に宛てた、タイプ打ちされた団体の設立証明書がある*1。もちろん提出書類そのものではないが(サインなども抜けている)、おそらくはこれとほぼ同じものが役所に提出されたのだろう。

 国際作曲家組合 法人設立証明書
ニューヨーク州
ニューヨーク行政区
ニューヨーク市御中

 下に署名のある者たちは、会員法人法の規定に基づいて法人を設立することを申請する。メンバーは全員が成人に達しており、米国の市民、かつニューヨーク州の住民である。我々は以下の諸事について誓うものである。
 一、当該法人発足の目的は以下のようなものである:私たちの時代を代表する音楽作品の発表と制作を励まし、支援し、可能にすること。新しい作曲家が制作と出版を実現できるようにすること。著作権を取得したり、コンサートを開催したり、制作、出版などの方法で音楽の新しい傾向をあらゆる場面で奨励すること。ただし、これら全ては自発的なものであり、利益のためではない。
 二、当該法人の名称を「国際作曲家組合International Composers’ Guild Inc.」とする。
 三、当該法人主催の活動が主に行われる地域は、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン行政区である。
 四、当該法人の主たる事務所は、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン行政区にある。
 五、当該法人の取締役の人数は5名とする。
 六、第一回年次総会まで、当該法人の取締役になる者の氏名及び居住地は…[※以下は空欄になっている。ここから手書きで住所を書いて、提出したのだろう]
七、年次総会の開催時期は、5月の第1月曜日とする。

 以上を誓約した上、私達はこの証明書を1921年5月31日に作成し、承認した。

 W. R. シェファード
 メアリー・リード
 モーリス・T・スパイザー
 ルイス・リッテンバーグ
 ベンジャミン・F・グラッツァー
 チャールズ・レヒト
 エドガー・ヴァレーズ








 これは法人の申請書類なので、サルセードの名前はない。他のメンバーは秘書(リード)、二人の弁護士(スパイザーとレヒト)、コロンビア大学のラテン文学の教授(シェファード)、ハンガリー系の編集者でのちのアメリカ・ロシア協会設立にかかわった人物(リッテンバーグ)、映画監督(グラッツァー)という具合で、ヴァレーズの交友関係が既に幅広いジャンルに及んでいることがわかる。
 ICGの基本的な姿勢は、申請書の中に十全に現れているといってよいだろう。利益を追求せずに、新しい時代の音楽を積極的にプロモートすること。そうして現代の作曲家たちが生きる道を切り拓くこと。端的にいえば、これがヴァレーズの狙いだった。
 かくして団体の根幹に掲げられたルールは「取り上げる曲は世界初演かアメリカ初演、最低でもニューヨーク初演であること」「再演は不可」というものである。「世の中に腐るほどある音楽団体はみな、何も学ばず、何も忘却しようとしないブルボン家の象徴だ。それは壮大な墓、すなわち音楽の追憶のための葬儀場なのだ」*2と語るヴァレーズにとって、新作を次々に紹介するのは何よりも重要なことだった(ちなみに、旧体制の象徴として「ブルボン家」が出てくるあたり、フランス人という出自があらわれていて面白い)。「ニュー・シンフォニー・オーケストラ」の場合も似たような方針が掲げられてはいたけれども、ICGではこの姿勢はより徹底され、その結果として、またしてものちに大きな軋轢を生むことになる。
 経済的に団体を支えたのは、芸術家への支援で知られたホイットニー夫人(ガートルード・ヴァンダービルト)と、医者の夫を持つ慈善家であるクリスチャン・ホルムズ夫人のふたり。ちなみにヴァレーズは個人的にも月に200ドルの援助を、ホイットニー夫人から秘書ジュリアナ・フォースを通じて受けとっていた*3。彼女がいなかったら、当時のヴァレーズは生活さえままならなかったわけだ。
 ところで、ヴァレーズが月々得ていた200ドルとは、現在でいえばどの程度の金額になるのだろうか。あくまでも遊びの域を出ないものではあるが、アメリカの有名なインターネットサイトInflation Calculator(usinflationcalculator.com)で調べてみると、1921年の200ドルは、現在ではおよそ十倍以上の2800ドル程度になるという。この計算が正しいとすれば、邦貨にして30万円程度。基本的な生活費の援助としては妥当な金額といえるだろう。
 6年間に計18回の演奏会を開くことになるICGは、ストコフスキー、ライナー、クレンペラー、アラウといった豪華な演奏家が参加していることを考えれば経費もかなり嵩んだはずなのだが、資金面でさして苦労をした跡が見えない。これはホイットニーらによる豊富な資金提供と、そして1920年代のアメリカにおける未曽有の好景気が奏功したものだった*4
 ICGの第1回演奏会が行われたのは、1922年2月19日。会場のグリニッチヴィレッジ・シアターには300人ほどの聴衆が集まった。プログラムは以下のようなものである*5

 E.ウィソーン(1884-1958)「ギリシャの印象」
 L.グルンバーグ(1884-1964)「ポリクロマティックス」
 A.カゼッラ(1883-1947)「おお麗しきものよ」
 F.マリピエロ(1882-1973)「アリエッテ」
 I.ピツェッティ(1880-1968)「放牧民たち」
 A.オネゲル(1892-1955)「3つの断片」
 E.グーセンス(1893-1962)「ヴァイオリン・ソナタ1番」

 集められているのは、ヴァレーズとほぼ同世代にあたる作曲家たちの作品。この時点のアメリカにおいてはほとんど知られていない名前ばかりながらも、今から見るとややおとなしい人選に感じられるかもしれない。しかし、そもそもヴァレーズは単純に、保守的・調性的な音楽を排除することを考えていたわけではない。「ミュージカル・アメリカ」誌6月23日号に発表したICGのマニフェストで、彼は次のように述べている。以下、少々長いけれども全文を訳出しておく。

作曲家は今日、聴衆と直接結びつくことを妨げられた創造者にすぎない。作品が完成すると作曲者は脇においやられるのだが、演奏者は時として作品を理解しようとせず、無作法にも価値を判断する。奏者が親しんでいる慣習の痕跡が見えない場合、彼はプログラムからそれを外し、支離滅裂で理解不能だと断ずるのである。
 他の芸術分野においては、創作者は受け手との直接的な接触を何らかの形で持っている。詩人や小説家ならば印刷された書物という媒体があり、絵描きや建築家はギャラリーや野外、そして劇作家は舞台という場を持っている。作曲家のみが、演奏者という仲介者を必要とするのである。
 確かに巷の音楽団体においても、一般の人々の要求に応えて、既に古典となっている作曲家と並べて新しい作品をプログラムの中に置くことはある。しかしそのような作品はたいてい、現代の創作ではあっても無難で内容の乏しいものばかりであり、真に現代の精神を体現する作曲家は置き去りになってしまっている。
 死ぬことは疲れ果てたものの特権である。今日の作曲家たちは死ぬことを拒む。彼らは団結し、「自らの作品の自由でフェアな発表」を追求するために個々が闘う権利を認める。こうして国際作曲家組合(ICG)は生まれたのだ。
 ICGの目的は、現代の作品を、よく考えられ、組織的に組み立てられたプログラムにまとめて、そしてその根本的な精神を明らかにするような歌手や器楽奏者の素晴らしい援助のもとで提供することにある。ICGは意志の制限も行動の制限も認めることを拒否する。ICGはあらゆる「イズム」を承認しない。そしてあらゆる流派を否定する。ただ、個人だけを認識するのである。*6

