第九回 宴会LOVERS


忘年会・新年会・新年宴会

 うき一年を忘れはべらばやとてぞ、忘年会はすなりといふ。
                (建部綾足『古今物忘れ』)


 『日本国語大辞典』に載っている、「忘年会」の最古の用例です。一七七〇年前後に書かれた本なので、少なくとも江戸時代のなかごろには、忘年会という言葉が普通に使われていたようです。もちろんそのずーっと前、千年、二千年のむかしから、人間はなにかと理由をこしらえては、酒盛り、宴会をしてきました。
 吉田兼好の『徒然草』には、宴会で酒を飲めと強要してくる人は迷惑だと憤っている一節がありますし、明治時代の『読売新聞』にも、酒の席で返杯だの納杯だのと強要されるのは下戸には苦痛だと訴える投書が載ってます。オレの酒が飲めねえのか的なハラスメントをするヤツは、いつの時代にもいたんです。
 「新年会」のほうは比較的新しい言葉で、登場するのは明治時代になってから。じゃあそれ以前、新年会はやってなかったのか? まさか。のんべいたちが、めでたい年明けを祝うという絶好の酒飲みチャンスを逃すはずがありましょうか。一月は正月で酒が飲めるぞ~、とバラクーダも歌っていたじゃないですか(四〇代以上の人しかわからないネタですいません)。
 大正時代くらいまでは、新聞の記事や料理屋の広告文句でも「新年宴会」という表記のほうが多いんです。
 新年宴会なんて言葉は聞いたことないよとおっしゃるかたも多いと思います。たしかに現在ではほとんど耳にしませんが、一九七四年一月の『読売新聞』に「新年宴会で刺殺」なんて正月早々物騒な記事見出しがあるくらいですから、新年会と新年宴会はけっこう長いこと共存してたんです。ちなみに忘年宴会という言葉は、なくはないけど、ほとんど使われてません。「ねんえん」って発音はしづらいから省略されていくのは自然な流れだけど、なぜ忘年と新年で差があったのかはナゾ。

戦前宴会あれこれ

 いつものごとく『朝日』・『読売』両紙で、明治大正昭和の宴会についての記事を検索したのですが、今回、朝日はほとんど参考になりませんでした。朝日は宴会関連の記事自体が非常に少ない。明治時代から、朝日は良くも悪くもマジメなんです。やはりこの手の庶民文化ネタは、タブロイドっぽいニッチな雰囲気が持ち味だった戦前の読売が頼りになります。
 昭和元年の読売が報じた、宴会詐欺の記事。日本橋の問屋のおかみさんに電話がかかってきます。料理屋の仲居を名乗る女は、おたくのダンナさんがこちらで組合の新年会をしているのですが、ごあいさつに紋付きの着物が必要になったとのことで、いま使いの者がそちらに出向きます。すっかり信じたおかみさんは、使いの者に着物を渡しました。で、ダンナが帰宅してようやくだまし取られたことに気づいた、と。着物が貴重だった時代ならではの犯罪です。
 明治大正期の読売は、大阪から東京へ進出して勢力を拡大していた朝日へのライバル心を燃やしていたようで、大阪に対するうっすらとした偏見が記事の端々から顔を出します。
 一八九五(明治二八)年一一月の「大坂紳士」という記事では、大阪人は貴賤を問わず、宴会にいくと食べものの残りを「一片も残すところなく必ず折詰めとして持ち帰る」ことに東京人は一驚を喫すると、遠回しに無粋でケチだとディスってます。
 大阪人はむしろ折詰めをもらうことを目的に宴会に行く。吸い物のつゆだけすすって具は持ち帰る。折詰めを持ってこっそり外に出て、待たせている車夫に預けて戻り、何食わぬ顔でもうひとつ折詰めを持ち帰る――など、ホンマかいな、といいたくなる具体例がつづられます。
 宴会関連の商売は、景気の波をもろに受けるのが特徴です。一九二五(大正一四)年の読売は、東京・本所で折詰めの木箱を代々作ってきた職人が不景気のために苦境に立たされていることをレポートしています。
 宴会そのものの減少に加え、ちかごろは料理屋が折詰め容器を、値段の安いボール紙の箱で間にあわすようになったのが響いてます。自分は漬け物やつくだ煮の行商、奥さんは内職で糊口をしのぎ、三代続いた折箱職人の仕事がなんの役にも立たなくなったとぼやくのでした。

