最終回 法昌寺山話


 東京も激しく雨が煙っていた。
 荷物を積んだトラックが、法昌寺の門前に到着するや、友人達が、てきぱきと事を運んでくれた。国文社の田村雅之、粟屋和夫、「週刊読書人」の武秀樹、田口多津夫、それに私が上京するたびに宿の手配をしてくれた山田修ひきいる東洋大学新聞部の学生たちの、若い面貌が目に浮かんでくる。夕方になって、不要のものを山積みにして火を放った。燻りながら雨天にのぼってゆく烟を眺めながら、柳沢七年の日々を思った。俺は、再び生まれ育った東京下谷に舞い戻って来たのである。一九七七、昭和五十二年六月十八日、終日雨はやむことはなかった。
 法昌寺の草創は、慶安元(一六四八)年、徳川家光の治世である。文政十一(1828)年に編まれた武蔵国の大地誌「新編武蔵風土記稿」(「豊島郡之七」は「峡田領」「坂本村」の項)に、次のように記載されている。

 法華宗駿河国岡宮[おかのみや]光長寺末日照山ト号ス開山日韶[にっしょう]慶安元年下谷御切手町辺ニ草創シ元禄三年七月四日寂ス後元文二年当所ニ遷セリ本尊三宝安ス毘沙門堂 稲荷社

 法昌寺は、法華宗の大本山沼津岡宮[おかのみや]光長寺の末寺で、山号は日照山。光長寺二十三、二十五世を歴任した泰運院日韶上人の開基。上人は、どのような経緯ののち江戸へ出、一寺を建立するに至ったのであろうか。日韶上人は、慶安元年草創の年から数え、四十二年後の元禄三年七月四日に没している。相当の高齢であったろう。
 その後寺は、元文二(一七三七)年に、豊島郡坂本村の現在地に移っている。法昌寺八世慈雲院日寮が石碑に刻んだ記録によれば、「旧地九一坪余」であったが、「御奉行牧野越中守様」に御願い申し上げ、檀徒の寄進を受け「四百六十一坪余」が「永代敷地」として認められたとある。草創以来、八十九年の歳月が経過している。
 「新編武蔵風土記稿」が編まれた江戸後期の記録によれば、「本尊三宝」を奉安する本堂のほか、毘沙門堂、稲荷社が記録されている。いつの頃まで、毘沙門堂、稲荷社はあったのであろうか

私が生まれ育った感応寺と法昌寺との距離は、わずかに一区画を隔てるのみである。しかし、土地が醸し出す雰囲気が与えるのであろう、日々の生活感情の違いには慄然とするばかりであった。法昌寺の一郭は、土が濡れているという感じがする。すべてにおいてしっとりとしているのである。
 そうか、震災戦災に遭わずに在るということはこうしたことであったのか。遮断されることなく、昔が引き継がれているのである。
 山門を出ると、右に金美館通り。関東大震災後の都市計画で造られた吉原と根岸を結ぶ大通りがある。昭和通りを渡った、十メートルほど先に入谷金美館という映画館があったことから、この名が付けられた。昭和三十年代までは、いまだ健在であった。阪妻の「怪傑紫頭巾」や嵐寛の「鞍馬天狗」、大河内伝次郎「丹下左膳」、市川右太衛門の映画「旗本退屈男」、そして片岡知恵蔵、月形龍之介の名演技に私たち幼童は、こころを震わせたものである。「青い山脈」(昭和二十四年)や「長崎の鐘」(二十五年)など、戦後を彩る名画の数々も金美館の椅子に凭れて見入っていた。帝銀事件の生々しい現場や法隆寺金堂炎上、洞爺丸海難事故などのニュース映画の映像も、いまだ忘れられない。

一生を孤児とし生きてゆかんかな東京キッドの夢を忘れず
逆立ちをして眺めればわが上を寒く流れていく春の河
トタン屋根の上を流れる夏雲の あわれ姉妹にテネシーワルツ

 可憐な美空ひばりの姿も忘れられない。戦争孤児の時代の悲しみを唄い、ついには自身が身無し子孤児となって死んでいってしまったのだ。
 不思議なことに金美館通りの大半は焼け残っている。壁面を銅板で鎧っているのは商家で、震災以後の類焼をまぬがれるための智慧であろう。法昌寺の斜め向かいは、小野照崎神社。祭神は平安初期の学者小野篁[たかむら]。社殿は、上野山内にあったが、元禄四年に当地へ移築されている。人造富士山といい庚申塚といい、大鳥居をくぐれば、吹く風さえもが江戸の風情である。
 寺の左手に昔の農道を思わせるカーブを描いた路地がある。昔は「法昌寺道」と呼んだそうだ。両脇の人家は古色蒼然としていた。丁髷を結った法被姿の職人さんが昼の日中を歩いているのである。入山したばかりの私は、われとわが目を疑ったものである。「柳屋三亀松」という古びた表札があったように記憶している。路地を抜ければ、金杉通り。昭和四十年まで、北千住から水天宮を結ぶ都電が通っていたことから、「電車通り」という。昭和二十四年二月、幼稚園からの帰路、私は都電に跳ねられ九死に一生を得ている。
 金杉通りは、広くは旧奥州裏街道と呼ばれている。震災、戦災の火災をまぬがれたことから、両脇には江戸、明治、大正の町屋から、昭和の石造りなど、旧い町並みが続く。私が沼津に行く前までは、「坂本二丁目」の交差点には、江戸期の文房具屋「鍵屋」があり、隣は安政年間の居酒屋「鍵屋」であった。私の祖父が通い、父も通ったことであろう。電車通りを渡れば、根岸の旧い町並みが続く。
 空襲に遭わないということは、こうしたことであったのか。日々、私の中で、いままでなかった郷土愛に似た感情(下町意識)が育っていった。

黒門口団子坂口より一斉に戊辰五月[さつき]の火蓋は上がる
上野全山火焔を上げておりしかど戦い終われどまだ日は暮れぬ
ずぶ濡れの鳶[とんび]かあわれ陣羽織 奥州の裏街道に雨しげく降る
血刀を下げて落ちゆく群れを見きと語りし老爺よわれら幼年
先々代五十嵐提灯店主から聞きたる上野戦争何処[いづこ]

 上野戦争に敗れた彰義隊が奥州裏街道を日光に向かった慶応四年戊辰五月は、つい先日のことであった。下駄履きで町を歩いていると、そんな風な気がしてならなかった。此処下谷法昌寺の庭の土もまた豊島郡坂本村(御府内坂本村)のそれであった。境内には、入谷田圃といわれていた時代の欅の巨木が数本、葉を茂らせている。先代上人夫人丹精の庭木も夏の花を咲かせている。
 現在の本堂が建ったのは、大正六年三月、十八世並木日諦上人の代である。酉の市で有名な浅草長国寺が本堂を新築するにあたり、その古材を譲り受けて現在地に移築建立したものであるる。当時の記録には、三十三坪七合五勺と記録されている。その後、勝手場等六坪六合二勺を増築して、本堂は、庫裡を兼ねるようになった。
 大正六年から、私が入寺した昭和五十二年までは、六十年の月日を経ている。立て直すために古材を譲り受けたのであるから、それ以前の年月は不明であるが、二百年は閲していることであろう。
 間口六間ほどの、本堂内での家族四人の生活が始まったのである。
 勝手場には、大きな竈があった。電気炊飯器が普及する少し以前までは、日々竈で煮炊きをしたことであろう。本堂と襖で仕切られた、勝手場に続く茶の間のわずかなスペースに家財道具を入れ込んだ。衣の着替えや、塔婆書きは、本堂外陣を使用した。本堂内陣外陣とは、襖で仕切られた八畳二部屋が、客間として利用され、夜は寝室となった。
 風が吹くと、天井から塵埃が舞い落ちてきた。読経をしている礼盤[らいばん]の前を鼠が走り抜けてゆく。瓦屋根の天辺には、ペンペン草が風に靡いている。檀家総代三名と、法昌寺の相談役である感応寺住職(師父)との間に取り交わされた新住職への要望は、法昌寺の「復興」にあった。
 入山した翌月七月二十二日、當山施餓鬼法要の日が、私の入山式となったのである。