■女神としてのルイス・ノートン
 1921年、ICG発足とほぼ時を同じくして、ヴァレーズは生涯の伴侶になるルイス・ノートンと再婚した。このタイミングは、ICGという団体が成立するためには、ルイスという存在が不可欠だったことを期せずして象徴している。かくして結婚後の二人は、およそ45年間にわたって、ほぼ一心同体となって活動を進めてゆくことになる。
 このルイスという女性、只者ではない。彼女は1890年にピッツバーグで生まれ(ヴァレーズよりも7歳下にあたる)、マサチューセッツ州の名門女子大スミス・カレッジでフランス文学を学んだ*7。その後ニューヨークで仕事をするうち、詩人にして編集者だったアレン・ノートンと結婚。夫婦で1916年に「はぐれ者 Rogue」と名付けられた現代芸術の雑誌を創刊し、ピカビアやデュシャンとも親しく交際するに至る。1917年にノートンと離婚したのちにヴァレーズと出会い、ほどなくして一緒に住むようになったのだった。
 「ルイス・ヴァレーズ」という新しい名を名乗るようになった彼女は、ヴァレーズの片腕として、ICGの運営や様々なプロモーションに参加するとともに、フランス語と文筆の能力を生かして多くの翻訳書を出版した。その中にはランボー「イルミナシオン」「地獄の季節」、ボードレール「パリの憂鬱」、プルースト「楽しみと日々」、スタンダール「リュシアン・ルーヴェン」、サルトル「賭けはなされた」などに加えて、アンリ・ミショー、サン=ジョン・ペルス、アダム・ミツキエヴィチらの詩、そしてジョルジュ・シムノンの小説多数が含まれている。これらのラインナップを見れば、彼女が翻訳者としても一流の存在だったことが理解されよう。多くのアメリカ人はルイスの翻訳でこうしたフランス文学の名作を知ることになったわけである(おそらく、翻訳に際してはフランス人である夫エドガーの助言も生かされていることだろう)。これらの翻訳書の多くは、現在も出版社のカタログに残っている*8
 我々にとって重要なのは、この翻訳出版が夫婦の経済活動を支える大きな柱として機能したと考えられることである。
 ヴァレーズの生涯をたどってゆくと、彼がどうやって生計を立てていたのか、というシンプルな謎にまずは突き当たる。大学などの教育機関で教えていたわけではないし、晩年を除いては大きな委嘱作もほとんどない。主要作は出版されたものの絶対数が少なく、再演も生前はきわめて少ない。レコード録音も数えるほど。つまり、彼はどう考えても作曲活動によってはたいした金銭を得ていないのである。弟子からのレッスン料や写譜の仕事による収入は散発的にあったけれども、決して十分だとは思えない。
 となれば、残りは二つ。
 まずひとつは様々な助成、寄付である。本連載でもこの点についてはなるべく詳しく記すように留意しているが、彼はほぼ生涯にわたって、何らかの助成金や寄付を必要としていたし、それらを様々な個人や機関に求めることが半ば仕事のようにもなっていた(だから、こうした寄付や助成金が途絶えた時には、彼は身動きがとれなくなってしまう。これについては1930年代後半の活動について記す際に詳述したい)。そしてもう一つが、妻ルイスの翻訳出版にかかわる収入だったと思われるのである。ただ、結婚についての記述の中でルイスは、「……彼は[様々な助成を得て]お金持ちになったと感じたようです。私の収入が彼を越えず、いわば男性的特権が維持された結果として、私たちはシティホールで結婚することになったのです」と記しているから、ヴァレーズにとって、これは決して快いことではなかったのだろう*9。ヴァレーズに配慮してか、ルイスは日記の中で、きわめて控えめにしか自分の活動について記してはいない。しかし彼女の翻訳出版の内容と点数をあらためて調べてみれば、これはかなりの収入になったはずだと推定されるのである*10
 ルイスの「日記」についても、ここで触れておこう。
 彼女はヴァレーズの死後7年ほどたった1972年に『ヴァレーズ:鏡合わせの日記 第1巻Varese : A Looking Glass Diary, vol.1, 1883-1927』を出版する。この日記は本連載でも基本資料の一つになっているものだが、あらためて驚くのは自らの記憶のみならず、多くの書簡資料とインタビューに基づきながら、彼女が詳細かつ客観的にヴァレーズの生涯を追跡していることだ。そもそも、ルイスとヴァレーズが知り合ったのは1917年末なので、それ以前のことに関しては、他の伝記作者と同じように、本人に対するインタビューと残存資料から記述を行うほかない。つまりこの書籍は、未亡人から見た夫の回想録という次元をはるかに超えて、文学者としてのルイス・ヴァレーズによる「作品」と考えるべきなのだ。
 ひとつ残念なのは、どうしたことか1927年までを扱った「第1巻」のみが出版されて、1928年以降を扱った第2巻がお蔵入りしてしまったことである。ヴァレーズが没する1965年まで、ルイスは一心同体といってよい存在になるのだから、むしろこの時期に関しては彼女にしか書けないことが山ほどあったはずである。1989年まで生きたルイスには、執筆の時間は十分にあったように思われるのだが、ともかくこの続編は出版されることなく終わった。
 ただし、ルイスの遺品に残されていたタイプ打ち草稿が、現在はザッハー財団のヴァレーズ・コレクションに所蔵されている。まだ記述が十分に詳細ではなく、不完全なものであることは明らかながら、それでもほぼ晩年までのヴァレーズの動向がルイスの眼から描かれた貴重な資料であることは間違いない。本連載でも1928年以降の部分では、この未完の草稿をたびたび用いることになるだろう。

■シェーンベルクの不安と「ピエロ」初演の余波
 設立当初の1921-22シーズン(欧米の音楽シーズンは9月に始まる)には、先の第1回(1922年2月19日)に続いて、第2回(3月19日)、そして第3回(4月23日)の演奏会が開かれている。ヴァレーズとサルセードは共に、この第3回の演奏会の際にはじめて自作を初演しているが、この二人のほかに、第2回と第3回の演奏会ではフローラン・シュミット、ストラヴィンスキー、カール・エンゲル、ヴォーン=ウィリアムズ、コダーイ、モーリス・ドラージュ、ラヴェル、ブリス、プーランク、サティ、コタポス、プロコフィエフ、ミャスコフスキーらの作品が演奏されている。
 続く1922-23シーズンも、第4回(1922年11月17日)、第5回(1923年2月4日)、第6回(1923年5月4日)と、やはり原則通り3回の演奏会が行われた。
 ちなみに、このシーズンから、クレア・レイスという強力なスタッフが事務局に加わっている。ヴァレーズが「疲れ知らず」とあだ名をつけた彼女は*11、のちには音楽プロモーターとして名を成すことになる人物なのだが、その片鱗は早くもこの時期から見られる。グリニッジヴィレッジ・シアターが手狭だと見るや否や、レイスはよりキャパシティが大きく場所も便利な、45丁目に位置するクロウ・シアターを瞬く間に会場として押さえてしまった。ICGの意気があがったことは言うまでもない。
 この第2シーズンの目玉は、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」アメリカ初演である(連載の第3回で述べたように、ヴァレーズはベルリン時代にこの曲を、ブゾーニの主催する小さな演奏会で聴いている)。しかし、既に現代音楽界において一定の知名度と評価を得ていたシェーンベルクは、遠く離れたニューヨークで自分の作品が演奏されるにあたって、演奏の質に大きな不安を感じていたようである。ヴァレーズの依頼に応えて書かれたとおぼしき1922年10月23日付のシェーンベルクの返信は、ほとんど喧嘩腰といっていいものだ。
 まずシェーンベルクは、このシーズンの演奏会計画に自分以外のドイツ人作曲家がいないことに対して「つまりあなたのいう『インターナショナル』というのは、ドイツ人排除のもとに成り立っているのですね」と腹を立てている。確かにICGで演奏されたアメリカ人以外の作曲家の出身国は――とりたてて意図があったわけではないのだろうが――フランス、次いでイタリアに大きく偏っており、ドイツ系の作曲家はきわめて少ない。実際、1922-23シーズンで最終的に演奏された20人の作曲家のうち、ドイツ系と言えるのはシェーンベルク一人であった。
 続いてシェーンベルクは、本当に「ピエロ」の上演が可能なのか、あからさまに疑義を呈する。

