第十回 夜のなかへ

 ヴァレーズの晩年をひとつの図表のようにして提示するならば、高まってゆく世界的な評価と、減退する創作力という二つの反比例関係の中に、最後の作品「ノクターナル」がゆらゆらと亡霊のように漂う、といった具合になるだろうか。後に述べるように、この作品の不思議な在り方は、ある意味ではヴァレーズの後半生、あるいは生涯の全てを解くひとつの鍵となるはずである。最終回となる今回は、この「ノクターナル」を中心にして、晩年のヴァレーズを支えた中国出身のチョウ・ウェンチュンとの関係、そしてさまざまな日本人との交流などに触れながら、この孤独な射手が抱えていた「幻影、あるいは悪夢」について考えてみたい。

■拡がるヴァレーズ受容
 「エドガー・ヴァレーズ」という名は、1950年のEMSレコードの発売、同年のダルムシュタット夏期新音楽講習会でのレクチャー、そして1954年の「砂漠」初演(騒動にはなったにせよ)といった契機を通じて、着実に音楽界に浸透していった。アカデミズムとは徹底して無縁の姿勢ゆえ、彼はとりわけ若く前衛的な作曲家たちから、熱い支持を得る。これまで、ケージやルーニング、あるいはブラントやザッパといったアメリカの実験的な作曲家からの「リスペクト」についてはたびたび触れてきたが、ヨーロッパの若手にヴァレーズはどの程度知られていたのだろうか。
 パリ音楽院の、いわゆる「メシアン・クラス」(ブーレーズ、シュトックハウゼン、バラケ、クルターク、クセナキスらが顔を出していた)では、少なくとも1950年代初頭の段階で、「イオニザシオン」の分析がメシアン主導によって行われている*1
 このクラスに属していたシュトックハウゼンは「作業報告一九五二/五三」と題した小文の中で「……ヴァレーズのこの作品[イオニザシオン]を聴くためには別の耳が要る。今後は、自然界の音響現象をもっと注意深く観察しなければならない。(中略)われわれの音楽において、これまではきわめて低い機能しか持たず、たいていはオーケストラの打楽器において描写的な機能を果たすだけであった音響現象。他の文化圏の音楽でそれらはもっと重要な役割を果たしている」*2と述べており、非平均律な音響の探求というヴァレーズの狙いが、この時点で正確に受け止められていることが分かる。
 またもう一人のメシアン・クラス参加者であるピエール・ブーレーズも1957年の「最近の音楽の諸傾向」と題した文章において、ヴァレーズのことを「孤独な射手」*3と名づけた上で、「ヴァレーズは音響学的な現象を音の相互関係の本源的なものと考え、そこからどのようにして音楽の構成を支配することができるかを試みようとした。このようなところからヴァレーズは――ひとつのユニークな体験として――打楽器だけを用いる作品『イオニザシオン』に到達するのである」と述べている*4。実際、このあとブーレーズは59年のドナウエッシンゲン音楽祭で「アンテグラル」を指揮し、翌60年にかけて手兵ドメーヌ・ミュジカルとともにヴァレーズの室内楽作品の演奏・録音を行なうことになる。ちなみに音楽学者のジャンマリオ・ボリオは、ブーレーズの初期の代表作「ル・マルトー・サン・メートル」(1955)の打楽器用法(とりわけ「孤独な死刑執行人」のサイクル)にヴァレーズの直接的な影響が見られると指摘している*5
 のちに「ポエム」でヴァレーズと共同作業をすることになるヤニス・クセナキスも、1955年、「グラヴェザーナー・ブレッター」に寄せた有名な論文「セリー音楽の危機」において「ヴァレーズは直感的に、そしてセリー音楽とは異なった美学的コンセプトから、『アンテグラル』『イオニザシオン』『砂漠』において、リズムと音色と強度の塊を採用したのだった」と述べている*6。つまり彼は既にこれらの作品に通じていたということになろう。総じて、彼ら「メシアン・クラス」の人間にとって、フランス出身の(そして一時期はパリ音楽院にも在籍していた)ヴァレーズは、かなり近しい存在だったものと思われる。
 もっとも、イタリアに目を転じても、状況はほぼ同じようなものではある。1950年のダルムシュタットの講習会で直接ヴァレーズの薫陶を受けたルイジ・ノーノを皮切りにして、51年にタングルウッドで出会ってから生涯にわたって親密な関係を保ったルイジ・ダッラピッコラ、そして後にヴァレーズ作品を幾度も指揮するブルーノ・マデルナ、そしてルチアーノ・ベリオに至るまで、若いヴァレージアンには事欠かない。
 ただし、この時期にマデルナやベリオが注目したのは、「イオニザシオン」のヴァレーズというよりは、「砂漠」の作曲家、すなわち電子音楽の先駆者としてのヴァレーズである。1955年11月29日、ベリオがヴァレーズに宛てた手紙が残っている。

親愛なるヴァレーズ様
 勝手ながら以前から友人のような気持ちでおりました。というのも、ブルーノ[マデルナ]がいつも私にあなたのことを話すものですから。ミラノの音楽状況についてご興味がおありでしょうか。まず最初に、スタジオ・フォノロジー・ミュジカル(ここではほどなくして、電子音楽の制作が可能になるはずです)が設立され、ツェルボーニ社より次の1月終わりに新しい音楽雑誌が出版されます(私はエディターという立場です)。この創刊号に何か文章を寄せていただくわけにはいかないでしょうか。関わっている作曲家にはダッラピッコラ、シュトックハウゼン、ブーレーズ、マデルナ、[アンドレ・]スーリー、そして私などがいます。この雑誌は音楽家のために、音楽家によって書かれるという類のものなので、文章を書いてくださったら本当にありがたいのです。作曲に関わることであれば題材は何でも構いません。ブルーノは現在当地ミラノにおり、また彼からもお便りがいくと思います。よい返事を期待しております。

 まさにこの1955年、ミラノではベリオとマデルナが中心になった電子音楽スタジオが開設されたのだった(日本のNHK電子音楽スタジオもこの年に開設)。その機関誌の創刊号にヴァレーズに一筆を求めてきたというわけである*7
 一方のヴァレーズ自身は、この1955年にはトマス・ブシャールの映像作品「ホアン・ミロをめぐって」のために短いテープ音楽を制作し(「ヴェルジュの行進」)、翌56年にはイタリアの出版社リコルディと全作品の楽譜出版契約を結んだ。そして、この頃になるとはるか太平洋を隔てた日本においても、黛敏郎や湯浅譲二を筆頭にして、若い作曲家たちが次々にヴァレーズを崇拝し始めることになる。ヴァレーズはようやく、この時期にいたって世界的な「ブレイク」を果たしたと言ってよいだろう*8
 このブレイクを傍で支えた人物に、1949年からヴァレーズの弟子となり、ほどなくしてアシスタントを務めることになったチョウ・ウェンチュンがいる。晩年のヴァレーズについて語るためには、どうしてもこの中国人作曲家に触れなければならない。

■チョウ・ウェンチュンという存在
 ヴァレーズが自らの鬱状態と闘いながら、畢生の大作「砂漠」に取り組み始めた、まさにそのころ。
 遠く離れた中国では、戦後の国の在り方をめぐって国民党と共産党が激しい内戦を繰り広げていた。そして1949年10月、ついに毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言。蒋介石の国民党は台湾に撤退を余儀なくされることになる。この状況の中で、国外在住の中国人たちの運命も大きく変わることになった。1923年、山東半島に生まれたチョウ・ウェンチュン(周文中)も、歴史に翻弄された一人である。
 彼は1946年、イェール大学で建築を学ぶために、5年間の奨学金を得てアメリカに渡っている。しかし音楽への思いがやまず、ほどなくしてマサチューセッツ工科大学で研究に従事していた兄を頼ってボストンに移り、当地のニューイングランド音楽院でヴァイオリン専攻の学生として学び始めた。最初の学期が終わると、作曲に専攻を変更。とりわけ2年目からはスロニムスキーのクラスに在籍して、一気に現代音楽の世界にのめりこんでいくことになる。最初にヴァレーズの作品(「オクタンドル」)を聞いたのもこのクラスにおいてだったが、その時のチョウには「一体、これは何だ?」としか思えなかったという*9。故郷の政治体制が根本的に変化したのは、こうした矢先だった。
 すなわちチョウの場合、日中戦争の中で青春期を過ごし、戦後の第二次国共内戦が始まるとともにアメリカに留学、そしてようやく作曲の修業を開始した1949年に、故郷の政治体制が根底から変わってしまったことになる。共産党体制に移行すると、それまで潤沢だった仕送りもストップしてしまった*10。アメリカ社会の中で難民として分類されることになったチョウは、結局、新しい「中華人民共和国」に戻ることを選択せず、そのままアメリカで作曲家を志すことを決意する。問題は誰に作曲を師事するかであった。似た境遇のボフスラフ・マルティヌーのもとを一時期は訪れてみたものの(チェコではこの前年の1948年、共産党による政権が樹立)、満足のいく結果は得られなかった。
 そうしたある日、1949年5月13日にコロンビア大学の講堂で「アンテグラル」が演奏される。たまたまそこに居合わせたチョウは「オクタンドル」のレコードの時とは異なり、きわめて新しい音楽だという印象を受けた。また、これは彼がヴァレーズその人を初めて目にした日でもあった。もじゃもじゃ頭に鋭い眼光を備えた65歳の作曲家の姿は強く目に焼き付いたことだろう。
 ほどなくして彼は、一時期ヴァレーズの弟子でもあったコリン・マクフィーの知己を得る。インドネシアのバリに滞在した経験があり、ガムラン音楽を西洋にもたらした立役者であるマクフィーとチョウは瞬く間に意気投合したようだが、作曲の師を探していると相談すると、マクフィーは強くヴァレーズを薦めた。面白いのは、彼がチョウに、次のようにあらかじめ念を押したことである。

彼[ヴァレーズ]を紹介するまえにひとつ、どうしても約束してほしいことがある。ヴァレーズの音楽、そして彼という人間は活火山のようなものだ。噴火に次ぐ噴火といったような具合でね。一方で君は詩人だ。君はとても繊細で、自分の感情をあらわにはしない。ヴァレーズが噴火した時に、君は何もする必要がない。まあ何もできないとは思うけれども(笑)。(中略)つまり、単に彼の真似をしないことを約束してほしいんだ。*11
 マクフィーにしてみれば、気弱に見えるチョウが、ヴァレーズという圧倒的な「活火山」に飲み込まれ、単なる二番煎じになることを危惧したのだろう。考えてみれば、マクフィー自身、ヴァレーズに師事したことがあるとはいえ、作風にほとんど共通点はない。そして実際、この後のチョウはヴァレーズの影響を強く受けながらも、しかし着実に独自の道を模索してゆくことになる。その意味では、このアドバイスを忠実に守りながらヴァレーズとの関係を築いていったわけだ。
 弟子入りした、まさにその初日に面白いエピソードがある。
 自作(オーケストラのための「風景」)の譜面を見てもらい、あれこれアドバイスを受けた後、「来週もまた同じ時間に来なさい」というヴァレーズに、チョウは答えることができなかった。というのも、実家からの仕送りが止まり、レッスン料を払う当てがなかったのである。そもそもレッスン料の話が出なかったので、いくら払うべきなのかも定かではない。戸惑いながらそれを告げるや否や、ヴァレーズは烈火のごとく怒り出したという。かくして最初の「噴火」が起こった。

突然、彼は怒り出した。顔は真っ赤である。興奮した時の彼は常に、あの太い眉毛を上下させるのだが、その時はまさにそうなっていた。なんと厳めしかったことか。幾人かの友人は彼をライオンと呼んでいたが、確かに彼はライオンのように見えた。少しの間をおいて、彼は言った。「誰がレッスン料のことなど口にした?」彼は続けた。「私はドビュッシー、ブゾーニ、ロマン・ロランにずいぶんとお世話になった。が、1スーも、1ペニーも払ったことはない」。こうして彼がレッスン料など全く求めていないことが分かったのだった。*12
 確かに、この連載の前半で何度も見てきたように、ある意味で、ヴァレーズほど多くの先輩達から無償の善意を施された人物もいない。若い作曲家に恩返しをするのは当然だと思っていたのだろう。ただし独特のユーモアとでもいうべきか、無料でレッスンを行なうことが決まったあとに、ヴァレーズはこんなことを言っている。

