第五回


前回の補足


 フィヒテの根源的洞察に移る前に、前回あわてて収束するために付け加えた最後の二段落が舌足らずなので、ちょっと補足しておきたい。
 まずは「思っている者は存在せざるをえないと同時に現に存在もしている」で始まる段落だが、これはもちろんデカルトの「我思う、ゆえに我あり」の話の続きである。しかし、そもそもこの言い方があまり精確でない。「思っている者は存在せざるをえない」ことがたとえ確実な真理だとしても、それゆえ「現に存在もしている」といえるかどうかは、意味のとり方によって一義的には決まらない(二義性がある)ということが、これまで論じてきたことであった。すなわち、「現に存在している」には、「思っている者は存在せざるをえないがゆえに現に存在している」という意味での「現に存在している」と、「思っている者は存在せざるをえない」という論理的連関とは独立に「なぜか現に存在してしまっている!」という意味での「現に存在している」の、二種類の「現に存在している」があるのだ。このことがここまでで繰り返し主張されてきたことである。
 ところが、ここにも組み込み合いが起こり、前者の「思っている者は存在せざるをえないがゆえに現に存在している」という意味での「現に存在している」もまた、その意味の源泉を後者の「なぜか現に存在してしまっている!」のほうの「現に存在している」に求めざるをえず、逆にまた、後者の「なぜか現に存在してしまっている!」のほうの「現に存在している」もまた、(その事実を他者に伝達する場合を考えれば明らかなとおり)その有意味性の根拠を「思っている者は存在せざるをえないがゆえに現に存在している」という論理的連関に求めざるをえない。
 以上が、その段落で舌足らずに言われていることの趣旨であった。最後の括弧内に言われていたように、したがってそれが「A事実とA変化の組み込み合い」と同じことを言っていることは明らだろう。
 次に、存在論的証明について。存在論的証明とは神の概念のうちに「現実に存在する」が含まれているということから、神が現実に存在することを証明するものである。アンセルムスやデカルトやヘーゲルのようにこの証明が成り立つと考えるのがアキレス派で、ガウニロやカントのようにこの証明は成り立たないと考えるのが亀派である。亀派は、神は概念上現実に存在することになっていることは認めるが、だからといって(そのことからは)現実に存在することにはならない、と言う。現実に存在することは、そうした事象的な意味内容(「世界の創造者である」とか、「全知全能である」とか、……)に含まれえないからである、と。
 そのことを例解するためにカントが出した例が、現実に存在する百ターレルと可能的に存在するだけの百ターレルのあいだには(存在と無というこれ以上ないほどの巨大な差異があるにもかかわらず事象内容的[レアール]な差異はまったくない、という例であった。存在するか存在しないかは、それが何であるか(百ターレルである、古い紙幣である、十四キログラムである、……)とは独立だからである。だからこそ、無かったそれ、、が(そのまま)在るようになったり、在ったそれ、、が(そのまま)無くなったりすることができるわけである。
 ちなみにこのことは、未来だったこと(そのまま)が現在になったり、現在だったことが(そのまま)過去になったりすることにもあてはまる。存在が事象内容的[レアール]な述語ではないように、現在も事象内容的[レアール]な述語ではないのだ。もちろん〈私〉もである。だから、〈私〉でなかった人が(まったくそのままで)〈私〉になったり、〈私〉であった人が(まったくそのままで)〈私〉でない人になったりしても、それは存在と無のあいだの最も根源的な変化であるにもかかわらず、事象内容的[レアール]には何も変化しない。すなわち、その人はその人のままで、何一つ変化しない。
 話はさらに逸れるが、それぞれの可能世界が実在すると考える様相実在論という立場があった。これに従えば、現実の百ターレルと可能な百ターレルとの違いは、いわば属する世界の違いにすぎないのだから、諸世界を完全に鳥瞰的に見ることができれば、ある場所の違いとして事象内容化することができるだろう。時間に関するB系列論も同じことで、出来事の位置は何年何月何日の何時ということに尽きている(それぞれがそれぞれそれにとって現在であるだけである)のだから、その違いは事象内容的である。人称の場合は、これら(様相実在論やB系列論)に類する諸〈私〉鳥瞰的な立場に名前がない。その立場しか存在しないからだろう。それに対立する立場の側が、他の問題連関と混同されて、たまに独我論と呼ばれたりするだけである。
 その段落の最後に括弧で括られてこう言われていた。「現実であることと可能であること(可能であるにすぎないこと)との差異でさえ、現実のその差異ではなく可能なその差異へと、どこまでも亀化できる」と。これがキャロルのパラドクスの教訓だとすれば、マクタガートのパラドクスも同型であろう、というのが私の見立てであった。〈私〉にかんする同型の問題は、かつてウィトゲンシュタインだけが『青色本』等で捉えたことがある。注で引用した『哲学探究』の261節における発言は、彼がその後が問題を取り違えたことを示していると思う。