 法昌寺を復興せよ!
 どうしたらいいか。柳沢で本堂を建てた時のように、総代をふくめた世話人会を、まず作らなければならないだろう。入山式を一月後に控えた私は、寺院規則に定められた法昌寺責任役員である檀徒総代と頻繁に会い、一つずつことを運んでいった。三十四歳の私とは皆、三十歳以上のひらきのある、母の誕生年に近い人々だ。
 陸軍士官学校出身の元職業軍人の松井正治氏、寺に最も近い北上野で時計店を営み、下谷観光連盟の理事をながく務め、入谷鬼子母神、朝顔市もこの人の立案であるという。いわば町の顔役。自転車で毎日寺に来られ、新参の私はずいぶんと神経を使った。大正六年三月の入谷生まれの巳年。
 中山栄造氏は、立志伝中の人物だ。法昌寺近在の金杉町に生まれ、尋常小学校を卒業後、丁稚奉公に出され職種を転々とする。戦時中は、召集にあい大陸を転戦していた。復員後、焼跡から焼トタンを拾い集め、裸一貫で中山鉄工株式会社を足立区の小台に立ち上げ、娘婿に社長職を譲り、小台の人々からは「会長、会長」と慕われ、三つの町会を併せた「三町新聞」を発行、無料で町内に配布している。大正三年八月の寅年生まれ。
 さて私が昌寺に荷物を移して、最初に覚えたのが「掘内一雄」の名前であった。本堂の仏具や什器のほとんどにこの人の施主名がある。父母の法事のたびに、仏具を寄付されていたとのことだ。掘内さんは、深川の常盤町で、父から譲り受けた餌問屋「餌友」を経営するかたわら、芭蕉遺跡保存会の会長として芭蕉記念館建設に多大の貢献を果たしている。百キロをゆうに超え、角界の親方を思わせる色白の偉丈夫。芥川龍之介を先輩とする府立第三中学校(両国高校前身)を卒業、大学へ行きたかったが、泣く泣く家業を継いだ。教養人で、万事に鷹揚であった。戦時中は、中国で転戦、大正四年の六月生まれの卯年。三人ともに東京市十五區時代の御府内に生まれた生粋の下町ッ子。
 総代会は、寺で集まることは少なくその都度、深川の泥鰌や馬肉の老舗や寿司屋を転々とした。掘内総代は、どこへ行っても店のすべての人々に気を遣い、私にも優しかった。新参の若造は、「お上人」と呼ばれ、相対で酒杯を重ねながら、議事を進行していったのである。この間、私は、先代住職夫人が推薦してくださった方々の家を訪ね、寺の世話人になってくださるようにお願いして回った。
 寺に入って二週間が過ぎた七月三日、総代連名で、次なる世話人推薦状を発送した。
 「さて、新住職を迎え私共檀徒総代は、住職、前住職御令室をまじえ、露木泰隆上人の御遺志を呈し、数度にわたる会合の結果、寺門隆昌の為には世話人会の必要性を痛感いたし、世話人会発足を決議いたしました。つきましたは貴殿を法昌寺世話人に推薦いたしたく、左記会合を開催いたすことと相成りました」。
 七月九日、法昌寺には、推薦を受けた足利正隆、神尾輝義、黒田英夫、並木留五郎、斎藤光子氏ら九人が集まり、新たに「法昌寺世話人」に就任。総代三名をふくむ十二名で、「法昌寺世話人会」が発足した。中に、師父の小学校時代の学友「肉屋の幸ちやん」こと大塚幸太郎氏がいた。
 愛鷹山麓柳沢の妙連寺とは異なり、檀家の居住地は、台東、千代田、墨田、江東、荒川、足立、葛飾、世田谷の各区、千葉埼玉の近郊にちらばり、生まれ育った村内の気心知れた者同士が醸すあの、密な交流は不可能であろうと思われた。ところが、それは私の杞憂に過ぎなかった。やはり親やその親たち代々からの深い縁[えにし]があって檀家になられた人々であったのだ。初対面の人々は、酒が進むにつれて打ち解け、話の花を咲かせてゆくのであった。ところと境涯は異なれ、大正、昭和という激動の時代を生きた人々であったのだ。
 ことあるごとに私は、「生死一大事血脈抄」の一節を思い起こしていた。

 過去に法華経の結縁強盛[けちえんごうじょう]なる故に、現在に此の経を受持す。未来に仏果を成就せん事疑ひあるべからず。過去の生死[しょうじ]、現在の生死、未来の生死、三世の生死に法華経を離れざるを法華の血脈相承とは云ふ也。謗法不信の者は即断一切世間仏種とて、仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈無き也。総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思ひを成して、異体同心して南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふ也。

 文永九年二月十一日付け、佐渡流罪中の御書で、どのようなわけがあってか佐渡に流され日蓮に帰依した元天台宗の学僧最蓮坊日浄が、生死出離の一大事のその血脈相承[けちみゃくそうじょう]について日蓮に問うた、その応えである。
 我等過去において、法華経に強盛に血縁したるゆえに、今生に再びこの経に値[あ]うことができた。であるから、未来もまた仏果を成就することは疑いない。過去、現在、未来の三世の生死に、法華経と共にあることを法華経の血脈相承というのである。「一切世間の仏の種を断つ」と「譬喩品」にあるように、法華経を謗って信じない者には、生死一大事の血脈はないのである。総じて日蓮の弟子檀那等は、自分と他人、彼れと此れとの心の隔てなく、魚が水を恋うる想いをなして、異体同心して南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、「生死一大事の血脈」というのである。
 七月九日の夜、世話人の推薦を受けて法昌寺に集まった人々は、過去世にたしかに法華経を唱えた人々なのである。いま、そのような血脈を受けて、此の場所に集まって来られたのであろう。そうであるにちがいない。こころの昂りのただ中に私はいた。
 以後、「入山式」に向けて数度の会合がもたれた。

 世話人会が結成されると同時に、盂蘭盆の棚経が始まった。夕刻、棚経から帰った時である。「お上人、飲みに行こう」。黒田英夫氏とその息子さんである。開襟シャツに着替えお供した。浅草六区の行き付けの店に連れて行ってくださった。臍の店「荒井屋」である。
 黒田さんは、墨田区の太平町[たいへいちょう]で亜鉛業を営み、信心の人で、墓前でご近所一帯に聞こえるような大声で自我偈を唱えるのが常だ。生まれたのは関東大震災の前年。本所區(墨田区)は最も被害が大きく、父母がもし陸軍被服廠跡地に逃げ込んでいたら、助かることはなかった。この場所だけで、四万四千人を超える人々が焼死している。黒田さんの信仰の原点であったのかもしれない。
 棚経が終わると組寺の盂蘭盆施餓鬼法要が始まる。組内十ケ寺ほどの施餓鬼法要で式衆として出座するのである。十六日は、世田谷烏山の妙壽寺(震災前は深川猿江町)、十七日は日暮里の啓運寺、烏山の永隆寺(震災前は本所太平町)、十八日は真源寺(入谷鬼子母神)、十九日は師父の寺、感応寺。二十日は浅草長国寺、二十一日は谷中妙泉寺、二十二日が當山である。二十五日が山谷の本性寺、二十九日が南千住の立正教会と続いてゆく。
 そんなある日、ぶらりっと神尾輝義氏がみえられた。世田谷区上野毛の邸宅に住まう実業家で、足立区椿の出身。大正十五年六月の辰年。竹を割ったような気性の持ち主、風貌は勝新太郎を彷彿させる。「飲みに行こう」と一声、私を連れだした。
 「江戸っ子は皐月の空の吹き流し」
 鰻の白焼きを山葵醤油に浸しながら、満面の笑みを浮かべ神尾さんが言った一言が忘れられない。法律家志願から、実業に転じたという、無類の酒飲みである。
 こうして迎えた入山式であった。
 この日は、晴天。炎暑の中を大勢の檀徒の方々が入山式に参集してくださった。神尾さんが、大きな体を右往左往、下足番をかって出た。
 「せめてお寺に来た時ぐらいは」。神尾さんは一言そう言った。そうか、これが、使われる側ではなく、人を使う側に身を置いてきた半生の弁であるのだな。名聞利養がなんになろう。みんな死んでゆくのではないか。「持妙法華問答鈔」に説かれた、

生涯幾ばくならず。思へば一夜のかりの宿[やどり]を忘れて幾ばくの名利をか得ん。
又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽[たのし]み也。