 だが、そのあとに彼はウィンクしてこう言ったものだ。「だけど、いつの日か、中国製の大きな古いゴング(タムタム)を僕にプレゼントしてほしいのだが?」。私はほどなくして、彼の願いをかなえてあげた。彼はそれを気に入り、以後、しばしばそのゴングと一緒に写真をとることになった。そして彼が死んだ後。ルイスは私に、ヴァレーズがやはりとても好きだったという他のゴングをひとつ私にくれた。それは彼が「イオニザシオン」を書いていた頃に、パリの道端で買ったものである。このタムタムの交換は、なんだか象徴的な意味を持っているような気がする。*13
 チョウは、兄がサンフランシスコのチャイナ・タウンで見つけたゴングを彼にプレゼントし、そしてヴァレーズがパリの街角で買ったゴングを最終的には得た。なるほど、これは実に象徴的なエピソードだ。二人の間にあったのは、単なる師から弟子への一方通行の関係ではなく、ひとつの親密な交換関係だったように見える。こうした師弟は決して多くないはずだ。
 いずれにしても指摘しておかねばならないのは、ヴァレーズがチョウという弟子から少なからぬ恩恵を受けていることである。様々な状況を勘案すると、ヴァレーズの精神はチョウという存在を得てから、徐々に安定にむかっている。もちろん、主に身体の不調に由来する鬱に見舞われることもあったものの、妻のルイスのみならずチョウという絶対的な味方を得たことで、ヴァレーズの精神はかなり落ち着いたと推定されるのである。チョウは次のようなエピソードを披露している。

 ヴァレーズとの勉強は、精力的なレッスンにとどまらなかった。この頃には、本当にいろんなことをしたものだ。例えば、グリニッチ・ヴィレッジを歩き回り、イタリア系移民が住んでいる家をひとつのこらず訪ねて「ボンジョルノ、プロフェッソーレ!」と言って回るなんていうことも。我々はワシントン・スクエアで人々がチェスをしているのを見物し、様々な小店をひやかし、コーヒーを飲んだ。夕食は「モンテズ」が彼のお気に入りだった。朝から午後まで仕事をしたあと、遅いランチをとる時には、二人で近くのトラットリアに駆け込んだものだ。ヴァレーズは「腹をすかせた僕の友人のために何か出してくれよ?」と言うのが常だった。*14
 70歳近いフランス出身の作曲家と、20代終わりの中国出身の作曲学徒という、ニューヨークの不思議な師弟コンビはこうして、この時期、こんな風に行動を共にしていたのだった。筆者がチョウにインタビューした際にも(2002年)、彼は何度も「あの頃にはいつもヴァレーズと一緒にいて、ほうぼうを歩き回ったり、車を運転してピクニックに行ったりした。ウェレット[伝記作者]はそうしたことを何も書いていないけれどね」と懐かしそうに語っていた。
 当然ながらチョウは妻のルイスとも親しい関係になり、お互いの翻訳作業などについてしばしば意見を交わしたという(チョウは中国詩を英語に翻訳する仕事も手掛けているが、その訳書のひとつはルイスに捧げられている)。ちなみに当時、ヴァレーズの弟子には、やはりオーストラリアという「辺境」出身のマルク・ウィルキンソン(その後、劇音楽や映画音楽の分野で大成することになる)がいたが、彼の述懐にはヴァレーズと私生活で懇意にしたという話題は全く出てこない。
 若いチョウがこの過程で受けた恩恵はとてつもなく大きなものだった。ヴァレーズやルイスと家族のように付き合う中で、チョウは多くの演奏会に出入りし、美術や文学を含めたニューヨークのあらゆるジャンルの芸術家たちと知り合うことができた。彼らの多くは、チョウと同じようにヨーロッパやアジアから様々なものを求めてニューヨークへと渡ってきた人々である。音楽家に関して言えば、ラッグルスやサルセードを初めとする「ヴァレーズ組」の作曲家、ルーニングやウサチェフスキーといった電子音楽の作曲家、そしてケージやブーレーズ、ジェームス・テニーといった若手と、チョウは瞬く間に親しく付き合うようになっていた(一時期、チョウはヴァレーズの命を受けてテニーに作曲のレッスンを行なっていたことがあるという。当然ながら無料である)*15
 また、現代芸術からダンテまでを横断するヴァレーズらの会話に刺激されて、若いチョウは自らのアイデンティティたる中国文化を再び学び直すことを決意する。かくしてコロンビア大学で中国の古典をあらためて勉強しつつ、最先端の電子音楽研究センターにも顔を出すという形で、チョウは自らも「ルネサンス人」たる決意をしたのだった。
 作曲のレッスンを受けるのみならず、チョウは早い段階から様々な形で「付き人」のような役割も与えられている。ヴァレーズのトレードマークである黒いブリーフケースを持ち歩くのが、まずは彼の仕事となり、さらにはヴァレーズが指揮する「グレイター・ニューコーラス」の仕事に関しても、楽譜の浄書といった側面でサポートを行うようになった*16
 しかし、より重要なのは作曲のアシスタントとしての仕事だろう。1949年末から、チョウはヴァレーズの作曲を、かなり深部において補佐することになる。きっかけとなったのは、ヴァレーズが関わったひとつの付随音楽だった。

1949年の終わり頃、私は映画監督のバージス・メレディスによるブロードウェイ・ミュージカル「ハッピー・アズ・ラリー」のための短い楽曲「バージスのための踊り」のスコアを手伝うことになった。その後すぐに、ヴァレーズは20年間もの間従事していた「空間」を諦め、その素材を「デゼール」につぎ込むことにした。ヴァレーズが新しい部分を作曲する一方で、私はそうした過去のスケッチを、次々に直接スコアに書き込んでいくことになった。この頃は本当にエキサイティングだった。仕事場はサリヴァン・ストリートにあるヴァレーズの2階建ての家の全ての部屋であり、いたるところにスケッチやコピーの山が散乱し、その内のいくつかは、彼のデスクとして機能している長く細い板の上に、洗濯ばさみでワイヤーに吊るしてあるという始末だった。我々はそれを「ヴァレーズの洗濯紐」と呼んだものだ*17
 こうして仕事をする中で、徐々にチョウ自身もヴァレーズの作品に関してはっきり意見を言うようになってくる。
 のちの1961年における「エクアトリアル」改訂はその一例だろう。もともとバスに名歌手シャリアピンを想定していたヴァレーズは、それが実現しなかったことを嘆いていたというが、それならば8人のバス歌手によって担当させればよいというのがチョウの意見だった。結局、これが改訂版では採用されることになる。連載の第6回「前言語への志向」で触れたような、バス合唱部の精妙な構成(微分音で声がずれる)は、この結果として現出したものだ。また、「砂漠」に関していえば、チョウはオーケストラ部のみを続けて演奏しても十分に魅力的ではないかとヴァレーズに強く進言している。この結果として、スコアには「テープ部がなくとも演奏可能」という一文が付されることになった*18。ただしうがった見方をするならば、元来、電子音楽にそれほどシンパシーがなく、そして自分が関わった「砂漠」こそが最高傑作だと断言するチョウにとって、むしろテープ部は邪魔だったということもあり得よう。テープ制作に他のアシスタント(アン・マクミランやトルコ人のブレント・アレルなど)が加わっている点も、少々気に入らなかったのかもしれない。
 チョウはのちに、「砂漠」以降、最晩年のヴァレーズの仕事を十分に手伝えなかったことを悔やんでいるのだが、これは逆にいえば、彼が徐々に一人の作曲家として認知されてきたことを示している。1953年には、ヴァレーズとの出会いの時に携えていた「風景」がストコフスキーとサンフランシスコ響によって演奏されているから、30歳の作曲家としては上々のスタートだろう。
 こうしてチョウが少しずつ独り立ちを遂げてゆくなかで(とはいえ、ヴァレーズとの密接な関係はまだまだ続くのだが)、この1953年には別の東洋人がグリニッチ・ヴィレッジのヴァレーズ宅を訪ねている。

■吉田秀和との出会い
 意外かもしれないが、日本人として、最初にヴァレーズと親交を持った人物のひとりが吉田秀和である。
 1913年生まれの吉田は、自らが40歳となる1953年、およそ1年余りをかけてアメリカとヨーロッパを訪問した。吉田にとって初めての洋行であったこの旅行の様子は、のちに『音楽紀行』(初版1957年)と題された書物にまとめられることになる。ハワイを経てアメリカ西海岸に上陸した吉田は、サンフランシスコを皮切りにして、東海岸のニューヨーク、そして大西洋を経てフランス、イタリア、ドイツ・オーストリア、ロンドンと驚くほど精力的に音楽会を聴き、様々な音楽人たちと交流した。「本場」の音楽界を初めて覗くことになった日本の音楽批評家の、実に生き生きとした、しかし終始どこか不思議な憂鬱をたたえた筆致は今でも十分な読み応えがある。
 この道中で彼はフルトヴェングラー、ワルター、クレンペラーなどの実演に接することになるのだが、面白いことに道中のニューヨークで、わざわざヴァレーズ邸を訪れているのである。吉田は、シュトッケンシュミットやアンドレ・マルローとの文通の中で、この作曲家の重要性を知らされていたのだという。
 まず我々にとって興味深いのは、以下の記述である。

……彼の未発表の『スタディ・フォー・ヴォーカル』という作品をきかせてくれたが、これは数声のヴォーカルに簡単な打楽器の添えられたもので、言葉も所々あるし、ヴォーカリゼーションだけの部分もある。緊張度の烈しい音楽だが、さすがにサイレンや奇妙な打楽器、金管楽器を使うほかの音楽ほどの甲高い軋みのような音はもたない*19
 この作品は一体何だろうか。「スタディ・フォー・ヴォーカル」という作品はヴァレーズにはない。もちろんスケッチ的な習作ということはあり得るけれども、重要なのは吉田がテープで音を聞いていることで、つまり、これは何らかの形で既に演奏されたものなのである。そして、この時点で演奏された、声楽と打楽器の作品といえば、「空間のためのエチュード」以外あり得ない。ヴァレーズ自身が正確なタイトルを言わず「声楽の探求(スタディ・フォー・ヴォーカル)」といって聞かせたのかもしれないし、あるいは「空間のためのエチュード」というタイトルを吉田が誤って記憶していた可能性もある(吉田のヴァレーズについての記憶は、細部ではかなり曖昧なところがある)。
 いずれにせよ、とすれば吉田は日本人で唯一、幻の作品といえる「空間のためのエチュード」を耳にしたことになろう。吉田は、この時に出会ったヴァレーズに強い印象を受けたらしく、ニューヨークからパリへと移ったあとで次のように綴る。

実験的で、ある意味では破壊的でもある人が、人間としてはむしろほかのもっとおとなしい伝統的な作風の音楽よりもはるかに十九世紀から二十世紀の初めにかけてのいわゆる芸術家らしい芸術家の雰囲気を感じさせたことも、今(ぼくはパリでこれを書いている)考えてみると、重要なことだった。ほかの人はもっと単純な市民であったり、職人であったり、乃至は学者風だった*20
 このあと吉田は、ウィリアム・シューマン、カロル・ラートハウスなどが聡明な紳士としてふるまっていたことを対比的に記している。つまり、往々にしてビジネスライクで「賢い」アメリカの音楽界の中にあって、ヴァレーズという人が明らかに異質な存在であることを40歳の吉田秀和ははっきり見抜いていたことになろう。実際、ヴァレーズの作曲ほど、アメリカ的な効率から遠いものもない。ちなみに吉田によれば、会見の際にヴァレーズは「何とかして重い日本のゴングを買えないかとぼくに相談した」という(相変わらずのゴング好き!)*21
 さらに吉田は1954年の秋、1年間の洋行を終える間際にパリでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を聴きにいった際、オペラ座でばったりとヴァレーズに出会う。この時、彼はまさに「砂漠」初演の準備のためにパリに滞在していたのである。自作の最終的な調整のさなかでも「ペレアス」を聴きに行くところが実にヴァレーズらしいともいえよう。その出会いのエピソードは『音楽紀行』のほとんど最後のページに近いところに位置しており、どこか、吉田のヨーロッパ体験の締めくくりのような色合いを称えている。

