第八回


 まずはちょっとした訂正から。前回の最後から二番目の注で、私は「A変化(大雑把には《 》に対応する)も、さらにはB事実(大雑把には「 」に対応する)でさえも、端的なA事実(大雑把には〈 〉に対応する)抜きには理解できない、ということは、……」と書いている。
 「大雑把には」であるかぎり、これは訂正の必要はないのだが、これを大雑把にではなく言い直すことは容易で、そうすると以下のようになる。「相対化されたA事実(《 》に対応する)も、さらにはB事実(「 」に対応する)でさえも、端的なA事実(〈 〉に対応する)抜きには理解できない、ということは、……」。
 A変化という考え方がA事実の相対化を前提にしていることは明らかなので、「相対化されたA事実」ではなく「A変化」と言ってしまっても(大雑把には)よいのだが、しかし、A事実を相対化するだけでA変化が生まれるわけではなく、そこにはまた別の要因が介在するので、ここでは「相対化されたA事実」と言っておくのがより精確であるし、ここでの問題の理解にも資するところがあるだろう。

自己意識とは何か

 さて、今回は自己意識という問題について論じる。
 しばしば人間には自己意識があるといわれ、「私とは何か?」という問題も自己意識の成立によって答えられることが多い。生き物が自己意識を持つにいたると、そこに「私」が成立する、といったように。もちろん、私が論じてきた問題は、どんなに「私」が成立してもそれだけでは〈私〉は成立しない、さて、〈私〉はそれに何が付け加わると成立するのか、という問題であった。今回は主題の方向を変えて、その(俗に言われる)自己意識なるものはどのように成立するのか、を問題にしたい。そこにおいてすでに、〈私〉の問題の介入が不可欠なのではないか、と疑うからである。

*繰り返し同じことを言っていても、いつまでも同種の誤解をする人が絶えないので、もう一度初歩的な確認をしておくなら、これは、どうなれば人に「〈私〉である」という意識が生じるか、というような種類の問題ではない。そういう意識事実が問題なら、百年前の人にも百年後の人にも成立した/するであろう。まったく同種のそのような意識事実が成立する多くの者たちのうちに、(なぜか今は)現実の〈私〉が含まれてしまっているが、それはいったい何なのか? という問いと、そこから発する問題だけが問われているのである。問題のこの具体性、この実存性を(話が先に進んでも)決して見失わないようにお願いしたい。(この連載では描いていないが近年の拙著で毎度のように描いてきた累進構造図でいえば、ただ最上段だけが、すべてはそこからしか開始されないという事実だけが、問題にされているのである。概念化された同型の問題がどの段階でも生じるが、それらと決して混同しないことが肝の肝である。)
 このように言われてもさらに、今度はそれはそのような最上段性の一般論として理解されてしまい、さらにふたたびそのような、、、、、自覚はどのような場合に成立するのか、というようにを捉える人が生じるだろうが、それは、まさにここで主題となっているアキレスと亀の闘争が問題の理解そのものの場面で実演されてしまうということを意味しており、最終的に、この構造から逃れるすべはない。そのことがここで問題にされていることである。