六〇・七〇年代の狂騒

 さて、ここで一気に時代を戦後の昭和に移します。
 取引をしたい相手を招待し、芸者あげてパーッとやりましょう、みたいな映画・社長シリーズでおなじみの接待文化は一九五〇年代が全盛期だったかと思いきや、宴会ブームは六〇・七〇年代にかけて、さらに狂騒の度を増していたようなんです。
 一九六七(昭和四二)年『週刊読売』のレポートによると、この五年ほど前というから一九六二年ごろから、ホテルの営業収入に占める宿泊費と宴会費の比率が逆転したといいます。いまや宿泊費二に対して宴会費八が通り相場で、ホテルの宴会場はフル稼働。宴会の団体客を都心のホテルが奪ってしまったので、赤坂あたりの料亭や近郊のヘルスセンター(って響きもなつかしい)は悲鳴をあげているのだとか。
 新社長就任披露だとか新製品の発売記念なんてのにひっかけて派手に宴会をやり、招待客と人脈を作る。そのために企業は交際費を湯水のごとく使い、社員も会社のカネで飲んでバカ騒ぎができるという、五〇年代の流行語で「社用族」と揶揄された企業文化が、日常業務として定着してしまったわけです。

宴会部長の憂鬱

 飲み会が好きでしばしば幹事役を引き受ける人は、しばしば宴会部長と呼ばれます。本当の役職は部長じゃなくてもいいんです。社長シリーズでは三木のり平が、三度の飯より宴会が好きな営業部長を演じ、当たり役となりました。社長役の森繁との絶妙な掛け合いや完成度の高い宴会芸を見ていると、なんとも楽しそうではありますが、あれはしょせん、プロの喜劇役者が演じる誇張されたコメディです。
 現実に仕事として毎晩のように、接待宴会をやらなきゃいけないとなったら、いくら会社のカネで酒が飲めるといったって、ちっとも楽しくないだろうことは、想像にかたくありません。
 現実の「宴会部長」のインタビュー記事が一九七〇年の読売にありました。某一流企業で宴会接待係をやっている――正式な肩書きは秘書課長代理なのですが、その人が匿名で苦労話を語ります。
 ひとくちに宴会といっても、単なる懇親か重要な商談かで席順や料理などのセッティングが全然変わってくる。芸者を呼ぶ場合は、客の馴染みをそれとなく調べて予約する。急に予定外の二次会が決まっても、赤坂・新橋のバーやキャバレーのボックス席をすぐに押さえられるよう、日頃から店に顔をつないでおかねばならない。ときには客の求めに応じて小唄や手品のひとつやふたつは披露できるよう、仕込んでおく。帰宅はいつも二時三時。
 タダ酒のご相伴にあずかれる役得をうらやましがられることもあるが、自分は生まれつきの下戸。しかしそれがさいわいした。もしも飲み助だったらとっくにカラダを壊してただろう。現に前任者は二度も胃の手術をした。
 年に何億もの交際費を使い、そこまでやる必要があるのかと問われるが、宴会をやるとやらぬとでは、とくに役人と銀行の受けがまったくちがう。これも経営戦略の一環としてしかたがないと覚悟を決めて、秘書課員や営業部員は今夜も銀座・赤坂を駆けめぐる……。
 もちろん自分も大学を出たときは希望に燃えて入社した。しかしこの仕事を熱心にこなすほど役員に重宝がられ、宴会一筋一三年。同期や同僚は第一線で実績をあげている。でも宴会をうまくやったってなんの実績にもならない。他部署への異動をずっと希望しているものの、その一方で、異動したとて、酒の相手で月給をもらってた者が帳面づけなんてできるのかと不安になる。

 はぁ……。なんともやりきれぬ、サラリーマンの悲痛な叫び。なんだか、記事を読んでた私まで一杯飲みたくなりました。

戦前の宴会芸マニュアル

 古来、酒の席が苦手な人たちが嫌うものがふたつあります。ひとつは、酒そのもの。もうひとつは、バカ騒ぎや宴会芸です。
 とくにこの宴会芸・隠し芸の披露を強要されるというのは、社交的でない人たちにとっては拷問に等しい仕打ちです。

 日本風の宴会は、不愉快に始まって、乱雑に終る。初めは区役所に出頭したるが如く、終りは癲狂院を見舞いたるが如し。

 これは、明治三七年の『読売新聞』コラムからの一節。むかしから酒宴のバカ騒ぎをシラケた目で見てる日本人はいたのです。
 でもねえ。バカバカしいと吐き捨てて、群れずに強く生きられる人は、なかなかいないものですよ。たいていの人は、孤立を恐れ、無芸大食との誹りに脅え、つきあいの呪縛から逃れられません。
 そんな宴会芸の披露に悩む人のため、宴会芸マニュアル本は明治時代から存在してました。
 明治四四年『宴会お座敷芸』のはしがきより。