その晩、ぼくは遠山一行君と一緒だったが、ちょうどここでぶつかったエドガー・ヴァレーズと、かえりみち、モンパルナスまで歩きながら、ぼくはこんな話[ペレアスとゴローについての吉田の解釈]をした。ヴァレーズは、ドビュッシーを知っていた。「彼こそは天才だった。われわれにはあんなに美しい音楽を書く権利がない」とヴァレーズはいった。ヴァレーズという人は本当に芸術的な人だ。ああいう音楽をかきながら、ペレアスを称え、モンテヴェルディの「オルフェオ」やベルクの「ヴォツェック」を好み、そうしてR.シュトラウスの「エレクトラ」にはすばらしいものがあるという*22
 一般のヴァレーズのイメージは「早すぎた前衛」にして「過激な破壊者」というものだったわけだが、ほんの短い付き合いにも関わらず吉田は、ヴァレーズという人の土台が根本的には「19世紀末に生まれたヨーロッパ人作曲家」のものであることを見抜き、ほとんど執拗にそればかりを記している。慧眼というほかない。
 のちに吉田は『現代音楽を考える』と題した書物に収められたひとつの章で、ニューヨークとパリでのエピソードを再度振り返っている。これがまた、さすがというほかない滋味あふれる文章なのだ。「私は、ヴァレーズが大好きだった。私のいっているのはヴァレーズその人のことである」と始まるこの章は、彼の自宅の一階にはまるで工作場のように色々な機材や打楽器が散乱していたことを述べた後で、次のように記す。音楽でいえば突如として転調が起こったような個所だ。

しかし、そこから二階の居間にいくと、今度は、まったくちがった雰囲気だった。今でも覚えているのは、まずそこに、すばらしい深みをもった青色の絨緞が敷いてあったこと。それから法隆寺の玉虫の厨子ではないけれど、ともかく、ああいった形と、そうして淡い海老茶の赤がかったような色の戸棚が置いてあり、そこに模様が描いてあったこと。(中略)そうして、部屋の真中でヴァレーズ婦人が背中の高い椅子に腰かけていた。私は、お茶かあるいは冷たい飲みもの、アルコールか何かの接待をうけたはずだが、それは忘れた。ともかく、あとにもさきにも、私はかつてアメリカ人の家の部屋で、あんなに落ち着いた心と、暖かい感情と、そうしていかにも真実な志操をもった芸術家らしい芸術家の姿をみたことはない*23
 そして、ヴァレーズはふと、かたわらにあった二枚のレコードを「これが私の愛する音楽だ」といって示したというのだが、それは、意外なことにベルクの「抒情組曲」とモンテヴェルディのマドリガル集だった*24。吉田はこの選択にひどく驚くのだが、考えてみれば、彼がヴァレーズの音楽的背景について正確な理解(と敢えて言っておく)に到達することができたのは、この最初の体験が大きかったのかもしれない。そして『音楽紀行』では特に触れられていなかったヴァレーズ自身の戸惑いについても、『現代音楽を考える』では少なからぬ記述が割かれている。

ヴァレーズはまた、私に、かつて人々は自分のことを罵倒した末にあんなに長い間、忘れてしまっていたのに、戦後になって急に想い出したらしく、先年(一九五〇年)にはドイツのダルムシュタットから招待が来て、若い音楽家に話をしてきたし、作曲の注文も来るようになった、それに「密度21.5」はいまやたらにやられるようになったらしいなどと、話していた。だが、その話の節々には、なんというか、一種のとまどい、というより、一種の警戒からくるよそよそしさとでもいった表情が混じるのだ。(中略)長いこと戦ってきた間はさっぱり認められなかった人が老年になって、急に若い人たちから求められるようになった時は、どういう気持ちがするものだろう?*25
 吉田秀和のこの種の評論においては、作曲家の様々な言説は「吉田節」に染められており、そのまま受け取るわけにはいかない(本人自身もこの章の中で「私はいま正確に自分のきいたものを、その言葉ではっきりと再現しているわけではない」と述べている)。しかし、この文章が当時のヴァレーズの「気分」のようなものを見事に掬い取っていることも、また間違いないように思われるのである。おそらくヴァレーズはまさに戸惑い、場合によっては、なにがしかの怒りのようなものをこの頃に感じていたのではないだろうか。少なくとも筆者の知る限り、どの資料や証言を読んでも、ヴァレーズが自身の「ブレイク」を喜んでいたという様子はうかがえない。
 残念ながら、このあと吉田秀和とヴァレーズが出会うことは二度となかった。しかし、この邂逅は間接的に、ヴァレーズを日本に招聘するというプロジェクトへとつながってゆくことになる。

■外山道子と雅楽
 そしてもう一人、ヴァレーズとニューヨークで関わった日本人に、作曲家の外山道子がいる。この出会いは、ヴァレーズの音楽にいくばくかの影響を与えた可能性がある点において、ある意味では吉田の場合よりも興味深いものだ。
 外山道子は、日本人として最初にISCM(国際現代音楽協会)の作品展に入選したことで知られる女性作曲家である。その生涯にはもう一つ明らかでない部分があるのだが、まずは以下、いくつかの資料を接ぎ合わせながら、わかるところを簡単に記してみよう*26。外山は1913年、大阪に生まれた。1930年に17歳で渡仏し、36年にエコール・ノルマルに入学。ナディア・ブーランジェに師事する。1937年にジャック・イベールの推薦を得て、ソプラノと室内楽のための「やまとの声」をISCM国際大会に応募し、入選(日本人としてのISCM入選第一号。ただしパリ支部からの応募)。その後いったん帰国したのち、52年からは再渡仏してパリ音楽院でミヨーとメシアンに師事した。そして1955年にアメリカのタングルウッド音楽祭の奨学金を得てロジャー・セッションズに学んだのち、コロンビア大学に移り、ウサチェフスキーとルーニングに電子音楽を師事……こう辿ってゆくと、当時の日本人としては破格のキャリアをもった作曲家であることが理解されよう。
 伝記作家ウェレットによれば、ヴァレーズと彼女が出会うのは1958年である。外山はジョン・ケージに勧められてヴァレーズのもとを訪れたのだった。ウェレット宛ての書簡(1960年8月31日付)で、外山は次のように述懐している。

ヴァレーズ氏のもとを訪れた際に、私はふと「アンテグラル」と「オクタンドル」のスコアを手に取ってみたのです。最初のページに目を落とした途端、ある思いが私を貫きました。「これは雅楽では!」と私はひとりでつぶやいていました。私が持っていた、とある雅楽の楽譜と、楽器書法の点において注目すべき共通点がヴァレーズの作品にはあったのです。*27
 この印象を確かめるために、後日、外山はニューヨークで行われた日本の雅楽の演奏会に彼を誘う。思い切って「あなたの音楽はまるで雅楽のようなのです」と告げると、ヴァレーズは「私は雅楽のことを何も知らないのだが」と言いながら、いたく喜んだという。そしてヴァレーズは、これを機にして雅楽に興味を持ち始めたらしい。ある時、外山がヴァレーズ宅を訪れると、彼は笙の音階構造について熱心に勉強していたというのである*28。このエピソードを信じるならば、外山の導きによってヴァレーズは雅楽と出会ったことになろう。
 外山は、翌1959年に、コロンビア・プリンストン電子音楽センターで「waka[和歌]」というタイトルの初めての電子音楽作品を制作している。ヴァレーズものちの1960年から61年にかけて、やはりこのセンターで「砂漠」のテープ部分を改訂しているから、人脈的にも二人の関係はかなり近い。実際、1959年12月31日、ヴァレーズが外山に宛てて「私はこれから『砂漠』のテープ部分を改訂するところです。春までには完成するでしょう」と書き送っているところを見ても、おそらくこの頃の両者は頻繁に連絡をとっていたのだろう*29
 晩年のヴァレーズが雅楽に興味を持ち、その一端を学んだことは、少なからぬ重要性を持っている。ウェレットは、最後の作品「ノクターナル」には雅楽の影響が見られると述べているのだが*30、実は筆者もある程度はそう考えているのだ。しかし、この作品を検討する前に、この時期に生じた、もうひとつの日本とヴァレーズの関係について確認しておこう。

■日本招聘のプラン:草月ホールの企画
  1951年から52年にかけてパリに留学経験がある黛敏郎は、日本人としてはきわめて早くからヴァレーズの音楽に注目していた一人である。とりわけ1955年の「トーンプロレマス55」は、はっきりとヴァレーズへの傾倒があらわれた音楽といえよう。黛は初演のプログラムで以下のように述べる。

……エドガー・ヴアレーズの云う『卜-ンプレロマス』という語は既成語にはないが、pleromeとは荘厳さと力に溢れた状態をいう、と同著[ヘンリー・ミラー『冷房装置の悪夢』]の訳註に記されている。(中略)私たちに与えられているオーケストラの機能とは、つまり後期ロマン派あたり迄の音楽を表現するに最も相応しく完成されて仕舞つているものなのだ。そして私たちの持つ東洋の美学は、後期ロマン派的表現から最も遠いところにある。絶望した私の前に、エドガー・ヴアレーズが立つていた。1920年代に書かれた彼の音楽が、そして彼の思想が、30年を距てた今日もなほ何とみずみずしくモダーンに響くことか。私はふたたびオーケストラを認識し始めた。*31
 実際、曲を聴いてみれば、とりわけ前半ではあからさまに「ヴァレーズ風」の打楽器群がサイレンを伴ってダイナミックに炸裂する。大気を切り裂くようなポルタメントを聴かせるミュージカル・ソウも、テレミンやオンド・マルトノといった電子楽器の代替物として構想されているのかもしれない。ただし曲は、後半にいたってマンボの引用などが混入しはじめ、全く別の音楽世界へと接続されることになる。若き黛ならではの才気あふれた作品というべきだろう*32
 この作品を発表したのち、黛はヴァレーズとコンタクトを取り始めることになる。最初に仲介したのは吉田秀和で、現在、ザッハー財団には吉田秀和がヴァレーズに宛てた「あなたに私の友人である黛敏郎氏を紹介したいと思います。彼は作曲家で、日本においては現在もっとも注目すべき若い才能の一人です。これから、彼は東京からストックホルムに向かい、国際音楽祭[ISCM]で「エクトプラズム」という曲のヨーロッパ初演を行ないます」といった、黛を紹介する旨のフランス語の書簡が残っている(1956年4月10日)。
 こうして紹介された黛は、この直後の5月からは直接、ヴァレーズに手紙を送るようになる。そこで彼は自身の音楽や日本の作曲界について説明するとともに、時には自作のテープを同封し、意見を求めた。書簡はいずれも短いものではあるが、1958年8月25日付の手紙では、第二回の軽井沢現代音楽祭(二〇世紀音楽研究所主催「現代音楽祭」)でヴァレーズの「比重21.5」が演奏されたこと、そして音楽祭自体が順調に運営されていることなどが述べられている。この時期、ヴァレーズは期せずして外山道子と黛敏郎という二人の作曲家とコンタクトを持ち、日本の伝統音楽、そして日本の同時代音楽について知識を深めることになったわけである。
 こうした中、黛が芸術顧問のひとりを務める草月ホールの「草月アートセンター・コンテンポラリー・シリーズ」に、ヴァレーズを招聘するという話が持ち上がった。このセンターの代表を務めていた勅使河原宏は1959年にニューヨークのヴァレーズと会合を持ち、60年10月の来日を打診する。以下に引用する、ヴァレーズから勅使河原に宛てた書簡(ただしヴァレーズの手元に残っているタイプ打ちの下書きであり、日付はない)の内容から察するに、おそらく実際に会った時に最初の依頼があり、その後はフランスの美術評論家で勅使河原と交流があったミシェル・タピエが仲介にあたったのだろう。ちなみにタピエは、宏の父である華道家、勅使河原蒼風を世界の美術界に紹介した人物である。

 お返事が大変に遅れてしまったことをお許しください。まずはタピエ氏と話をしなければと思っていたのです。そして彼が旅立った後に、私はひどい風邪にかかってしまい、寝込んでおりました。私が現在ニューヨークを離れることができない理由、そして10月に行われるあなたの音楽祭に参加するために日本に行くことができないのをどれだけ申し訳なく思っているかは、タピエ氏から既にお聞きになっているかと思います。このようなうれしい話をお断りするのは難しいことでした。
 私は長い間、あなたの美しい国を訪問し、あなたの友人である、様々な分野において才能あふれる芸術家たちに会うことを願っていました。テープや楽譜を通じて(とりわけ黛氏からのものです)、そして映画や絵画や彫刻やいくつかの文学によって、私は今日の日本における知的で芸術的な活動についての知識を持っています。
 しかしながら、タピエ氏によれば、私の訪問を1961年に延期することが可能かもしれないとのこと。その頃までには、私は現在取り組んでいる、議会図書館にあるクーセヴィツキ―財団からの委嘱作品を終えているはずで、お望みならば東京でその作品を演奏することも可能でしょう。妻も私も、昨年にニューヨークでほんの短い間にせよお会いできたのをうれしく思っています。(後略)*33

