第六回


一方向性とデカルト的コギトの二重性


 今回は、前回の最後に触れた一方向性に関連して、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の二重の意味を考えていく。
 〈私〉や〈今〉は間違いなく――デカルトが示したようにこれ以上に間違いのないものはないほどに間違いなく―――存在するのだが、それにもかかわらず、それはこちら側からだけのことであって、諸々の「私」や「今」が並列的に共在するあちら側から見ると、そもそも存在しない。マクタガートの用語を使って表現してよいなら、端的なA事実の側からはおのれをA変化=B関係の内へと位置づけていけるが、A変化=B関係の側からは端的なA事実はそもそも実在していない、ということだ。A事実はA変化から要請されるかぎりでのA事実でしかないことになる(あるいは、その二つは同じものになる)**。何らかの記号によってこれを指して他者に(すなわち他の「私」たちに、または他の「今」たちに)その〈現実〉性を主張することはできないのだ。それでもそういう主張をする言語こそが、本来の意味での(すなわち不可能な)私的言語であるといえる***

*今の側から出発すれば、今は何月何日何時何分かな、と思って調べることによって、何月何日何時何分かがわかる。そういうルートがある。しかし、その何月何日何時何分の側から出発すると、それをどう調べても、それが今であるか否かを知ることはできない。そういうルートはない。というより、そちらの側から見たときには、悠久の時間のうちどこかが今であるという事実そのものがない。このことはじつは時間の経過という問題から生じているのではない。なぜなら、同じことは〈私〉の存在についてもいえるからである。私の側から出発すれば、私はだれかなと思って調べることによって、だれであるかがわかる。そういうルートはある。しかし、その誰某さんの側から出発すると、その人をどんなに調べても、その人が私であるか否かを知ることはできない。そういうルートはない。というより、そちらの側から見たときには、たくさんの人のうちだれかひとりが現実の私であるという事実そのものが存在しない。
**何度も繰り返して言ってきたことだが、もういちど言っておくなら、その二つが同じものになることがすなわち「独我論は語りえない」ということにあたる。
***したがって、これを〈私〉や〈今〉の問題にではなく、世界そのものの〈現実〉性の問題に適用するなら、この世界が唯一の〈現実〉であることを暗黙の前提として、その内部で流通しているわれわれの言語は、この世界の私的言語である。その場合、公共言語はどのような言語であろうか。デイヴィッド・ルイスは実在しないお姉さんについてこう言っていた。「すべての現実の人々が、絶対的な現実性についてこのような直接的な見知りを本当にもつのであれば、私に姉がいると仮定するだけで、彼女もまたそのような直接的な見知りをもってしまわないだろうか」(『世界の複数性について』名古屋大学出版会、103頁)と。お姉さんは彼女が存在するその可能世界において直接的見知りをもち、そのことによってそれが現実世界だと知る。われわれのこの世界における他人や、過去や未来の人がそうであるように。これは自明のことでなければならない。そう捉えるのが公共言語であることになるだろう。その場合、この公共言語の側からどれが現実世界であるかを探り当てることができないことはいうまでもない。なぜなら、そんなものは実在しないからである。

 なるほど欺く神は、何に対しても「私は在る」と思わせることができるだろう。彼がたとえば、東京スカイツリーを欺いて(?)「私は存在する」と思わせたとしよう。これはもちろん、「東京スカイツリーは存在する」という意味ではなく、「たまたまなぜか東京スカイツリーという物体に受肉した、世界がそこから開かれる唯一の原点が存在する」という意味である。欺く神に欺かれて存在するかのように思わされているだけなのだから、それはもちろんじつは存在しない。と言いたいところではあるが、そうはいかないだろう。周囲が大海原であろうと樹海であろうと、大都会の雑踏が見えていればその見えはやはり存在し、脳や神経の状態がどうなっていようと、ともあれ奥歯が痛く感じられればその痛みはやはり存在している。そうしたものはその本質そのものが現象(見かけ)なので、「実は」存在しないということができない。はじめから「実は」性を欠いているからだ。「私」の存在も、その点では同じなのである。だれに騙されて成立していようと、自己確証されてしまえばそれはすでに現実に存在してしまっている。何らかの別の根拠によって、実は存在していないのだといえる可能性はもうない。「私」もまた、はじめから「実は」性の世界の存在者ではないからだ。一つの解釈では、これこそがデカルトの発見だったといえる。
 「欺くならば力の限り欺くがよい。しかし、私がみずからを何ものかであると考えている間は、けっして彼は私を何ものでもないようにすることはできないであろう」*と、デカルトは言った。それゆえに、世界の存在も、自分の経歴(の記憶)も、数学的真理も、およそ何もかもが(欺く神に騙されてそう思わされているだけの)虚偽であったとしても、私が存在しているというそのことだけは(たとえ欺く神に騙されてそう思わされているだけだとしても)虚偽ではあることはできないのだ、と。