 とは、このことであったのか。寺とは、裸の心が寄り合うそういう場であらねばならない。法昌寺の本堂に家族三人寝起きして一月余り、寺に集まる大正生まれの人々の場面場面の言動を通して、実にたくさんのことを学んでいた。
 施餓鬼法要に引き続き、私の入山式がおこなわれ、遷化された先代上人に代わり、師父日陽から磬桴[けいばい]と過去帳の継承を受け、法昌寺二十一世の法燈を相続したのであった。
 昭和四十八年秋、食道癌の手術を終えた師父は、手術を受けたその日を「蘇生記念日」と名付け、宗務院に復帰、「興隆学林校舎建築本願人」として尼崎に学舎再建を成就。昭和五十年大本山光長寺貫首に選任され、翌年四期十六年にわたる宗務総長の職を退任した。
 末期癌で、余命三ヶ月と診断され、東大放射線科の木暮先生から「患部が大動脈に癒着している状況であるから、手術は困難である」といわれていた師父であった。まさにそれは、奇跡の生還であった。以後、週に一度、虎ノ門病院での診断を受けるために自坊に帰山。それ以外は、「常住給仕」をモットーに本山での日々を過ごされていた。

 ほどなく、本山で私の継目法要がおこなわれた。法昌寺住職就任の報告認証式である。法要の後の宴席で日陽猊下から祝辞をいただき、本山役職諸上人に見送られ帰路についた。新幹線が熱海に着こうとした時である。法要に同道してくれた掘内さんと中山さんが、なにやら目配せをしている。なにかを察したのか、神尾さんが、「お上人、降りましょう」と言って立ち上がった。近くの座席にいた黒田さん、足利さんも立ち上がっている。(足利隆正氏は、浅草橋場で、婦人靴製造会社を経営。役員の中では最も若い昭和四年十一月生まれの巳歳。先祖は旗本で、過去帳には江戸中期からの記載がある)。
 三島から熱海までは、一駅。熱海が近くなるまでは、誰も熱海で下車するなどとは思っていなかったはずだ。第一、ほんの三ヶ月ほど前までは、顔を合わすことのなかった人々ではないか。その人々が、いま気という電波を発し合っている。これを阿吽の呼吸というのであろうか。私の入山報告をきっと喜んでくれているにちがいない。
 到着した先は寛一ホテルであった。中山総代の定宿であるらしい。女中さんが総出で迎えてくれる。二次会は、階下のホール。あの像のような巨体の掘内総代は、ダンスの名手であった。酒を一滴もやらない、中山さんが真面目な顔をしてダンスに興じている。神尾さんの高笑いが聞こえる。これが、下町育ちの、檀那衆の流儀であるのか。それから、一同揃って夜の町へ繰り出したのであった。
 部屋に戻り、うとうとっとした時であった。人の気配を感じて跳び起きた。芸者さんが、私の布団にしのびこんで来たのであった。とっさに私は、「仏門ですから」と大声を発し、暗闇の中で正座し合掌していた。襖の奥から笑い声が起きた。新任の坊さんは、試されていたのである。爾来、三十三年。思い起こして、実に爽やかである。
 秋になって、松井総代が理事をつとめる下谷観光連盟後援のもと下谷七福神会が発足し、その第一回の会合が、根岸の小料理屋「玉井」でおこなわれた。集まった人々は、真源寺(入谷鬼子母神)の蓮池上人、大黒天をお祀りするお隣の英信寺の加藤上人、樋口一葉記念館がある竜泉の「飛不動」正宝院の近藤上人など、みな法昌寺役員と同年齢の人たちである。女将の玉井愛子さんは、長野の山間の人だが、幼くして根岸に遣られ、芸者の修行をつんできた人。七福神の初詣が始まる来春に向けて、何度か準備のための会合がもたれた。
 この場所でも、私は戦前に青春時代を送った人々の、三味線に親しむ下町ッ子の「粋」を知らされることとなる。
 ところで法昌寺は、古色蒼然としていた。本堂は、移築以前の年月を閲[けみ]すれば、二百数十年。塀は、関東大震災直後の建築で傾きかかっている。新春参拝の人々をどのようにお迎えするかが急務となった。早速、塀に寺歴と毘沙門天の由来を書いた看板をとりつけた。

 當山は、慶安元年に、大本山23・25世を歴任された日韶上人が開かれた法華本門の道場です。本山は、日蓮聖人を開基と仰ぐ沼津岡宮の光長寺で、法華宗四大本山の一つです。法華宗という宗名は、大聖人が「法華宗沙門日蓮」と自ら名のられた正しい宗名による釈尊直伝の宗旨で、本尊は、大聖人御図顕による「久遠常住輪円具足の南無妙法 蓮華経」の大曼陀羅です。
 當山には、創建の時より、「伝教大師御作・日蓮大菩薩御開眼」の霊験あらたかな毘 沙門天像を奉安し、近在の信仰を集めてまいりました。

 暗い御宝前脇に寂しげに祀られている一尺三寸ほどの彩色がおちて真っ黒になったお姿が、再び世に現れるのである。
 十一月、新たに神尾輝義、足利正隆の両氏が、法昌寺総代に加わり、十二月には盛大な忘年会がおこなわれ、そして迎えた大晦日。除夜の鐘と同時に参拝客がやってくることだろう。役員の方々にお手伝いを願って、飾り付けを修了した。内陣と外陣との間に紅白の幕を張り、曼陀羅本尊の元に毘沙門天像を安置したのである。燈明の揺らめきに浮かび上がるお姿は威風堂々、威光を四洲に放つ迫力である。
 酒好きの私は、大枚をはたいて四斗樽を奉納。枡を百箇も積み重ね、参拝の人々を待った。だが、参拝の客は来ず、鏡割りの酒で新春を言祝ぎ、総代世話人は帰って行った。こうして迎えた法昌寺での最初の正月であった。三が日を過ぎても四斗樽の酒は一向に減らなかった。夕刻、香月秀夫なる青年があらわれ、酒の相手をして帰っていった。明大時代からの私の歌のファンであるという。

 昭和五十三年三月、法昌寺護持会(会長黒田英夫)が発足し、役員会は頻繁におこなわれた。そんなある日、吉原大門ちかく日本堤で豆腐屋を営む世話人の斎藤光子さんが、「お嬢ちゃん方が可哀想、風邪ひかしてしまう」とおっしゃったのだ。
 七福神詣での七日間を、吹き曝しの本堂で、頭を揃えて眠っている娘を見てのそれであった。長女陽子は四歳になり、次女朋子は三歳になっていた。紅一点の斎藤さんは、静かな口調で、毘沙門堂の寄進を申し出でくれたのである。中山さんの口利きで、小台の棟梁がことにあたった。日陽上人に「毘沙門天」の扁額の揮毫をお願いした。
 ほどなく、瓦葺き総檜造りの一間四面の毘沙門堂は完成し、私は、妙蓮寺本堂に次いで二度目の棟札を書かせていただいた。十月二十二日、當山御会式に引き続き、開堂供養がおこなわれ、第百三代法華宗管長に就任した日陽猊下から斎藤世話人に、曼陀羅本尊が授与された。
 斎藤さんは、明治四十四年五月生まれの亥歳。大塚に生まれ、日本堤の豆腐屋に嫁いで来る。早くに夫に死なれ、店を切り盛りする傍ら、地区の婦人部長をつとめ、衆参都区など選挙というと大わらわだった。男勝りで気風がよく、東京言葉が、実に心地よかった。和服を綺麗に着こなし、念珠を忘れたことのない信心家であった。
 昭和五十四年を迎え、本堂再建の気運漲り、役員会で検討、新築本堂の視察が始まった。
この間、この人たちと酌み交わした酒杯の数は計り知れない。役員会が終わると必ず、中山さんか神尾さんから電話があった。「お上人、根岸の寿司勢に居る、来るかい」。二階の一室に、背広を脱ぎくつろいだ総代さん方の姿は、一昔前の政治家の貫禄だった。勘定の払い方は見事だった。誰かが、「おい」と声をかけると、すでに誰かが支払っているのである。
 先回りして、見栄を張ってみせたことがあった。笑顔をたやしたことのない掘内さんが、真顔になった。この若造、分を知れ、ということであったのだろう。お前のような若造を大事にするのは、お前が、私たちに代わって父母の供養をしてくれているからなのである、と言いたかったのかもしれない。