 1960年のヴァレーズは、クーセヴィツキ―財団からの委嘱作「ノクターナル」に没頭しており、日本への招聘を受けることはできなかった。しかし、翌年ならば可能だろうというわけである。これに対する、勅使河原の7月7日付返信(英語)が残っている。

……病気の件を存じ上げず、申し訳ありませんでした。しかし、新しい作品を手がけていると聞いて、うれしく思います。前の手紙に書いたように「New Composers」というグループのリサイタルが、毎月、草月ホールで行われています。次の回は将来を嘱望されている岩城宏之という指揮者によるもので、そこであなたの「イオニザシオン」が岩城の指揮により、日本初演されます。他にはメシアン、ストラヴィンスキーを演奏します。「イオニザシオン」は間違いなくセンセーションを巻き起こすでしょう、とりわけあなたの作品に関心ある人々の中では。あなたが来年には日本に来てくれるときいて、楽しみでなりません。一刻も早くお会いしたいと思っています。お身体に気をつけてください。
 まさにこの手紙が書かれた翌日の7月8日と9日、赤坂の草月ホールにおいて「作曲家集団7月の会 岩城宏之」が行われており、そこでは「イオニザシオン」に加えて、メシアン「5つのルシャン」、ストラヴィンスキー「兵士の物語」が演奏されたのだった。
 さて、翌年のヴァレーズ招聘プランを次の段階に進めたのは黛敏郎である。黛はこの1960年末からフォード財団の招きでニューヨークに滞在するが、この時にヴァレーズと直接の知己を得て(1960年12月12日に行われたヴァレーズの誕生パーティにも黛は出席している)、1961年の招聘について話し合った。しかし、おそらくは「ノクターナル」完成の見通しがなかなか立たなかったせいもあり、結局、ヴァレーズの来日は翌1962年の春にあらためて設定し直される。
 日本に帰国した黛による、1961年9月28日付のヴァレーズ宛書簡では「お会いしたのが六ヶ月前とは信じられない気持ちです」と述べられているから、最後に2人が会ったのは61年の3月頃だったのだろう。黛は、招聘に関して、以下の8つの条件を挙げている。

1.草月アートセンターがヴァレーズ夫妻を1962年3月に招待する。
2.すべての交通費、宿泊費はこちらで負担する。
3.3週間の滞在を予定しているが、場合によっては延ばすことも可能。
4.オール・ヴァレーズ・プログラムの演奏会を行なう。N響による「デゼール」など。
5.2つの室内楽演奏会を草月ホールで行う。
6.講演の機会も設けたい。
7.もしも滞在を延ばせれば、NHK電子音楽スタジオで作品を作ることも可能。
8.勅使川原宏が、個人的なゲストとして夫妻を京都と奈良に連れて行く。

 至れり尽くせりといった条件であろう。もしもこの時にヴァレーズが来日し、N響で「デゼール」が演奏されていれば、あるいはNHKのスタジオで電子音楽を制作していたら(!)、日本でのヴァレーズ受容も大きく変わっていたかもしれない。しかしきわめて残念なことに、この時期、ヴァレーズの体調は徐々に下降線をたどっており、とりわけ1961年の冬には気管支炎が悪化していた。1961年11月5日付の手紙で、ヴァレーズは勅使河原に「医者にも止められてしまったので」と日本行きを断念する手紙を送っている。
 かくして、ヴァレーズの来日は幻のまま終わってしまった。ちなみに、その代わりというわけではないのだろうが、この1962年の草月ホールにはジョン・ケージとデヴィッド・チュードアが登場し、前年の大阪での公演に続いて、日本の楽壇に衝撃を与えることになる。
 こうした中で書かれた最後の作品「ノクターナル」について、いよいよ我々は検討を始めねばならない。

■「夜」をめぐって
 ヴァレーズの最後の作品となったのが「ノクターナル Nocturnal」である。もっとも、この作品は1961年5月1日に初演されたものの(この時には全体で93小節の長さを持っていた)、ヴァレーズはその出来に満足せず、改訂を続ける中で死んでしまったという経緯を持っているから、「完成作」といってよいかどうかは、やや微妙なところである。彼の作品でいえば「空間のためのエチュード」のケースと似た存在といえよう。
 そして例によって、この作品は長い前史と、一筋縄ではいかない作曲の経緯を持っており、その複雑なプロセスは、ヴァレーズ研究者の多くにとっても随所で不明な点を残している。複雑さの主なポイントは、とりあえずは初演にこぎつけた「ノクターナル」と、未完のプランのままに終わった「ノクターナルⅡ」の関係から生じている。このふたつの作品を同一のものとしてみるのか(すなわち後者を前者の改訂版としてみるのか)、完全に別個の作品としてみるのかは、きわめて難しい問題というほかないのだが、しかしその在り方は、我々をヴァレーズ作品に関する重要な認識に導くことになるだろう。
 以下、状況をなるべく分かりやすく解きほぐしてみたい。
 まず、ヴァレーズは1951年の夏、アンリ・ミショーに詩「夜のなかでDans la nuit」の使用許諾を求める手紙を送っている。この時点のヴァレーズは「砂漠」の器楽部分の作曲途中であるから、単にミショーの詩を次回作で使おうという、おぼろげなアイディアだった可能性が高い。詞は23行ほどの短いものだが、前半を引けば次のようなものである。

 夜のなかで/夜のなかで/おれは夜と合体した/はてしのない夜と/夜と。
 おれの夜 美しいおれの夜よ
 夜よ/おれを叫びと逆毛で/満たす/誕生の夜よ/おれを浸し/波のようにうねり*34

 最晩年のヴァレーズは「夜」と「闇」に惹かれ、しかし同時にその奥に潜む「死」に抗うという往復運動を繰り返す中で徐々に気力と体力を消耗してゆくことになるのだが、1951年の時点では、まだその気配はさして濃いものではない。ちなみに、この詩はどこか、ヴァレーズがパリ音楽院を中退したばかりの1906年に作曲した「暗く深き眠り」の詩を思い起こさせもする。「暗く果なき詩のねむり/われの命に落ちきたる/ねむれ、わが希望/ねむれ、わが慾よ!」とうたうヴェルレーヌの憂鬱は、おそらくは半世紀後のミショーにまで通底するものだ。
 ミショーからはすぐに許諾の返事が来たものの、「砂漠」の作業に忙殺されていたヴァレーズは、当然ながら、すぐに手をつけることができなかった。
 次にこの作品らしきものが記録の中にあらわれるのは1954年の10月である(吉田がオペラ座でばったりとヴァレーズに遭遇した頃だ)。この時、パリで「砂漠」の電子音楽部分を制作中のヴァレーズは、フランスの批評家オディール・ヴィヴィエに対して、アンリ・ミショーの詩と、そしてスペインのカトリック司祭にして神秘思想家である「十字架のヨハネ」に由来する「魂の闇夜」という語を用いた「夜Nuit」を次回作として考えているのだと語っている*35。注意深い読者ならば覚えているかもしれないが、実はこの「魂の闇夜」という語句は、あの「空間のためのエチュード」でも用いられていたものなのだ。となると、やはりこの曲の場合も、ヴァレーズの未完のプランが様々に流用、変形されていることになる。
 さらに1955年、ヴァレーズは、この「夜」をパリで初演できたらよいのだがと、再度ヴィヴィエに語っている*36。きわめて興味深いのは、現在、ザッハー財団のヴァレーズのスケッチの中には、この頃に作成されたとおぼしき、ミショーの「夜のなかで」の詩に付けたリズム譜が残っていることだ。リズムと共に、シュプレッヒシュティンメのような形で大雑把な音程がつけられたこのスケッチは、ヴァレーズがミショーの詩をなんとか作品の中に取り込もうとしていた過程をあらわしている。考えてみれば、この1955年という年は、「砂漠以降、ポエム以前」という時期だから、ヴァレーズには比較的時間があった。ここで彼は本格的に「夜」に取り組もうとしたのだと思われる。
 1957年、この作品のタイトルは原詩と同じ「夜のなかで」に変化し、さらにはオンド・マルトノ2台と合唱、そして15の管楽器という編成が、ヴィヴィエに伝えられている。しかもテキストとして、単にミショーの詩のみならず、亡命詩人たちの詩、ロシアの詩、クセナキスに依頼したギリシャ語の詩、そして口承文学などが含まれるというのである*35 。こうした構成は、「空間」に酷似したものといえよう。しかし、1957年のヴァレーズにはブリュッセル万博における「ポエム・エレクトロニク」という大仕事が舞い込んできたために、当然ながら「夜/夜のなかで」は後回しにせざるを得なかった。
 ひとつの転機になるのは、「ポエム」の上演を前年に終えた1959年である。この年にクーセヴィツキ―財団から新作の委嘱を受けたヴァレーズは、以前から温めていた「夜/夜のなかで」のプランに、再び真剣に取り組み始めた。初演日が1961年5月に設定されたこともあり、ヴァレーズはかなり焦っていたようである。もちろん普通の作曲家であれば1年半後に初演される予定の作品委嘱など、さしたる困難ではなかろうが(オペラのような大作ではないのだから)、ヴァレーズの年齢、そしてそのプランの拡がりを考えると、決して楽観視はできない。
 彼はこの1959年にボストン交響楽団から、タングルウッドのアメリカン・コンポーザーシリーズでこれまでの作品を演奏しないかという誘いを受け、一時は乗り気になっているのだが、その後、「時間に余裕がない」とあっさり断っている(1960年3月3日付)。すなわち新作初演の1年以上前にも関わらず、すでに余裕がない状態なのだ。そして先に見たように1960年の日本訪問も、新作の作曲で忙しいことを理由に、翌年に(のちにはさらに翌翌年に)延期されることになった。
 体調が徐々に下降線をたどる中、彼自身もどこかで、これが最後の作品になると考えていたのかもしれない。ともかくこの時期のヴァレーズはきわめて慎重であり、若いころの大言壮語はもはや影を潜めて、ひたすら新作のことを考えていたように見える。

■アナイス・ニンと「ノクターナル」
 1960年、初演まで1年という時期に、ヴァレーズは大きな決断をする。ミショーの詩をいったん放棄して、アナイス・ニンの『近親相姦の家』を用いることにしたのである。これは、「夜/夜のなかで」と「ノクターナル」を一続きの作品と考えるならば「変容」といえるが、二つの作品を別物と考えれば「分裂」ということになろう。ともかく全体としては似たようなプランながらも、別の詩を用いる新作へとヴァレーズは舵を切った。
 面白いことに、ヴァレーズはもともと、アナイスの父親であるキューバ人作曲家ホアキン・ニンをよく知っていた。ホアキンはスコラ・カントゥルムで作曲を学び、その後1908年からはベルリンに住んでいたから、どちらかで二人は出会ったのだろう。ただし、やがてヴァレーズはこの父親をひどく嫌うことになる。ホアキンはオペラ歌手であった妻と娘(アナイス)を捨てて別の女性と再婚しているから、このふるまいがヴァレーズ自身の父親を思い起こさせたからかもしれない。また、研究者のマルコム・マクドナルドは、ヴァレーズが、ホアキンとアナイスの近親相姦的な関係を知っていた可能性もあるとしており(アナイス・ニンがこのことを公開するのはヴァレーズの死後ではあるが)*38、とすればそうした怒りもあったのだろう。
 いずれにしても、50年代のうちに、アナイス・ニンはしばしばヴァレーズ宅を訪れて、ヴァレーズやルイスと親しい関係を結んでいる。これは彼女が書いたヴァレーズ追悼の文章の中に「私が家のベルを鳴らし、ヴァレーズが迎えてくれるときにはいつも……」といった一節が混じっていることからもうかがえる*39
 なにより興味深いのは、ニンという女性がアントナン・アルトー、そしてその後はヘンリー・ミラーと愛人関係にあったことだ(アルトーとの関係については「愛人」というほど深いものではないのかもしれない)。ニンはのちに公刊した日記の中で、ミラーとの関係を、その情事も含めて赤裸々に語っている。
 いうまでもなく、アルトーもミラーもヴァレーズがテキストを依頼した人物だった。これは単なる偶然とは思えない。ヴァレーズにしてみれば、多くの文学者とコラボレーションを果たしながらも完成させられなかった「ひとりぼっち/天文学者/空間」の延長線に、アナイス・ニンのテキストを用いた新作が位置していたのではなかろうか。そう考えてみると、この「夜/夜のなかで/ノクターナル」の、不気味なほどに変転し拡大する構想が理解できるような気もするのである。ニンはのちに『近親相姦の家』の日本語版への序文で、以下のように綴っている。