 酒席に列して無芸大食は、野暮の骨頂。これ浮世の面白みを解せず、芸なし猿の不可趣味をして、直ちに大通粋人となるの秘法を御伝授いたすは本書の特色ならんか。

 芸なしの猿もこの本を読めばただちに粋人とは、大きく出ましたね。どんな内容なのか、無粋なワタクシめが拝読してみます。
 ページをめくるとまずは、義太夫、長唄、常磐津、清元、端唄といった邦楽の歌詞が並びます。でもこういうのって、歌詞カードを見たから歌えるってもんじゃありませんよね。芸達者な人なら、見よう見まねでやって笑いを取ることもできますが、普通はお師匠さんのところに通って習わなきゃ歌えません。
 次に軽い手品のネタがたくさん載ってます。それに続くは、しょうもない一発芸の数々。たとえば、あおむけに寝た状態で額に水を入れた茶碗を置き、こぼさないように起き上がるというもの。「熟練さえすれば旨く出来る」って、そりゃ何事もそうだろうけど、そんなもの熟練するほど練習したくないですよ。
 興味深いのが、みんなで楽しめるお座敷遊び。「ドンドンカッカ」は、「ドン」「ドン」と口でいい、「カッ」「カ」と手を鳴らすのを順番にやっていき、まちがえたら負けというルール。文章だけの説明なので具体的な絵が想像できないのですが、いまの若者がやってるリズムゲームのはしりじゃないですか。最近も斎藤さんゲームとか流行ってたでしょ。こういう遊び、明治時代からあったんですね。
 大正六年『笑話百題 宴会余興』は小咄【こばなし】集。大黒様と恵比須様が相撲を取ったら恵比須が勝つ。大黒の手には鎚(土)がついてるから。ま、こんな感じなんですけど、なぜかそれぞれの小咄のあとに、(ナール程……大喝采)(コレハ然り)(抱腹絶倒)などと、自画自賛の感想がついてるのが、小咄よりも笑えます。
 昭和九年刊『宴会座興かくし芸』は、その後版元を変えて第三版まで出てるくらいだから、けっこう売れたのかな? 内容は、腹踊りとか尻文字とか、品のないものが増えてます。芸者が尻を突き出してゆるりゆるりと尻文字を書くのを読み取るのは「たとへんに物なし」、たとえようもないほどよいものだ、そうで。
 この手の隠し芸マニュアルを読んだかぎりでは、時代が進むにつれて宴会芸は下品になっていったことがわかります。

