第七回


「無数の独我論世界」と累進構造


 今回もまた、まずは前回への補足的説明から始めて、今回はとくに、独在性が中心性と現実性という二要素から成るという問題を論じ、そこから累進構造の本質の問題にいたりたい。
 前回の最後のほう(自然主義の話になる直前)で、「さらに以下のように思考を進める可能性もあるだろう」と言って、神が無数の独我論世界を創造した場合を考えた。誤解の余地はないと思うが、この「無数の独我論世界」はすべてわれわれのこの現実世界とまったく同じ世界である。ただ、だれが〈私〉であるか、という点だけが異なる「諸世界」である。だから当然、それらすべてが合体した世界も想定でき、それはわれわれがふつうに「この世界」と呼んでいるものである。そういう一個の合体世界も想定できるとはいえ、実際にはしかし、なぜか知らないが、それら諸世界のうちの一つ(だけ)が与えられている、というわけである。この捉え方のほうが実情に即している、と思う人もいるにちがいない。
 さて、この場合、与えられた世界がなぜか独我論的なあり方をしていること自体は、どれが与えられても必ずそうなのだから、とくに問題にはならない。問題は、「なぜ現実にはこの独我論世界(だけ)が与えられているのか」であることになる。このような捉え方によって、中心性の問題(ここでは独我論という形を取っている)を外して現実性の問題(だけ)に焦点を当てることができるわけである。

*これらの世界において、〈私〉以外の人々(意識的存在者)は意識のないゾンビのような在り方をしているのか、と思う人がいるかもしれない。そんなことはない(そうであってもかまわないが)。たんにふつうに他人であるにすぎない。(とはいっても、その他人たち自身にとってはどうなのか、とさらに問われるならば、彼らがそれぞれ〈私〉である独我論世界もまた別に存在するのだ、とここでは答えることになるだろう。)

 するとここでも、可能世界をめぐる通常の議論の場合と同じ問題が生じるだろう。すなわち、諸独我論世界が対等に実在すると考える可能主義的な立場と、現実に与えられたこの独我論世界だけが実在すると考える現実主義的な立場との対立である。この展開は通常の可能世界の場合以上に必然的である。なぜなら、第一にまず、複数の独我論世界が対等に存在するという捉え方では最初の問題状況の解決にはならず、その解決のためには、それら諸世界のうちなぜこの独我論世界が現実世界なのか、という問題が生じざるをえないから(すなわち現実性の再度の突出)であり、第二にそれにもかかわらず、すべての独我論世界の独我論主体が言葉の上では対等にまったく同じことを言うはずだから(突出の平準化)である。このような展開の必然性のうちに、中心性と現実性がじつは別の問題であること示されている。
 この展開は、通常のこの世界(合体世界)に最初から存在していた問題を(人間から世界に広げて)反復しているにすぎない。最初から存在していた問題とは、〈私〉を識別するための基準として第一基準を発見したにもかかわらず、すべての人がそれを使って自己を識別するほかはないのだとすれば、そのように自己を識別しているすべての人のうちから私は私をどのようにして識別したらよいのか、というさらなる問題が生じるという問題であった。
 どちらの場合も、複数の同型のものが並存する相対主義的段階(すなわち現実性ぬきの並列的中心性の段階)で、この展開を止めて眺めることはつねに可能なのではあるが、ひとたび始まったこの対立はどの段階にも必然的に潜在しており、その反復生起を止めることはできないのである。
 累進的反復が避けられない根拠は、前々段落で指摘した現実性の突出とその突出の平準化にある。突出の平準化とは実存の本質化であり、それに基づく現実性の一般化である。フィヒテの用語でいえば、それは直観の概念化だが、すでに述べたように、直観という語を使ったこの言い方ではここで問題にしていることは表現できない。一方向性は端的な現実性においてだけ存在しているのだが、そのこと自体が端的ならざる現実性に対しても「それにとっての端的な現実性」として概念化され、一般化されることが問題なのである。現存するすべての「ものの見方」は、この過程が終わって相対主義化が完成したところから出発しており、この意味での現実性の水準は、たとえば「その実際の使用」などといった形に矮小化されている。
 そのようなプロセスが避けられない理由は、現実性の突出という事態が「そもそも実在しない」ともいえることに、すなわち一方向的なあり方をしていることに、ある。複数の同型のものがただ並存するのではなく、これだけが他とまったく違ったあり方で存在している、という事実はたしかにある。違ったあり方で存在するどころか、そもそもそれだけしか存在していない(他は存在していない)とさえいえるほどの違い方で、それは存在している。その差異がなければ、私も今も存在しなくなってしまう。そのアクチュアリティを抹消することはできない。にもかかわらず、それは一方向的存在でしかないので、客観的な視点から、すなわち並列的(相対主義的)な視点から見れば、そもそも実在しないのだ。このように見れば、存在のこの二重性格こそが累進構造を生み出す原動力であることになる。
 この問題――世界の独在論的存在構造――が理解しがたい印象を与えるのは、それがものごとの理解の基本形式を破っているからである。ものごとの理解は基本的に、普遍vs.特殊、一般性vs.個別性、イデアvs.個物、という型に依拠してなされる。個別の出来事がなんらかの一般法則に包摂されたときにそれは理解される、というように。社会が先か個人が先かといった対立に典型的に見られるように、ここでは全体論と原子論の対立が本質的な対立図式を形づくっている。しかし、この世界にはこの型に収まらない事象連関が存在している。その代表が〈私〉と〈今〉の存在である。