『近親相姦の家』は、その発端をユングの《夢から外部へ出る》という言葉から得た。1930年代、パリでのことであるが、ヘンリー・ミラーとわたしは様々な夢の記録をつくることを始めたのだった。ふたりは、その夢を織り合わせ、ミラーは彼のものを「夜の生のさなかへ」と呼び、わたしは自分の記録を「近親相姦の家」と呼んだ*40
 まさにニンの『近親相姦の家』は、1930年代というヴァレーズの沈黙の時代の記憶、そしてアルトーがテキストを書くはずだった「ひとりぼっち/天文学者」、そしてヘンリー・ミラーがテキストを書くはずだった「空間」という作品の残像を引きずりながら選択されたように思われるのである。ただし、このヴァレーズ最後の作品には「ひとりぼっち/天文学者」にも「空間」にもなかった要素が色濃く入り込んでいる。ミショーの詩に由来する「夜」というモティーフだ。その意味でこの作品は、80歳近いヴァレーズが、これまでの人生で果たせなかった様々な未完のプランを、「夜」という側面から見直し、凝縮したものに他ならない。
 この小説とも詩ともつかない(おそらく散文詩というのがもっとも適切な呼び名になるのだろうか)不思議なテクストは、ほとんどストーリーを持っていないが、しかし、とてつもなく豊饒で鮮やかなイメージを次々に繰り出して、アナイス・ニンという作家の才能をいやというほどに見せつける。それは「生まれて初めて眼にした地上の光景は、水の紗幕に蔽われていた。私はこの海という張幕を透してあらゆる物を見る男と女の種族に属しており、両の眼は水の色をしている。」という冒頭近くの抒情的な一節からも、あるいは作品終盤で、両腕のない女が一人で踊る情景(「わたしの両腕はもぎ取られてしまったの、と踊る女は歌った。執着故の罰を受け、それだけ、わたしは執着したの。愛するものの一切をこの手に掴み、人生の美しい瞬間に掴みかかり、私の両手は時間という時間をいっぱいに取り囲んだ」)だけを読んでみても明らかだ。
 そしてまたひとつ気づくのは、このさして長くない作品の中に、きわめて多くの音楽的なメタファーがちりばめられていることである。ニンが作曲家と歌手の間に生まれたということを思えば当然かもしれないのだが、目立つ個所だけ抜き出してみても「彼女が死んだ時、その骨から彼は一本のフリュートを作ったのである」「メリザンドの髪がオペラ・コミック座のバルコニーに懸かり」「私の動脈がシンバルのように音をたて」「時間は、ピアノの鍵を弾きながら、象牙で出来たチェスの駒のように過ぎ去り」「そのカスタネットは、亡霊のふむステップに似て響いていた」*41といった具合に音楽関係の単語が頻出する。また、下の文章などは、どこか作品全編の基調を成しているとさえいえよう。

遙かに遠い昔、人間の耳には及ばない音に耳傾けながら、泳ぎまわり、漂い、骨のない爪先で立ち、人間の眼にとどかぬ物を目路に追う。アトランティスの鐘々の記憶に充ちて生まれ、失われた音に変わらず耳傾け、消え去った色彩を追い求め、記憶に戸惑う人に似て敷居際に限りなく佇み、それから、泳ぎのひとかきで歩きまわる。大きく分たれた鰭で私は虚空を切ると、壁のない部屋部屋をぬって泳ぐ、静けさの楽園、無音の音楽に似て身体の通り過ぎる路に顫えている大伽藍から追放されて*42
 ここからも分かるように『近親相姦の家』は紛れもなく、きわめて「音楽的」な作品である。ヴァレーズがこのテキストに惹かれた理由のひとつはここにあっただろう。
 1960年の初頭、ヴァレーズはニンに対して作品使用の許諾を求める手紙を送ったようである(この手紙は残っていない)。同年の2月21日付のヴァレーズ宛の返信で、アナイス・ニンは次のように述べている。

 親愛なるエドガー・ヴァレーズ様、
 あなたが私の「近親相姦の家」を作品の中で使いたいと思っていらっしゃることを、とても誇りに思います。ご存知の通り、私にとってあなたはもっとも偉大な現代作曲家なのですから。本のどこを使ってくださっても、引用されても結構ですし、すべての単語を、あなたが望むどのような形にしてくださってもかまいません。もしも私の本のタイトルがあなたの音楽にふさわしくなかったら、一緒に考えてもよいですし、あなた自身が決めてもよいです。あるいは、あなたの作品の要求にうまく呼応するようにそれを変えてしまっても構いません。

 ニンとしては、どう使ってくれてもよいというわけである。また、確かに「近親相姦の家」というタイトルは、あまり音楽作品にふさわしいものではないだろう。結局、ヴァレーズは、ニンのテキストからいくつかの断片を抜き出し、それと自らが作った「前言語的な」シラブルを対置させるというアイディアに到達する。ただし奇妙なことに、あれだけ喚起的で鮮やかなイメージの連鎖が続く『近親相姦の家』から、ヴァレーズはむしろどこか凡庸で、ごく一般的な単語ばかりを抜き出しているようにも見える。

お前は夜に属している/私は起きる。私は常に磔の後に起き上がるのだ/暗闇/パンと聖餅/生まれぬものの嘆き/香りと精液/私は兄弟を失った/ふたたび成長する/窓の中の顔/光のささない窓/死の影/私は彼の影にキスをした
 ほとんどの個所は文章の体を成しておらず、散発的に語句を抜き出したというに近い。
 これは、ミショーの詩のイメージがいまだ強烈にヴァレーズの頭の中にあったからではなかろうか。というのも、この語句の選択からは、ミショーの「夜のなかで」が透けて見えるのだ。実際、ヴァレーズは作曲中の1960年8月に、ミショーの「夜のなかで」の語句をモールス符号に置き換えることを、伝記作家のウェレットに依頼している。ウェレットはすぐにこの作業をこなしてヴァレーズに結果を送った(8月18日)。いったいヴァレーズが何を企んでいたのかはよく分からないのだが、彼がまだミショーの詩の語句がもつリズムに惹かれていたこと、それを何らかの形で作品に取り込みたいと考えていたことを、この事実は示している。
 いわばヴァレーズは、ミショーの詩から得たインスピレーションを、ニンのテキストに投影したということになるのだろう。ただし、その結果として、ミショーが描いた、陰鬱ながらもどこか柔らかい風情の「夜」は、ニンの手による悪夢のような夜へと変化している。いわば、ここにおいて夜と死は決定的に結びついてしまった。
 なにより象徴的なのは、「ノクターナル」の中で何度も繰り返され、もっともよく耳に飛び込んでくる「おまえは夜に属しているYou belong to the night」という一節である。実は筆者が確認した限りにおいて、ニンの原典にこの語句は存在しないのだ。いかにも全編のどこかにありそうだし、似たような表現は何度もあらわれるものの、この5つの単語がそのまま連なる部分は原詩にはない。とすれば、ヴァレーズは前言語的なシラブルに加えて、この一文のみを自ら付け加えたということになるだろう。
 その意味で――やや詩的な解釈ではあるけれども――、このテキストを選択した時に、ヴァレーズの最晩年が始まったといってもよい。闇に惹かれ、何度も引きずり込まれながらも、死に抗う過程としての年月が幕をあけるのだ。
 このテキストにヴァレーズは、きわめて虚ろで不吉な音楽を対峙させた。ここに聴くことができるのは、それまでのヴァレーズの音楽のように、張り詰めた緊張感が続いたのちに一瞬で爆発を遂げる、といった展開ではない。もちろん小爆発はいくつか起こるものの、常に沈黙と闇の中に旋律が引きずり込まれてゆく。
 そもそもこの曲は、他の作品と比べたときに、音の重なりがきわめて薄い点に特徴がある。確かに個々の音の音程関係はヴァレーズの音楽そのものなのだが、密度が圧倒的に低く、しばしば休符で音楽が中断する。それはどこかベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲や、ショスタコーヴィチの後期の弦楽四重奏曲を思わせもする。おそらくは一種の晩年様式というべきなのだろう。
 そしてこの「薄さ」には、さらに以下の二つの理由が想定できるはずである。まず、なにより作曲が間に合わなかったこと。チョウによれば、初演の日を迎えるまでに当初の構想の半分ほどしか完成していなかったが、ともかく強引にスケッチ段階のものを初演譜に仕立て上げたのだという。ゆえに、後に述べるように、チョウはヴァレーズの死後、自らがスケッチを精査した上で大きな補筆を加え、現在の出版譜を仕上げることになる。
 そして「薄さ」の原因のもう一つの可能性として考えられるのは、外山道子を通じて知った(そして黛からも示唆を得たかもしれない)雅楽からの影響である。慎重に判断しなければいけない問題ながらも、どうもこの曲の弦楽器群は雅楽における「笙」の役割を果たしている節があるのだ。たとえば15小節目から23小節目にかけて、延々とタイでつながる弦楽器のハーモニクスの和音は、その長く棚引く時間感覚、そして倍音のクリアな音色のみならず、高い音域でe音とfis音がぶつかる形が笙の合竹(和音)と酷似している。古典雅楽における笙の合竹の基本形は11種類あるが、そのうちの約半数、5種類は高音部でeとfisが全音で衝突する形をとっている。ゆえに、笙を知っている人であれば、この個所では容易に笙の響きを想起することができるはずだ。とはいえ、本当にヴァレーズがそのように意識していたのかどうかは、今となってはわからない。
 いずれにしても「ノクターナル」は、若干の付随音楽を除けば、1927年の「アルカナ」以来(室内楽作品としては1921年の「オフランド」以来)、ヴァレーズがおよそ34年ぶり(!)に弦楽器を使った作品である。チョウによれば、これは演奏会の音楽監督を務めていたチャールズ・シュワルツが求めたことだというのだが、しかし単にそれだけの理由で弦楽器を使うほどヴァレーズが素直だとは思えない*43。全編を通してほとんど影のようにまとわりつく弦楽器は、他の管・打楽器のみの編成による諸作品とは明らかに異なるキャラクターを音楽に与えている。笙の代用かどうかはともかくとしても、明らかにこの曲には、弦楽器が必要だったのだ。
 編成は弦楽5部に加えて、ピッコロ、フルート、オーボエ、クラリネット2、ファゴット、ホルン、トランペット2、トロンボーン3という管楽器群、6人を要する打楽器、ピアノ、そしてソプラノ独唱とバス合唱。「バス合唱」が入るあたりは、同じ年に改訂された「エクアトリアル」を思わせよう。
 曲は、f音からオクターブ上のAs音へと抜ける細い響きで始まり、打楽器の散発的な響きに、バス合唱の「ワ、ヤ、ユー、ユー/ワ、ワ、ヤオ」といった前言語的シラブル(彼はこうした語句を晩年には「強度のシラブル」と呼んでいた)が挟まる。バス合唱の用法はかなり独特で、ほとんど亡霊のように浮かび上がっては、沈み込むことを繰り返す。やがて管楽器の緊張感に満ちた(いかにもヴァレーズ的な)響きが導入されるものの、しかし音は何度も途切れてしまう。バス合唱の「おまえは夜に属している」という語が何度も繰り返され、そこにユニゾン的に様々な楽器が絡みついたあと、ようやくソプラノ独唱が導入される。しかし言葉は徐々に不思議な母音へと融解し、バス合唱との静かな掛け合いに到達。そして曲はその後、どこか並列的に様々なブロックを経由して、最後は「私は彼の影にキスをした」とソプラノがつぶやくと、転落の末にぷっつりと切れる。
 こうした構成は、ヴァレーズ晩年の虚無感を反映したものともいえるだろうし、単に未完の断片をつなげたせいのようにも思われる。いずれにせよ、彼のあらゆる作品の中でも、もっともミステリアスな様相を湛えた楽曲であることは間違いない。

■「ノクターナル」初演とその後
 初演が行われた1961年5月1日の演奏会は、チャールズ・シュワルツが音楽監督を務める「コンポーザーズ・ショウケース」という個展シリーズの一環だった。
 シュワルツによって1957年に開始されたこのシリーズは、現代音楽とジャズを共に扱う点に特徴があり、デューク・エリントンやコール・ポーターから、コープランド、ヴァイル、ガーシュイン、ストラヴィンスキー、そして後にはバーンスタインやベリオ、そしてジョージ・クラムなどに至る作曲家を紹介することになるユニークな催しである。当初は2丁目の小さなギャラリーで始まり、のちにはMOMA(ニューヨーク近代美術館)やホイットニー美術館を主な会場にしていたが、ヴァレーズの回にはニューヨークの43丁目に位置するタウン・ホールが選ばれている。ここはおよそ1500人のキャパシティを誇る大ホールであり、主催者側のヴァレーズに対する期待がうかがえよう(もちろん、プログラムに「砂漠」が含まれているために、ある程度以上の舞台の広さが必要だったという事情もあろう)。指揮者は、前年にヴァレーズ作品のレコードをリリースしたばかりのロバート・クラフト。
 この演奏会前後のニューヨーク・タイムズを調べてみると、2週間前にあたる4月16日から、断続的に3回の広告が出されている。