 私には、いま一つ歌人福島泰樹の顔があった。短歌の世界を変えていかなければという想いはつよく、八〇年代に向け全国の若き短歌前衛を結集した短歌雑誌「律‘80」刊行を画策、全国に檄を飛ばした。沼津柳沢で私が企画し、編纂に加わった国文社の「現代歌人文庫」全三十巻の刊行も、多士済済の解説陣を集め、刊行が開始されていた。一九八七年(自身の文学を語る場合は、どうしても西暦でないと、実感が湧かない)六月、早稲田大学での講演で私は「七〇年代挽歌論以降」を語り、更なる作歌への決意を述べた。
 この年、「国文学」一月号に高橋和巳論「時はいま晩秋にして」三十枚を書き、「思想の科学」十月号に、柳沢での生活を主軸にした時代との総括「往く鳥は悲しかりけり」四十枚を書いた。番外歌集『退嬰的恋唄に寄せて』(沖積社)や定本『バリケード・一九六六年二月』(草風社)を刊行し、初の評論集『抒情の光芒』(国文社)を上梓したのも、この年だった。
 「早稲田文学」や「すばる」に、立て続けに立松和平論を書いた。この年の五月、立松は待望の処女小説集『途方にくれて』を集英社から刊行し、小説家への首途を標した。上京すると、決まって訪ねてきた。酒を交わしながら立松は、いつも書き始めた小説の構想を語った。新幹線のない時代だ、宇都宮はやはり遠かった。語り終えると、名残おしそうに上野から東北本線に乗って帰っていった。戦いはいまだ終わってはいなかった。めぐりの友や若者たちの死は、私には痛かった。一九七七年四月には、西洋哲学科のクラスメートで、私らがクラスからパージした革マル派の幹部藤原隆義が輸送車内で焼殺されている。

君に転位なく十年がありたると想いて寒き盃[さかずき]なるに
生きていれば蟹美酒[うまざけ]を頒ち合い秋の夜長の灯[ともしび]なるを
消炭色[チャコールグレー]のレインコートをその時も纏いて紅蓮の炎となりしか
心底に深く刺さらぬそのゆえに寂しきかなや酒飲んでいる
十二年の歳月ひたすら逃れ来て君に撲[う]たれし肩も快癒す
君の任務は革命ぼくの任務はただ存[なが]らいて露となるまで

 級友藤原に献じた「君は紅蓮の」は、東京に舞い戻った私が最初に書いた歌であった。シンガーソングライター龍と組んでの短歌朗読のコンサート活動を開始したのも、この頃であった。ペースはゆっくりしていたが、それでも目黒の「ちゃばん」や高円寺の「稲生座」、吉祥寺の「羅宇屋」などのライブハウスを駆け巡った。音楽と詩とのコラボレーションは、いち早く私が開拓したジャンルであった。
 一九七九年五月、七〇年代への総括としてこれまでの全歌集『遙かなる朋へ』(沖積社)を刊行した。三嶋典東の渾身の装幀が忘れられない。モダンにして哀しいのだ。伊藤一彦が栞で、「福島泰樹は、本気の人である。いつ、何に対しても、おそろしいまでに本気である」と、私の泥酔の末の「轢死」寸前の顛末を書いてくれている。

なにも莫[な]いなにも無ければ秋を売る男と成りて我は候

 終りに伊藤は、こう結んでいる。
 「最近の一首だ。切なく、悲しい。そして明るい。宣なるかな、春を売れない男は秋を売るしかあるまい。「秋を売る」とは何たる道化、そして結句に「候」という語を用い猶お道化ることによって福島泰樹は自分自身をからくも相対化し、読者に対しては自己の暗さを押しつけない。思いのたけを歌っているかに見える福島泰樹が誰に対してもただひとつ匿しているものがあるとすれば、それは鬱然たる暗さかも知れない」。
 東京に舞い戻った私を待ち受けていたのは、福富昭典、青木繁孝、松本正、菅波武らの幼馴染みであった。焼跡にバラックが建ち始めた時代に私らは、出会っているのだ。彼等との邂逅は、やがて下谷落語会「法昌寺寄席」となり、私に初の小説『上野坂下あさくさ草紙』(彌生書房)を書かせる契機となった。瓦礫の山の上に陽は燦々と降り注ぎ、衣食乏しい貧しい時代ではあったが、私たち子供は底抜けに明るかった。

 昭和五十五年六月十日、役員会満場一致で再建を決議。住職、総代、世話人により「法昌寺本堂・庫裏・客殿建築委員会」を結成。建築委員長は掘内一雄、副委員長に中山栄造、松井正治、神尾輝義、黒田英夫、斎藤光子の各氏。庶務は横浜井土ヶ谷で質店を経営する並木留五郎、会計は小田力男、大塚幸太郎の各氏。並木さんは、坂本電車通の元お菓子屋さん。小田さんは、北区神谷町で建具業を経営、消防団長をつめる愛郷の人。
 建築委員会は、中山総代が会長をつとめる中山建設(社長中山清)に図面、見積の依頼をして散会。法昌寺に入山してから、丸三年の歳月が経過、この春私は三十七歳になっていた。宗祖龍口法難会[え]にあたる九月十二日、何回目かの建築委員会がもたれた。この日、委員長は欠席。出席者は、中山、神尾、足利、斎藤の各氏と住職の五名でなぜか、集まりが悪かった。
 議題は、一、寄付納入方法について。二、着工日程について。
 一については、直接、現金にての支払いと月掛け二年間の、郵便局を通しての支払方法。但し、月掛け三年も可能。ところが、工事着工をめぐり意見が対立した。法昌寺世話人会は発足三年、和気藹々のうちに何十回となく会合を重ねてきたのであった。
 中山総代は、来年秋の宗祖七百遠忌に間に合わせるには、明日にでも区役所に対し、建築確認申請書を提出し、年内に本堂を取り壊し、基礎工事まで進展させなければ、時間的に間に合わない。工期は一年以上をみなければならないからだ。それに対して神尾総代は、着時日程は、住職が、全檀徒にお願いに回り、寄付金の総額を見極めた上で決定するのが、常識である、と主張した。
 それに対して、中山総代は、そんな時間的余裕はない。神尾総代は折れて、ならば、全檀信徒の半分ぐらいは回って、寄付金総額の予想額を想定した上で決定すべきであると応答。
 中山総代は譲らなかった。着工してから浄財勧募に努力すれば、檀家は、応分の協力はするものである。長い信仰生活の信条と施工者として(受けてやるという)自負がそう言わせたのであろう。斎藤総代も、中山さんに同意した。
 「現時点で着工するなら、利益を度外視してでも引き受けましょう。本日、着工日時が決定しないのであれば、私は総代を降り、退席させていただきます」と、中山総代は憤然として席を立ち上がった。
 その予算額は、二百有余軒の檀家が、最大限に協力してくれたならば、集まるであろうと私が割り出した金額である。私は、中山総代を制しながら、「それでは建てていただきましょう」と発言していたのである。
 神尾総代が、私を制した。「お上人は建てるというが、支払いができない場合は、苦しむのはお上人であり、中山建設に迷惑がかかるということになるが」。神尾総代に対し、私は意を固めて、こう応えていた。「不足した場合、私の責任において努力します」。
 私の言を、神尾総代がこう引き受けてくれた。
 「お上人の方(発注者)は、それでもよいが、中山建設(受注者)に迷惑が及んだ場合は……」。
 中山総代が受けて応えた。
 「困った事態が起きた時はなんでも相談にのってあげます」。
 神尾総代は、足利総代に語りかけるように、「話もここまでくれば何も申し上げることはなくなるわけですね」。
 いま私の前に、三十年前の議事録がある。白い襖に囲まれた本堂外陣の八畳間、激昂して襖に手をかけ立ち上がる中山さんが見える。一瞬の決断を迫られ、即答せざるをえなかった私の弱い心が見える。それを、見透かすように神尾さんは、こう結んでくれていたのであったのか。
 このような経緯を経て、「法昌寺本堂庫裡客殿再建趣意書」は、「昭和五十五年九月十二日」付けで、「法昌寺檀信徒各位」に発送された。
  「柱や天井にいたるまで染み込んだ歴代、檀信徒の方々の何千何万の御題目に想いを致すとき、御堂への愛惜の念に心を熱くするものがございます」。「しかしながら近年、堂宇の荒廃は著しく……」
 そうだ、本堂が庫裡と客間を兼ねているから、法事が重なった場合など、次の法事の方々をお待ちいただく場所がなく、雨天や炎天、寒風の折りなども、外[おもて]でお待ちいただくしか方法はなかったのである。