*逆にいえば、ものごとの理解の基本形式は捏造物で、われわれに世界の見方を押しつけている、ともいえる。しかし、われわれはみな――われわれとしては――その捏造された世界に住んでいるので、その形式を前提としてやっていかざるをえない。

 〈私〉は、まずそのイデア(あるいは一般概念)があって、次にその個別事例がある、という仕方では捉えられない。また逆に、諸事例の側から出発してそこから一般概念を抽出する、というわけにもいかない。本当の事例は一つしか存在しないからだ。そこから出発せざるをえない、、、、、、のだ。これが私の解釈する意味でのフィヒテの根源的洞察である。カントもウィトゲンシュタインも、おそらくはこの問題性をよく理解していたが、それを物事の理解の基本形式のうちに収めようとした。この方向の努力はその後の哲学の流行=伝統となった。それはもちろん不可能なことではない。もとより私は「私」の一例でもあるからだ。この世界という統合は、ものごとをそのような捉え方で統一的に理解することによって成り立っているのだから、それは当然のことでもある。しかし、問われるべき真の謎は、なぜそうではない捉え方も可能で、また不可欠でもあるのか、のほうにある。どういうわけか哲学史上、そちらの方向への探究がほぼまったくなされていない。哲学がそちらの側を(も)深く掘り下げようとしなければ、哲学もまたこの世界を成り立たせている諸々のイデオロギーの一味に成り果てることだろう(残念ながら今はそうなっている)。
 この場面で言われるべきであったことは、「実存は本質に先立つ」というサルトルのテーゼである。ただしもちろん、サルトルのように人間のあり方を述べたものとしてではなく、〈私〉や〈今〉のあり方を述べたものとしてだ。つまり、サルトルのこのテーゼはフィヒテの根源的洞察と結びつけられるべきだったのであり、逆にいえば、フィヒテの根源的洞察はサルトルのこのテーゼと結びつけられるべきだったのである。
 ここで、同時に二つのことに(ある意味ではまったく同じ一つのことだが別の意味では最も根源的に矛盾対立する二つのことに)驚いてもらわなければならない。一つは、世界はじつはこの転倒事例の側から始まっている、ということである。これはまったく驚くべきことである。この根源的な事実が、物事の理解の基本形式を形づくる〈神学的=科学的〉な世界把握に異議を唱えている。このことから目を背けるべきではない。もう一つは、なぜかその唯一の事例が現実に与えられてしまっているということによってしか(すなわちこの無内包的にしか)捉えられないということこそが〈私〉の概念的本質、、、、、でもある、ということである。これもまた別の意味できわめて驚くべき事実である。そして、この二つの驚くべきことのあいだに隠された矛盾がある(それゆえたとえば、すでに触れたように、第一基準が異なる二様の仕方で理解されることになる)ということが、私の哲学的主張である