   音楽監督チャールズ・シュワルツ  コンポーザーズ・ショウケース
           エドガー・ヴァレーズ 演奏会
        タウン・ホール 5月1日月曜日 8時30分

 ノクターナル ソプラノ、男声合唱、オーケストラ(世界初演)
 エクアトリアル 男声合唱とオーケストラ(改訂版初演)
 砂漠 電子機器とオーケストラ
 ポエム・エレクトロニク 電子機器による

指揮:ロバート・クラフト オーケストラ席:3ドル バルコニー席:2ドル   ボックスオフィスまで

 実際にはこの4曲に加えて、ひとつだけ旧作にあたる「オフランド」(ソプラノと室内管弦楽)が演奏されているが、これは新作の「ノクターナル」にソプラノが含まれていることからの選択かもしれない。いずれにしても、この時点でのヴァレーズの集大成のような演奏会といえるだろう。会場の規模も含めて、これだけ大きな個展はヴァレーズの人生において他にない。
 先にも述べたように、当夜、初演されるべき期待の新作「ノクターナル」は完成には程遠い状態だった。しかし、この大きな場で新作を欠いた個展はあり得ない。シュワルツとしてもクラフトとしても、もちろんヴァレーズにしても、それは避けたかっただろう。結局、演奏会の2日前にヴァレーズは、そこまでの途中の段階のスケッチを寄せ集めたものをコピイストに渡すことを決断せざるを得なかった(ゆえにこの曲には統一的な自筆スコアは存在しない)。リハーサルはわずか1回。おそらくヴァレーズとしてみれば、きわめて不本意な結果だったはずである。
 翌日のニューヨーク・タイムズはこの演奏会を大きな枠をとって報告しているが、しかし残念なことにロス・パルメンターの文章は、批評というよりは出来事を報じる点に比重が置かれており、やや物足りない。
 記事は「一般に信じられているように、芸術家が先を進んでいるわけではない。単にほとんどの人々がそこに追いついていないだけなのだ」というヴァレーズの言葉を引用しながら、この演奏会に1100人もの「ファッショナブルで音楽に詳しい」若者たちが来場した事実を紹介する。そして、作曲者に拍手喝采があったことをもって「ヴァレーズ氏はこの点では勝利をおさめた。(中略)この人々たちは彼を現代の巨匠とみなしたのである」としているが、この書きぶりからすると、パルメンター自身はあまりピンと来なかった可能性が高い。実際、楽曲の内容に関しては、ほとんど具体的な記述がないのだ。新作である「ノクターナル」については、以下のような記述のみ。

「私は兄弟を失った」。これは今回初演された「ノクターナル」の中で聴きとれた叫びのひとつである。そしてこれは電子音楽の「ポエム・エレクトロニク」における人間の声と同じく、予想外[fortuitous]のものではなかった(1961年4月2日)。
 これだけというのもひどい話である。記事はこのあと、ヴァレーズが1915年にフランスからアメリカに渡り、前衛作曲家として活躍してきたことなど、ごくありきたりのプロフィールをなぞって終わっている。ちなみに当然というべきか、この時になっても、ヴァレーズの生年は1885年と、誤ったまま(=ヴァレーズが詐称したまま)記されている。
 もっとも、初演評がどうという以前に、「ノクターナル」が中途半端な状態であることは間違いない。かくしてヴァレーズは演奏会後すぐに改訂作業、あるいは後半の作曲に入ることになった。初演時には93小節という短い作品だったが(おそらく5分少々の長さだったはずである)、最終的なチョウの補筆版は170小節あるから、おそらくその大部分はこの初演後に書かれた素材なのだろう。
 この頃、彼は批評家のオディール・ヴィヴィエに、サティの「ソクラテス」のスコアをニューヨークに送ってくれないかと依頼しているのだが、もしかすると声楽書法などに関してヒントにしたいと考えたのかもしれない*44。しかしヴァレーズはやがて、この「ノクターナル」を、そのままの形で完成させる気がなくなったように見える。
 というのも、1962年以降になると、ヴァレーズはしばしば「ノクターナルⅡ」あるいは「夜」というタイトルを持った作品の構想について、語り始めるのである。おそらく彼はまだミショーとニンのテキストの間で、迷いを感じていたのだろう。それにしても、いったいこれは、初演された「ノクターナル」の改訂版なのか、あるいは全く新しい作品なのだろうか。ヴァレーズに関する様々な伝記記述や作品表は、この点に関してかなり混乱した状態にあるのだが、1977年のシンポジウムでチョウは次のように語っている。

1961年から、死去する1965年に至る最晩年において、彼はさまざまなタイトルを付してはいたものの、基本的にはひとつの作品を書いたといえる。多くの人が、様々な機会に彼に対して作品を求め、そして用いようとするテキストが変わっていったために、これほど多くのタイトルが現れたのだ。今日になっても彼がこの時期に従事していた、実際にはひとつの作品に関して、様々なタイトルが流布している。(中略)「夜のなかで」「夜」「ノクターナル」「ノクターナルⅡ」という具合に*45
 諸般の状況を考慮すると、おそらくこれが正解ということになるのだと、筆者もまた考える。晩年のヴァレーズは、おそらく、結局はひとつの作品を書いていた。それはアンリ・ミショーの「夜のなかに」とアナイス・ニンの「近親相姦の家」をふたつの核としながら、暗く沈んでゆく夜に捧げられており、時によってさまざまな方向に針が振れるものの、おそらくはひとつの領域の中でゆらゆらと揺れている作品なのだ。もちろん、解釈次第で、これらを別の作品と考えることも可能だろうが、いずれにしても書き散らかしたスケッチはあれ、個々の作品としての実体は存在していない。
 そして、そう考えたときに、ヴァレーズの後半生の全てが、あらためてある一つの作品へと集約していくことに気づくのである。ある意味で、これは恐ろしいことではあるのだが。

■「空間」という巨大な中心領域
 何度もこの連載で述べてきたように、1930年代から40年代にかけてのヴァレーズには長い空白期間がある。それは1936年の「比重21.5」から1947年の「空間のためのエチュード」にいたる11年間であり、さらに「エチュード」を一種の未完成作品と考えるならば、空白は1954年の「砂漠」に至るまで18年間に及ぶ。
 この間、ヴァレーズが完成させようと試みていたのは「空間」という作品だった。いや、「空間」と呼ばれていた時期がもっとも長いものの、その前には「ひとりぼっち」であり「天文学者」であったといってもよい。これらはそれぞれ、異なったテキスト、異なったプランを持ってはいたものの、しかしそのテキストやプランは激しく錯綜し、変転を遂げており、むしろ一つの「作品領域」と考えるのが、おそらくは正解なのだ。
 ヴァレーズの奔放に拡がる想像力と好奇心、そして厳しく言うならば一種の社会性の欠如は、これらのプランを、複縦線をきちんと備えた単体の「作品」という狭い部屋の中に閉じ込めておくことを不可能にした。もちろん連載の第8回で述べたように、第二次大戦後のアメリカに住むフランス人という特殊な状況も、作品化を妨げただろう。結局、かろうじて「空間のためのエチュード」という小さな実は生まれたものの、それはヴァレーズがもともと抱いていた途方もないプランとは比べるべくもなく、彼は即座に「お蔵入り」させずにはいられなかった。いたたまれない気持ちだったに違いない。
 この空白の奮闘努力を経たあと、ヴァレーズの手にはさまざまなアイディアの断片、決してそれだけでは完結しない断片的なスケッチの束が残された。チョウは、ヴァレーズ宅に出入りするようになった頃を回想して、次のように語っている。先に引用したものと一部の記述内容が重なるが、重要な部分なのでそのまま挙げておこう。

彼が何も作品を発表していない時期でも、彼は、実際にはとても一生懸命に働いていた。長い間にわたって、膨大なスケッチのコレクションが彼のスタジオに吊るされていたのを私はいつも目にしていた。彼はそれを長い紐に――彼の机の前の壁にある――吊るしており、「洗濯紐」などと呼んでいた。その後、彼は「砂漠」「ポエム・エレクトロニク」、そして「ノクターナル」を次々に作曲することになった。彼が机上で作業しているものを除けば、「洗濯紐」のスケッチはそれほど変わってはいないようだった。今にしてみれば、それをもっと近くでよく見ておけばよかったのだが。これは私の想像なのだが、おそらくその時に彼が扱っていたのは、あの何も産みだせない時期に書かれたスケッチだったのだろう。「砂漠」「ポエム・エレクトロニク」「ノクターナル」、そして残された様々なスケッチを見てみると、これら全ては彼が1940年代に取り組んでいた仕事に関係していることに気づくのだ。では、これらの膨大なスケッチはどこにいったのだろうか?明らかにある段階で、つまり死の間際に、彼は全てそれらを処分した。私はおそらく、ある時期にヴァレーズが、夫人に対して突然にそれを指示し、二人で破棄を行なったのだと推測している。彼は確かに新しい作品をいくつか書いたけれども、それは古い素材によってだったということになるだろう。ヴァレーズ夫人は、ほんの少しの素材についてはなんとか残してくれたが、しかしほとんどのスケッチは消滅してしまったのである。*46
 チョウが最初に「砂漠」を手伝ったとき、そこで使われていた様々なスケッチが「空間」のために書かれたものだったことを、ヴァレーズは最初、隠していたという。ヴァレーズがどういう気持ちだったのかは分からない。しかし空白期間に作った膨大なスケッチを、おそらく彼が生涯にわたって使い続けたことは、おそらくは確かなように思われる。もっともチョウによればそのスケッチのあるものはリズムのみ、あるものはラフな楽器指定のみといった具合で、そのままではとても使えないようなものばかりだったというのだが*47
 考えてみれば、筆者もザッハー財団に残された一次資料の調査を始めたときに、最初は大変に不思議に思ったものだ。というのも、あれだけ長く関わっていたのに「空間」に関する音符のスケッチが、ただの一片も残っていないのである(以前に論じたようにテキスト案はいくつか残っている)。「ひとりぼっち/天文学者」に関しても、連絡の第6回に譜例で示した「天文学者の主題」「シリウスの主題」という二つの旋律断片のみしかない。しかし、いくらヴァレーズが怠惰な作曲家であったとしても、11年間にわたって、まったく音楽的なスケッチを書かないということはあり得ないだろう。当然ながら、おそらくは膨大な楽譜のスケッチがあったはずなのだ。
 第二次大戦後に「復活」したヴァレーズは、そうしたスケッチを基にして、いくつかの作品を仕上げることになる。決してアイディアが枯渇したというような、単純な話ではないはずだ。しかし「空間」という中心領域から、いわば、この作曲家の生涯の全ての夢が詰まった作品から、ついに最後までヴァレーズは離れることができなかった。「砂漠」以降の彼は、その膨大なスケッチの断片を基にしながら、ひとつひとつ「空間」の別な可能性を具体化していったように思われるのである。ヴァレーズの作品のタイトルにもなっている「アルカナ」は、16世紀の錬金術師パラケルススが想定した、あらゆる自然を貫く本質的な秘密の力を指すが、「空間」という巨大なブラックホールのような作品は、まさに彼にとってのアルカナに他ならない。
 証拠は全く無いながらも、筆者は、ヴァレーズがすべてのスケッチを処分したのは1961年末から1962年のどこかの地点だと考えている。というのも、この時期にヴァレーズは、唯一譜面が残っていたヨーロッパ時代の管弦楽曲「ブルゴーニュ」を破棄しているからだ*48。この冬、気管支炎が悪化したこともあって、ヴァレーズは深刻な鬱状態に陥った。おそらくは自らの死がさして遠くないことを意識したに違いないのだが、それにしても不可解な行動ではあろう。1908年に書いた「ブルゴーニュ」はヴァレーズにとっては初めて演奏された記念すべき管弦楽作品なのである(ただし1910年の初演以来、一度も再演されていない)。どうしてこんな重要な曲をわざわざ破棄する必要があるだろうか*49。もちろん、その筆致は幼いものだったのかもしれないが、40年以上前、まだ20代半ばの駆け出しの作曲家の手によるものなのだ。しかも、この曲は生涯にわたって彼が愛した叔父のクロード・コレットに捧げられた作品なのである。
 ちなみに、以前にも記したが、ヴァレーズが最愛の叔父クロードに捧げた作品は、意外なことに生涯でたった2つしかない。それは「ブルゴーニュ」と「空間のためのエチュード」なのだ。なんと象徴的なことだろうか。「空間」をめぐって書き溜めた膨大なスケッチが、「ブルゴーニュ」のスコアと共に捨てられたのであれば、すべての辻褄が合う。
 ヴァレーズはこの時に、何事かを決断したのだろう。死を予感し、すべてを清算しようとしたのか、あるいはヨーロッパ、愛する叔父、そして「空間」という大切な過去をあえて捨てて、最後に新しい一歩を踏み出そうとしていたのだろうか。もちろん、今となっては誰にも分からないことではある。