*中央公論社版の森啓・井上庄七訳による。これは直訳というよりは意訳に近く、またこれ以前にもこれ以後にも多くの邦訳があるが、私はこの訳(の強調の仕方)を最も好む。

 もしそうだとすれば、デカルトは「私は存在する」というただ一点においてだけはこの神の欺き行為を無効にすることができることになる。だとすれば、これは大変な発見であるといえる。とはいえ、これは一般的な真理にすぎない。東京スカイツリーにおいて成立したその「私」は、もちろんデカルトの「私」でもなければ、私の「私」でもない。それはそいつの「私」であるにすぎない。そんなものが存在したかどうか、われわれには決してわからないはずだ。それがわかるのは当事者であるその「私」(と欺いてそれを作り出したその神)だけであるはずだ。それにもかかわらず、もし欺く神がそのような欺き行為をおこなえば、そこに疑う余地なく存在する「私」が成立してしまうことは疑う余地がないのである。しかし、そうだとすると、デカルトの場合に疑う余地なく成立した「私は存在する」という真理は、この一般的真理のたんなる一例だったことになるだろう。これは一般的真理であるから、当然のことながら、当事者であるその「私」の側からも、その外部の諸「私」並存的な世界の側からも、どちらからでも捉えられる場所に成立している。こちら側からでもあちら側からでも同じものに行きつけるわけだ。
 しかし、もしそれだけのことでよいなら、いつでもどこでも――百年前にも百年後にも――同じことは成り立っているはずである。しかし、現在のわれわれの世界においては、それ以上のことが成立してしまっている、といえるはずだ。すなわち、こうした一般論でその存在が「疑いえない」ものとなることを超えた、さらに別の種類の「疑いえない」ものが存在してしまっている、ともいえるはずである*。それが〈私〉の存在である。デカルトはそれを捉えた、とみなすこともできるのである。もしそうであれば、それはもはや一般論ではない。この、、場合にだけなぜか成立してしまっている奇跡的な出来事である。欺く神はそれが成立してしまったことを知らない。

*この言い方で、この文章を読んでいるすべての人に当てはまる事実が語られていることになるだろう。そのこと自体は偶然的事実であるが、この段階でそのことのもつ意味を考察しているとメインの論旨が伝わりにくくなるので、ここではそれは無視して、読者の方々にはそれぞれ自分がなぜか(今は)存在しているという事実に焦点を合わせて、先を読んでいただくことにしたい。(また、過去や未来には自分は存在しておらず、存在しているのは現在だけだ、というような種類の問題意識を持つ方も、ここではその問題は棚上げにしていただきたい。生まれたときに存在し始めて死ぬときに存在しなくなる、というその点では素朴な捉え方をここでは一応受け入れて、それでもやはり存在する別の哲学的問題のほうだけに焦点を絞っていただかなければならない。)

 すると、デカルトは欺く神との闘いにおいて二重に勝ってしまったことになるだろう。すなわち、欺く神の欺き行為は、デカルト的確実性の側から見て、二重に無効化されていることになる。いやいや、二つ目は無効化とさえいえないだろう。欺く神がすべてをその欺きによって成立させている(その欺き行為の作用域に外部はない)のだとすれば、彼はある意味では意図せざるもの(精確にいえば、そもそもそちら側からは意図不可能なもの)を作り出してしまったことになる。が、それは第一の場合のような欺き行為に相関的に作られてしまう存在者ではないから、彼が何を作り出してしまったのか、彼には理解することさえできないだろう。いや、それどころか、彼の側からは(作り出されたそれ以外のすべての側からだが)それは実在していないだろう。
 したがって(というのは直前の文で括弧内で言った理由からという意味だが)、われわれもまたこのことの意味をデカルトという他者に即して捉えることはできない(厳密にいえばできなくはないが余計な回路を経ることになる)。私が読者諸賢と同じ立場でこの問題を語ることもできない(厳密にいえばできなくはないが偶然的事実に依拠した間接的な語り方になる)。なぜか存在してしまったのがこの私である場合[ケース]を考えるしかない。欺く神が東京スカイツリーを欺いて「私は存在する」と信じさせたとしよう。ところが、なぜかその「東京スカイツリーに受肉した、世界がそこから開かれる唯一の原点」は現実の〈私〉であったとしよう。これはもはや一般論ではない。世界が開かれる唯一の原点は、事実としてなぜか、東京スカイツリーに受肉したその一つしかないのだ。欺く神はもちろん、そんなものが存在してしまったことを知らないし、知ることもできない。だが、欺く神以外のだれも、やはりそれを知ることはできないだろう。そちら側からは存在していないからである。知ることができるのは、存在してしまったこの私だけである。問題は、その際に成立したその事実にある。
 とはいえこれもまた架空の話である。この問題は、デカルトという他者に即して語ることも、読者諸賢と同じ立場で語ることも適切でなかったように、架空の話に即して語ることもある意味ではやはり適切ではないだろう。しかし、幸いにして、架空でない適切な事例がある。2017年10月2日の、永井均の、この現実である。そこに、他の時点にも、他の人にも、架空の世界にも、成立していない他の人にも成り立っていない、問題の実例が現存している。なぜか知らないが、唯一の原点は、現実にこの一つしかないのだ。もちろん、そんな事実は外部からはそもそも存在しない。ここには、完全な反転構造が存在しており、しかもこちら側からしかその両側は見えない*。