*こう書いてみると、私の哲学的主張が理解されにくいのもやむをえない、と思えてくる。そもそも矛盾があると主張している二つの事実そのものが、一般にはほとんど認められていない、私自身(だけ)がそうなっていると主張していることにすぎないうえに、その二つは、多くの人にとって、少なくとも初めて提示されたときには、区別がつかないほど似て見える(同じことを言っているように思える)はずだからである。

独在性――中心性と現実性

 ものごとの理解の基本形式と対立する、世界の独在論的なあり方の基本形式を、ここで簡潔におさえておきたい。「世界は〈端的=現実には〉この、、唯一の事例から〈開けて=始まって〉いる。」これが独在的世界理解の基本形式である。すぐにわかるように、これは中心性と現実性という二つの要素から成り立っている。〈開けて=始まって〉が中心性を表現しており、〈端的に=現実には〉が現実性を表現している。
 ここで私は、とりあえず三つのことを主張したい。第一に、この二つはこれまでずっと混同されてきたが、概念的にはっきり区別することがきわめて重要である、ということ。第二に、そのうえで、これまでずっと中心性の内に埋没して精確な把握がなされてこなかった現実性こそがむしろ問題の本質なのだ、という点も強く主張したい。しかし第三に、さらにそのうえで、概念的に明確に区別されるべきこの二つが、実際の適用においては、相互浸透的な形であらわれざるをえない、という事実もまた忘れてはならない。
 これからまずは中心性の意味を解明するが、そういう事情のゆえに、これから語られることは一見わかりやすい単純なことのように見えるが、じつのところはどの段階でも単層的には理解できないという問題が孕まれている。
 中心性とは、すべてが結局はそこに収まってしまうことを意味している。たとえば、過去は《今》における記憶や記録から成り、未来は《今》における予期や予測から成る。ということは、すべてはじつは《今》にあるということであり、とすれば、結局のところは《今》だけあればすべては揃ってしまう、ということになる。(ここから、だから過去や未来は本当は存在しないのではないか、と疑う必要はない。そういう疑いが可能であるような仕方ですべては存在しており、そういう仕方でしか存在しえない、、、、、、、、、、ということだけが重要である。)
 《私》についてもまったく同じことがいえる。外界や他者は《私》における知覚や思考や想像などから成り立っている。ということは、すべてはじつは《私》にあるということであり、とすれば、結局のところは《私》だけあればすべては揃ってしまう、ということになる。(ここでもやはり、だから外界や他者はじつは存在しないのではないか、などと疑う必要はない。すべてはそういう疑いが可能であるようなありかたであり、そういうふうにしかありえない、、、、、、、、ということこそが問題なのである。)
 「中心」という捉え方は知覚のあり方に由来する比喩であろう。「世界の開けの原点」などと言われる場合の「原点」も同じだ。この比喩を文字どおりにとって、知覚モデルで考えると、すべて、、、は《私》を中心に配置されており、《私》に知覚されない(見えない、聞こえない、……)ものは存在もしないかのような、ある種のバークリー的含意をもってしまうことにもなるが、そのように考える必要はない。自分に知覚されない(また思考も想像も記憶も予期もされない)ものごとが存在することに何の問題もない(そのように《私》が理解すればよいだけである)。
 では、現実性とは何か。すべてはじつは《今》にある、とか、すべてはじつは《私》にある、といった中心性は、《今》や《私》のもつ本質構造であり、どの《今》、どの《私》をとっても成り立つことである。しかし、現実に成立している《今》(すなわち〈今〉)、現実に存在している《私》(すなわち〈私〉)は、そのうち一つだけである(この捉え方にはすでに一方向性がはたらいていることを忘れるべきではないが)。
 このことを、諸中心性のなかのさらなる中心性だと捉えることもできる。その場合の中心とは、非現実性(多くの《私》たち)と対比された現実性(唯一の〈私〉)を意味することになる。しかし、現実性の問題は、精確にそれだけ取り出せば、事象内容的に同型なもののあいだにのみ(たとえば諸々の《私》たちのなかの唯一の〈私〉のように)成り立つ様相的な関係なので、異質のもののあいだに成り立つ知覚のあり方から得られた「中心」という捉え方は文字どおりには妥当しない。諸々の《私》たちは、それぞれが中心であり、世界がそこから開ける原点であって、しかもそれぞれにとっては唯一の原点である(「とって」が付くことによって一方向性は消える)。
 精確にそれだけ取り出せばと言ったが、ここにはしかし精確にそれだけを取り出しがたい事情もある。この意味において現実的でないとされる諸々の「私」たちはまた、唯一現実的な〈私〉の志向的意識の対象でもあるからだ。すなわち、見られたり、考えられたり、思い出されたりもする。それは、中心性のない(すなわち同型でない)普通の物(ペンや家や川や星や……)がそうであるのと同じことである。だから〈私〉は、この意味での中心性もまたもつことになる。
 〈今〉の場合も同様である。諸々の(非現実的な、すなわちそれぞれの時点における)「今」たちとは別に、ただ一つだけ現実の〈今〉というものが存在している。これは(一方向性の問題があるとはいえ)疑う余地がない。ところが、このような様相的な対比とは別に、それらの諸々の「今」たちはみな過去や未来(におけるそれぞれの「今」)なのだから、当然のことながら、現実の〈今〉における志向的対象でもある。すなわち、思い出されたり予想されたりする、という仕方で存在してもいる。だから、現実の〈今〉に志向的に内在していると見なすこともできる(そのように見なすこともできるようなあり方で存在している)わけだ。
 おそらくはこの二重性格のゆえに、この問題の問題性は見誤られてきた。しかし、現実性の問題は中心性の問題とははっきりと別の問題である。たとえば、《私》の成立の第一基準を思い出していただきたい。それは(この論脈にあわせて言い換えるなら)「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、現実に思い出したり予期したりする人」といったものであった。ここでは、これらの志向作用の対象(見えているものや、考えられているものや、思い出されているものなど)がその志向的意識(見たり、考えたり、思い出したりすること)に内在しているかどうか(とかその種の問題)は問題にされていない。そういう志向的意識を持つとされる多くの者たちのうち、現実にそれを持つ者(とそうでない者)がいるということだけが問題なのである