■「私は怖いのだ」
 1960年代前後になると、創作の停滞とはうらはらに、ヴァレーズの評価はさらに高まってゆく。今や多くの人々が、ヴァレーズという人物を、未来への音楽のビジョンを一貫して示し続けた英雄として賞賛するようになった。
 ヴァレーズは1959年にプリンストン大学の研究センターで講演したのち、モントリオールに招聘されてテレビ放送に応じている。1960年にはカナダの国際会議に出席し、そこで「砂漠」の改訂版(テープ第2版)が演奏された。翌61年にはテープ第3版もラジオ・カナダで初演されている。また、ちょうどこの時期に日本招聘の話が持ち上がっていたことは前述の通り。さらに62年にはついに、クラフト指揮で「砂漠」のレコード(テープ第4版)も出版された。
 今やヴァレーズの音楽は、かつてのように一部の関係者のみが知るようなものではなく、現代音楽に興味のある人ならば誰もが知り得るものとなっていた。さまざまな賞の受賞も、ほとんど毎年のように続く。1962年には、ブランダイス大学芸術創造賞を得るとともに、スウェーデン王立アカデミーのメンバーに推挙され、1963年にはクーセヴィツキ―国際録音賞を得た。この録音賞は、ニューヨークのプラザホテルで盛大なレセプションが開かれ、ノーベル賞をとったばかりのサン=ジョン・ペルスの祝辞を皮切りにして、コープランド、バーンスタイン、ブーレーズ、バビットらがスピーチを行うという盛大なものだった。新聞記事に写真が載っていないのが残念なのだが、80歳にならんとする前衛作曲家は、こうした席でもいつものように苦虫をかみつぶしたような顔をしていたのだろうか。
 こうした中、ヴァレーズの体調は次第に衰えを見せるようになってくる。持病の気管支炎の悪化は、時として大きな発作の様相を呈し、眠ることもままならなくなった。とりわけ冬の寒さを迎えると病状は悪化し、「ブルゴーニュ」を破棄した1961-62年の冬に続いて、62-63年の冬もほとんど仕事をすることができずにいた。かろうじて1963年の9月、ルイスは伝記作家ウェレットに、ヴァレーズが小康状態を取り戻したことを伝えている。

ヴァレーズの調子がよいことを報告できてうれしい気持ちです。(中略)お医者様は、レントゲンと蛍光透視検査の結果、彼が本当に快方に向かっていることを保証してくれました。彼は再び仕事を始めています。この一年、気管支の病気とそれによる落胆によって、ほとんど彼の仕事は進みませんでした。ようやく健康を取り戻したのです。私は彼が、皆が切望する「ノクターナルⅡ」を完成させてくれることを願っています*50
 ウェレットによれば、ヴァレーズはこの頃、最初の「ノクターナル」を放棄し、さらにアンリ・ミショーによる「夜のなかに」もあきらめ、再びアナイス・ニンのテキストを用いた「ノクターナルⅡ」に取りかかっていたというが、先にも見たように、これらは実際には全てが一続きの領域内にあると考えた方が合理的だろう。
 1964年の1月には、バーンスタインとニューヨークフィルが、リンカーン・センターにおいて「デゼール」を3日間にわたって演奏し大喝采を浴びる(もっとも、相変わらずブーイングもとんだという)。ヴァレーズはウェレットに「これまでで最高の演奏だ。なんと素晴らしい指揮者と演奏家たちであることか」*51と演奏にいたく感激した旨を手紙にしたためている。このあとも翌年にかけて様々な場所でヴァレーズ作品が演奏されているが、最後の栄誉といえるのが1965年8月に受賞したエドワード・マクダウェル・メダルだろう。これは顕著な功績を残したアメリカ人芸術家に与えられるものであり、つまりはヴァレーズが「アメリカの作曲家」として公的に認められたことを象徴するものだった。しかし同時に、ヴァレーズはこの8月には、いよいよ来るべき最期の時について、そして作品や資料の行方についてルイスと相談を交わすようになっていた。
 ルイスが弟子のチョウ・ウェンチュンを自宅に呼び出したのは1965年8月7日である。  最初に、まずはルイスが一人でチョウと面会し、ヴァレーズの死後、全ての音楽資料の管財人になってくれるかどうかを問うた。チョウは躊躇なく、これを承諾した。その後、ヴァレーズ本人があらわれ、わずかに「私の作品の面倒を見てくれるのだな?」「もちろんです」という短いやりとりのみが交わされたという。チョウによれば「その様子はまるで、彼が『来週にまた来なさい』という時のようだった」*52。これ以後、チョウはヴァレーズと、楽譜の出版を今後どのように進めてゆくかについて話し合うことになる。
 結果として、このヴァレーズの処置は(あるいはチョウという有能な弟子の存在は)、彼の作品を後世に残すにあたって、大きな意味を持つことになった。それまでのヴァレーズの出版スコアはあまりにも誤りが多いものであったのだが、ヴァレーズの死後、チョウはコールフランク版、そして新リコルディ版にいたるまで長い校訂作業を続けて、根気強く誤りを直してゆくことになる。おそらく、チョウの尽力がなかったら、ヴァレーズ作品は今のような形では残っていなかったかもしれない。
 しかも、ヴァレーズが死去し、さらにルイスも亡くなった後、チョウはヴァレーズが住んでいたサリヴァン通りの一軒家を引き継ぎ、現在にいたるまで住み続けることになった。もちろんこれは、ヴァレーズとルイスの夫妻に子供がいなかったからでもあるのだが、この一点をもってしても、彼らの関係が尋常ではないことが理解されよう。
 ただし、やや余談にはなるけれども、研究者の立場からいえば、ヴァレーズの自筆譜や書簡、そしてさまざまなメモ類などを全てチョウが引き継いだことが、結果としてヴァレーズ研究の遅れを招いたことも、また指摘できるかもしれない。というのもザッハー財団に全ての資料が移管される以前は、ほとんどの資料がチョウの自宅にあり、研究者がそれを参照することは、彼の許諾を得なければ、そして彼の手をわずらわせなければほとんど不可能だったからである。
 かつて2002年に筆者がチョウの家(=ヴァレーズが住んでいたサリヴァン通りの家)を訪ねインタビューした際にも、彼は「博士論文を書きたいという若い子たちがアメリカの各地から私のところにやってくるのだけれども、彼らは自分の業績のことばかりを考えていて、少々迷惑しているのだ」という意味のことを述べており(筆者もまさにそんな一人として映っていたのかもしれない)、あまり簡単には資料を見せたくないという雰囲気が漂っていたのを覚えている。2004年にスイスのザッハー財団に全ての資料が移管されてから(つまり80歳を越えたチョウは、ついにヴァレーズ自身の場合と同じように、これらの資料の行き先について考えたということになるだろう)、ようやく筆者を含む研究者たちがチョウを離れて資料を手にすることができるようになったのだった。
 1965年10月18日、ヴァレーズはコロンビア大学で行われた、ル・コルビュジェの追悼式典に出席している。ここでは「ポエム・エレクトロニク」を含むブリュッセル万博フィリップス館のドキュメンタリー・フィルムが上映された(面白いことに、前日の新聞は既に、ヴァレーズがこの式典に出席する予定だと伝えている)。しかし、ヴァレーズ自身に、もはや体力は残っていなかった。10日後の1965年10月27日、ヴァレーズは血栓症から発した腸閉塞によってニューヨーク大学のメディカルセンターに入院して緊急手術を行う。手術は成功したものの、11月5日、容態は急変した。
 この日、コロンビア大学で授業を行っていたチョウは、急遽ルイスから電話で呼び出されて、病院へと向かった。到着してみると、もはやヴァレーズの意識は朦朧としており、別れの時が近づいていることは明らかだった。そしてこの時、チョウは思いもよらないフランス語の一節が、ヴァレーズのうわごとから洩れるのを耳にする。

「私は怖いのだ……」(J’ai peur…)
 日本語訳は「不安だ」「心配だ」などいくつかあり得るかもしれない。しかし、いずれにしても、果敢に死に抗い続けた作曲家は、最後になってこのように吐露したというのである。なにより興味深くも神秘的なのは、チョウも指摘するように、この一文は、未完の「天文学者」においてひとりの天文学者がシリウスの光に飲みこまれる直前に発する言葉なのだ。これは単なる偶然というべきなのだろうか。
 この言葉について、ルイスもまた、オディール・ヴィヴィエへの書簡の中で触れている。

彼は最後の三日間、ほとんど話すことができませんでした。彼が目を覚ましている時には、その言葉を聴きとろうとしていましたが、何を言おうとしているのか理解できませんでした。しかしその表情は、時として不安気で、私は彼が考えていることがよく分かりました。悪夢だったのでしょう。ただ、一度だけ、彼がはっきりと発音するのを聞いたのです。「私は怖いのだ」と。彼は人生をとても愛していたのです!*53
 この一言を発した数時間後、翌6日の朝5時に、ヴァレーズはこの世から去った。彼の死後、チョウに宛てた手紙の中でルイスは、「入院して、手術を行った2日後、ひどく機嫌がよくなった時に――おそらく彼の最後の幸せな日だったでしょう――彼はとても熱心に次の作品のプランを練っていました。おそらくは舞台作品の『天文学者』を基にしたという『ノクターナルⅡ』について、再び話してくれたのです」と書いている*54
 ほとんど最後の瞬間まで、ヴァレーズは「ひとりぼっち/天文学者/空間」と連綿と続いた未完成作品の延長線上にある「ノクターナル/夜のなかで/夜/ノクターナルⅡ」の構想を練っていたのである。

■死後の反響
 こうしてエドガー・ヴァレーズは1965年11月6日に、81歳で死去した。翌日7日のニューヨーク・タイムズに大きな死亡記事が掲載されている。

  エドガー・ヴァレーズ(作曲家)死去
    「電子音楽の父」として知られる先駆的な前衛主義者
    科学を尊重
    芸術家と技術者の素晴らしい共同作業
    12音音楽の敵対者

 「電子音楽の父」として知られる作曲家エドガー・ヴァレーズが昨日朝早く、ニューヨーク大学のメディカルセンターで死去。ヴァレーズ氏は10月27日に腸閉塞を取り除く手術を行ったが、再発した。
 この前衛音楽の先駆者はこの12月22日には82歳になるところだった。一般的に彼の誕生日は1885年12月22日とされているが、これは2年ほど本来の生年よりは遅いのだと、昨日、彼の家族の関係者が語ってくれた。
 ヴァレーズ氏はパリで生まれ、9歳で家族と共にトリノに渡った。彼は若いころに数学や科学を学んだが、それは音楽のキャリアにもそのまま影響している。
 彼の正式な音楽修業は17歳の時に始まる。トリノから離れて2年たった時に、パリのスコラ・カントルムでルーセル、ボルデ、ダンディに学んだ。しかし反骨精神ゆえ、ダンディのアカデミズムを許容することができなかった。(後略)