同型の問題3――フィヒテの根源的洞察


 私見によれば、フィヒテの洞察はまさにこの(アキレスと亀の)問題に関係している。D・ヘンリッヒ『フィヒテの根源的洞察』(法政大学出版局)の第二章第三節のフィヒテ解釈に従いつつ、そこに私の解釈も付け加えて、ここまでの問題とのつながりをまずは確認したい。
 自己意識は概念である同時に直観でなければならない。フィヒテによれば、「この点が、カントの体系に比べても、この体系の独自なところなのである」。しかし、フィヒテの自負に反して、これは自明だともいえよう。現に存在する唯一の自分自身の存在に(すなわちその唯一性とそれが現に存在していることに)気づかないままに、ただ「私」という一般概念を持ったとしても、「私」とは何であるかを知ることはできないだろう。しかしまた逆に、「私」の一般概念を持たずに、ただ現に存在する唯一の自分の存在に(すなわちその唯一性とそれが現に存在しているということに)だけ気づいたとしても、いったい何に気づいたのか、肝心のそのことがさっぱりわからないであろう。唯一の実例の存在に気づくためにはその一般概念をあらかじめ持っていなければならず、一般概念を持つためにはその唯一の実例の存在にすでに気づいていなければならない(そしてまさにそのことからこそ――すなわちその唯一性とその実存からこそ――一般概念を構成しなければならない)というわけである。これは自明のことであると同時にまた驚くべきことでもあるのではなかろうか。どうしてそんなことが可能なのか。
 理由はおそらく、第三回の「独在性の二重性」と「両方向からの説明」で詳述したように、まさしく両方向からの説明が成り立つような二重性に由来するはずである(前回の議論はすべて第三回のその議論に付属するものであった)。この二重性が「A事実とA変化の相互的な組み込み合いと同じことである」ということはすでに何度か指摘したが、この連載の中ではまだ説明されてはいなかったので、ここではそれを説明することから出発して、フィヒテの洞察の可能性の根拠を理解することにしよう。
 まず、A事実とA変化は独立である。A事実とは、端的な現在がどこにあるか、ということであるから、私がこれを書いている時点では2017年8月21日の午後5時あたりにある。これは端的な事実である。A変化とは、いかなる出来事も〈未来である→現在である→過去である〉と変化するという一般的事実のことであるから、すでに過去である真珠湾攻撃にも、まだ未来である芦田愛菜の成人式にも、およそいかなる出来事にも、等しく当てはまる。すなわち、端的な現在の位置がどこにあるかとは無関係に。

*ただし、この端的な事実が実在するといえるかがまさに問題である。「今は2017年8月21日の午後5時だ」という端的な事実がある、と言いたいところだが、そんな端的な事実などそもそもない、ともいえるのだ。これについては『時間の非実在性』の149頁~151頁、193頁~196頁、223~225頁、243頁~252頁などを参照していただきたい。