……同じように私をいらつかせるのは、あなた方に本当に演奏が可能なのか、そして演奏してもよいのかについて私に尋ねることなく「月に憑かれたピエロ」の上演日程を決めてしまったことです。あなた方は、本当に実現可能という自信があるのですか? きちんとした語り手(歌手)、ヴァイオリニスト、指揮者を既に得ているのですか? いったい何回リハーサルが取れるのですか? 疑問だらけです。ウィーンでは、演奏者全員がボロボロになり、震えながら百回近くのリハーサルを行い、その結果として、私の協力のもとでなんとか完璧なアンサンブルを達成することができました。ところがあなた方は、あっさりと本番の日程を決めてしまい、それで何とかなると思っている! 様式、デクラメーション、テンポ、強弱、そしてあらゆる面において、とてつもなく難しいことが分かっているのですか?しかもあなたは、私自身もこの計画に協力することを期待している。断固として断ります。私はそれほど「お利巧」ではないのでね。もしも私に協力を求めるのであれば、考え方をすっかり変えていただきたい。*12
 確かに、21曲からなる「月に憑かれたピエロ」は、完全な無調で書かれているのはもちろん、歌と語りの中間的な唱法(シュプレッヒシュティンメ)が要求され、さらには曲ごとに細かく楽器の組み合わせが変化する演奏至難な作品ではある。先の手紙に対してヴァレーズがどのように返答したのかは定かではないが、少なくとも数度のやりとりがあったのだろう。結局、シェーンベルクと親交があった作曲家ルイ・グルンバーグ(彼もICGの一員である)を指揮者に立てることで、作曲者もしぶしぶ演奏を承諾することになった。ただし、シェーンベルクの予想通り、リハーサルは難航を極め、当初は1月21日の演奏会予定が、結局2月4日まで延期されることになった(また、この問題作を上演するにあたってICGは、作曲家カール・エンゲルによる事前レクチャーを行うなど、できる限りの体制をとっている)。
 こうして1923年2月4日、「月に憑かれたピエロ」はアメリカ初演された。歌のパートを担当したのは、当時活躍していたソプラノ歌手グレタ・トルパディ。指揮は作曲家ルイ・グルンバーグ。
 果たして、演奏の精度がどの程度だったのかは分からない。しかし会場は超満員で、興行としては大成功であった。この演奏会の後、ICGの知名度と存在感は一気に増すことになる。
 もっとも、批評は概して厳しい。当時ニューヨーク・タイムズで活躍していた批評家リチャード・アルドリッチは、この曲の上演が長く待たれていたこと、ヨーロッパでは既に何度も演奏されて評価が確立していること、演奏至難なことなどを説明した上で、しかしふたを開けてみると「不快で非音楽的なノイズの、リズミカルでダイナミックな連続」だったと述べている(もっとも、同じ批評文の中でアルドリッチは「この曲は本来、男声のために書かれている」などとトンチンカンなことも綴っているのだが)*13。また、やはり大御所批評家のH.E.クレビエールはニューヨーク・トリビューンの記事で「退屈で無益な実験だった」と切り捨てているし*14、ヘンリー・フィンクはニューヨーク・イヴニング・ポストにおいて、この曲は「くだらない冗談」であり、こんなもののために時間を使うのは愚かなことだと断じている*15
 他方、演奏に携わったルイ・グルンバーグ、そしてICGの多くの作曲家たちからは、再演を求める声が噴出した。おそらく初演時の演奏に悔いが残ったせいもあるのだろうが、グルンバーグらとしては、この20世紀初頭の問題作をより深く吸収し、研究したいという思いが強かったのだろう。
 しかし、ヴァレーズの基本方針は「再演不可」。運の悪いことに、この時期、ICGの少なからぬメンバーはヴァレーズの強権的な団体運営に対して、反発を強めていた。それはほとんど「独裁」だったと妻のルイスも認めているし、ヴァレーズを擁護するサルセードにしても「これはヴァレーズの団体であり、すべては彼に帰するのだ」と公言してはばからなかったから、会員の不満が溜まるのも理解できる*16
 決定的だったのは、事務局のクレール・レイスがグルンバーグ側についてヴァレーズを非難し始めたことである。ここにいたって事態の収拾は不可能になった。最終的に1923年、グルンバーグ、オーンスタイン、サミンスキー、フレデリック・ジャコビ、ウィソーン、レダーマン、ブルジョワなどがICGを脱退し、レイスを事務局長にして新しい団体「作曲家連盟The League of Composers」を設立するに至る。全体の構図としては、やり手のレイスを中心にした一種のクーデターといってよいだろう*17
 この「作曲家連盟」は発足時の綱領に、現代音楽の「再演」を積極的に行うこと、「実験の珍奇な要素」から距離を置くことなどを示すなど、あからさまにICGに対して敵対的な姿勢をとっていた*18。彼らはICGと同じようにシェーンベルクの「幸福な手」やウェーベルンの「交響曲」、ストラヴィンスキー「春の祭典」などのアメリカ初演を行い(協力公演を含む)、1927年に終焉を迎えるICGとは対照的に、アメリカを代表する作曲家団体に成長したのち、1954年からはISCM(国際現代音楽協会)の傘下に入ることになる。
 中心メンバーの一部を失ったICGであるが、しかし1923年秋からの第3シーズンには、当時、フィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者として絶大な人気を誇っていた指揮者、レオポルド・ストコフスキーという強力な助っ人があらわれる。おそらくは彼の参加が後押ししたのだろう、第7回演奏会(1923年11月2日)からは、会場をさらに大きなヴァンダービルト劇場へと移し、以下のプログラムが演奏された。

 M.ドラージュ(1879-1961):3つのポエム
 A.ルリエー(1892-1966):シンセシス
 P.ヒンデミット(1895-1963):「1922年」組曲(抜粋)
 A.シェーンベルク(1874-1951):心の茂み
 I.ストラヴィンスキー(1882-1971):狐

 演奏はストコフスキー指揮、フィラデルフィア管弦楽団のメンバー。ちなみに、ピアノを担当したのは、当時既に人気ピアニストとして名をはせていたクラウディオ・アラウである。おそらくはこれも「ストコフスキー効果」の一つであろう。

1926年におけるICGの用箋(ヴァレーズからカウエルへの手紙)。左の欄に当時の参加作曲家たちの名前が見て取れる。(ニューヨーク市立図書館蔵) 1926年におけるICGの用箋(ヴァレーズからカウエルへの手紙)。
左の欄に当時の参加作曲家たちの名前が見て取れる。
(ニューヨーク市立図書館蔵)

■「ハイパープリズム」の衝撃
 ICGの活動の中で、ヴァレーズは4つの新作を発表する。生涯にわたって遅筆であり、その結果として作品数の少ないヴァレーズであるが、現在知られている室内楽作品の多くは、このICGのために書かれた。いわば、この時期のヴァレーズにはきちんとした「締め切り」が存在し、団体代表としての責任感から、それを律儀に果たしたということになろう。まずは第1シーズンと第2シーズンで初演された2つの作品について、概観しておきたい。
 1922年4月の第3回演奏会で初演された「捧げものOffrandes」は、ソプラノと室内管弦楽(最低で15人が必要)という編成のために書かれ、第1曲「高いところの歌」、第2曲「南十字世星」の2曲からなる計10分弱の小品である。ルイス(第1曲)とサルセード(第2曲)に曲が捧げられているあたりに、ヴァレーズがはじめてICGのために書いた作品であることが如実にあらわれていよう。
 注目されるのは、詩の選択だ。第1曲の詩を書いたビセンテ・ウイドブロはチリ出身のシュルレアリスム詩人。彼は1920年代のパリでアポリネールやコクトーなどと交流し、相互に影響を与え合うとともに(ウイドブロは、アポリネールに先駆けてカリグラム的な手法を用いた詩人でもある)、詩、絵画、建築、そして音楽などを融合させた総合芸術への志向を強くもった人物である。パリ旅行中のルイスがウイドブロと知り合って意気投合し*19、その詩集をニューヨークのヴァレーズのもとに持ち帰ったことが、この選択の直接的なきっかけだったという。詩の内容は「セーヌ川は、橋の影で眠る/私は地球が回るのを見る/そして私は自分のトランペットを奏するのだ/全ての海にむけて」といったもの。
 一方、第2曲の詩はホセ・ファン・タブラダによる。タブラダは、やはりシュルレアリスムの詩人で、メキシコの出身。面白いことに、ルイスがパリに旅行している間、ヴァレーズはメキシコを訪れ、タブラダと知り合って様々な古代遺跡に足を運んでいた。つまりは同時期に夫婦がそれぞれ体験した旅の産物として、二つの詩が選ばれたわけである。詩の内容は「珊瑚のジェスチャーをとる女たち/蘭のような赤い唇と髪を持つ」とエロティックに始まり、最後は「昨日の島に向かう縞馬のように/殺された女たちが目覚める島に」と残酷なイメージを提出する。
 やや余談になるが、面白いことにウイドブロもタブラダも日本に大きな興味を持った詩人だった。ウイドブロの代表作のひとつは、カリグラムを用いて詩と絵画との融合を図った「夏の日本情緒」であるし、タブラダはスペイン語による「俳句」の創始者といえる存在なのである。間違いなく、中南米から地球の裏側の日本へと、彼らの視線は注がれていた。ヴァレーズがこの時点で、日本という共通点にどれだけ意識的であったかは定かでないが、はるか後のことではあるとはいえ、彼にとっても「日本」が少なからぬ重要性を持つ国になることはここに予言しておこう。
 さて、「捧げもの」の音楽には、既にヴァレーズの個性がはっきりと刻印されている。まず第1曲はトランペットのつんざくようなD音から始まり、豊富な打楽器と、単音の管楽器が交錯する。詩が「私は地球が回るのを見る」という一節にさしかかった途端に、マーチ風のダイアトニックな旋律が唐突に出現するのがヴァレーズ風だ。第2曲はタンブリンのリズムの上で、抽象度の高いソプラノの旋律が浮遊し、やがて錯乱する。
 ストラヴィンスキーは、ヴァレーズの全ての作品の中でももっとも驚くべき楽器法として、この第2曲の第17小節目のハープの奏法を挙げている。ハープのペダルを半分ほど踏み、微分音的・騒音的な音を出す部分なのだが、こうした特殊奏法には、おそらく当代随一のハープ奏者であったサルセードの助言が生かされていることだろう。そのサルセード自身は「『捧げもの』は実に特別な作品というべきでしょう。初演の演奏は作曲家にも賞賛されるものでした。そして、作品の一部を繰り返して演奏しなければならないほど、聴衆にも温かく受け入れられたのです」*20と述べているから、作品は概ね好意的に受け取られたようである。決して易しい曲ではないと思うが、ソプラノの歌唱が入ることもあり、この曲が比較的柔らかく響くことは間違いない。
 他方、1923年3月4日に第6回演奏会で初演された、9本の管楽器と5人の打楽器奏者による「ハイパープリズムhyperprism」は、より直截に「ヴァレーズ的」音楽の典型といえるハードコアな音楽である(ゆえに筆者はヴァレーズ入門としてはこの曲が最適だと考えている。ほんの5分ほどで、ヴァレーズとは何者なのかが分かるはずだ)。そして「典型」であるがゆえ、この曲は初演から再演にいたるまで、各地で騒動をひき起こすことになった。
 初演の翌日、3月5日付のW. J. ヘンダーソンによるニューヨーク・ヘラルドの記事は「大騒動の中で演奏会終了」という見出しで、初演の顛末を伝えている。彼によれば「ヴァレーズの作品が始まると、聴衆の大部分が笑い始め、それに続いて『シーッ』という声やヤジがとびかった。一方で賛同者たちは拍手をし始め、ついにはサルセードが突然立ち上がって静かにしろと呼びかけるとともに『これはシリアスな音楽なんだ!』と叫んだ」。さらに、この演奏があまりに騒々しかったために、支持派からの要求でなされた「ハイパープリズム」アンコールの際には、多くの観客が出口に向かっただけでなく、後方では二人の男性が殴り合いを始めた、というから穏やかではない。ICGの作曲家カール・ラッグルスも、怒りのあまり「聴きたくないやつらは出ていけ!」とステージに登って叫んだひとり*21。本連載第1回の冒頭で触れた「デゼール」初演と同じような反応が、すでに1923年の時点で起こっていたわけである。ちなみに、ヘンダースンによる全体の総括は以下のようなものである。