*私はこの二つを、タテ問題とヨコ問題という用語で区別してきた。ただしタテ問題には、このような認識論的問題だけでなく、心身問題なども含まれる。すぐに気づかれるであろうように、他我問題はどちらの問題とも捉えることができる。そして、その二重性こそが問題なのである。時間に関する諸問題も同様である。他我問題における現実性の問題については、次回論じる予定である。

 これを逆の側からいえば、自明なことの繰り返しになるが、中心性という性質はこの意味で「現実の」ではないほうの(すなわち非現実的なほうの)「私」たちや「今」たちもまた持ちうる(持たねばならない)性質である、ということにある。どんな主体もそこから世界が開けている原点(その人にとっては唯一の原点)であるし、いつの現在も過去や未来がそこから開けている原点(その時点にとっては唯一の原点)である。これは本質の問題であって実存(現実性)の問題ではないのだ。
 外界や過去はじつは存在しないのではないか、といった懐疑は、事象内容的な構造上の事実なので(つまり本質の問題であって実存の問題ではないので)、現実性ではなく中心性のほうに関係しており、それゆえ非現実的な(現実のではない)原点を出発点にとっても問題なく成り立つ懐疑である。物的外界の実在に対する懐疑に端を発する観念論や、他人の心の実在に対する懐疑に端を発する独我論は、それゆえ、現実性の問題(ヨコ問題)ではなく中心性の問題(タテ問題)である**

*この種の問題を現実性の問題とごちゃ混ぜにして論じる哲学者がきわめて多い(というか、私の知るかぎり、この種の問題を論じるすべての哲学者がごちゃ混ぜにしている)ので、ここで中心性の問題と現実性の問題を概念的に峻別しておくことは非常に重要な意味をもつだろう。(センス・データとかクオリアといった概念もまたこのごちゃ混ぜの産物ではないか、と私は疑っている。)
**観念論を帰結する前者の問題は、純然たるタテ問題なので、この「ごちゃ混ぜ」を免れているが、独我論を帰結する後者の問題は、暗にヨコ問題を紛れ込ませて論じられることが多いので、この「ごちゃ混ぜ」の典型的な温床になっている。時間を対象とする場合も同様である。