 とはいえしかし、この二つが完全に独立していることはできない。まず、端的なA事実もまたA変化する。先ほど、端的な現在2017年8月21日の午後5時あたりにある、と言ったが、それはもう過去になってしまった(現在はすでに午後9時過ぎである)。次に、およそ出来事(あるいは時点)というものが持たざるをえない本質的性質であるはずの〈未来である→現在である→過去である〉というA変化もまた、とりわけその「現在である」にかんしては、その意味理解の源泉を端的なA事実に求めざるをえない(たんなる概念的な理解だけで完結することはできない)。繰り返すが、この議論についてはマクタガート『時間の非実在性』のなかの私が書いた部分でしつこく論じられているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。
 ここまでですでにして、「自己意識は概念である同時に直観でなければならない」というフィヒテの洞察との対応は明らかだろう。一般的なA変化もまたその意味理解の源泉を端的なA事実に求めざるをえないことは、自己の一般概念を持つためにはその唯一の実例の存在が不可欠であることに対応している。端的なA事実もまたA変化せざるをえないことは、自己の唯一の実例もまた一般概念を必要とすることに対応している。
 しかしもちろん、この事態を表現するのに概念と直観という対比では役不足である。何よりもまず、直観という概念には唯一の実存という含意が決定的に欠けている。問題の根源は、概念の実例となるものがじつは、、、一つしかないという点にある。複数の事例が対等に存在する木や雷や暑さや…とは違って、本当の今はこの今ひとつしかなく、それ以外の今はじつは過去か未来であり、本当の私はこの私ひとりしかおらず、それ以外の私はじつは他人である。しかしまた、どの時点もその時点にとっては今であり、どの人もその人にとっては私である。という意味では、問題の根源はこの二つの捉え方のあいだの矛盾にある。今や私は、木や雷や暑さ…と違って、概念の内部にこの矛盾が組み込まれていなければならないのだ。
 概念と直観という区別では、各人がみな平等にそれらをもちうることになるので、肝心のこの事態がうまく表現できない。実のところは、自我直観にも自我概念にも(現在直観にも現在概念にも)、すでにしてその内部にこの矛盾が組み込まれていなければならないからである。そして、組み込み合いながらも、決定的に乖離もしていなければならない。A変化が要求するA事実はどこまでもA事実そのものではないからである。思っている者は現に存在せざるをえない、、、、、、にもかかわらず、そこで言われている「現に存在せざるをえない」がゆえに「現に存在している」ことと、現に、、「現に存在している」ことは、決定的に乖離していなければならないのである。
 以上を別の表現の仕方でまとめれば、世界のあり方が要請する開けの原点とその要請を超えてそれが現に存在していることの二つが、対立しながらも相互に組み込み合う、ということになるだろう。前者がすでに「それが現に存在している」という意味を(意味上)含んで成り立っているために、後者の現存在が「語りえぬもの」になる、という特殊なパラドクシカルな構造がそこに成立するわけである。それでもアキレスはつねに一歩前に出るのだが、必ず追いつかれてしまうのだ(いいかえれば、必ず追いつかれるにもかかわらずつねに一歩前に出てしまうのだ)

*ここでその問題に入るのは時期尚早感があるので差し控えるが、時間というものがこのような種類の矛盾によって成り立っていることは疑う余地がない(今が動くという発想は相対主義という発想と構造がそっくりである)。ただ、ここで私がぜひ指摘しておきたいことは、時計の針は矛盾するこの二つ(動く今と端的な今)が結合した形象である、ということである。動く(A変化)という点が概念(あるいは亀)にあたり、端的にある一点を指す(A事実)という点が直観(あるいはアキレス)にあたる。このとき、たとえ針の側を止めて(視点を針の位置に固定させて=針からの視界しか存在しなくさせて)文字盤の側を動かしたとしても、動かなくなったはずの針は暗黙のうちにやはり動き、事態はやはり「次々と新たなことが起こる」と表象されてしまう。ここでもなお、亀を追い払うことはできない。