 さて、昭和五十六年十月十三日は、末法下種の大導師高祖日蓮大聖人の御入滅第七百遠御忌あたります。大聖人は貞応元年二月十六日、安房の小湊の貧しい漁村にお生まれ になり、弘安五年聖寿六十一歳、武蔵野国池上でおなくなりになられるまで、「悪世末法時」の私達衆生に正法法華経を弘めるために、不惜身命但惜[たんじゃく]無上道の 御生涯をお過ごしになられました。……當山におきましても、この千載一遇の御遠忌をお迎えするに当り、かねてより談合を重ねてまいりました。

 この日の翌日から、檀徒宅をお訪ねしての勧進が始まった。建築委員会を二分しての多難の出発であった。檀家の対応は、さまざまであった。まだ寺に入って日も浅いのに、ふざけるな、と追い返されることもあった。寺よりも手狭な住宅事情を抱えている人々が多かった。愛鷹山麓にゆったりと広がる田園、柳沢の住宅事情とは比すべくもなかった。
 寺には財産はなかった。また駐車場などの営利事業の一切をしてはいなかった。檀徒の寄付以外に再建の道は閉ざされている。建築を成就するためには趣旨を理解していただくしかないのだ。
 「本堂が移築建立されてから六十三年、この間住職は四代にわたって代替わりしてまいりました。しかし法昌寺は永々として檀信徒の皆様の菩提寺であることに変わりはありません」。そうだ、法昌寺を兼務していた私の祖父日等上人の推輓で、十八世並木日諦(恵信)上人が入寺したのは、明治四十年十一月。昭和六年五月に没し、嗣法恵悳師が跡を継いだ、しかし昭和十九年七月十八日で戦死、在任期間はわずか十三年。露木泰隆上人が入寺、昭和五十一年十二月に遷化、世壽七十四歳であった。しかし、嗣法輝雄師は早世、遺された三人の弟たちは、それぞれ一流企業に入社。寺を嗣ぐことはなかった。私が入寺することとなったのである。私にも二人の娘はいる。しかし、婿をもらって後を継がせるなどとは考えていない。
 浄財勧進、施工主設計士との打合せ等、慌ただしく時は過ぎていった。妻はこの間、よく寺を護った。墓参の檀徒一人一人に茶を出し、浄財勧募の受付をし、苦情を聞き、至心に頭を下げ続け、二人の幼子を養育した。
 十月三日、境内地測量。本日付けで、建築許可証提出。おもてに建築表示。十月二十二日、本堂での最後の御会式が奉修された。十月二十八日、本堂から三宝諸尊宗祖御木像、毘沙門天像、歴代位牌、檀信徒位牌等を境内に建てたプレハブにお遷[うつ]しする。プレハブの二階が仮本堂となり、一階が庫裡となったのである。十月三十一日、本堂解体法要。十一月五日、本堂解体始まる。十一月九日、本堂解体工事完了。この間、寺の什器、家財道具、書籍などを根岸に借りた一軒家に運んだ。
 十一月十日 ブルドーザーで境内整地。夕暮、焚火をする職方たち、広々とした境内に佇[た]ち、私はたまらなく寂しい想いに襲われていた。二百数十年の歴史の数々が、残骸となって燃やされてゆく。
 人は記憶の中に生きているのである。ならば、私は、人々の記憶の抹殺人ではないか。建物や什器の一つ一つには、人々の思いが沁みこんでいる。歴代の住職、檀徒の方々が、苦労に苦労を重ねて誂え、揃えてきた数々の寺の什器ではある。不要になったからといって、燃やしてしまってよいものであろうか。この八年の間に、私は、人々の報恩感謝の辛苦の汗の滲んだ本堂を二棟も解体し、数々のものを灰にしてしまったのである。これでよかったのであろうか。
 「生涯幾ばくならず。思へば一夜のかりの宿[やどり]を忘れて幾ばくの名利をか得ん。又得たりとも是夢の中の栄へ、珍しからぬ楽み也」。とりとめもなく、私は、「持妙法華問答鈔」の一節を思い起こしていた。一生を借金返済のために働こう、どんなことが起ころうと必ず成就してみせる。しかし、私は、たまらない無常観にさいなまれていたのであった。寺の成り行きを思い、世間を知らない住職を最も現実的なところから指導してくれる人の、意[こころ]に反してしまったのである。ことあるごとに心に浮かぶ御書であった。

 只先世の業因に任せて営むべし。世間の無常をさとらん事は、眼[まなこ]に遮り耳にみてり。雲とやなり、雨とやなりけん、昔の人は只名をのみをきく。露とや消え、煙とや登りけん、今の友も又見えず。我れいつまでか三笠の雲と思ふべき。春の花の風に随ひ、秋の紅葉の時雨に染むる。是れ皆ながらへぬ世の中のためしなれば、法華経には世皆不牢固水沫泡焔とすゝめたり。

 「世皆不牢固 如水沫泡焔(世は皆、牢固ならざること、水の沫[しぶき]・泡[あわ]・焔[かげろう」の如し)」は無常を譬えた、法華経「随喜功徳品」の一節であったな。朝のお勤の折、頁を改めて繰り返し拝読する『妙行日課』を通して暗記した言葉の数々が、諫めや慰み、励みとなって私を支えてくれていたのである。この間、義弟の柏酒義朗、松岡達宜、高岡治美、太田朝博、由美夫妻などの友人たちが、引っ越しなど諸般に渡って事を運んでくれた。
 十一月十五日、起工地鎮祭。浄財勧募のお願いは、いまだ半ばまでも達してはいない。「再建日誌」の文字は、慌ただしく過ぎてゆく日々をたどたどしく記録している。十一月二十四日、欅四本を伐採。中に幼い私が縛られた朽ちかけた大木がある。入谷田圃以前の、のどかな武蔵野の記憶が姿を消したのである。
 二十六日、基礎工事準備開始。十一月三十日。横浜緑区のお宅からの帰路、世田谷上野毛の神尾さん宅を訪ねる。「建築のプロセスを踏んでいないではないか」。見切り発車の責任を指摘される。
 十二月一日、杭打ち込み開始。十二月五日、杭打ち完了。十二月六日、中山建設社長中山清氏と面談。役員会での結論が、会長から社長にうまく伝わっていないことを知る。
 十二月八日、土工事。建築現場七十五坪を掘り起こし、四十数台のトラックに残土を搭載。十二月十八日、型枠工事に入る。
 こうして迎えた、昭和五十六年の新春であった。木の香が馥郁と漂う毘沙門堂脇には、昨年同様四斗樽を奉納、枡を山積みにして参拝の善男善女に振る舞った。小堂の脇には小さな札所を設けた。
 二月十四日、中山建設から「法昌寺新築工事御見積書」を受け取る。深川常盤町のお宅に掘内建築委員長を訪ね、次いで新橋の会社に神尾さんを訪ねた。早速に、建築委員会が開催されることとなった。二月十六日、宗祖御生誕の聖日である。朝方、神尾総代が封書をおいて帰って行った。見れば、封筒には、「御上人へ お手数乍ら委員会の席で代読して下さい」とある。
 寺を思う善意と善意のぶつかりあいであった。前後の見境もなく、突き進んでゆく私の性格は、中山さんに近かった。
 三項目からなる長文の所信の最後は、こう結ばれていた。
 「今後は法昌寺の一檀徒と致しましてお寺に対し私の希望等は御上人に進言させて頂きます。尚末筆ながら法昌寺の益々のご隆昌を念じると共に、役員様の今迄の御高配に対して感謝すると共に厚く御礼申し上げます。合掌」「右 神尾輝義捺印/法昌寺本堂庫裡客殿建築委員会殿」
  取り返しのつかないことを私はしてしまった。住職の代わりに責任をとり、辞めてゆかれたのである。翌日、寺に来られた神尾さんは、役員会で約束していた寄付金三百万円を、「お上人」と一言、ポンと置いてにこやかに帰ってゆかれた。