 《私》の識別の第一基準は、前回のバージョンでは「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、現実に思い出したり予期したりする人」であった。古いバージョンでは「その目から世界が現実に見え、その体だけが叩かれると現実に痛く、その体だけを現実に直接動かせる、……人物である」といったものであった。どちらにしても、この基準に従って自己を他者から識別しているとき、そこには自己意識が成立している、というべきであろうか。
 自己意識とは反省的・再帰的に自己を捉えるはたらきであるのに対して、ここで生じているのは「現に見えている」とか「現に痛い」といった剥き出しの直接性だけなので、ここには自己意識など成立していないと見なすことが、まずは、重要である。〈私〉の成立において自己意識が必要とされないという事実はきわめて重要ではあるが、それは自明のことにすぎないともいえるだろう。なぜなら、この基準は複数の自己意識的存在者のなかからなおも自己を識別しうる基準なのだから、そこに再び自己意識なんぞがあってみてももはやいかなる効力ももちえないことは明らかだからだ。
 とはいえ複数の自己意識的存在者のなかからというなら、やはり自己意識の存在は前提にはなっているのではないか、と思われるかもしれない。が、そうではない。複数の自己意識的存在者のなかからである必要はないからだ。複数の(可能的な)意識的存在者のなかから、で十分なのである。自己意識はその「から……識別する」において初めて生じると考えることができるからである。複数の(可能的な)意識的存在者とは「その目から(必ずしも現実にではなく)世界が見え、その体が叩かれると(必ずしも現実にではなく)痛く、……、(必ずしも現実にではなく)思い出したり予期したりする人」のことである。これは、われわれのおこなっている言語ゲームの前提からすれば見えたり痛かったり……するとされている人という意味である(だから「現実に」という語を言語ゲームの側の現実性を基準にして使用するなら、彼らはもちろんみな現実に見えたり痛かったり……していることになる)。
 それゆえ、この基準を適用する際になされていることは、「その目から世界が見え、その体が叩かれると痛く、……、思い出したり予期したりする」とされている人たちのなかから、「その目から現実にではなく世界が見え、その体が叩かれると現実にではなく痛く、……、現実にではなく思い出したり予期したりする人」と区別して、「その目から現実に世界が見え、その体が叩かれると現実に痛く、……、現実に思い出したり予期したりする人」を選び出すことである。と捉えれば、ここに剥き出しの直接性を超えたある対比が働いていることを見て取るのはたやすいだろう。この基準のすべての効力は「現実に」の一語にかかっているからだ。つまりここには、まったく同様に目から見ているはずなのになぜか現実には見えていない人となぜか現実に見えてしまっている人、まったく同様に痛いはずなのになぜか現実には痛くない人となぜか現実に痛い人、等々の対比が働いている。〈私〉が、あるいは《私》が、この対比を意識しているなら、それはもうそれだけで自己意識である、とまずはいえる。自己意識とはその場合、事象内容的な完全な同一性とそれにもかかわらずなぜか生じている現実的突出(というその落差)の意識である、ということになるだろう。
 もちろん、たとえこの落差を意識していなくても、それは実際にはやはりはたらいている。だから、もしここではたらくこの落差の仕組みそれ自体を自己意識と呼ぶなら、〈私〉(や《私》)の成立には自己意識が不可欠であるといえることになる。しかし、〈私〉とは、とりわけ〈私〉の〈 〉とは、剥き出しの現実性を意味するにすぎないので、このような対比それ自体がその内部で意識されていなくても、それが存在するときには(この対比に従って)存在することになる。ただ現実に痛みを感じ、現実に音を聞くだけで、自ずとこの対比がはたらいており、それを意識すれば自己意識になる。このことをまさに現実に体験する場合にも、またこのことを概念的に理解する場合にも、そうである。
 すると、こういうことになるだろう。先ほどは「この基準は複数の自己意識的存在者のなかからもなお自己を識別しうる基準なのだから……」と言ったが、もしそうであるとすれば、そのそれぞれの自己意識的存在者の成立にも概念的にはやはりこの対比がはたらいていなければならないことになる。自己意識という概念のうちには必然的に現実性の突出という構造が含まれていなければならないからだ。他者にもそれぞれみな自己意識があるという理解は、他者たちにもそれぞれこの落差が働いているという概念的理解が前提になっている、という意味であることになる。
 この落差なしには自己意識など成立しようがないことはまったく明らかなことではないだろうか。並列的に複数の意識的存在者を想定しておいて、外部に向かう意識の志向性が反転してその意識自身に向かったとき自己意識が生じる、というような絵が描かれることが多い。絵と言ったのは、この意識の志向性が文字どおり矢印で描かれ、その矢が折れ曲がっておのれ自身を指す絵が実際に描かれるからだ。しかし、これは、幹から伸びていた枝が再び幹に達するようなことに、あるいはせいぜい、色々なところを触っていた手が自分の体を触るようなことに、すぎないだろう。
 幹から伸びていた枝が幹に達しても、そこに自己意識が成立するわけではないことは明らかだろう。それに比べれば、色々なところを触っていた手が自分の体を触るときには自己意識が成立するような気がするかもしれない。それはなぜか。理由はかんたんで、ある幹から伸びていた枝がその幹に達しても、それは、別の幹から伸びていた別の枝がその幹に達することとまったく並行的な出来事にすぎないが、ある体から伸びている手がその体に触ることは、別の体から伸びている手がその体に触ることと並行的な出来事ではない(ないという側面が不可欠である)からである。触るということが触感という感覚を意味するかぎり、複数のそれらが並列的に存在することはじつはできない。現実に感じることができるのは、それらのうち一つの体の手の感覚だけだからである。そのような無根拠な突出によって、じつは、、、これしか感じないな、と思うということがなければ、その手が自分の体に触ったところで、自己意識など生じるはずがない。
 逆に、現実に感じるのはなぜか、、、この体のこの手の感覚だけだな、と思ってさえいれば、その手が自分の体に触ったりしなくても、自己意識はすでにして成立している。自己への回帰はその思いのうちにすでにあり、そこにしかありえない。回帰する矢印が象徴的に示しているのは、じつのところは矢印の絵が描くような自己へ回帰するタテの志向性(反省的志向性)ではなく、ヨコ方向の等質性からただ現実性においてのみ突出する様相的な落差の自覚でなければならない。自己意識もまたヨコ問題なのである。
 もしそうでなければ、すなわち複数の回帰する矢印が並列的に存在するだけなら、そしてそれが自己意識であるというなら、自己意識の存在にもかかわらず、それらのうちのどれが自分であるかは結局のところわからないことになるだろう。どれが自分であるかわかるためには、どれか一つだけが端的に現実に感じる(他は現実には感じない)という様相的落差の介入が不可欠である。自己を意識することができるのは、現実の〈私〉と可能な(しかしなぜか現実ではない)〈私〉とのこの様相的落差の存在に基いている。