〈私〉と〈今〉を〈現実〉から峻別する


 以下では、これまでの考察を踏まえて、〈私〉とは何かという問題についてもう一度最初から考察しなおす。前回の最後に「〈神〉の存在を主張する側は、最終的には無内包の現実性に至らざるをえない」と言ったが、まずは、この無内包性(これは「何も寄与しない」ということと同じである)の細部のあり方に少し探りを入れよう。
 この無内包(無寄与・無関与)ということを、言語ゲームに乗らない感覚の私的成分のようなものと混同しないことが、まずは肝要である。「E」と名づけられた「繰り返し起こるある感覚」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』二五八)は、たとえわれわれの営む公共的な言語ゲームに乗らないとしても(じつは同じものが繰り返して起こっているなどとは言えないとしても)、毎回感じられる何かとそれらが同じだと感じられるという事実は世界内に立派に実在し世界の内容に十分に寄与している(拙著『なぜ意識は実在しないのか』では、この種のものを「第0次内包」と呼んで「無内包」と区別している)。それを感じているのが永井均という人物であるという事実もまた、世界内に立派に実在し、世界の内容に寄与している。実在せず、寄与もしていないのは、それを感じているのが〈私〉であるという事実である。
 その人物が〈私〉であるという事実は、たしかに特殊な事実であって、百ターレルであるとかくすぐったいとか永井均であるとかいった特定の内包をもってはいない。しかし、だからといって、そこにあるのは可能性に対する意味での現実性(本質に対する意味での実存)の問題だ、といえるであろうか。
 というのも、もしそれだけのことなら(すなわち〈 〉という記法が普通の意味での現実性・現実存在を表現しているだけなら)、たとえば同じ内包をもつ永井均という人物が現実に存在している場合としていない(たとえば架空の人物である)場合の違いの問題と同じことになってしまうからである。もちろん、そうではない。そもそも〈 〉は、私と今と現実にしか適用できないが、そのそれぞれで適用基準は独立である。
 〈 〉を、〈犬〉、〈地球〉、〈百ターレル〉、〈二一世紀〉、〈永井均〉、……のようには使うことはできない。いや、使ってその現実性(現実に存在していること)を表現してもかまわないのだが、それは、〈私〉や〈今〉の場合と違って、現実世界に存在することを意味するだけである。すなわち、各可能性にとっては、そこに存在することが「現実に存在する」ことであり、そのこと自体はどの世界においても共通である、という考え方も一応は認めたうえで、そうではなく唯一の真の現実世界に存在するということを、その〈 〉は意味することになる。
 これに対して、〈私〉と〈今〉は、その〈 〉の働きを「現実性」と性格づけるとしても、そういう現実性とは独立の成立基準を持つ。〈現実〉の成立が、諸可能世界における「現実」と唯一端的な〈現実〉との矛盾の成立を意味するとすれば、それと同型ではあるがまた別の矛盾が存在するわけである。諸可能世界のなかでの現実世界の中心性という問題とはまた別に、現実世界の(あるいはそれぞれの可能世界の)内部に、諸「今」たちのうちの唯一の現実の〈今〉、諸「私」たちのうちの唯一の現実の〈私〉という問題があるからだ。それらがまた別の、独自の中心性構造を作り出すわけである。
 前々回、前回と、ここまで論じてきたことを、話が次の段階に進むと忘れてしまう人がいるのでもう一度確認を入れておくなら、ここに矛盾があるというのは、「現実」と〈現実〉、「今」と〈今〉、「私」と〈私〉のあいだに矛盾があるということだけを言っているのではない。世界の場合でいえば、諸世界のうちのどれかが必ず現実世界でなければならないことと、これ、、がその現実世界であることのあいだにもある種の矛盾がある、と言っているのである。時制の場合でいえば、諸「今」のうちのどれかが必ず〈今〉でなければならないことと、これ、、がそれであることのあいだにも、人称の場合でいえば、諸「私」のうちのどれかが必ず〈私〉でなければならないことと、これ、、がそれであることのあいだにも、ある種の矛盾があると言っているのである。これは、「 」と〈 〉のあいだの矛盾ではなく、いわば《 》と〈 〉のあいだの矛盾である(これはもちろん「いわば」であって、そもそも「 」と《 》の関係自体がそう簡単なことではないことはすぐにわかる)。

独在性の二重性


 世界というものは「すべて」であるというほかには特徴づけようのない、その意味で無限定なものである(それゆえ、各可能世界がそれぞれにおいて現実世界であるという考え方を取り入れて、世界にかんする「 」と〈 〉の対比を、「現実」と〈現実〉と表記することもできた)。しかし、〈私〉と〈今〉にかんしては、その〈 〉が何を意味するかを問題にするに先立って、〈 〉の付かない(というか〈 〉が付くか付かないかには関係のない)私や今そのものが何を意味するのかを、それ自体で特徴づけ、限定しておく必要があるだろう。
 『存在と時間――哲学探究1』において、私はこれを第一基準という形で与えている。それは、「その目から世界が現実に見え、その体だけが叩かれると現実に痛く、その体だけを現実に直接動かせる、……人物である」というような基準であった。一見して明らかなように、これは、およそだれであれ一般に自分自身というものを識別して捉えるための基準であって、その意味では「私」の識別基準なのだが、そこには「現実に」という仕方ですでにして〈 〉の意味が入り込んでしまっている。だから、これはいわば《私》の成立基準なのだが、それを入り込ませることなしに「私」概念を十全に提示する方法はありえないだろう。