エドガー・ヴァレーズにとっての栄光は、安息日の夜の静けさを打ち砕き、温和しい音楽愛好者が苦痛を叫んだり、怒りの感情を懐くように、そして彼らが劇場の一番後ろの席に下がりたくなるようにしむけ、彼らがお互いの顔をめがけてティンパニ協奏曲を演奏する状態だ。そして彼は成功を収めた。*22
 初演の批評は他も似たようなものであるが、半年後の11月にフィラデルフィア管の演奏会で再演された際の批評は、もっとひどいかもしれない。以下は1924年12月17付けニューヨーク・タイムズのオーリン・ダウンズ評。

ヴァレーズ氏はプログラムノートの中で「ハイパープリズムは標題音楽ではなく、したがって表現する物語を何ももっていない。ただ、このタイトルには幾何学的な含意があり、四次元的な意義を示しているのだとだけ言っておきたい」と述べている。なるほど、確かにそれは正当な説明のひとつではあるだろう。ただ個人的にいえば、この音楽は私に、選挙の夜や、小型あるいは大型の動物園、そしてボイラー工場の爆発などを思い起こさせた。もちろん音楽批評家がよく間違えるのは周知のとおり。それでも、このようなものが真剣に受け止められる日が来るとはとても思えないのである。
 ついでにもう一つ、同じくこの再演を聴いた、ニューヨーク・イヴニング・ポストのアーネスト・ニューマンも同じような表現で「ハイパープリズム」を評している。

……若干無遠慮な表現をお許しいただくならば、ヴァレーズ氏の念頭にあったものは動物園での火災報知器であり、そこでは獣も鳥も応分の騒音を発していたのだろう、と申し上げたい。ライオンがうなり、ハイエナが遠吠えをし、サルはキーキーと騒ぎ、オウムは金切り声をあげており、動転した飼育係が暴言を吐きながら動物たちの間を歩き回るといった場面だ。もちろんこの作品は、音楽とは何のかかわりもない。*23
 同じく同年にイギリスで再演された際にも「騒音制作の4分間」「音楽のボルシェヴィズム」「ライオンの唸り声」*24など、いずれも徹底的な否定言辞が投げつけられた。こうして並べてみると、なかなか壮観ではある。
 しかしながら、現在の耳で聴いてみるならば、これは痛快としかいいようのない音楽だ。冒頭、シンバル→バスドラムの強打で楽曲が開始されると、トロンボーンとホルンが執拗にCis音を繰り返し始める。これに絡むのが、全体の編成には不釣り合いなほどの巨大な打楽器群。やがてフルート独奏がエキゾチックな色合いを提示したかと思えば、ほぼ全員のリズムユニゾンによる不格好なマーチが続く。この奇妙な造形感覚は、まぎれもなくヴァレーズの諸作品を貫く色合いだ。後半で導入されるサイレンの効果、そしてトロンボーンの四分音による混濁した音響も未来的。確かに1920年代初頭のアメリカにおいて、この曲が一般的な評価を得たら、むしろ不思議といわねばならないだろう。それほどに、この作品のコンセプトは新しい。
 もちろん、きちんと高い評価を与えた人物もいた。初演の群衆の中には、ロンドンの出版社カーウェン社(J. Curwen & Sons)の社長が混じっており、彼はすぐさま「ハイパープリズム」の出版を決めたのだった。アメリカに来てからはじめてとなる楽譜出版、というよりも学生時代の「暗く深き眠り」以来、人生で2曲目の楽譜出版は、ヴァレーズにとっては大きな励ましになったことだろう。

■「ギルド」と左翼思想
 ところで、第4回の演奏会直後の1922年11月26日付けのニューヨーク・タイムズはアルマ・ワーザイムの署名で「世界に広がる作曲家組合」と題した記事を載せている。

最も古い人間集団の一つ、ギルドという組織が、現代世界においては意外なことに芸術家たちの組織として、今日復活している。中世のギルドは、彼らの相互利益のために、個人から上納金を厳しくとりたてた。しかしこの現代のギルドは、仲間の芸術家のためにそれぞれが奉仕するという、もっとも困難な上納金を収めるのである。ニューヨークには演劇におけるシアターギルドという、こうした協同体が何をなし得るのか、という見本が既にある。

 記事はその後、ICGがシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」をアメリカ初演したこと、さらにはドイツからソ連にいたる各国に支部があることを伝えているのだが(これについては後述する)、注目されるのは、ここでニューヨークのシアターギルドの名が出されていることだ。この団体は1918年にローレンス・ラングナーらによって設立された演劇組織であり、共同経営的な手法およびヨーロッパの演劇をアメリカに紹介するという点でまさにICGとよく似ているのだが、なにより左翼演劇人たちの巣窟として知られる存在だった。そもそもギルドの前身であるワシントン・スクエア・プレイヤーズは、社会党の幹部ローズ・ストークス、そしてアメリカ共産党の産みの親の一人ジョン・リードによって設立された団体なのである。
 実は「ギルド(組合)」という発想、シアターギルドとの類似、そしてインターナショナルな連係というICGの方針は、この時期のアメリカを覆っていた左翼思想をダイレクトに反映したものである(先に引用したICG設立のマニフェストの文章のトーンを思い出されたい)。しかも後のことではあるが、ヴァレーズは1930年代の大作「空間」(ただし未完)において、アメリカの労働運動、それもとりわけ後述するIWWの運動や左翼詩人たちのテクストに満ちた、ほとんどプロパガンダ作品のような楽曲を構想することになる。これらの状況を鑑みて、やや迂回するようではあるけれども、ここで少しだけ当時のアメリカ左翼思想について見ておきたい。
 アメリカの社会主義を考える場合、その源流となるのが南北戦争以後から連綿と続く労働運動の流れだが、最初にその運動を担うのは19世紀末から大量に移住してきたロシアや、東欧からのユダヤ人たちである。ロシアのツァーリズムや厳しいポグロムに耐えかねて、また急速な都市化の中からはじき出されるようにしてニューヨークへと移住してきた彼らは、主に低賃金の縫製工場などに職を求め、やがて厳しい労働条件に抗するために種々の組合が生まれることになる*25。当時、各種組合を総括する組織として存在していたのは、1886年に設立されたAFL(アメリカ労働総同盟)だが、AFLは職能別組合の同盟という性格から非熟練労働者や黒人労働者を排斥しており、この点において左翼からの批判が大きかった*26
 一方、1905年に設立されたIWW(世界産業労働者同盟)は、不熟練労働者までをも対象にした急進的な団体である。1908年の規約前文に「労働者階級と雇主階級はなんら共通のものをもたない。何百万という労働民衆の間に飢餓と欠乏がみいだされ、雇主階級を構成する少数の者たちが生活のあらゆる良きものをもっているかぎり、平和はありえない」*27とうたっていることからも分かるように、従来の団体に比べると、はるかに戦闘的かつ共産主義的な姿勢を特徴としていた。
 こうした組合の構成員は、1901年に社会主義労働党から分裂して発足した社会党の支持層として、アメリカ政治全体に大きな影響力を発揮しはじめる。実際、アメリカ社会党の創設者の一人であるユージン・デブズは、1904年に出馬した大統領選挙で40万票、さらに1912年には90万票を獲得し全米を震撼させた*28
 そして第一次大戦末期の1917年、ロシアで共産主義革命が勃発。革命を取材していたアメリカのジャーナリスト、ジョン・リードは、この体験を『世界をゆるがした10日間』と題したルポルタージュに著して一躍名を知られる。もともとリードは1911年から左翼雑誌「マッシズ(労働者階級)」の編集者を務めており*29、1913年から14年にかけてはメキシコ革命の取材に赴いていた。彼はその後、モスクワの革命政府と密接な関係を保持しながら、アメリカ共産党の創設において中心的な役割を果たすことになったのだった。
 かくして1919年には社会党から離脱したメンバーによって、リードらが中心になった共産主義労働党、そしてフレイナらが中心となったアメリカ共産党が誕生。活動方針の調整が失敗したために、相次いで二つの共産党が生まれてしまったわけだが、モスクワの第三インターナショナルは分裂状態に対して厳しい態度をとり、二つの政党を統一することをコミンテルン加入の条件として提示する。こうして1921年、共産党と共産主義労働党が連合して、統一アメリカ共産党は結成された。
 左翼勢力が無視できない力を持つにつれて、保守派からの巻き返しも勢いを増すことになる。大戦中にはウィルソン政権によって防諜法や治安法が導入され(カール・ムックの逮捕を思い出されたい)、さらに1919年から1920年初頭にかけてはより過激な「赤狩り」がミッチェル・パーマー司法長官、フーバー局長によって行なわれ、四千人以上が投獄される。
 こうした状況の中で新しいアメリカ共産党は、合法的に活動を進める労働党との連携による政治活動を余儀なくされるのだが、しかし、ここに至る過程の中で社会主義・共産主義はアメリカの知的土壌に深く根を下ろしてゆく。もはやアメリカの知識人たちの「左傾化」は、誰の目にも明らかになっており、1920年代から30年代にかけて左翼的な文学雑誌、演劇団体、舞踊団体、その他の文化団体の数や勢力が突然に増えたことは、党の指導者にとってさえ大きな驚きだったという*30
 いわばヴァレーズの「国際作曲家組合」も、明らかにこの一翼に連なるものだった。彼の掲げる「インターナショナリズム」も、こうした文脈で理解する必要がある。