 何より注目されるのは、生年が正しく1883年へと修正されたことだ。これはおそらく、ルイスの指図によるものではないだろうか。これまでずっと1885年生まれだと自称し、周囲にもそう思われていたヴァレーズはようやく本来の年齢に戻ったことになる(滑稽なことに、1960年には「75歳」を祝う大規模な誕生パーティが開かれ、さらに1965年末には「80歳」を祝う演奏会が企画されていた)。
 このあと、記事は「初期作品の破棄」「ストコフスキーによる紹介」「音響のパラボラ」といった見出しで、ヴァレーズの生涯を逐一追っていく。ちなみに最後のところには次のようにある。「死に臨みながら、ヴァレーズ氏はアナイス・ニンの『近親相姦の家』をテキストにした、ソプラノと楽器群のための『夜nuit』を作曲中だった。(中略)遺族は、未亡人であるルイス、そして最初の結婚の際の娘であるクロード・ヴァレーズがモナコのモンテカルロに住んでいる。彼の最初の妻、スザンヌ・ビングはフランスに住んでいる。ヴァレーズ氏の遺言により葬式は行われない。死体は火葬される」。葬式はいらないというのが、いかにもヴァレーズらしい。
 9日には高名な批評家のハロルド・ショーンバーグが「一匹狼、革命家、ひとつの世代の父」と題した長編の追悼文をニューヨーク・タイムズに寄せているが、そこでも生年は「1883年生まれ」となっているから、死後、瞬く間に情報が完全に更新されたわけである。おそらくはフランスの兵役逃れに端を発したヴァレーズの「嘘」は、こうした形であっさりと終息を迎えることになったのだった。
 当時、多くの人々がヴァレーズを悼む文章を発表している。ほんの2、3ほど紹介しておこう。
 作曲家のモートン・フェルドマンは「新音楽のパースペクティヴ」誌のヴァレーズ追悼号の中で「ヴァレーズがいなかったら、私の人生はどうなっていただろう? というのも、私のもっとも秘密でひねくれた部分において、私は彼の模倣者なのだ。音楽を真似したわけではない、私は彼の『スタイル』を真似したのだ。それは彼のスタンス、世界の中での身の処し方といったものだ」*55と「一匹狼」であったヴァレーズを惜しみ、かつて「シェーンベルクは死んだ」というセンセーショナルな文章で物議をかもしたピエール・ブーレーズは「あなたの時代は終わり、そして今また始まるのです」といかにも彼らしい弔辞を送った*56。そして、あのアナイス・ニンは「光は音よりも速いけれども、ヴァレーズの場合には、音の方が速いのです」という不思議な一節でその追悼文を締めくくっている*57
 ヴァレーズの死後、ルイスとチョウには重要な仕事がいくつか残された。ひとつは新しい楽譜の出版であり、もう一つは、中途半端な形で残されている作品の補筆完成である。
 1946年に初演されたままの「空間のためのエチュード」について、彼らはピエール・ブーレーズ、そしてガンサー・シュラーに補筆を依頼したという。しかしヴァレーズの自筆譜やスケッチがあまりに不確定であるとして、あっさりと断られてしまった*58。より大きな問題は、ヴァレーズが最後まで手掛けた「ノクターナル」である。ルイスはチョウに対して「ノクターナル」の補筆完成を依頼する。「エチュード」以上に散乱したスケッチを張り合わせて、ヴァレーズが考えたような作品を現出させることができるのはチョウしかいないことは明らかだった。
 しかし当初、チョウはこの仕事を躊躇する。というのも、生前の彼のアシスタントを務めるのとは異なり、混乱したスケッチからの補筆完成は、ある意味では彼自身がヴァレーズになりきりながら、すべてを決定していかねばならないからである。それは既に成長した一人の作曲家としては辛いことだったのだろう。なかなかイエスと言わないチョウに対して、業を煮やしたルイスは、ならば別の人に頼みます、と宣言したという。

私は思わず態度を軟化させた。「分かりました、分かりました、私がやります」。いくら私がやるべきではないと考えたとしても、他の誰かにできるとは到底思えないからである。(中略)作業を始めてみると、私はヴァレーズが意図していたことが段々に理解できるようになった。ヴェルディの「ファルスタッフ」のように、これは人生の末期になった巨匠にしか書けない類の音楽なのだ*59
 彼はリコルディ版のスコア序文で、この曲全体を「幻影のような世界? そう、しかしヴァレーズ自身の人生はまさにそうしたものだったのだ」と総括しながら、補筆の過程について説明している。作業は難航を極めた。初演の際に使われた楽譜自体、突貫工事ということもあって細かな間違いと省略に充ちており、さらにその後の部分に関しても様々な断片はあれど、全体像がはっきりしないのだ。意味不明のメモや指示書きを頼りにしながら、チョウは初演された前半部分をなるべく正確に修正するとともに、ヴァレーズが想定していたとおぼしき部分をスケッチから復元した。かくして初演時に93小節だった「ノクターナル」は170小節、ほぼ倍の長さで1969年に出版される。スコア序文を読んだルイスからの手紙には「あなたは『ノクターナル』の本質的な部分を捉えています。そう、この曲はヴァレーズの生涯と同じほどに、幻影あるいは悪夢なのです」と記されていたという*60。こうして長い幻影は終息を迎えた。

 ヴァレーズとは果たして何ものだったのか?
 もちろんそれを一言であわらすことなど不可能に決まっているのだが、筆者が思い出すのは、以前に引いたヘンリー・ミラーの文章だ。

私は右側にある空地をぬけて行く。思いがけなく、それはゴビ砂漠だ。冷たい月光に照らし出された百万か二百万の最近殺戮された人たちのことを思い出しながら、私はヴァレーズに向かっていう。『いまこそ君の笛(ホーン)を吹き鳴らしてくれ!』。冷たく死んでころがっている世界に、それはなんという音を立てるのだろう!これでも音楽なのだろうか? 私は知らない。知る必要はない*60
 この文章の通りというほかない。「冷たく死んでころがっている世界」で、彼は必死に笛を吹き鳴らした。それが音楽であったのか、なかったのかは、あまり重要なことではないだろう。そしてそれが誰に届いたのか、届かなかったのかも、もはやどうでもよいことのように思える。
 ヴァレーズは必死に笛を吹き続けたのである。
 ゴビ砂漠のような、この世界で。

*1 Odile Vivier, Varèse (edition du Seuil, 1973), p.90.
*2 カールハインツ・シュトックハウゼン『シュトックハウゼン音楽論集』(清水穣訳、現代思潮社、1999年)、30頁。
*3 ピエール・ブーレーズ『ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書』(船山隆、笠羽映子訳、晶文社、1982年)、224頁。ただし邦訳では「孤立した義勇兵」となっている。
*4 前掲書、225頁。
*5 Gianmario Borio, “A Strange Phenomenon: Varèse’s Influence on the European Avant-Garde” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionary (The Boydell Press, 2006), p.364.
*6 Iannis Xenakis, “La Crise de la musique sérielle” in Gravesaner Blätter 1 (July, 1955), p.3.
*7 このあとヴァレーズがどのように返信したのかは不明である。また、現時点でこの雑誌を確認できていないのだが、筆者の知る限り、ヴァレーズは結局この雑誌に寄稿していないと思われる。
*8 1957年、ケルンに住んでいたリゲティはヴァレーズへと手紙を送り、アメリカ移住について相談している。これについてヴァレーズがどのように返事をしたのかは定かではないが、リゲティが新大陸へと動かなかったことを思えば、色よい返事ではなかったのかもしれない。
*9 Don Gillespie “Chou Wen-Chung on Varèse: an Interview”, American Music, vol.27, No4 (winter 2009), p.443.
*10 Peter M. Chang, Chou Wen-Chung: The Life and Work of a Comtemporary Chinese-Born American Composer (The Scarecrow Press, 2006), p.24.
*11 Gillespie, p.445.
*12 Ibid., p447.
*13 Chou Wen-Chung “Converging lives: Sixteen years with Varèse” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionary (The Boydell Press, 2006), p.349.
*14 Ibid., p.350.
*15 Ibid., p.350.
*16 彼は楽譜出版社でも浄書の仕事を務めていたが、なんとプロとしての最初の仕事はまったくの偶然ながらも、ヴァレーズの「比重21.5」だったという。Ibid.,p.351.
*17 Ibid.,351.
*18 ヴァレーズが他界してから30年後の1995年、ブーレーズがシカゴ響とこの曲を演奏した際、状態のよいテープ部はないものかと相談されたチョウは、むしろなしで演奏してみてはどうか、それも可能であると説明し、かくしてブーレーズ盤ではオーケストラ部のみが録音されている。
*19 吉田秀和『音楽紀行』(中公文庫、1993年)、80頁。
*20 128頁。
*21 前掲書79頁。
*22 406頁。
*23 吉田秀和『現代音楽を考える』(新潮社、1975年)、35頁。
*24 実は最初の『音楽紀行』では「モンテヴェルディの『オルフェオ』とベルクの初期の歌曲」(82頁)となっており、不思議なことに両曲とも微妙に食い違っている。先に書いた『音楽紀行』の方が、記憶が新しい分信憑性が高いと考えられるが、モンテヴェルディのマドリガルは合唱で幾度も取り上げているレパートリーであるから、これもヴァレーズ宅にあったと考えてよいかもしれない。
*25 『現代音楽を考える』36,37頁。
*26 プロフィールについては、本人が直接関わっていると思われるレコード「WAKA and other compositions」(Folkways Records, FW8881, 1960) の解説部分を中心にして、『日本の作曲家―近現代音楽人名事典』(細川周平、片山杜秀監修、日外アソシエーツ、2008年)、『女性作曲家列伝』(小林緑編、平凡社選書、1999年)を補足的に利用した。これらの資料にはいくつかの年号などの点で食い違いがある。
*27 Fernand Ouellet, Edgard Varèse (English translation, DaCapo Press, 1981), p. 204.
*28 Ibid., p.204.
*29 Ibid., p.208.
*30 Ibid., p.205. ただしウェレットの説明はきわめて抽象的で、ヴァレーズが雅楽に「永遠性」を見ており、それが「ノクターナル」にあらわれているとしている。
*31 「3人の会」プログラム1955年6月23日。なお、この資料は西耕一氏にご教示いただいた。
*32 確かにヘンリー・ミラーは、ヴァレーズが「トーンプロレマス」という言葉を使っていたと『冷房装置の悪夢』(大久保康雄訳、新潮社、1967年)の中で述べているのだが(174頁)、筆者の知る限りでは、ヴァレーズの書いた文章の中にこの語は見いだせない。
*33 ちなみに、この書簡の最後には追伸として、外山(道子)によろしく伝えてくれという一文が入っている。
*34 アンリ・ミショー『ミショー詩集』(小島俊明訳編、思潮社、1969年)、70頁。
*35 Vivier, p.174.
*36 Ibid., p.174.
*37 Ibid., p.175.
*38 Malcolm Macdonald. Varèse : Astronomer in Sound (Kahn&Averill,2006), p.389.
*39 Anais Nin et al. “In Memoriam: Edgard Varèse (1883-1965), Encounters with Edgard Varèse”in Perspectives of New Music, Vol. 4, No. 2 (Spring - Summer, 1966), pp.1-13.
*40 アナイス・ニン『近親相姦の家』(菅原孝雄訳、太陽社、1969年)、10頁。
*41 それぞれ、前掲書の19頁、32頁、55頁、65頁、83頁。
*42 前掲書21-22頁。
*43 一方で、新しいリコルディ版「ノクターナル」の序文でチョウは、ヴァレーズがここで弦楽器を用いたのは、初演の際のプログラムに、やはり弦楽器を含む「オフランド」(1921)が含まれていたからに過ぎないと説明している。
*44 Vivier, p.177.
*45 Sherman van Solkema (ed.), The New Worlds of Edgard Varèse: A symposium (Institute for Studies in American Music, 1979), p.88.
*46 Ibid., pp.88-89.
*47 Ibid., p.90.
*48 ルイスがオディール・ヴィヴィエに宛てた1962年12月10日付の手紙で「およそ1年前に」破棄してしまったと述べている。Macdonald, p.17参照。
*49 1962年にヴァレーズはあるインタビューの中で、なぜ「ブルゴーニュ」を破棄してしまったのかという質問に対して「私は過去とともに生きることを好まないからだ」と答えたという。以下文献を参照。Hermann Danuser, “The Varese Myth” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionary (The Boydell Press, 2006), p.419.
*50 Ouellet, p. 214.
*51 Ibid., p. 215.
*52 Chou, p.354.
*53 Vivier, p.181.
*54 Chou, p.335.
*55 “In Memoriam”, p.12.
*56 Ouellet, p.218.
*57 “In Memoriam”, p.10.
*58 結局、「空間のためのエチュード」は、当初ヴァレーズが想定したという管弦楽版をチョウが完成し、2009年にアムステルダムで初演されている。ただし、これはもはやチョウの編曲版というべきものだろう。以下文献を参照。Calum Macdnald “Etude pour Espace and Varese 360°” in Tempo, vol.63, No.250 (Oct.,2009), pp46-48.
*59 Chou, p.356.
*60 Ibid., p.356.
*61 ヘンリー・ミラー『冷房装置の悪夢』(ヘンリー・ミラー全集9、大久保康雄訳)新潮社、1967年、182頁。

  第九回へ

ページトップに戻る

沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社)など。
Twitter

Web春秋トップに戻る