 この頃、立松は、郷里宇都宮にあって、市役所をやめ小説に専念していた。「閉じる家」「村雨」が芥川賞候補作となったが、二度とも受賞には至らなかった。法昌寺建築委員会が結成された頃、立松は、『遠雷』で、野間文芸新人賞を受賞している。作家で食えるようになっていたのだ。ホテルで缶詰にあい小説を書くことが多くなった。ホテルを抜け出してよく遊びに来た。

 法昌寺は都心にあるが、建物の老朽はひどかった。ここでもまた彼は宿命的に本堂を建設することになる。億を軽く越える資金が必要で、素手の彼は檀信徒の信望を集め、四年の歳月をかけ苦労しながらも結局実現してしまう。
 工事をしている間、私と彼はよく酔って深夜か明け方の建築現場に立った。月光に照らされた破風の曲線や、床材柱材の木っ端が散らばる本堂で、自動販売機で買ったカップ酒を飲んだ。そこで私は資金の困難のため建築半ばで中断されるかもしれないという話を聞き、酒を飲んでしまってたいして残っていないボケットを探り、寺に喜捨したりした。高橋三千綱もその場にいたことがあり、彼も酔った指でポケットを探った。

 立松は「歌人との調和」(「すばる」一九八四年四月)なる一文で、当時のことをこんなふうに書き記してくれている。「信望を集め」は、彼のサービスであろう。しかし、「苦労し」たことは事実であった。立松と高橋三千綱とは、共に「早稲田文学」の編集委員であったことから、よく酒席を共にした仲であった。立松はともかく、三千綱からも喜捨を受けていたのであったのか。
 月下、材木の上に腰をかけながら、私はそんな心情を吐露していたのであったのか。工事中の現場には、たえず人が出入りし、中山さんが、毎日のように工事の進行を見に来られる。時に、知人を連れてのこともあった。
 天気のばかによい日であった。五月頃であったろうか、師父日陽上人が、郵便局の帰りだといって立ち寄ってくれた。電車通りを渡ったところに郵便局はある。本山で無理をなさておられるのであろう、すっかり痩せ衰え、和服の肩が痛々しい。両手を杖に添え、嬉しそうに屋根を仰いでおられる。現場を案内した。本堂、客殿を案内し、二階を見てもらおうと思ったが、首を振られた。足に力がないのであろう。
 間に合って、よかった。この人に、見てもらいたかったのだ。
 二百有余軒の檀家の代表の責任を負って、神尾さんは総代の職を辞されていったが、私が工事を急いだ真意を見抜いておられたのだ。烈火のようなこの人が、反対したら、図面、見積書、仕様書が出るまで着工は絶対にありえなかったであろう。会議を欠席し続けることによって、暗に着工を許容してくれていたのであったのか。まずもって、信義を信条として生きる人であった。この毘沙門天のような無骨な男の、優しい心意気が痛かった。

 我身は天よりもふらず、地よりも出でず、父母の肉親を分[わけ]たる身也。我身を損ずるは父母の身を損ずる也。此道理を弁へて親の命[おほせ]に随ふを孝と云ふ。親の命に背くを不孝と申す也。
 

 私は、万感をこめて五月の光りの中を去ってゆく師父の後ろ姿を見送っていた。父母に背き、人を欺いてきた私ではあった。
 上棟式を終え、施餓鬼法要の案内かたがた、工事の進行状況を説明した。「お蔭をもちまして、五月十三日の上棟式も檀信徒多数の皆様の出席のもと盛大に挙行され、工事も順調に進行し、全体の七割までを完了いたしております。本堂は、古式にのっとった堅牢優美な総欅造りで、現在内陣には八本の丸柱が立ち」、「客殿は十畳が三間、八畳が二間で、廊下を併せ総檜造りの立派なもので、木工事は五割方進行いたしております」。「また銅板葺きによる屋根瓦工事も九割方完成いたし、初夏の空に燦然と輝いております。鬼瓦の棟上げも間近です」。
 師父日陽上人は、本山にあって七宗祖七百遠忌報恩記念事業の完遂に向けて余念なき日々を過ごされていた。また、法華宗布教雑誌「無上道」に、前年十月から小説「師厳道尊物語」を連載。毎月、二十枚ほどの文章を執筆していた。第一章を完了し、第二章「摩頂附属・帝都開教・大法奏上」の執筆にあたっていた。本山の法務の合間を縫っては、鎌倉や松戸など取材のための小旅行を楽しんでおられたようである。
 場面は、弘安五年十月、武蔵の国池上。

 六上足を定め、後事を委ね、御遺物分与を終えられた大聖人は、十一日になって経一麿を枕辺にお呼びになられた。大聖人は、経一麿の頭を三度撫ぜられると、
  「経一麿よ。私は、そなたに遺物[かたみ]を与えなかった。多分、そなたは、それを悲しんでおるのではあるまいか」
  と経一麿の胸中を見すかされたように、やさしく仰言られると、おごそかな言葉となって、
  「そなたが、身延の私の側に来たのは七歳の時であって、今日まで七ヶ年の間、よく私に仕え、行学二道を励んで来た。そなたが、身延に参じた時から、私は、そなたに嘱目していた。他日、私の願いを成就するであろうと、今、私は、そなたに私が長年の間、抱きつづけて来た遺物[かたみ]を与えようと思う」
  と言われ、一息つくと、
  「私は、鎌倉で幕府諫暁に終始したため、伊豆・佐渡へと両度の流罪となった。それで帝都開教、大法奏上が出来なかった。そなたは、更に行学二道を励み、都に上り、教化弘通に精進し、大法を奏上するように。これがそなたへ贈る私の遺物じゃ」
  と、おごそかに仰られ、又一息つかれた。
 

 入滅に臨んで帝都(京都)開経を委嘱された日像はやがて、その志を果たすべく極細字をもって「法華経」一部八巻二十八品六万九千三百八十四文字を、わずかに紙幅二寸(六センチ)の極小空間に、ゆるぎなく書き記していった。書写行を終え、夜になると、冬の寒風吹き荒ぶ由比ヶ浜に出かけ、沖に向かって「自我偈」百巻を読誦するという行を百日間にわたって続けた。
 この凄まじい心身の鍛練の後、祖師旧懐の地を巡った。身延では祖塔を拝し、佐渡へ向かった。そこまでを書き記した師父は、突如虎ノ門病院に入院することとなる。十月十二日、十三日の両日、大本山光長寺で奉修される宗祖七百遠忌まで二ヶ月に迫っている。新幹線の冷房が原因で風邪を引き、肺炎を患っていたのである。

 十月、法昌寺本堂庫裡客殿の工事をほぼ完了した。
 師父は、待ちに待った大本山での七百遠忌の大導師をつとめ、自坊へ帰山した。
 帰路、日像上人連載取材のため箱根芦ノ湖を巡っている。いまその時の写真が二葉、私の手許にある。師父の車を運転していた義弟福島典雄が、撮影したものであうろ。一葉は、羽織を纏った師父が、杖に両手をのせ実に満足そうな表情でレンズに視線をやっている。背景は、旧箱根道であろう。いま一葉は、芦ノ湖畔でメモを手にして湖面を見下ろす後姿である。
 ほどなく、師父は、虎ノ門病院に入院。
 落慶間近に迫った法昌寺にあって私は、工事の支払いや仏具荘厳等、慌しい日々を過ごしていた。未支払額は数千万円を数えていたが、とうに腹を据えていた。仏具荘厳は、掘内一雄、中山栄造、斎藤光子氏ら建築委員会の方々が率先して寄進を申し出てくれた。総額は一軒家がゆうに建つ金額である。
 篤志の方々の申し出もあまたあった。義父柏酒日洋上人もその一人だ。
 上人は、富士市中里本妙寺にあって、教員をしながら自坊を支えてきた。やがて橘幼稚園を設立、田舎の寂しい寺を復興。師父とは立正大学時代の同期。酒の好きな方で、「タイジュ君、 タイジュ君」と、義母きくゑ刀自共々私をかわいがってくださった。受けたご恩は計り知れない。前世からの、深い縁[えにし]を思わずにはいられない。