社長は小唄がお好き

 宴会芸マニュアルに歌詞が掲載されてることからもわかるように、むかしは邦楽が宴会芸の定番でした。なかでも小唄は大正末から昭和初期にかけて、そして昭和三〇年代と、二度もブームになるほどの人気芸だったのです。
 むかしは、芸者くずれの粋なババアが下町の長屋で小唄教室を開いてたりしたものです。昭和六年の『婦女界』掲載のお稽古事案内には、小唄は「ずぶの素人からお始めになっても、らくに上達いたします」とありますが、さすがに邦楽の基礎技能がない人が独学でマスターするのはむずかしい。なので、宴会芸を身につけたい人を中心に、小唄教室にはそれなりに需要があったのでしょう。
 大正九年の警視庁統計から、歌や踊りなど遊芸一般の師匠が東京市内におよそ二〇〇〇人いたことがわかります。民衆娯楽を研究していた権田保之助によると、この数字はきちんと芸の道をおさめた師匠だけなので、片手間にやってるシロウト師匠まで加えたら相当な数になるはずだとのこと。ただし、権田はこのころ流行りはじめた小唄だけは完全無視。彼にとっては邪道の芸だったのかもしれません。
 一九二四(大正一三)年の大阪では、みだらがましい俗謡がこどもたちのあいだにまで流行り、風紀上悪い影響を及ぼすとして、生徒に小唄を禁止するよう、各小学校長へ通達が出されました。ラジオでも毎晩のように小唄番組が流れるほどのブームだったので、こどもたちもみんな口ずさめるようになってたんです。
 たしかに小唄は男女の恋愛が題材の色っぽい歌詞が多いのですが、やってる人たちは、これは情緒であってエロではないと反論します。
 おそらく一番有名なのは、「梅は咲いたか、桜はまだかいな」ってヤツ。私はその曲くらいしか知らなかったので、小唄、長唄、義太夫、常磐津など邦楽の音源をひととおり聴いてみたものの……どれも同じじゃん?
 Aメロ・Bメロ・サビみたいな現代音楽の構成に慣れた耳で邦楽を聴いても、どこで盛り上がってるのかわからないまま曲が終わってしまうんです。
 同じに聴こえるのもムリはありません。ルーツを調べると、もともとはすべて歌舞伎の伴奏音楽から派生したものなんです。
 小唄はなかでも新参者で、江戸末期に庶民のあいだで流行り出しました。長唄などの伝統芸能は、一曲歌い上げるのに一〇分以上かかります。庶民がそれらのさわりの部分だけ歌うようになった俗曲から、端唄や小唄が派生していきます。要は、アルバムバージョンをシングルカットして、一分、二分で終わる軽いものにしたらウケたんで、オリジナルも作っちゃったよ、と。小唄は師匠も家元もない、庶民のシロウト演芸だったのです。
 それが大正時代、江戸趣味を愛する通人たちが小唄を再評価したことで、にわか師匠がたくさん生まれました。家元がいないのをいいことに、みんな勝手に師匠を名乗り、アウトロー歌謡だった小唄に、いつのまにか権威が付与されたのです。みだらな歌詞だと小学校で禁止されてから一〇年も経たず、『婦女界』で「家庭娯楽として上品な長唄と小唄」と紹介されるほどになりました。
 当連載の第六回では、社長の趣味について調べました。戦前の社長にも芸事好きは多かったけど、小唄でなく、義太夫や常磐津といった正統派ばかり。
 小唄を趣味とする社長が増えたのは戦後ブームのときでした。昭和三〇から四〇年代の雑誌記事で趣味について社長にインタビューすると、一〇人にひとりくらいは必ず小唄と答えた人がいます。
 不思議なのは、はじめたきっかけがたいてい同じパターンであること。先輩や世話になった社長などに「キミ、いまどき小唄のひとつもできないようではイカンぞ」ってな感じで小唄の師匠のところにむりやり連れて行かれ、しかたなくはじめたら、すっかり夢中に……という筋書きです。
 なんでしょう、自らの意志で入門してガツガツはじめたってのは無粋だから、ムリヤリ誘われてハマったことにするのが日本の奥ゆかしい伝統なんですかね。ともだちの付き添いでオーディションに行ったら私がスカウトされました、姉が勝手にボクの履歴書をジャニーズに送ったのがきっかけで、みたいな?
 一九七〇年代に入ると、庶民の小唄ばなれは急速に進みますが、なぜか社長さんのあいだだけでは、根強い人気が続いたようです。雑誌『財界』では八〇年代まで、企業の社長や会長が小唄の趣味を語るインタビュー記事が二年に一度くらいの割りで登場しています。他の雑誌で小唄が取りあげられるのは、『季刊邦楽』みたいな専門誌に限られるというのに。

エロとカオスの七〇年代宴会芸

 一九七〇年代、社長さんたちが小唄という懐古趣味のとりこになってた一方で、社員たちの宴会芸は迷走しておりました。
 六〇年代まではほとんど見られなかった宴会芸指南の雑誌記事や書籍が、七〇年代になると復活します。もうさすがに、小唄を習って宴会で披露するような時代じゃない。さりとて、オレたちは宴会でなにをしたらいいのだ?
 一部の悩めるサラリーマンは、忘年会を前にして、隠し芸教室に通いました。その模様が一九七四年の週刊誌に写真入りで載ってます。
 そんな教室に行く人なんかいるものかと半信半疑で取材した『サンデー毎日』の記者は、超満員の大盛況ぶりに驚きます。どこぞの大広間に集まった数十名のオジサンたちが、ワイシャツ・ネクタイ姿でドジョウすくいやおかめひょっとこ踊りの練習に精を出してます。
 『週刊文春』の取材先では、かっぽれや阿波踊りの講師の横に、なぜかビキニ姿につけヒゲの若い女性が二名。ヒゲの理由は、景気回復を願い、一万円札の聖徳太子にあやかった変装だそうで……。
 他の雑誌でも、一二月になると宴会芸、隠し芸のアイデアが特集されてます。しかしそこで紹介されてる芸は、しょぼいかエロいかその両方か。
 男女二人でやる二人羽織。女が前(顔を出すほう)で男が後ろからバナナを食べさせる。
 開いて置いた蛇の目傘のうしろに隠れ、デンデンムシムシの歌を歌う。ツノ出せヤリ出せのところでタイミングよく素足を出す。この芸自体は、戦前からある古典的お座敷芸なのですが、これをすすめてるのが、七三年の『女性セブン』。女性週刊誌が、読者のOLさんにこの宴会芸をやれってのは、どうなのよ。
 同じく女性誌の『微笑』は、男どもが股間をお盆で隠して裸踊りをするようなどんちゃん騒ぎの忘年会が憂鬱なOLに、今年は殻を破ってみよう! と焚きつけます。で、おすすめしてるのが、下品な歌を歌うこと。「潮吹き小唄」「金太の大冒険」「がきデカ恐怖のこまわり君」って、それ本気でいってます? どんな歌か気になるかたは、検索してみてください。そして勇気のある貴女は、今年の会社の忘年会で披露して、どんな空気になるか試してみてください。