*もしそれだけしかなければ、そこには〈私〉は存在しないことになる。これは、時間が成立するためにはA系列の存在が不可欠であるという問題と同じ種類の問題である。自己意識が並列的に存在するだけという状況はB系列に相当することになる。時間の場合には、時間というものそれ自体がA系列が埋め込まれて初めて成立するが、人称の場合は、ただたんに自己意識的存在者が複数存在するだけというケースもまたふつうに想定できる。百年前はそうだっただろうし、百年後もまたそうなるであろう。

 したがって、自己意識は決して誤りえない。それらのうちのどれが自分であるかわからないことになることはありえず、他と取り違えることも起こりえない。その一つだけがなぜか現実に与えられており、他は事象内容的には同種であるにもかかわらず、現実にはそもそも無い(現実には痛くもかゆくも……無い)からである。無いものと取り違えることはできない。森羅万象という意味での世界を他の世界と取り違えることができないのと同じことである。自己意識はこの絶対的な誤りえなさと一体となって成立するので、この構造はタテ方向に回帰する矢印ではけっして描き出せない。もし複数の回帰する矢印が並列的に存在しているなら、間違って他の幹や体に回帰してしまう(じつは回帰していないのに回帰していると思ってしまう)ことがありうることになる。だが、そんな可能性はそもそもないのだ。

*したがって、諸表象を一つにまとめる自発性のはたらきのようなものがあって、それを自覚するといったこともまた、自己意識の成立にとってはたとえ必要であったとしても十分ではない。そうしたことはむしろ、人間が正気(まとも)であるための必要とされる方向の問題であろう。それ以前に、もっと根源的な問題があることを忘れてはならない。