 中心性という捉え方の大きな特徴は、それが先に言及した「ものごとの理解の基本形式」に問題なく収まる、ということにある。「過去は《今》における記憶や記録から成り、未来は《今》における予期や予測から成る」ということ、「すべてはじつは《今》にある」ということ、こうしたことには一般性・普遍性がある。すなわち、どの《今》についてもいえる。だから当然、そのことの個別事例というものがあるわけである。《私》についてもまったく同じで、「外界や他者は《私》における知覚や思考や想像などから成り立っている」ということや「すべてはじつは《私》にある」ということには一般性・普遍性があり、だから当然、それの個別事例というものがある。これらはすべて「ものごとの理解の基本形式」にきれいに収まることができる(より精確にいえば、収まるような捉え方で捉えることができる)。
 これに対して、現実性という捉え方の特徴は、まさしく「ものごとの理解の基本形式」に決して収まらないということにある。これはきわめて簡単な事実である。どの時点もその時点においては《今》だが、そのうち一つが現実の〈今〉である。と、このように言われるとき、その言明自体はふたたびどの時点においても言われうるにもかかわらず、現実の〈今〉は(第一に)ただ一つしかありえず、しかも、(第二に)それは端的なこの今である。真の中心はじつはそこにしかない。この突出を最終的に平準化する方法は存在しない。それはどこまでもあの基本形式を逃れていく。
 だれでもその人にとっては《私》だが、そのうち一つはなぜか現実の〈私〉である。と、このように言われるとき、その言明自体はふたたびどの人においても言われうる(すなわちだれでもそう言える)ことであるにもかかわらず、やはり現実の〈私〉は(第一に)ただ一つしかありえず、しかも、(第二に)それは端的なこの私のことである。真の中心はじつはそこにしかなく、この突出を究極的に平準化する方法はない。それはどこまでも基本形式に収まりきることがない。

現実性の概念化と累進構造

 以下では、先に「とりあえず三つのことを主張したい」と言ったことのうち、第一の概念的区別の重要性についてはすでに論じたことにして、第二の現実性の突出と第三の相互浸透とのあいだにある相剋的関係とそこから生じる累進構造について、簡単に説明して終わりにしたい。
 前節の最後の二段落では、この相剋的関係が現実性の側の突出の立場に立って描かれていた。「……と、このように言われるとき、その言明自体はふたたびどの人(どの時点)についても言われうることであるにもかかわらず、やはり……」というように。しかし、これは逆に見ることが可能であり、その見方に立てば、そこで言われていたのとは逆に「この突出を最終的に平準化する方法」はつねにあり、どこまでもありつづける。そして、そちらの見方こそが客観的な実在性が成立する側のものの見方である。だから当然、それはどこまでも基本形式に収まりつづける。
 この構造はいろいろな仕方で説明できるだろう。まず思いつくのは、中心性という概念の内には本質的に(ここでいう意味での)現実性が含まれていなければならない、ということだ。それを、たとえばこんなふうに考えることもできるだろう。もしある中心が現実性を欠いていたら、それはじつは中心ではないことになるだろう。なぜなら、最初にそう規定したように、ここでいう中心性とはすべてが結局はそこに収まってしまうことを含意するからである。もし現実性を欠いているならすべて、、、がそこに収まることができるわけがない。
 こういう議論の仕方は古典的な意味での形而上学的な議論を思わせるが、それゆえにまたすでに触れた神の存在の存在論的証明に対するカントの批判がそのまま当てはまることになるだろう。現実性もまた事象内容的(レアール)な性質ではないからだ。神という概念が本質的に存在することを含んでいるとしても、だからといって現実に存在することにはならないのと同様に、中心性という概念が本質的に現実性を含んでいるとしても、だからといって現実に現実的であることにはならない。現実に存在する百ターレルと可能的に存在するだけの百ターレルのあいだに事象内容的(レアール)な差異がなかったように、現実に現実的な中心性とたんにその概念においてだけ現実的な中心性のあいだにも事象内容的(レアール)な差異はないのだ。だからこそ、現実には現実的でなかった《今》(その時点における今)が、その事象内容をまったく変えずに、そのまま現実に現実的な〈今〉になったり、その逆に、現実に現実的であった〈今〉が、その事象内容をまったく変えずに、そのまま現実には現実的でない《今》(その時点における今)になったりすることができるわけだ。
 ここで問題にしているような意味での中心性は、その内部から捉えられた場合の無内包の現実性(すなわち可能的な一方向性)という要素ぬきにはその意味そのものが理解できない。したがって、あらゆる可能的な中心性に概念としての「端的な現実性」が含まれていなければならない。この仕組みが働くことによって、〈私〉や〈今〉といった(山括弧で表現される)独在的概念が一般的に(つまり非独在的に)理解可能なものとなる。この働きがすなわち累進構造であり、私はその側面を強調する際には《私》や《今》というように二重山括弧記号を使ってきた。だから重要なことは、「私」や「今」のような鍵括弧付きの表現とは異なり、《私》や《今》のような二重山括弧付きの表現には中心性と並んで現実性の意味が(事象内容化されて)明示的に保存されている、ということである**