カラオケは日本を救う

 とめどなく下世話スパイラルに堕していく七〇年代の宴会に辟易していた無芸サラリーマンたち。しかし、そんな彼らに救いが訪れます。日本の宴会に革命を起こしたのは、カラオケの登場だったのです。
 もともとカラオケテープは、音楽業界の現場スタッフだけが使っていたプロ向け製品でした。それを市販してみたらとの声があったので、じゃあためしに、とビクター音楽産業が七〇年代初頭に発売したら、いきなり五〇万本が売れる大ヒット。すぐさま各社が参入し、普及が加速します。
 一般人のあいだで本格的なブームになったのは七七年ごろだったようで、そのころから雑誌が記事として取りあげはじめます。でも、この手の流行りの新アイテムが必ず受ける洗礼みたいなものですが、当初はカラオケに否定的な論調が多いんです。
「日本独自の閉鎖的な文化だ」「機械の伴奏などむなしい」「騒音公害」「流しやバンドマンが失業する」などなど。
 三菱鉱業セメントの小林社長も、カラオケは味気ないと批判。まあ、社長さんは小唄だの民謡だのと懐古趣味だから当然だねと思ったら、大正製薬の上原社長は、まだ市販される前、プロの業務用しかなかった時代から手に入れて使ってたほどの、筋金入りのカラオケファンだったそうです。時代を先取りしてたんですね。
 批判の声は最初だけ。まもなく日本人は、社長も社員もこぞってカラオケの魔力にひれ伏すことになるのです。
 それを如実に示すのが、七七年暮れの『週刊現代』。「忘年会でスターになろう」と題し、カラオケでヒットソングを上手く歌うコツを手ほどきするグラビア記事なのですが、登場する人物に驚きました。
 作家の中上健次が、スナックのカウンターの止まり木でマイクを握り、『昔の名前で出ています』を熱唱。政治家の鳩山邦夫夫妻がピンク・レディーの『ウォンテッド』を振り付きで披露。漫画家の藤子不二雄のお二人が、なぜか昼間の公園で、ビューティ・ペアの『かけめぐる青春』をとても楽しそうに歌ってます。
 こんな企画にノリノリでカメラの前に立ってしまうくらいに、文化人たちもカラオケのとりこになってました。一般人があらがえるはずがありましょうか。
 七九年の『週刊サンケイ』「財界に広がるカラオケ・フィーバー」からは、堤清二(西武)、佐治敬三(サントリー)など名だたる企業の社長たちが、カラオケのとりこになり、自慢のノドを競っている様子が伝わってきます。
 批判の声もあったものの、カラオケの登場によって無芸のサラリーマンが救われたのも事実です。カラオケはシロウトが歌いやすいようにキーなどを調整してあるので、多少のヘタはカバーしてくれます。ヘタでもとりあえず一曲歌っておけば、場をシラケさせることもありません。OLさんも以前のようなセクハラ宴会芸に悩まされることはありません(デュエットの強要をセクハラと見るかは議論がわかれますが)。
 かたくなにカラオケを批判し続けた有名人は、タモリさんくらいです。タモリさんは八〇年代になってもカラオケが日本の宴会芸を貧しくした元凶だと拒否し、赤塚不二夫さんらと密室芸に磨きをかけてました。ろうそくショーだの、全裸に三つ揃えのチョッキだけを着て、あそこを股のあいだにはさんではいまわる全裸オットセイなどという、テレビではとうてい放送できない芸を仲間内の宴会でやってたのです。
 その時代のタモリさんは、まさか三〇年後、NHKの番組で「河岸段丘が」とかマジメに語ってるだろうとは想像もしてなかったことでしょう。

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パオロ・マッツァリーノ

イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。著書に『反社会学講講座(正・続)』『偽善のすすめ』『誰も調べなかった日本文化史』『「昔はよかった」病』『怒る! 日本文化論』『ザ・世のなか力』『コドモダマシ』『みんなの道徳解体新書』など。

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