 重要なことは、第一に、他者と私がある意味ではまったく同じ種類の存在者であるにもかかわらず、なぜか他者には決定的に欠けていて私には決定的に存在する何かが確実にある、ということだ。そして第二に、存在するその何かは、それこそがすべてであってそれがなければ何もないのと同じ、といえるほどのものであるにもかかわらず、同じ種類の存在者であると捉える側の捉え方から見ると、そんな何かはそもそも存在さえしていない、ということ。さらに第三に、ここで私と言われているのはもちろん〈私〉のことなのではあるが、どう表現しても他者にも哲学的論点が伝わりうることからもわかるように、そこにのみ含まれている現実性が概念化された形で含まれている《私》についても同じことがいえる(はじめからそのような水準に変換されて伝わる)、ということである。ということはつまり、最初の他者理解の際にすでに、私と他者のあいだに現実に存在している(それが現実に存在しているから私である)存在論的落差が可能的なかたちでそれぞれの他者の存在そのもののうちにも含まれている(それが含まれているから他物ではなく他者である)、ということである。これがすなわち累進構造である。
 つづめていえば、多くの同じ種類のものの一つにすぎないのにじつはこれしかない、というこの了解こそが自己意識の本質である。言い換えれば、自己意識とは現実性の自覚である。ここでもまた誤解のないように釘を刺しておかねばならないが、これはあくまでも現実性の自覚の仕組みについての話であって、現実性そのものはそんな問題とはまったく関係なしに(存在する場合には)ただ存在する。
 とはいえしかし、これがタテに回帰する矢印のように表象されてしまうことに理由がないわけではない。様相的落差の意識はまた受肉の意識でもあるからだ。《私》はまた同型のたくさんのもののうちの一つ、、、でもあるということはすなわち、なぜかこいつ、、、でもあるということである。このように捉えた場合、こいつ、、、である(なぜかあれら、、、ではなくこれ、、である)という限定されたあり方とそれがすべてである(じつはそれしかない)という無限定なあり方、矛盾するこの二つのあり方を一者に合一することがすなわち自己意識であることになる。ただし、ここにはあからさまな一方向性があることを忘れてはならない。それがすべてであるという無限定な在り方の側は、実在する一個体の側から見れば実在しないからだ。

受肉の秘義と一方向性

 ウィトゲンシュタインは『哲学的考察』第54節において次のように言っている。

ここで語られている現在とは、映写機のレンズの位置にちょうどいまあるフィルムの帯の映像のことではない、――そういう映像は、それの前後にあってすでに以前にレンズの位置にあったかまたはまだレンズの位置に来ていないその他の映像と対比されている。これに反して、いま問題になっているのはスクリーン上の映像であって、それが不当にも現在と呼ばれているのである。というのも、この場合「現在」は過去や未来と対立するものとして使われてはいないからであり、したがってそれは無意味な修飾語なのである。