■世界展開とICGの躍進
 先の新聞記事にもあったように、設立当初からICGはその名のとおり「インターナショナル」な連係を目指していた。1922年から23年にかけて、それらは次々に実現する。
 最初に連携団体が出来たのはドイツ。旧知のヴァレーズから連絡を受けたブゾーニを中心にしてドイツ「国際作曲家組合Internationale Komponisten-Guild」が発足。中心メンバーはブゾーニに加えて、カゼッラ、ファン・ディーレン、ヒンデミット、クシェネック、ルリエーというものである(このうち、カゼッラとファン・ディーレンはベルリンには住んでおらず、実質的なメンバーとはいえないが、ブゾーニの息のかかった作曲家ということなのだろう)。
 一方、同じくカゼッラが動いて、イタリアでは「新音楽集団Corporazione delle Nuove Musiche」が設立される。メンバーはカゼッラ、マリピエロ、ラブローカなど。カゼッラは既に1917年にイタリア現代音楽協会を立ち上げていたが、いわばそれを引き継ぐ形でこのICG提携団体が出来たわけである。
 そして同じ頃、当時はベルリンに渡っていたロシア人アルトゥール・ルリエーを通じて、革命後のモスクワで結成されたソ連の「作曲家集団」*31がICGと提携を結んだ。
 1922年末のミュージカル・アメリカ誌は、イギリス、スウェーデン、スイスにも同様の「支部」が出来つつあると報じているが、これは実際には実現しなかったものと思われる*32。しかしいずれにしても、ヴァレーズの構想は瞬く間にヨーロッパにも広がることになったのだった。
 一方、ヨーロッパではヴァレーズとは異なる形で新しい作曲家団体が設立される。第一次大戦終戦を機にして立ち上げられ、今日に至るまで最大の国際作曲家団体といえる「国際現代音楽協会 International Society for Contemporary Music」である。この協会は1922年夏にエドワード・デントを中心にして出来上がるのだが、ヴァレーズの弟子のチョウ・ウェン・チュンは、彼らがこの団体を設立する際にモデルにしたのがICGだったのだと述べている*33。彼らがどの程度ICGを意識していたのか、そして参考にしたのかは不明だが、もちろんヴァレーズの組織のことはよく知っていたはずだ。ICGは1927年に終焉を迎えるが、ヨーロッパのICG連携組織はいずれも、所属国の「国際現代音楽協会」の支部という形で吸収される形になった(アメリカの場合、先述したようにICGから派生した「作曲家連盟」が後に国際現代音楽協会の支部となる)。
 さて、ストコフスキーとアラウの活躍で始まったICGの1923-24年シーズンは、その後も第8回(1924年1月13日)にヴァレーズの「オクタンドル」初演に加えて、シマノフスキ、サルセード、ラッグルスの新作、そしてウェーベルン、ベルクらの作品を取り上げ、第9回(1924年2月3日)では、ミヨー、バーロウ(Samuel Barlow)、マリピエロらの作品、そしてシェーンベルクの「架空庭園の書」(抜粋)などが演奏されている。
 続く1924-25年シーズンから、会場をエオリアン・ホールに移す。実はここに至るまで、ICGの演奏会会場が常に「劇場」だったことに注意してほしい。これはもともとICGの演奏に適当な小型ホールがニューヨークになかったことに由来している。しかし既にこの頃になると、集客は常時500人を越えており、ようやく安定的にホールが使えるようになったというわけである。
 このシーズンは第10回(1924年11月7日)にラッグルス、ヴェレス、グーセンス、ラヴェルなどの作品が、第11回(1925年2月8日)にバルトーク、カウエル、サルセード、チャベス、そしてヴァレーズの弟子ウィリアム・グラント・スティルの作品が、第12回(1925年5月1日)にはシェーンベルク、サティ、そしてヴァレーズ「アンテグラル」などが演奏された。ちなみに、第12回の指揮はまたもやストコフスキーとフィラデルフィア管のメンバーである。
 ニューヨーク・タイムズの記事で注目されるのは、1926年11月29日付けで「我々のエドガー・ヴァレーズの弟子」として、アフリカ系アメリカ人の作曲家、ウィリアム・グラント・スティルをいち早く紹介していることである。黒人作曲家の草分けのひとりであるスティルは、1920年代初頭にヴァレーズに師事していたのだが、ICGで3回ほど発表の機会を得たのち、アフリカ系アメリカ人としては初といってよい交響曲「アフロ-アメリカン交響曲Afro-American Symphony」(1931)を書くことになる。ヴァレーズの弟子はさして多くないが、黒人のスティル、カナダ人にしてガムランの伝道師になったコリン・マクフィー、そして中国から亡命した周文中など、多彩な文化的背景をもっている人物が目立つ。彼らはみなアカデミックなエリート路線からは距離を置き、ニューヨークに住む孤高の作曲家の門をたたいたのだった。
 また、1923年からICGの委員に名を連ねていたアルマ・ワーザイム(先にニューヨーク・タイムズに「世界に広がる作曲家組合」という記事を書いた人物である)は、のちにコスコブ・プレス(CosCob Press)という名の出版社を興すが、この会社はアメリカの作曲家たちの新作を次々に出版して、楽界に大きな貢献をなすことになった*34 。彼女も、ヴァレーズの撒いた種を違う形で開花させた人物といえるだろう。
 続く1925-26年シーズンも3回の演奏会が開かれている。
 第13回(1925年11月27日)には、フリッツ・ライナー指揮、ニューヨーク・フィルのメンバーによってヒンデミット、ルディヤー、カゼッラ、フローラン・シュミット、ルリエーの作品が取り上げられ、第14回(1926年1月24日)には、イタリアから訪問したレスピーギを指揮とピアノに迎えて、彼の自作、そしてグーセンスやラッグルスの作品が演奏された。さらに第15回(1926年2月14日)にはストラヴィンスキーの「結婚」とカゼッラの作品が、ストコフスキーの指揮で演奏されている。

■エキゾチシズムと空間性
 ヴァレーズがこのICGにおいて初演した4つの作品の内、先には「捧げもの」「ハイパープリズム」についてみたが、ここで残りの二つもついて触れておこう。
 1924年1月13日の第8回演奏会で初演された「オクタンドルOctandre」は、ヴァレーズには珍しく多楽章(3楽章、ただしアタッカで繋がっている)からなる作品。編成はフルート(ピッコロ持ち替え)、オーボエ、クラリネット(Es管持ち替え)、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、そしてコントラバスというもの。全部で8人というのは、彼の作品の中で最も小さなサイズに属する。タイトルは8つの弁を持つ花との意だが、編成に打楽器が含まれていないこともあり、ヴァレーズ作品の中でも独特の媚態を持つ、エキゾチックかつエロティックな雰囲気が特徴である。
 第1楽章は、オーボエの呪術的旋律に始まり、定番ともいえるリズムのユニゾンによる奇妙なマーチに到達したのち、再びオーボエが回帰して終わる。第2楽章はフルートのGes音の連打に始まり、管楽器が無骨に音を重ねる中、何やらレコードの針が引っかかって空回りを続けるような無機的な反復があらわれる。ファゴットの独奏とコントラバスの低音の対話で始まるのが第3楽章。ここでも音域が拡がっていった先には、やはりトランペットを除く全楽器によるユニゾンのマーチ、無機的反復が待ち構えている。
 初演は騒動にこそならなかったようだが、相変わらずの不評である。中でもニューヨーク・ヘラルドのヘンダースンによる批評は例によって「……『オクタンドル』は金切り声をあげ、不平を言い声高に笑い、ニャーと鳴きワンと吠え、挙句の果てに、八つの楽器全てが曲芸師と化すのである。この作品はどの調でも書かれていないが無調でもない。それは騒音が下品に爆発しただけである。聴衆の中には、感情のやり場がなくなって、ついに笑い出した人々がいた。しかし面白くもなんともないことであった」*35。と切って捨てている。
 酷評の嵐にもかかわらず、出版社カーウェンはすぐに「オクタンドル」の出版を決め、同1924年に「ハイパープリズム」に続いて楽譜が出版された。また、この楽曲が持つエキゾチシズムゆえか「オクタンドル」はメキシコの芸術家たちを強く刺激することになり、カルロス・チャベスによって翌1925年12月にメキシコ初演されると、画家のディエゴ・リヴェラをはじめとするメキシコ知識人たちはみな、ヴァレーズという不思議な作曲家の名前を胸に刻むようになる。この曲をひとつのきっかけにして、ヴァレーズの深く長いメキシコ左翼人脈との付き合いが始まるのである。
 そして1925年3月1日の第12回演奏会で初演された、11種類の管楽器と4人の打楽器奏者のための「アンテグラルIntégrales」は、この時期のヴァレーズの総決算といってよい音楽だろう。「捧げもの」→「ハイパープリズム」→「オクタンドル」と1年ごとに積み重ねされてきた様々な実験の成果が、ここには全て詰め込まれている。そして何よりも重要なのは、彼の人生を支配することになる重要なコンセプトが、ここにはっきりあらわれていることである。