*たまたま例にとられているのは外界の知覚と身体感覚と自ら身体を動かす能力の三つだが、第二基準との関係をはっきりさせるためには、記憶の例を入れたほうがよかっただろう。第二基準は同じ私であり続けるための基準であって、その中核をなすのは記憶の内容なのだが、第一基準において不可欠なのは(その内容はどうであれ)ともあれある統一的な記憶が(なぜかそれだけが)現に与えられてあるということである。記憶のもつこの二面性(その内容となぜかただそれだけが現にあること)が二つの基準を繋いで、私を世界に受肉させている。
 また、この基準は「その時点において世界が現実に見え、……」などとすることによって〈今〉の第一基準に作り替えることができるが、その際、「見える」「痛い」といった心的述語が使われる必要はなくなるが、かわりに現在形を使わざるをえなくなって、表現上トートロジカルな主張になってしまうという問題がある(〈私〉の場合は動詞に人称語尾変化があっても第三人称が使えるが)。この種の問題は「分析哲学」の問題としては興味深い論点である。もっと事象内容的な問題としては、〈今〉には第二基準にあたるものがないということがある(A変化は第一基準の内部に組み込まれうるであろうから、むしろ強いていえば、他者と〈今〉を共有できているといえるための基準がそれになるかもしれない)。


 だれもがこの第一基準を使って自己自身を(他のものから)識別していることは疑う余地がない。もちろんここにも、他我認識にかんする通常の懐疑論を持ち込むことはできる。だが、ある人がこの様な仕方ではなしに(おそらくは何らかの物的あるいは心的な特徴を手掛かりとして)自己を識別しているケースを想定してみることは、その人にクオリアが欠如しているケースを想定するよりもはるかに難しくはないだろうか。クオリアが欠如した人をたんに「ゾンビ」と呼ぶ風習にあやかって、この様な仕方ではない仕方で(すなわち自分のもつ何らかの事象内容的な特徴を手掛かりとして)自己を識別している人を「「私」ゾンビ」と呼ぶとすれば、ゾンビであることなしに「私」ゾンビであることは(いかにして)可能だろうか。

*これはたとえば、いつもある特殊な感覚を感じているという心的な特徴である。しかし、たとえそれを感じなくなっても「私は物心ついて以来ずっと感じてきたあれを感じなくなった」と分かるであろう。問題になっているのは、それが分かる「私」の成立基準である。

 その点はもちろん大いに注目すべき点ではあるのだが、そこに〈 〉以外の要素も含まれている点にも同様に注目しなければならない。「その目」「その体」といった身体的要素もある程度の重要性を持っているが、それ以上に重要なのは「見える」「痛い」「動かせる」といった心的要素であり、それらを総合している「人物(person)」という意識主体の要素である。とはいえしかし、それらはいずれもそれが実際に(つまり現実に)感じられることによってのみ実在することになるのだから、ここにはもしかすると循環構造が隠れているかもしれない。「見たり、痛がったり、動かしたりする、主体」といった概念は、じつのところはその現実性(つまり〈 〉の成分)からしか備給されえないのかもしれない

*「人物」と表現されていた「主体」の要素を「時点」で置き換えると「今」の第一基準ができるが、その際に心的要素の代わりをするのは現在形であろうから、こちらの場合にはよりあからさまな言語的意味における循環(というより直接的な同義反復)が含まれていることになるだろう。すでに述べたように、この種の問題は分析哲学の問題としては興味深い。

 そうだとしても、少なくとも一見したところでは、あるいは表面的には、ここには二つの層があるように見える。「見る」や「痛い」や「動かす」や「人物」のような何らかの事象内容(内包)と、そのうち一つだけが現に与えられているという現実性(無内包)との二層である。(ここから先は、この節のここまでとは逆に、その二つの決定的「乖離」の側の話に移ることになるが、)そうすると、まず、こういうことになるはずだろう。世界には、第一基準によって自己を識別し把握している無数の主体(すなわち諸《私》たち)が存在しており、そのうち一つが現実の、、、〈私〉である、と。しかし、そうだとすると、無数のそのような主体(諸《私》たち)のうちから、唯一の現実の〈私〉はどのように識別されうるのだろうか、という問題が生じる。第一基準はもう使えない。なぜなら、それはもうみんなが使っているのだから。だとすると、それを使って捉えることができる諸《私》たちのうち、どれが〈私〉であるかは、何によってわかるのだろうか。
 もちろん、なぜか現にそれである(そいつを殴られた時しか現実には痛くない、……、等々)によってであろう。しかし、そう言ってしまえば、それはまた第一基準である。だれもがそのやり方で自分というものを捉えているのである。もし、問題の意味がわかっているなら、このような仕方で、第一基準を超えた無基準的な〈私〉の存在が垣間見られはするだろう。ところが、今度はそのことそれ自体が、またしてもだれにでもあてはまることになる。このようにして、亀はどこまでも追いついてくるのだ! もはや何も言えなくなって、「いまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階」に達したとき、アキレスが亀を振り切る瞬間が確かにありはするのだが、「そのような音声もまた、一定の言語ゲームのなかにあってのみ一つの表現になっている」という形で、亀は追いついて来ざるをえないのである