*二重山括弧付き表記で表されていることの本質は、無内包の現実性を概念的に(すなわち内包化された形で)提示することによって、それを「ものごとの理解の基本形式」に適合させることにある。そうしなければここでしているような話はそもそも論として成立しえず、したがって人に伝えることはできない。(とはいえ、それはただ言葉で言われることによって自ずと実現されてしまうことを後追い的に確認しているだけのことだ、ともいえる。)
**そんなことをしなくても、ただの山括弧記号だって、そう表記されるだけですでに事象内容化されざるをえないのではないか、と言われもしよう(逆にまた、鍵括弧付きにしたところでやはり現実性を含んだ中心性を概念的に持たざるをえないではないか、と言われもしよう)が、そうもまた言えるということが累進構造の趣旨である。

 無内包の現実性(現に端的に与えられているという事実によってのみ他から識別されること)は独在性の概念の一部でもあるため、それがさらに現実に実現するという事態は、「現実に「現実に与えられている」」というように多重表現を使って表現せざるをえなくなる。〈私〉とは、たんに「私」でしかない場合と比べて、内包的にはまったく同じなのだが、そこに端的な実存が付け加わったもののことだ、と単純に言いたいところなのだが、そうはいかないのだ。まさにその構造それ自体がすでに最初の「私」の了解のうちにも組み込まれていなければならないからである*。

*A変化(大雑把には《 》に対応する)も、さらにはB事実(大雑把には「 」に対応する)でさえも、端的なA事実(大雑把には〈 〉に対応する)ぬきには理解できない、ということは、『時間の非実在性』(講談社学術文庫)の私が書いた部分などで縷言したが、やはりこのことの一種である。

 〈 〉と《 》のあいだにはつねに(アキレスの突出と亀によるその平準化のような)闘争的関係が内在しており、そのことが累進構造を現実に駆動しつづけている。もしかするとすでに耳にタコができているとおっしゃる方がいるかもしれない(そうであればむしろありがたい)が、ここでまた、この「まさにその構造それ自体がすでに最初の「私」の了解のうちにも組み込まれていなければならない」ということが「独我論は語りえない」ということの真の意味である、ということをもう一度確認しておきたい。そのうえでさらに、ここではもう一つの論点をそこに付け加えることができるだろう。それは、その際のその究極的な「語りえぬもの」、すなわち亀の執拗な追跡にもかかわらずなおも突出して最先端を走りつづけるアキレスこそが、創造する神も創造することができない、世界の開けの独在的原点である、という論点である。その原点は、それが無ければ何も無いのと同じであるといえるほどの飛びぬけて重要な存在であるにもかかわらず、それが無くなっても(無かったとしても)世界にはいかなる変化も起こらない、そういう特殊な存在である。

*この箇所はじつは前回の真ん中より少し後(「ウィトゲンシュタインは、……」から始まる注の直前)にある「循環が生じるとはいえ、……」で始まる段落と同じことを言っている。そこを再読して、その段落の最後の「この「なお」のところがここでは核心である」という文の趣旨を再確認していただけるとありがたい。

 世界には第一基準によって自己を識別している無数の諸《私》たちが存在するのに、そのような諸《私》たちのうちから唯一の現実の〈私〉をいかにして識別しうるのか、という以前に立てた問いへの答えも、ここで与えられることになるだろう。それは、出発点がじつはこちらだからだ、というものだ。第一基準は、累進構造によってそこから構成された二次的構成物にすぎないことになる。
(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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