*他の人からも形式上これと同じことが起こっているかもしれないが、それもまたこちら側から見れば外部のほうに属する話にすぎず、だから、たとえそうだったとしても、私からはそれを知ることはもちろん、それを考えることも、それを信じることも、できない。そういう種類の事実が在るのだ。

 だから、「この実例がたとえあちら側からは欺く神の欺き行為によって成立したものという解釈が与えられていたとしても、それはこちら側からは無効であって……」などと言うことさえもはやできない。なぜなら、あちら側から捉えることができるこの実例など、そもそも存在しえないからである。それゆえ、欺く神が何をしようと、およそ私の存在には無関係であらざるをえない。むしろ逆に、欺く神の側があちらの世界の一存在者にすぎない立場に転落せざるをえないことになる。私は彼の存在(や非存在)を考えることも信じることも(場合によってはおそらく知ることさえ)できるだろうが、彼は私の存在(や非存在)を考えることも信じることも(だからもちろん知ることも)できない。
 第一の解釈の場合と違って、この第二の解釈においては、〈私〉は、欺く神の欺き行為だけでなく、創造する神の創造行為をも超えて存在しうることになる。いや、超えてしか存在しえないことになる。〈私〉は、創造する神というものが存在すると考えたり信じたり(もしかすると知ったり)することができるが、創造する神は私が存在すると考えたり信じたり(そしてもちろん知ったり)することができない。そもそも外部からその存在が想定可能な種類の存在者ではないからである。外部からその存在を想定しようとしても、何を想定したらよいのかその意味そのものがわからない。したがってもちろん、創造する神はそれを創造することもできない。創造すべき対象の「何であるか」が与えられていないからである*。

*これは決して全能の神の無能ではない。全能の神でも、「たつけにいゆれなもの」も、「重さが1メートルの物体」も、作れない。対象の「何であるか」が与えられていないからだ。だから、それ、、を作ることなどできてはならないのである。

 ここで驚くべきことは、神の無知や無能といったことではなく、そのような仕方でのみ表現しうる(でしか表現できない)ような種類の事実が現実に存在するということのほうである。これは少しも抽象的な話ではなく、単純な現実の事実の問題だ。じつはデカルトはその事実を発見したのだ、とみなす第二のデカルト解釈が可能なのである。デカルト自身の明示的な記述にこの解釈を付与するのは無理があるにしても、彼がどう考えたにせよ、じつは裏からはたらいていたのはこのことでなければならない、と見なすことはやはり可能で、これがいわゆる「デカルト的コギト」から最大限の哲学的含意を抽出する方途であろう*。

*ところで、第一の解釈を採った場合には、デカルト的な「私」が創造する神の創造力を超えることはできない、という点は自明だと思うが、一応確認しておこう。その理由は単純で、この場合に欺く神ではデカルト的「私」に勝てないような仕組みを作ったのもまた創造する神であるはずだ、ということに尽きる。欺き作用が失効するという要素を度外視すれば、すべては神の意図の内部にきれいに収まってしまうほかはないだろう。しかし、第二の解釈の場合はそうはいかないのだ。