 フィルムをB系列と、スクリーン上の映像をA系列と、それぞれ解釈すればわかりやすい。しかし、この比喩は独我論論駁の一環として提示されているのだから、スクリーン上の映像は独我論者の語る「私」を意味すると解することもできる。この「現在」や「私」は、対比項がないがゆえに有意味な何かを有効に指示する力のないたんなる飾りのようなもの、「言語によって正当に際立たせることが不可能なもの」(同節の上の引用文の直前の個所)にすぎないとウィトゲンシュタインは言っている。しかし、これは明白に誤りである。たしかにこの意味での現在は、時間的に関連づけられた他の諸時点との関係における一点を指す力がない。しかし、まさにそれだからこそ、それは端的な現在そのものを(けっして誤ることなしに!)指すことができるのだ。もし対比項があったなら、指し間違いの可能性が生じてしまうだろう。これは、われわれが現在を捉える現実のやり方にほかならない。
 フィルムと映像の比喩をそのまま使っても同じことが言える。現にスクリーン上にある映像は端的に現にあるだけであって、その「現にある性」には対比項がない。だからこそ端的に現に今見えているのだ。それを「現在」と呼ぶことは「不当」なことではない。いや、それどころか、もしこの端的なそれしかなさ(対比項のなさ)という側面を欠いていたなら、すなわちもしフィルム上の位置によってのみ特徴づけられていたなら、そこが現在であるという事実は成立しようがないだろう。何とどう関連づけられていようと、それとは別に端的に現に見えているという事実がなければ、「現在」であることは成立しえない。フィルムの内容(出来事にあたる)やフィルム上の位置づけ(B系列を特徴づける前後関係にあたる)をどんなにくわしく調べても、それだけではそのうちどこが現在であるか(したがって過去・未来であるか)はけっしてわからない。いや、わからないというより、そこには現在などというものは存在しないだろう。現在を私に置き換えてもまったく同じことがいえる。
 それにもかかわらず、この現在(や私)は実在世界における指示力を欠いたたんなる飾りなのではない。フィルムをどんなにくわしく調べても、どこが現在であるかはけっしてわからないとはいえ、その逆に、スクリーン上に現に映っている映像の内容を調べてみれば、それがフィルム上のどこに対応するかを知ることができるからだ。端的な現在や端的な私を、そちらの側からフィルム上に位置づけ、いつであるか、誰であるかを知ることは可能で、むしろかなり容易な仕事なのである。これがすなわち受肉の秘義であり、そこには必ず今述べたような一方向性がある。このように捉えた場合、自己意識とはこの一方向的受肉の別名であることになる。
 しかし、ひょっとするとウィトゲンシュタインのこの比喩の趣旨がうまく理解できない人がいるかもしれない。そういう人はおそらく、スクリーン上の映像と言われたとき即座にスクリーン上における映像の連鎖のことを考えてしまうのだろう。そう考えてしまえば、その連鎖自体がそのままいわばフィルムになってしまう。とはいえ、そう考えてしまうことに根拠がないわけではない。たしかに複数の現在の相互的な関係づけはフィルム(に相当するもの)を経由して為されるほかはないのだが、そしてそれは重要な事実ではあるのだが、それでも現在は必ず連鎖するとはいえる。この事実もまた見逃すことはできない。この連鎖する現在と端的な現在の違いを、この比喩においてウィトゲンシュタインはまったく考慮していない。この点は彼のこの比喩の欠陥であるのみならず、おそらくは彼の独我論論駁の議論全体の欠陥(の一部)にもなっている。彼が考慮しなかったこの問題を、時間に関連して(そこに内在する矛盾として)はじめて提起したのがマクタガートであった。
 ともあれ、映像とフィルムの関係について述べてきたことが、〈現在〉や〈私〉についてのみならず《現在》や《私》についてもいえることは、ウィトゲンシュタインが提示した比喩のうちにもすでに示されているといえる。この比喩はスクリーン上に現に今、、、ある映像とフィルムとの関係を問題にしている。このポイントはけっして手放すことができない。しかし、スクリーン上の映像といえども現に今あるものしかありえないわけではないだろう。それは可能的にはフィルム上のすべての位置に対応して存在するはずなのであり、そのどれについても、可能的には、ここまで論じてきたのと同じ問題が成立するはずである。これがすなわち《現在》や《私》の問題にあたるわけである。
 この問題はこの問題で重要だがここではこれだけにして、もとの問題に戻ることにしよう。スクリーン上に現に今ある映像の内容を調べることで、それがフィルム上のどこに対応するか(すなわち、いつでありだれであるか)を知ることは容易だとはいっても、もちろん、たんに現に今スクリーン上にあるという事実だけからでは、それを突き止めることはできない。だが、幸いにして、実際にはそれだけということはありえず、ちょうどどんな天使にも最低限の質料があるように、いかなる〈 〉にも最低限の受肉の事実がともなうのだ。すなわち、現に今スクリーン上に映っているという事実とともに必ず何らかの内容が映っているのである。
 スタンフォード大学図書館内で記憶喪失に陥ったルドルフ・リンゲンスは万巻の書を読破することで世界についてのすべての客観的知識を持つにいたり、そのことで自分がだれであり今がいつであるかを知るにいたる*。しかし、もし彼が(ともあれ自分はこれであるということだけを知っている)たんなる自己意識的存在にすぎなかったなら、すなわちいかなる知覚状況も与えられていなかったなら、彼は客観的(事象内容的)には全知であったとしても(したがってルドルフ・リンゲンスなる男がいつどこでどういう知覚状況にあるかもすべて知っていても)、自分が、、、だれであり今がいつであるかだけはけっして知ることができなかったであろう。しかし、幸いにして、彼にはたんなる自己意識に加えて自分自身の知覚状況が与えられていたので、それを媒介にして、それを持つのがルドルフ・リンゲンスという男でその時点がいつであるかを探り当てることができた。すなわち、現に映っている映像の側からフィルム上の位置を突き止めることができた。(しかし、特定の知覚状況が与えられていない神は、全知であるにもかかわらず、自分がだれであり今がいつであるかだけはけっして知ることができない。)