アンテグラルは空間の投射のために考えられました。まだ存在してはいないけれども、しかしまもなく実現され、遅かれ早かれ用いられることになるだろう音響手段のために、私はこの作品を構築したのです。*36
 「空間」「投射」、そして新しい「音響手段」。これはヴァレーズが死ぬまで探求し続ける――そして、敢えて言うならば死ぬまで十全には実現できなかった――テーマである。
 音楽を空間の中で動かすためには、まずは空間的に音源を配置することが考えられる(例えば、左右の合唱団・楽器群の間で音をやりとりする初期バロック期のコーリ・スペツァーティのように)。ヴァレーズがここで試みているのは、しかし、楽器の配置は通常のままでいながら音響が空間の中を移動するような効果だった。
 この曲について詳しい分析を行ったジョン・ストローンは、ヴァレーズが様々なパートを「平面」「塊」などに振り分けながら作曲を行っていることを明らかにしているし*37、やはり一種のピッチ・クラス・セット理論で「アンテグラル」を解析したジョナサン・バーナードも、独自のグラフを用いながらヴァレーズの「空間性」を可視化することを試みている*38。ヴァレーズは音群を独立したセグメントに仕立て上げるために、音域・強弱・反復などの区分を総動員しながら、仮想の音響空間の中をフレーズや音群が四次元的に移動するというイメージを必死に探求したのだった。
 曲はヴァレーズ作品の定石通り、つんざくような反復音型から始まる。Es管のクラリネットによる、実にシンプルな音。これがピッコロ2本の最高音域の音群(ちなみにこの曲の編成にはフルートは含まれていない)、そしてトロンボーンによる低音域の音群によって補強され、次々に移動を重ねてゆく。ここで描かれるのは一種の「空間移動」であるゆえ、モティーフが発展するとか、新しい音楽的な場面が次々に展開することは、ほとんどない。曲は冒頭から3分ほど、ほとんど凍り付いたように、同じことを微妙に異なった形で繰り返す。かくして時間的感覚はきわめて希薄になり果てて、単に空間でモノが浮かんだり沈んだり、あるいは浮遊しながら移動するという感覚が聴き手にもたらされることになる。この積極的かつ攻撃的な停滞は、およそ3分を過ぎた「練習番号6」から溶解し、4分過ぎの「練習番号9」からは突然、奇妙なマーチが全楽器で鳴らされる。ここは完全にダイアトニックかつ調性的なセクションであり、まるで何かの引用のような風合いを帯びているのだが、それゆえに前後の空間性が際立つという仕掛けになっている。
 これ以上、曲の展開を文章で追うことはしないけれども、後半で再び調子はずれのマーチが回帰し、さらには主要テーマによる停滞が戻ってくるところなどは、一種シンメトリックな造形をも感じさせる。
 それにしても1925年という時点で、これだけ「モノ」的な質感の音楽を書いた作曲家は他にはいない。そして、この「モノ」感とは、音楽に生命を求めるロマン主義的な感覚とは全く相容れないものだ。ゆえに批評家たち、それも音楽を愛してやまない善良な批評家たちは、ヴァレーズの作品群が、それもとりわけ「アンテグラル」がどうしても許せなかった。
 「これは音楽ではない」
 ヴァレーズは生涯にわたって、どれほどにこの言葉を投げつけられたことだろうか。ある意味で、この言は正しい。確かにヴァレーズの作品は、繊細な生命体として呼吸する、体温と色彩を持った「音楽」などではなかった。巨大な大聖堂のごとき空間の中で隕石のような音がとびかう、どこまでも荒涼とした音の風景こそ、彼が追い続けたものに他ならない。そのひとつの成果が「アンテグラル」なのだ。
 相も変らぬ酷評をいくつか紹介しておこう。実は下に引く二つの批評文は、ヴァレーズのシンパでもあり、すぐれた指揮者として後にヴァレーズを支えることになるニコラス・スロニムスキーが編纂した「音楽悪口事典」の中に見出されるものである。古今の音楽に向けられた罵詈雑言を収集したこの本の中でも、ヴァレーズの箇所はひとつのハイライトといってよい。まずはニューヨーク・サンのヘンダースンによる評。

それから、エドガー・ヴァレーズの不可解な新作「アンテグラル」の件がある。5分間にもわたってピッコロがつんざくような音を出し、Es管クラリネットが悲鳴をあげ、他の管楽器が別の調でケガをした犬の鳴き声や夜中の猫の喧嘩を思わせる音を出し、諸々の打楽器がいわれもなく衝突し轟音をたてているような代物が音楽だというなら、それは大したことである。*39
 続いては、イヴイング・ポストのアーネスト・ニューマン評。

締めくくりは、エドガー・ヴァレーズの「アンテグラル」だった。それはまるでモット・ヘイヴンの貨物置場を通り、ブロンクス動物園で時間をつぶし、路面電車で6番街のカーブでも通って、しかもそこにキツツキのうきうきした音が聞こえる楽しい早朝のようだった。*40
 批評家たちによる罵詈雑言は、ほとんど何らかのオブセッションさえ感じさせるものだ。そしてニューヨーク・タイムズのオーリン・ダウンズの報告によれば、最後にヴァレーズ支持者たちによるアンコールがなされたときに、指揮者のストコフスキーはあらためて客席に向き直り「そうしたいならば、出て行ってもかまいませんよ」とわざわざ聴衆に語り掛けたという。そして実際、何人かがホールを後にしたのだった*41
 しかし、これだけの不評にも関わらず、ICGはむしろ順調に集客を延ばし、この頃には既に千人を越える聴衆を集めていた。これはもちろんヴァレーズの粘り強い活動、仲間の協力によるものだが、第7回以降に参加した当時の超人気指揮者、ストコフスキーの貢献によるところも大きかったはずである。

■ストコフスキーとフィラデルフィア管
 これまでの連載で、ヴァレーズの人生には常に、不思議なくらい彼のことをサポートしてくれる有力者があらわれることについて述べてきた。今回とりあげた時代においてもそれは例外ではない。経済的にいえば、なによりもホイットニー夫人(ガートルード・ヴァンダービルト)が挙げられるだろうし、芸術仲間としてはカルロス・サルセードと妻ルイスの二人の名を記さねばならない。とりわけサルセードはヴァレーズという人の提出するヴィジョンに夢中になり、少なくともこの時期においてはそのヴィジョンの中で生きることを決意するとともに、自らの名声および媒体(雑誌)などを全面的にヴァレーズに捧げた。
 そして、1920年代のヴァレーズ作品とICGの活動を世に広める点で大きな役割を果たしたのがレオポルド・ストコフスキーという指揮者である。
 彼は1882年、イギリスに生まれ、1909年からはシンシナティ交響楽団の指揮者、そして1912年からはフィラデルフィア管弦楽団の指揮者に就任。当時は低迷していた同団を瞬く間に成長させて華麗な「フィラデルフィア・サウンド」を確立し、1920年代以降はアメリカのクラシック音楽界を代表するほどの人気を誇った。現代からみれば大仰なバッハ作品の管弦楽編曲や、映画「オーケストラの少女」(1937)、「ファンタジア」(1941)などの映画出演などから、通俗的でポピュラーな人気を追い求めた指揮者であるかのように思われることもあるが、しかし彼の活動の根幹には、間違いなく「同時代の音楽を発信する」という義務感があった。実際「1971年までに、7000回にのぼる演奏会のうち初演は2000回を数えたが、新作のほとんどは有名、無名のアメリカの作曲家によるものであった」(ニューグローブ世界音楽大事典)というから驚いてしまう*42
 当然というべきか、当時のICG演奏会の新聞広告を見てみると、ICGという団体名よりも、そして作曲家たちの名前よりも、まずはストコフスキーという名前が大きく前に出ていることが分かる。