*この引用はウィトゲンシュタイン『哲学探究』の二六一節からのものだが、繰り返して注意を喚起しておかなければならないことは、そこにおける彼のこの発言は「感覚E」という私的に同定された感覚を表現する私的言語が可能であるかどうかという論脈に位置づけられており、それは完全に的はずれだ、ということである。そもそも「私的言語は可能か」という問題設定自体が無内包と第0次内包の混同によって成立した混乱した問題設定であることに疑う余地がない。この問題連関についても、機会があれば後にさらに詳述したいとは思うが。

 以上、〈私〉について述べてきたことは〈今〉にもそのまま当てはまるだろう。どの今にかんしても、まずはそれを限定する(おそらくは「出来事」や「時点」という概念によって)何らかの事象内容(内包)があり、次に、そのうち一つが現に起こっているという、その(無内包の)現実性がある、という二層をなしており、しかもその二つは前者の中に後者が(事象内容化されて)入り込むという構造をしている。だから、〈私〉の場合の第一基準に対応する基準は〈今〉にもあるとはいえ、それを適用するだけで、最終的な現に現実のこの〈今〉を捉えることができるというわけではない。その基準はいつの〈今〉の把握にも使われているからである。

〈経験的・超越論的〉二重体の真実


 この連関で論じるべき問題はまだかなり残っているのだが、今回も閉めるべき時がきているので、本来はもっと後で語るべきある種の結論的なことを先に言っておこう。
 二層構造から明らかなように、〈私〉であれば必ず人物(主体)であり、〈今〉であれば必ず出来事(時点)で(も)ある。それらはいずれも通常の世界内存在者で(も)あり、だから当然、〈私〉や〈今〉の側からだけではなく、客観的(時間の場合は時点貫通的)視点の側からも立派に実在するものである。したがって、それらには二面性がある(その二面性こそがそれらの本質的特徴である)と言えそうにみえる。しかし、そこには二つの側面が一つのものにおいて結合した一個の構造体が存在している、というわけではないのだ。どちらの側から出発しても同じ一つのものに行き着けることは確かなのだが、にもかかわらず、一方の側からそこへ辿り着くともう一方の側に抜けることはできないのだ。
 各人の意識の私秘性という問題なら、あちらにあるものをこちら側から見ても、またこちらにあるものをあちら側から見ても、(直接経験できないだけで)存在はしているとはいえるであろう。あるいは、存在しているといえるかどうかを懐疑論的に議論して、存在していない場合はゾンビと呼ぼう、などと論じていくことができるであろう。〈私〉にせよ〈今〉にせよ、〈 〉が表現する独在性は、そのような捉え方はまったくできない。それらは、客観的な(もちろん各人の心の中という意味での主観的な世界を含めた意味での客観的な)世界把握から出発した場合には、そもそも存在していないからである。それがじつは存在しない(あるいはする)のではないかと疑ったり、存在する場合と存在しない場合とを分けて考えてみたりするなどということは、そもそもできない(このことと、先ほど触れた「「私」ゾンビ」の想定の困難の問題とは別の問題なので混乱なきように)。
 客観的世界の側からそもそも存在しないとは言っても、出発点を逆にして、こちらから出発すれば、そこから客観的(=相対主義的)世界を構成して、おのれをその内部に(人物や時点として)位置づけて実在させることなどはできる。それは伝統的に超越論哲学としてなされてきたことの本質であったろう。われわれの客観的世界はその世界の内部にはもはや存在しないものから開始されているということはおそらくは紛れもない真実なので、それは有意義な仕事ではあった。しかし、その逆のルートは存在しないのだ。重要なのはむしろその点である。客観的世界を構成しておのれをその内部に位置づけたあかつきには、もうその世界の側からその道を逆に遡る道はもはや存在しないのだ。おそらくはこれが「独我論」という発想の最も根底にある事実であろうと思う。
 超越論哲学の問題を離れて、もっと一般的に言えばこうだ。〈私〉は、……世の中で永井均と呼ばれている人間である。と発見するこのルートは確実に存在している。しかし、その逆に、世の中で永井均と呼ばれている人物の心や体や自然的・社会的諸関係をどんなに細密に探究しても、永井均という人物は、……〈私〉である、と発見できるルートは存在しないのである

*これが、今回の最初の注で触れた「そんな端的な事実などそもそもない、ともいえる」という問題である。戻って確認していただけると有難い。
(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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