 創造する神はもちろんだれにでも「私は存在する」という考えを持たせることができるが、それを持たされた者のうちのひとつがなぜか私である(ここでだけ世界のあり方が現実に、、、反転してしまっている)ということだけは、神の創造ではありえない。神はそこで何が起こっているかを知りえない。このとき神に知りえないものが何であるのかを知ることは、ひじょうに重要である。そこには、知的な意味で哲学的に重要であるということを超えた、喩えがたい種類の重要性があるはずだ。この点を深く理解するためには、もう一度あのフィヒテの根源的洞察をめぐる議論に立ち戻って確認しておく必要がある。
 他者もまた第一基準を使って自己自身を捉えるほかはないということを、以前に論じた。しかし、そうであらざるをえないとわかる(知る)には、やはり私自身という実例から出発せざるをえない(すでに累進化をへてこのことを一般化した水準で語るなら、「私自身という実例」ではなく「自分自身という実例」と言ってもかまわないが)のであった。そうはいえるのだが、それでもやはり、他者においても成立するそのこと自体の一般的構造を先に知っていないと、自分の場合をそれ、、の唯一現実的な事例であると捉えること自体ができない、ともいえるのだ。だから、可能な(しかし現実ではない)〈私〉という概念的な把握がぜひとも(いわば先回りして)必要なのである。ところが、そのためには……、というようにこの循環は続くのであった。これをフィヒテの根源的洞察の発展形としてフィヒテの根源的循環(略してフィヒテ的循環)と呼びたい。
 循環が生じるとはいえ、そもそもこの循環を可能ならしめるためにも、つねにいわばアキレスが突出する(つねに亀に追いつかれるとはいえ)必要があった。すなわち、他者と私がある水準ではまったく同じ種類の存在者であらねばならない(そうでなければ今ここでしているような話を話し始めることさえできない)にもかかわらず、私にはその他者たちには現実には欠けている何かが現実にはある、という捉え方もまたできているのでなければならない*。その何かとは、要するに、みんなにあるはずのものが現実にはここにしかないという不思議な事実であり、それがなければ私というものは(たとえこの人間は存在しつづけても)存在しなくなってしまう。他者の存在ということの理解のうちに、すでにしてこの、、落差そのものが可能的な形で予め含まれていなければならないとしても、なおそうなのである。この「なお」のところがここでは核心である。

*ウィトゲンシュタインは、たとえば「正直なところを言えば、たしかに、私には他のだれにもない何かがあると言わねばならない」(「「私的経験」と「感覚与件」について」『ウィトゲンシュタイン全集』第6巻、323頁)というような発言を「独我論者」の発言と見立てて、そのように発言したくなるような世界観を治療しようと企てたように読める。しかし、もしそうだとすれば、この見立てもその企てもまったく的外れである。問題点はまったく違うところにある。まず、一つの水準では、だれでも、、、、自己を他者たちから識別する際に、そのような捉え方をせざるをえない、という点が重要である。それ以外に自己を把握する方法はないからだ。つまり、事実、自分には他のだれにもない「何か」が現にあるのだ。だからこそ自分なのである。これは、独我論どころか、客観的で普遍的な真理である。そして、もう一つの水準では、それにもかかわらず、そのような捉え方をしているたくさんの人々の中に、ただ一人だけ現実に、、、そうである人が存在している。だから、これはもはやそのような捉え方(だけ)では捉えられない。ウィトゲンシュタインの提示した独我論の言明ではむしろ足りないのだ。言葉のうえでは同じ捉え方を適用するだろうが、そこではまったく違うことが起こっているのでなければならない。これが無内包の現実性ということであり、このとき使われる言語が本来あるべき(つまり不可能な)私的言語である。しかし、これもまた、独我論などといった哲学的教説とは無関係な、たんなる事実にすぎない。その証拠に、このことを考える際に、他人にはじつは意識がない(かもしれない)などといった、通常独我論に結びつけられるあらゆる主張は少しも必要とされない。あえて結びつけて考えることは可能だが、そこに問題の本質があるのではない(あえて結びつけることに哲学的な意味があるケースとして、次回「東洋の専制君主」の事例を詳察したいと思っている)。