ニューヨークタイムズに掲載されたICGの演奏会広告 ニューヨークタイムズに掲載されたICGの演奏会広告
 面白いことに、才能、野心、そして端正なルックスを併せ持ったこの人気指揮者は、歴史上始めて録音技術に関心を持ち、その発展に大きく貢献した人物でもあった。彼はまず、モノラル時代のレコード録音において、オーケストラのサウンドをより美しく録るために、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを指揮者の左右に配置する伝統的な「対向配置」をやめて、指揮者の左側に第1、第2ヴァイオリンが位置し、右側にチェロを配置するという「アメリカン・スタイル」の配置を生み出した。そして1925年4月29日、史上初めて、クラシック音楽の分野でオーケストラの電気録音を行なうとともに(曲目はサンサーンス「死の舞踏」)、1932年には当時のベル研究所の協力で、やはりクラシック音楽における世界初のステレオ録音を行なっている。
 さらに近年の研究によれば、早くも1930年代に、彼が「電子楽器のみによるオーケストラ」(!)を構想していたことが明らかになっている*43。こうしたテクノロジーへの希求は当然ながらヴァレーズの姿勢と深く交錯しており、二人の関係はのちのちまで続くことになる。
 ストコフスキーはICGの演奏会に参加するだけでなく、自らが常任指揮者を務めるフィラデルフィア管弦楽団の演奏会で何度もヴァレーズ作品をとりあげている。まずは「ハイパープリズム」を初演の翌年1925年にカーネギーホールでとりあげ、続いて1926年には4年間にわたって初演の機会を見出せなかった大作「アメリカ」を初演、そして翌1927年には新作管弦楽曲「アルカナ」を、いずれもフィラデルフィア管の定期演奏会で初演するのである。
 「アメリカ」が初演されたのは1926年4月9日、フィラデルフィアに於いてである。翌日にも同地で、さらに13日にはニューヨークで、この巨大な編成を要する作品が演奏された。フィラデルフィアにおける反応は記録がほとんど残っていないのだが、ニューヨークのカーネギーホールにおける演奏会は、またもやちょっとした騒動を弾きおこした。ヘンダースンによれば「最初は穏やかだったものの、徐々に名状しがたいほどの大騒ぎになってしまった。何人かの男たちは激しく腕を振り回し、両手の親指を下に向けていた。これは古代ローマの剣闘士における死のサインである。こうしたデモンストレーションは5分以上続いた……」という具合である*44。肝心の音楽について「ニューヨーク・ワールド」紙の批評は「市内の大きな動物園の一つで恐ろしい火災が起こる状態を描いたかのようだった」と述べている*45。もちろん中にはポール・ローゼンフェルドを筆頭にした支持者もいたが、大勢は推して知るべしだろう。ちなみにヴァレーズはこのあと、あまりにも巨大なオーケストラ(140人程度を要する)を用いたことを反省したのか、よりスリムな編成の第2稿を作成することになる。
 また、ICGの活動に徐々に疲弊し、解散を考え始めていたヴァレーズは、この頃、ストコフスキーが指揮する新しい演奏会シリーズを立ち上げることも考えていたらしい。1926年11月のルイスへの手紙で、以下のように述べている。

古楽の演奏会を企画しないといけないな。私はいくつか、とても良い楽譜を持っていたんだ。それを今度、持って帰ってこなければ。リュリだよ。他のプログラムはジュルヴェーズ、テルトゥル、シュッツなど。*46
 おそらくヴァレーズがパリに置きっぱなしの資料の中に、リュリやシュッツの楽譜があったのだろう。それらをストコフスキーに演奏させるというのは面白いアイディアだが(おそらくストコフスキーも喜んで乗ったのではなかろうか)、これはほんの思いつきのままに放っておかれたようである。しかしながら、ヴァレーズの人生を貫く古楽への嗜好、そしてこの時期の彼がストコフスキーという存在をどれだけ信頼し、頼っていたかが、この小さな一例からも理解できよう。
 ストコフスキーは翌1927年の4月8日にフィラデルフィアで「アルカナ」を初演するのだが、この作品については次回の連載で詳しく見てみたい。

■神話の終焉
 ICG最後のシーズンになったのが1926-27年シーズンである。
 第16回(1926年11月28日)には、グーセンスの指揮によってマクフィー、スティル、ウェーベルン、チャベスなどの作品が、第17回(1927年1月30日)には、オットー・クレンペラー(!)の指揮でクシェネック、ラヴェル、マリピエロ、カゼッラ、ヒンデミットの作品が演奏された。
 最終回は第18回(1927年4月17日)である。指揮を務めたのはストコフスキーの代役アルトゥール・ロジンスキ(彼はこの時期、ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管の指揮者を務めていた)。この回において聴衆は1600人にまで膨らんでおり、ICGはもはやマイナーな組織ではなかった。曲目は以下の通り。

 A.ベルク(1885-1935):室内協奏曲(アメリカ初演)
 C.サルセード(1885-1961):ハープと7管楽器のための協奏曲(初演)
 I.ストラヴィンスキー(1882-1971):八重奏曲
 E.ヴァレーズ(1883-1965):アンテグラル

 注意深い読者は疑問に思ったはずだ。あれほど再演を拒否していたヴァレーズが、この時には自作の「アンテグラル」を再演しているではないか。また、ストラヴィンスキーの「八重奏曲」は、別の団体によって前年にニューヨークでアメリカ初演されており「初演かアメリカ初演、もしくはニューヨーク初演」という原則に該当しない。つまり、この時に彼は既に、団体の解散をほぼ決めており、この最後の演奏会は、いわば「ICGベスト・ヒット」のような側面もあったのだろう。
 1927年4月18日の音楽欄で、オーリン・ダウンズは大きくスペースを割いてこの演奏会の報告を行なっているのだが、驚くべきことに最後のヴァレーズ作品については「聴くことができなかった」の一言ですませている。つまりストラヴィンスキー作品の後で帰ってしまったわけだが、これはどう考えても意図的なものだろう。彼は2年前の初演時にはまったく「アンテグラル」を評価していないのだから。
 ともかく、ヴァレーズの試みはこうして幕を閉じた。
 最終的にICGは6シーズンの間に18回の演奏会を開き、60人の作曲家による126作品を演奏した(うち55作品は世界初演)。大雑把にいえば、その中のおよそ3分の2がヨーロッパ人による作品、残りがアメリカ人(中南米含む)の作品である。演奏回数の多かった作曲家を順に挙げるならば、ヴァレーズ、サルセード、カゼッラ、グーセンス(それぞれ5回)、次いでストラヴィンスキー、ピツェッティ、ラヴェル、ラッグルス、シェーンベルク(それぞれ4回)、そしてルリエー、ヒンデミット、マリピエロ、ウェーベルン、スティル、サティ、バルトーク(それぞれ3回)といった具合になる。
 ICGの活動停止に関して、ヴァレーズは自ら1927年11月13日付のニューヨーク・タイムズに「コンポーザーズ・ギルドの活動停止」というタイトルで声明文を寄せている。少々長くなるが、全文を引用しておきたい。

 ICGは現在のところ、ニューヨークにおいて次の演奏会を開く予定を持っていない。この決定に驚いた多くの友人たちも、我々の存在理由が何であったかを思い出してもらいさえすれば、納得してくれるはずだ。1921年、私が友人たちと共に、ICGを設立した時、このような組織は緊急的に必要とされていた。アメリカの音楽状況は、同時代の作曲家たちに対して、あまりにも無知だったのである。
 しかし、私たちの演奏会が受けいれられ、そしてそれに注目し支持してくれる聴衆が育ち、興味を向けてくれるようになったことは、私たちの活力を証明するとともに、私たちの努力への報酬といえる。
 世界大戦は作曲家に、非常に小編成の編成を課すことになった。室内楽編成への復帰は、ごくまれには過去に戻りたいという理由による人もいるとはいえ、大部分においては単に必要性に応じてそうなったものである。
 しかし今やうれしいことに、オーケストラの団体も私たちと同様の足跡をたどっており、そして彼らは今や啓蒙された人々、少なくとも偏見から解放された人々へと、あらゆる流派や傾向の現代作品を提供し始めている。交響楽団のこうした姿勢の進化、そして当然の復帰は、現代の作曲家たちが抱いているコンセプトを実現することを可能にし、大オーケストラとすぐれた指揮者による質の高い演奏を保証することになるだろう。
 こうした幸せな状況は、ICGを、現代の若い作曲家たちに対する責任から解き放つものである。現時点に至って、もはや演奏会シリーズを続ける必要はなくなってきたように思われる。ICGは、作曲家によって作曲家のために始まった。無視され続けてきた現存作曲家たちへの関心を喚起するという目的は今や果たされ、若い時代の人々の作品を聞くことを喜んで受け入れる(新しい耳を持った)聴衆の興味を持続させるという、いわば管理的な任務を、他の音楽団体に手渡すのである。
 ICGは、闘争の活力に溢れた雰囲気の中でのみ生きることができる。それゆえ、常に新たな闘争に応えるための準備を保ちつつも、桂冠への道半ばで、活動を停止する。
1927年11月7日 エドガー・ヴァレーズ 