*この段落はデイヴィッド・ルイス(野矢茂樹訳)「言表についての態度と自己についての態度」(『現代思想』1989年6月号に所収)の状況設定に基づいている。

 三種の知があることになる。第一は、フィルムがその比喩である世界の客観的事実についての知である。第二は、現在の映像(その映像の内容ではなくそれが現在の映像であるということ)がそれの比喩である、〈現在〉や〈私〉の(デカルト的な)直接知である。しかし、その二つだけではその二つを繋ぐことができない。第三に必要なのは、現在の映像(それが現在の映像であることではなく、その映像の内容の側面)がそれの比喩である、〈現在〉や〈私〉がフィルム上にある何かと同一である何かと結合していることの(言い換えれば、結合しているものがフィルム上の何かと同一であることの)知である。それは、〈現在〉であれば通常は主としてその時点の知覚状況、〈私〉であれば通常は主として来歴の記憶であろう。これによって、スクリーン上の映像の側が(一方向的に!)フィルム上の客観的位置におのれを繋げることができる(あくまでも一方向的である理由は、フィルム上にある事実の側から現在映っている映像を突き止める方法はないからであり、比喩を外してもっと端的に言えば、世界の客観的事実のうちには〈現在〉や〈私〉はそもそも存在しないからである)。これが自己意識に基づく自己知である。
 このフィルムと映像の関係が時計における文字盤と針の関係に類比的であることを見て取るのはたやすい。しかし、その際に見逃してはならないのは、時計からではウィトゲンシュタインが意図したような独我論論駁的な含意を引き出すことはできないという点である。なぜか。それは、文字盤はフィルムとは違って、針は現に今スクリーン上に映っている映像とは違って、つねに見えており、しかも針はつねに針の他の位置と対比されて「過去や未来と対立するものとして使われて」いるからである。
 針は、見かけに反して、先ほどの知の三分類でいえば、第二の〈現在〉の知に対応するのではなく、第一の知と第二の知を媒介する第三の媒体知に対応している。針の動きそのもののうちにはどこにも〈現在〉はない。第二の知に対応するのは、ある針の位置が現に今見えているという事実である。時計は、その事実から出発することによってだけ、ただその方向においてのみ、時刻を告げ知らせることができる。時計そのものをどんなに詳しく観察しても、文字盤からも針からも、今がいつであるかは知らされない。今がいつであるかは、時計の外にある現に今からそれを見たときにだけ(この一方向においてでのみ)知らされるのだが、時計の側から見れば、そのようなものはそもそも実在しない。
 時計にはスクリーン上の映像のような「それしかなさ」を表象するものがなく、それは独今論や独我論を表象させにくい。そのかわりに、文字盤上の針の動きは現在の連鎖という別の事実を表象させる力がある。ここに成立する《現在》と〈現在〉の関係をめぐる問題については、マクタガートに関連して、すでに各所で論じてきたし、今回の冒頭で触れた「A変化」と「相対化されたA事実」の関係もこの問題に関係するが、より詳しくは別の機会に譲ろう。ともあれ、装置そのものの内部には表象されない独我論性は、現実に今の針の位置しか見えないという事実によって、その外から直に与えられるほかはない。それなしには時計は時計として機能することができない。
 今しか見えないことが時計を時計としてはじめて成立させているのと同様、現に今スクリーン上にある映像(なぜかそれが現に今であるということ)こそが映画を映画としてはじめて成立させている。時計も映画も、それ以外の仕方ではそれとして存在すること自体ができない。ウィトゲンシュタインに反して、スクリーン上に現に今見えている映像(がその比喩であるところのもの)の存在には、実のところはそれがすべてであると言えるほどの、いやそんな言い方では表現しがたいほどの存在価値があるのだ。
 もし時計や映画にかんするこのような捉え方が理解できたなら、われわれの知っているこの人生と世界もまた、それと同じような仕方でしかわれわれの知っているこの人生と世界としては存在しえないこともまた即座に理解されるはずである。(ウィトゲンシュタインの哲学が前人未踏の問題領域の存在を決定的な仕方で提示したことは疑う余地がないが、その本質的な誤りもまた疑う余地がないと思う。)(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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