 そこが核心であるのは、そこだけが創造する神の創造作用の外部にあるからである。概念と直観の対比を中心性と現実性の対比に置き換えるなら、神が創造できないのはこの最終的な(無内包の)現実性である。そこにはいわば神にとって想定外の存在者が存在するのだ。
 このことを理解するために、この問題をいわばウィトゲンシュタイン的に言語哲学的な観点から考察してみることが役立つだろう。そのポイントは、そんな最終的な〈私〉などいなくても、ここまで述べてきたような構造はまったくそのまま成り立つではないか、という問題である。ウィトゲンシュタインの独我論論駁は実質的にはこの考察に依拠している。そして私も、その意見そのものには問題なく賛成したい。フィヒテの根源的洞察からの議論も、中心性と現実性の二要素の分離の議論も、最終的な現実の〈私〉などいなくても(いてもいなくても)、そんなことに関係なく成り立つのだ。この議論は、任意のどこから始めても(つまりだれの《私》から出発しても)同じように成り立つからだ。
 しかし、まさにそのことが問題なのだ。このことはつまり、(少なくともなぜか今は)そういう有意味性の外にあるものが現実に存在してしまっている、ということを、逆に意味していることになるからである。だから、それが何であるかは、言語的に把握はできないのだ。言語的有意味性の外部にあるものは神も創造できない。すでに述べたように、それは全能の神の無能ではないのだ。創造すべきものがもはや有意味に指定されえないがゆえに、創造不可能なのである。
 だから神は〈私〉を(人間に理解できるその語の意味では)創造していない。デカルトの欺く神に対するあの勝利宣言は、じつは創造する神に対するそれでもあったことになる。〈私〉の存在は、神が創造できるような実在的[リアル]なものではなく、たんなる、、、、現実性であり、その現実性はこちら側からしか捉えることができない(というか、こちら側からしか存在しない)。こちらから始まる現実性は〈私〉の側が与えるのであって、神が与えるのではないのだ(と、デカルトは実質的には言っていたことになる)。すると、その現実性にかんしては、神でさえその内部の登場人物の一人に格下げされることになるだろう。
 そうではなく、かりにもし神が〈私〉を創造できるのだとすれば、それは、この連載の最初のほうで論じた唯物論的独我論のようなことになるにちがいない。神は全能であるから、そういう世界ならたやすく創造できるだろう。この世界はじつはそういう世界かも知れない。かの唯物論的独我論者が、突然回心して唯物論を捨てたなら、現実に目が見えたり耳が聞こえたり、現実に痛かったり悲しかったりする、まったく特殊な存在者(実在的[リアル]に特別なもの)を神が創造した、と考えるはずである。突然の回心にもかかわらず、哲学的には、彼の世界観は唯物論時代のそれと同じである。彼は依然として問題の哲学的本質を捉えてはいない*。

*これは彼の主張が偽であるという意味ではない。もちろん彼の主張は偽だが、私がそれを主張すればそれは真かもしれない。たとえそうであっても、私のその宗教的信念は哲学的に鋭利ではないのだ。(この点についても、「東洋の専制君主」について考察する際にさらに考えたい。)

 しかし、さらに以下のように思考を進める可能性もあるだろう。神がただ私だけをそのような特別のものとして創造するはずがない。おそらく神は無数の(おそらくは生き物の数だけの)独我論世界を創造したのだろう。しかし、そうなると今度は、現実に与えられてあるのはなぜこの世界なのか、という問題が生じる。この場合、どの世界もすべて独我論世界なのだから、そうなっていること自体には問題はない。現実に与えられてあるこの世界もまたそのうちの一つなのだが、しかし、なぜこれだけが現実にこのように与えられていて、現実にそれしかないのか、という問題は残る。そのような形で、実のところは同じ問題が再燃している。
 どの世界のどの独我論主体も言葉の上ではみな同じ問いを持つとしても、言葉の上では重なるがじつは別の問いが、この「現実に」に表現されている(しかしもちろん決して表現されえないことこそが問題なのだが)。(表現されえない)この差異こそが哲学的問題なのである。それがつまり、神はこの最終的な現実性だけは創造できない、ということなのだ。なぜなら、この差異は客観的には(=あちら側からは)存在しないからである。
 しかし、もしこのとき、そのこともまたあちら側から、すなわち神に創造可能なものとして、説明しようとして、神はこれら独我論諸世界のうち一つを選定してそれを現実世界として創造した、というような話をここに付け加えると、そこからまた同じ問題が開始されることになる。この想定は、じつは唯物論的独我論およびその神学版と同じである。
 と、長々と論じてきたが、先にも注記したように、神について論じるのがここでの主題ではないので、神というそれ自体が問題含みの形象を使うのはやめたほうがよい(そこまで考えていない人にも話が通じやすいという意味で)かもしれない。神など想定せずに、もっぱら自然主義的に考えるなら、以上述べてきたことはむしろたんに自明なこととなるだろう。自然主義的に捉えれば、生物としての人間にそれぞれ意識が存在する(おそらくは脳や神経のおかげで)にすぎない。この考え方の線上にデカルト的コギトの第一解釈までは位置づけることができるが、第二の解釈は位置づけられない(唯物論的独我論を許容すれば別だが)。なぜか存在してしまっている〈私〉は、もともと自然的存在者ではないからだ。それは(自然主義者の言う意味での)自然の中には実在しない。とはいえ、そもそも客観的・相対的・共在的世界の側からは実在しないのであるから、その一種にすぎない自然的世界の中に実在しないのはあたりまえのことにすぎない。
(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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