槇の木よわが名切なく呼ぶなかれこうこうとして月あかるきを

 秋になって、六番目の歌集『夕暮』(砂子屋書房)が刊行された。すでにして時代は、夕暮である。後は、夜を待つばかりである。そんな想いで刊行した一冊であった。八〇年代はすでにして、始まっていたのである。集中、柳沢での日々が繰り返し歌われている。
 そうだ、柳沢妙蓮寺本堂前の川岸には、大きな槇の木があった。朝に夕に見上げて過ごした。月光の中、凛と立つ姿は美しかった。祐男さん、秋雄さん、千秋さん、秀夫さん、定雄さん、吾作さん、弥一さん、光雄さん、皆元気でおられることであろう。柳沢を去って、四回目の秋を迎えていた。
 本堂、庫裡、客殿(総坪数百二十坪)が完成し、プレハブ二階の仮本堂から、新本堂へ、三宝諸尊、日蓮大聖人、歴代、草創以来檀信徒中の位牌を晴れてお遷し、十月二十二日、新本堂で御会式法要が奉修された。朝から降っていた雨は、夕刻篠突く雨となった。
 ほどなく、新客殿に中山建設社長中山清、佐野設計事務所佐野光夫、監督日下治孝、工事に関わった棟梁、職方、関係諸氏をお招きし、盛大な落成の宴がとりおこなわれた。
 中山栄造総代は、よほど嬉しかったのか、七百遠忌を記念して、境内に宗祖銅像寄進を申し出てくれたのだ。幸い、京都の大本山本能寺が、宗祖生誕七百五十年を慶讃して建立した、芸術院会員松田尚之先生作日蓮像の分身をお願いすることができた。若き日蓮が、辻説法をする凛々しいお姿である。
 幸い、師父上人から台座に嵌め込む「立正安国」の揮毫を頂くことができた。絶筆となられた。

 十二月一日、雲一つない快晴であった。納棺の正午が間近になったとき。私はなぜか、法昌寺の玄関先に立ち郵便受を覗いていたのだ。私は胸の動悸を抑えながら封を切っていた。法華宗布教機関誌「無上道」十二月号の頁をめくりながら、知らぬうちに法昌寺へ来たことの意味を了解していた。
 「巻頭法話」と共に「師厳道尊物語」第十四回、「摩頂付嘱・帝都開教・大法奏上(十一)」が掲載されているではないか。病室のベッドに正座し、本稿を書き綴っている師父の姿が、脳裡を過ぎった。病苦と闘いながら、師父は心血を注ぐように師厳道尊の物語を綴ってこられたのだ。さらに十二月号は、「大本山光長寺宗祖第七百遠忌大法要」を特集しているではないか。
 「無上道」を持って私は走った。師父の総長時代を、宗務院にあって長期にわたり主事として師父を支えた徳永永存上人の導師で納棺のお経が始まろうとしていた。組寺の滝口義康上人、久野泰瑞上人、宗務書記の宮村秀徹上人がお手伝いをしてくださっている。
 「師厳道尊物語」の最終号となってしまった「無上道」を枕辺に置き、私は師父の手を握り、顔を撫ぜた。白くて長い眉毛を何度も撫ぜた。そして、霊山浄土へ歩まれてゆく師父のふくら脛をお揉みした。顔も手も足も驚くほど柔らかく、皮膚はつややかであった。正法受持信行の大利生であろう。
 夕刻より、続々とお上人方が集まって来られた。遠路、大本山本能寺から赤田泰圓、近藤文政両上人、尼崎の大本山本興寺からは木村日応上人、学監松井孝順先生。先生は、この日京都で開催された松井日宏猊下の米寿を祝う会の記念品を預かって来られた。青銅の文鎮には、「師厳道尊」と刻まれているではないか。師は厳かにして道は尊し。
 十二月二日午後四時、竃の扉の大理石に、日輪が映っている。いままさに夕陽が、師父のこうべをあかあかと照らしている。

なすべきを成し終へて君は逝きましぬ
海に太陽のかくれるがごとく

 四国丸亀の松本日宗上人がお送りくだされた弔電である。上人は、若き日を盛岡材木町本正寺で過ごされた縁で、臨終を迎えた宮沢賢治が慈父政次郎に遺言した『国訳妙法蓮華経』出版に際し、校正を依頼された。大学者であるのに学者ぶらず、市井にあって「法華坊主」を生きられた。本照寺という立派な寺の住職でありながら、外出する時はつねに団扇太鼓をもち、唱題して歩く「聞法下種」を怠らない人であった。痩身、ぎょろりとした無邪気な眼差は、どこか磊落で、ひょうひょうとした一匹狼の雰囲気を漂わせておられた。学林時代、上人が庭の銀杏の古木から造られ、学生に配ってくださった拍子木を回向供養や寒行、祈祷の場で私は何万回と敲き続けてきた。
 法華宗は、千人ほどの僧侶が集う小宗門であるが、中にこのような方がおられることが、私の誇りでもあった。宮沢賢治が昭和八年、三十七歳で没した時、二十七歳。上人は宮沢政次郎居士と、こんなやりのとりをなさっておられる。
 「妙法蓮華経を一一文字とにらみ合って訓読させて頂きました。あまりにも常識ばなれのした記述や、それに出てくる生物たちの名や行動など」「不可解なことばかりで」「法華経の難解さを訴えますと、居士は笑いながら、あなたは根本的にまちがっている、法華経はわかるお経でなくして信じるお経です、その上に立っているお宗旨ではないのですかと注意を受け、大鉄槌で打たれました」。
 上人は居士から頂戴した賢治詩集『春と修羅』や童話集を貪り読み、「賢治の第四次元の芸術とは法華経の中にある世界を、法華経に示された感受性で表現すること」にあったことを知り、法華経や宗祖遺文を読み返すと、「生き生きとした心が」湧き上がるのを感じられたのである。特に童話「光りの素足」から深い感銘を受けられたとのことだ。

 今まで六、七百年ものながい間、私たち宗門の師父が行ってこられた、社会からカビクサく思われて来た読経唱題の死者への回向が、こんな尊い意義をもつものであれば、貧しくとも世にみとめられなくともよい、回向坊主でありたいと思いました。

             (『法華信仰随想』東方出版)

 生者ばかりの側から、命を解釈してはならない、という上人がくださった私への訓戒でもある。上人は、師父への弔電を、感応寺にではなく、法昌寺にお送りくださった。
 「なすべきを成し終へて君は逝きましぬ/海に太陽のかくれるごとく」。
 師父日陽の遺骸は美しいものであった。頭蓋骨も損なわれることなく、師父の頭[こうべ]の輪郭をなしていた。清純にして、無雑。臨終正念、常住給仕、正法信行の大利生が、現証となってあらわれたのである。

杖突きて立つ痩身の父上に風は吹くかな蕭条の風
落陽はかなしかりけりいま老いて去りゆく人の白き頭[こうべ]に
歳晩はうつ伏せておるガンバレと励まし呉れし人はなきゆえ
銀座浅草トンカツゲルベゾルテさえ父を偲ばや痛しこの胸
父よ、父よ凍てしみ空に汝[な]が撞[う]ちし百と八つの音が流れゆく

  「合掌 宗祖日蓮大聖人七百遠忌の聖年も暮れようとしています。昨年十一月吉祥起工いたしました本堂も十二月十二日をもって一応の工程を完了いたしました。當山草創以来三百三十三年、檀信徒各位の熱烈なる御協護を得、ここに寺観一新することが出来ました」。
 日蓮大聖人銅像開眼の十二月十三日、建築委員長との連名で、手紙を発送した。

 立松和平が、「歌人との調和」で、落慶法要の様子を伝えてくれている。
 「法昌寺の本堂庫裡客殿は一九八〇年に着工し、翌八一年に完成した。支払いが残っていたため、落慶法要はその翌々年八三年末におこなわれた」。「きらびやかな袈裟に身を包んだお上人方の中で、福島上人は普段私などと無頼の巷を徘徊する姿からは想像もつかないほど毅然とし」、「難しい儀式をひとつひとつこなしていった。全部で二時間かかり、その間、私は本堂を埋めた檀信徒の間で窮屈に端座していたのだ。柳沢から来た人たちが目についた」。
 昭和五十八年十二月四日、落慶なった本堂御宝前に立ち、万感の想いをこめて「報告文」を読み上げたのであった。