 自分たちの努力によってアメリカの音楽界は変化し、ゆえに役割を果たし終えたというわけである。なかなかに気負った文章ではあろう(また、読者の多くはここにも左翼的なニュアンスを感じとるかもしれない)。ただし、ICG解散の真の理由は、このような高尚なものというよりは、妻ルイスが明快に語っているように、もっぱらヴァレーズ自身が団体の運営に疲れてしまったからとみるのが妥当だ*47
 しかしそれでも、ヴァレーズとICGの演奏会の全体像を眺める時、我々はヴァレーズの言葉が決して誇張ではないことを実感する。この団体がどれだけアメリカの若手作曲家たちに演奏の場を与えたか、そしてヨーロッパの最新の音楽を知るきっかけをつくったか、そして「作曲家の集団」が何を成し得るのかを示したのかという点で、ICGの功績はきわめて大きいと言わねばならない。
 ストラヴィンスキーとシェーンベルクの二人だけに絞ってみても、「兵士の物語」「狐」「結婚」「八重奏曲」「月に憑かれたピエロ」「心の茂み」「架空庭園の書」「セレナード」といった作品が、ICGを通じてアメリカに紹介された。もちろんベルクやウェーベルン、フランス新古典主義の作家たち、そしてイタリアやロシアの作曲家についても同様である。現地における初演からさして間を置くことなく、ICGは次々にこれらの作品をアメリカの聴衆に届けたのだった。

■パリへの「帰還」
 1915年にニューヨークに着いた当初、「現代の音楽について皆が何も知らないのに驚いてしまう」*48と述懐していたヴァレーズは、しかし自らの力でその状況を大きく転換させた。もはやニューヨークは「現代音楽」に無知な都市ではない。そしてICG運営のかたわら、ヴァレーズは4つの室内楽曲と2つの管弦楽曲を発表することができた。団体の運営に疲弊したとはいえ、ある種の達成感は感じていたことだろう。しかし44歳を迎えつつあった作曲家は、まだまだやらねばならないことがあった。ICGを解散した後の彼は、さらに「複数のアメリカ」を追求する「パン・アメリカン作曲協会」を設立するとともに、自らは再び、1928年から5年あまりにわたって、フランスのパリに拠点を置くことになるのである。ここで彼は、新しい電子楽器の開発を目論むとともに、カルペンティエールを初めとする南米出身の作家たち、さらには奇才アントナン・アルトーらの協力を得ながら、新しいタイプの音楽劇を構想することになるだろう。それにしても、またもやヴァレーズのタイミングは冴えている。パリに拠点を移した翌年の1929年10月24日木曜日、彼のニューヨークの自宅からほんの2キロほど南に下ったウォール街で突然に株が暴落を始め、アメリカ経済を徹底的に破壊することになるのだから。

*1 ザッハー財団 MS 0786-0001
*2 “Edgar Varèse is true modernist” New York Telegraph, 20, April 1919, p.4.
*3 フォースとホイットニーの助成については以下文献を参照。Sylvia Kahan, “ The Whitney Connection: Varèse and his New York Patrons” in Edgard Varèse: Composer, Sound Sculptor, Visionary (The Boydell Press, 2006).このジュリアナ・フォースは単に秘書というだけでなく、1924年、アメリカにおいてはじめての民俗芸術展を開催したことでも知られる人物。ホイットニーという巨大なパトロンが、いかにニューヨークの文化を支えていたかが理解されよう。
*4 これについては以下の文献を参照。Felix Meyer, “The Exhilarating Atmosphere of Struggle: Varèse as a Communicator of Modern Music in the 1920s” in Edgard Varèse: Composer, Sound Sculptor, Visionary (The Boydell Press, 2006), p84.
*5 以下、このプログラムの詳細については、R. Allen Lott, “New Music for New Ears: The International Composers' Guild” in Journal of the American Musicological Society, Vol. 36, No. 2 (Summer, 1983) を基本的に参照している。
*6 もともとはMusical America誌に掲載されたものだが、ここではLouise Varèse, Varèse: A Looking Grass Diary Volume 1:1883-1928 (Eulenburg, 1973), pp.166-167から引用。
*7 ちなみに、この女子大はブッシュ(父)大統領夫人、レーガン大統領夫人など、歴代のアメリカ大統領夫人を輩出している名門である。
*8 1989年に彼女が亡くなった時のニューヨーク・タイムズは、翻訳者・伝記作家としての訃報を載せるとともに、1948年にはボードレールの翻訳でClairouin賞を得たことを記している。
*9 Louise, p.170.
*10 実際、現在においてもアメリカのAmazon.comで「ルイス・ヴァレーズ」の名で検索をかけると、重複を除いて50点ほどがヒットする。
*11 Louise, p.177.
*12 Arnold Shoenberg, Letters: selected and edited Erwin Stein (translation from Ausgewählte Briefe. Schott, Mainz, 1958), St. Martin’s Press, New York, pp.78-79.
*13 ちなみに、演奏そのものについては「トルパディ女史はきわめて困難な仕事をこなし、成功を収めた。彼女は、つぶやき声とうめき声の間を探求するという、繊細な詩を生かすために作曲者が編み出した指示をきちんと把握していた。その歌唱が、しばしば『説明』のようだったのは否定しがたいけれども」と一定の評価を下している。
*14 Lott, p.273.
*15 Ibid., p.273.
*16 Louise, p.188.
*17 以下の文献は、レイスの側からこの事件について記している。Claire R. Reis, Composers, conductors and critics (Oxford University Press, 1955)
*18 David Metzer, “The League of Composers: The Initial Years” in American Music, Vol. 15, No. 1 (spring, 1997), p.46.
*19 Stephen Davismoon, “The Transmutation of the Old with the New in the Modernist Vision of Edgard Varèse” in Contemporary Music Review vol.23, No1, March 2004, p.51.
*20 Fernand Ouellette, Edgard Varèse (English translation, DaCapo Press, 1981), p.75.
*21 Lott, p.266.
*22 同じくニューヨーク・ヘラルドの3月5日の記事。ただし引用は『名曲悪口事典』(音楽之友社、2008年)378頁に所収の栗原詩子訳による。
*23 ニューヨーク・イヴニング・ポスト1924年12月17日(『名曲悪口事典』、380頁からの引用)。
*24 同書、79頁。
*25 野村達郎「ユダヤ移民のニューヨーク」(山川出版社、1995年)、41頁。
*26 結局、後の1938年にCIO「産業別労働組合会議」が独立。
*27 大下尚一ほか「資料が語るアメリカ」(有斐閣、1989年)、146頁。
*28 さらに獄中(スパイ防止法で検挙されていた)から出馬した1920年の選挙でも94万票を獲得した。
*29 「マッシズ」は1927年に「ニュー・マッシズ」として再創刊され、この後30年代前半にかけて、アメリカの左翼人脈の一つの拠点として機能するようになる。
*30 アーヴィング・ハウ、ルイス・コーザー「アメリカ共産主義運動史(中)」(西田勲、井上乾一郎訳、国書刊行会、1979)、160頁。
*31 この「作曲家集団」は1918年に設立されたものなのでACMやRAPMとは明らかに異なる団体。ただし詳細はよく分からず、現在調査中である。
*32 B.H.Higgin, “Schoenberg’s Pierrot Lunaire will be feature of second season of Internatinal Composers’ Guild” in Musical America, XXXVII/3 (11 November, 1922), p.36.
*33 Chou Wen-Chung, “Open rather than bounded” in Perspectives of New Music, V (1966), p.5.
*34 この出版社は1929年から38年まで存在していた。詳細については以下の文献を参照。Carol J. Oja, “Cos Cob Press and the American Composer”in Notes, 2nd Ser., Vol. 45, No. 2. (Dec., 1988), pp.227-252.
*35 ニューヨーク・ヘラルド1924年1月24日。ただし日本語引用文はニコラス・スロニムスキー『名曲悪口事典』(音楽之友社、2008年)、379頁所収の栗原詩子訳による。
*36 Ouellet, p.83.
*37 John Strawn, “The Intégrales of Edgard Varèse Space, Mass, Element, and Form” in Perspectives of New Music, Vol.17, No.1 (Autumn-winter, 1978), pp.138-160.
*38 Jonathan Bernard, The Music of Edgard Varèse.(Yale University Press, 1988)
*39 『名曲悪口事典』380頁。
*40 『名曲悪口事典』381頁。
*41 ニューヨーク・タイムズ1925年3月2日付。
*42 ただし、この2000回という初演の数はどういう数え方によるものなのか不明。二千曲の初演はいくらなんでも不可能であると思われるのだが。
*43 この試みに関しては、以下の研究発表に詳しい。藤野純也「ストコフスキーのエレクトリック・オーケストラ計画の詳細:理想の担い手としてのエレクトロニクス」(日本音楽学会第62回全国大会発表、2011年11月5日)。
*44 Ouellet, p.88.
*45『名曲悪口事典』381頁。
*46 Louise, p.240.
*47 Lott, p.280.
*48 Ibid., p.267.

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社、近刊)など。
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