 近くの料理屋で祝宴を張り、また寺に戻ってしたたかに飲んだ。袈裟を脱いだ福島の顔こそ、私には親しいのである。午後一時にはじまった法要が、深夜になっていた。乱れかかった酒宴には、僧侶としの顔と、文学者としての顔と、二つの福島がいた。福島の内部ではその二つは調和しているのだろうが、酒の席では二つのグループがはっきり異物として並んでいた。薦被りの四斗の酒樽がかなり減った頃、僧侶側と文学者側とどちらともなく立ち上がり、向きあって肩を組み歌いだした。
 「勝って嬉しい花いちもんめ。敗けてくやしや花いちもんめ。あの子が欲しい。この子じゃいらない。じゃんけんぽん」
 子供のように大声で歌い、座にまじっている女性を取りあった。大の男たちが二十人ほどもそうやって一時間も遊んだのだ。

 祝辞や、感謝状授与、謝辞、記念撮影など、宗祖七百遠忌報恩落慶法要は二時間を要したのであった。法要後、本堂前で掘内委員長、中山社長による鏡割りがおこなわれ、僧侶、檀信徒、知友、親族など、落慶の盛儀に駆け付けてくれた人々が、高らかに枡酒をかかげ乾杯の音頭に和した。中に、柳沢から見えられた祐男さん、秋雄さん、秀夫さん、利夫さんがいた。師父の弟妹、英夫、忠義叔父、鶴子叔母がいた。竹馬の友の松本正、福富昭典、青木繁孝。私にたくさんの歌を書く機会を与えてくれた編集者冨士田元彦、心の酒友普樹隆彦。早稲田短歌会の先輩持田鋼一郎、後輩三枝昂之。歌友小中英之、中川昭。学友桶本欣吾。何冊もの歌集を装幀してくれた三嶋典東。短歌朗読のプロデューサー長谷川裕一。そして柳瀬光江さん、石井ふくさん、松本たかさん、中山妙子さん、百瀬ひゑ子さん、乃ぶさん等檀家の方々。忘れられない人々だ。
 それから根岸の鶯泉楼での祝宴の席に、百人ほどの方々が出席してくださった。
 そうだ、祝宴がはねて二十人ほどが寺に戻り大騒ぎをしたのであった。
「僧侶側」からは宗務院重鎮川口善教部長、学林時代を共にした大平宏龍、松本義仙、清水湧光の各師。「文学者側」からは、私に「中也断唱」三百首を書かせた「すばる」編集長水城顕、装幀家荒川仁平、写真家宮内勝、歌人持田鋼一郎、久光則子、高岡治美、作家立松和平の各氏等。無類の宴会師松本義仙の一人舞台だ。水城顕の高笑いが聞こえる。
 「敗けてくやしや花いちもんめ」の夕べは弥増[いやまし]に更けてゆくのであった。
 再び、中原中也「サーカス」を引こう。

幾時代かがありまして
   茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
   冬は疾風吹きました

 幾時代かがありまして
   今夜此処での一[ひ]と殷盛[さか]り
      今夜此処での一[ひ]と殷盛[さか]り

 あれから二十七年もの年と月、日と時、夜と昼とが流れていった。
 歳月はまことに残酷である。本堂再建を推進してくださった掘内一雄、中山栄造、松井正治、斎藤光子、黒田英夫、小田力男の各氏は、すでに幽明界を異にされて久しい。
 あれは雪のちらつく夕暮だった。松井さんが入院する千石の病院に訪ねていった。大塚で下車、瞬時こころが花やぎ、感傷が滲む。
 「万世橋より眺望すれば春日町千石あたりの空に雪ふる」
 若き日、そのように詠じたことのある思い出の道である。
 脳血栓で松井さんは、言葉を喪っていた。柔道と軍隊教練で鍛えた厳つい体も、ほっそりと痩せ衰え、ほどなく死を迎えられるのだ。
 私の来訪を知って、松井さんは、懸命に喜びを表情にあらわそうとして、目をしばたたかせている。私は手を握った。松井さんは、強い力で握り返してこられる。私は、静かに語りかけていた。
 松井さん、本当に有難うございました。ご盡力のお蔭で、お寺もずいぶんと立派になりました。山門も立派に建ちました。今年平成十三年は、日蓮大聖人開宗七百五十年と法昌寺開山三百五十年を迎えます。毘沙門講の講元を斎藤光子さんから引き継いだ総代の松岡幹夫さんを中心に、「宗祖開宗七五〇年當山開山三五〇年」報恩委員会も結成され、観音堂建立の準備も着々と進んでおります。北千住の坂本石材(坂本俊明氏)に工事を委嘱、神尾武文(英国王立建築家協会会員)氏に設計を依頼しました。
 彫刻家酒本雅行さんに観世音菩薩像の造立を委嘱。画家佐中由紀枝さんの制作協力を得て、木材選定から着手し、御分身造立にふさわしい原木をさがすために、遠く法昌寺毘沙門天の御分身を奉安する知床毘沙門堂(代表佐野博氏)の地まで足をのばしました。九月には、目を瞠るような原石による観音堂が落慶します。
 それから、ご安心ください。総代が、こころを砕いてお護りしてきた「南海派遣第四十一飛行場大隊第二整備中隊戦死者之英霊」の百三体の御位牌は、法昌寺で末永くお護りしてまいります。頷きながら、私の報告の一々を、頷きながら聞いていた松井さんは、第四十一飛行場大隊と聞いた途端、「あおー、うおー」と声を発し、目には涙を溜めておられる。
 そうだ、この人の死と同時に、この人の記憶の中で今日も敬礼し手を振り続ける若き兵士たちは、この地上から永遠に姿を消してしまうのである。
 松井さんの家には大きな作り付けの仏壇がある。父母の位牌の真上には、大きな額がとりつけてあり、百三体の木札が嵌め込んである。「第二整備中隊戦死者之英霊」である。
 掘内さんも、中山さんも、黒田さんもそうだった。この時代の人は、戦争体験を話したがらない。だから、私も職業軍人であった松井さんの位階もなにも知らずにきた。ただ、書架にニューギニア戦線の本が多数あったことから、ニューギニアにあって中隊長の任にあったのかと解釈していた。そして、生き残った自分は、故国に帰ることのなかった部下の御霊を供養し続けてきたのであったのか。
 名札の一つ一つには、細かい記述がある。たとえば「現、兵 森田尉宏之霊」の右脇には、「昭二〇、五、一九 一一、〇〇」とあり、右脇には「・7 アリトア」とある。戦没年月日の下の「一一、〇〇」は何なのであろうか、「アリトア」は絶命した場所であろうか。「・7」は何か。そんなことも聞かずにきてしまった。
 終戦後に戦死した人々もある。「現、准 堺三郎之霊」は、「昭二〇、九、二九 〇五〇〇」「ワンジョワ山中」とある。森深之霊は、昭和二十年十二月九日、「ムッシュ島軍病院」とある。百三体のすべてに丁寧な細字体で戦没の場所と年月日が墨書されている。
 名札には他に、「パプア原住民之霊」「ニューギニア諸島之霊」「インド・ネパール兵之霊」「米・豪戦没兵之霊」の四体があった。
 松井さん、日蓮聖人が悪世末法のわれわれ凡僧にくださった「四恩鈔」の言葉を、せめてもの自身の拠[よりどころ]として、端[はしくれ]坊主の余生を生きてゆこうと思っています。

 譬[たとえ]ば薪なければ火無く、大地無れば草木生ずべからず。仏法有りといへども、僧有りて習ひ伝えずんば、正法像法二千年過[すぎ]て末法へも伝わるべからず。

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福島 泰樹(ふくしま・やすき)

1943年東京下谷に生まれる。早稲田大学文学部卒。歌人、評論家。歌謡の復権、肉声の回復を求めて「短歌絶叫コンサート」を創出、海外をふくむ1200ステージをこなす。第25歌集『無聊庵日誌』(角川書店)、『福島泰樹全歌集』(河出書房)の他、評論集に『祖国よ!特攻に散った穴沢少尉の恋』(幻戯書房)、『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書)、絶叫版CD『福島泰樹短歌絶叫/中原中也』(東芝EMI)、DVD『絶叫總集編/遙かなる友へ』(QUEST)など、著作多数。毎月10日、東京吉祥寺曼荼羅(TEL 0422-47-6782)で、月例「短歌絶叫コンサート」を開催中! 法昌寺住職。

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