第十回


自由意志(続き)

 今回は、前回論じた意味での身体の問題と時計の針との関連を論じ、そこから現れてくる他時(過去や未来)と他者とのあり方の違いを説明するために、はるかに以前に「次回」と予告したにもかかわらずずっと実現していなかった「東洋の専制君主」の問題を論じる。しかし、その前にまずは前回取り残したヨコ問題としての自由意志の問題の続きを少しだけ。
 前回、「自由意志とはすなわち、多数の身体の中になぜか一つだけ現実に動かせる身体が存在している! という驚くべき事実の存在のことにほかならない」と言ったが、より先鋭な語り方をするなら、こんな感じになるだろう。事後的には欲望とか意志とか何かその種の名で呼ばれるであろうような、何かしら世界に変化を引きおこせる力のごときものが現に[アクチュアリー]存在しており、それがそのまま発動すると、世界のなかに多数存在している身体のうちの一つが、なぜか実際に[リアリー]動いて、それが実現されてしまう、という事実。その際、動かす力はそこにある何らかの仕組みというよりはその現実性そのものであることになる。なぜなら、同じような仕組みは他にもあるかもしれないが、現に在るこれ、、だけが実際にはたらくからである。
 スクリーン上の映像の比喩を使って言うなら、最初になぜか存在しているそれ、、は、現に今映っているという側面(すなわち現実性)にあたるが、これは本来、実在する世界に対して無関与的(無寄与的)であるはずのものだ。自由意志とはおそらくその無関与性(無寄与性)の関与(寄与)という矛盾したあり方のことだろう。という意味では、それは身体という矛盾したあり方をしたものと同じ存在性格を共有していることになる。多数の身体をどんなにくわしく調べてもどれが〈私〉の身体であるかはわからない(そんなものは実在しない)のと同様に、多数の身体運動をどんなにくわしく調べてもどれが〈自由〉による動作であるかはわからない(そんなものは実在しない)。実在する世界の側からそこに到達するルートがありえないという意味でそれは実在していない。
 だから、一つの意味では(すなわち実在性においては)、自由意志が起こす行為には脳過程等の物理的原因があらねばならないが、別の意味では(すなわち現実性においては)そのような介入はありえない。脳過程は並列的にだれにでもあるからだ。スクリーン上の映像の比喩で言えば、映っている映像をフィルム上に位置づけられれば、その出来事に物理的原因があるのは当然のことだが、映っている映像そのもの(それが映っているという事実)にはその種の原因はありえない。その種の因果連関の外にあることをスクリーン上の映像の比喩で表現しているのだから。
 誤解の余地のないように付け加えておけば、この対比は精神対物質のような対比ではないから、物質的な身体をどんなにくわしく観察してもそこに自由意志に対応するものがないのと同様に、各人が並列的にもつ心のあり方をどれほど細密に(現象学的に)観察しても、そこにもまた自由意志に対応するものが見出される可能性はない。
 同じことを〈私〉についてではなく〈現在〉について語ると、少々不思議な語り口になる。無限の時間の中になぜか一点だけ現実に自由になる時点が存在している! ということになり、そのことこそが〈現在〉であることの意味になるからだ。〈現在〉の場合には物質的身体の問題はとくには関係していないので、たとえば思考の中だけで「今は他のことは考えずにこの問題だけを考えよう」と意志してそのようにするといった純粋に心的なはたらきなども自由意志によって引き起こすことができる。引き起こせるということが〈現在〉であることの根拠であることになる。
 この議論は、〈現在〉や〈私〉だけでなく、概念化された水準でそれがそのまま反復する《現在》や《私》にも、議論としてはそのまま妥当するので、その水準において唯一の現実性として捉えられた他人たちにも、当然、自由意志があるとされることになる。そう見なすことがすなわち他人と見なすことであることになるわけだ。その場合、他人は、概念的には〈私〉とまったく同じ性質の矛盾したあり方で存在することになる。しかし、そう見なさないことも可能ではあると思われるので、その点については後に論じよう。他時点にかんしても同様のことがいえる。自由は〈現在〉だけにあるが、どの時点も《現在》ではあるので、自由であったし、自由であるだろう、と。しかし、そう見なさないことは、他人の場合と比べてはるかに難しいと思われるので、この差異の根拠についても後に論じたい。
 一般に感じる身体が動かせる身体であり、この二つは重なっている。この二つがずれる場合等々についてはいくらでも考えられるが、そうした可能性の問題にはさほどの重要性はない。哲学的重要性があるのは次の一点だけだろう。感じる身体が私の身体であるという場合、本当に感じているのか、という問題は介在しない。本当は感じていないが感じているかのように感じられるということはなく、感じているように感じられれば(感じていると思えば)感じていることになる。この点についてはすでに論じた。しかし、本当は感じていないが感じているかのように感じられる身体、ということは考えられるだろう。前回ちょっと触れたように、身体とのその結合感それ自体が幻覚である(そんな物体的身体などそもそも実在しないといった理由で)といった場合は考えられるからだ。とはいえ、物体的身体が存在している場合には、もしそこに痛みを感じれば(「そこが痛い」感があれば)そこが痛いだろう。ここにもまた誤りの可能性がない、と考えることができる。
 この意味においてであれば、動かせる身体の場合には、本当に動かせているのかという問題が直接に存在することになるだろう。それは、感じる身体の場合の、じつは身体が実在しない場合に相当すると考えられるからだ。じつは物的身体が存在しないように、じつは別の因果連関がはたらいていて、意識的な意志はその因果連関の随伴現象にすぎない、といったケースを考えればよい。
 たとえそういうケースであっても、その可動的結合感なしには〈私〉は存在できないだろう。ただ受動的に感じているだけでなく、そこから新たに何かが始まる(始められる)感とともにでなければ、〈私〉が存在するということはできないであろう。たとえ身体が麻痺して動かないような場合でも、そのような可動的結合感に相当する意思決定の自由感そのもの(たとえば先に例示した「今は他のことは考えずにこの問題だけを考えよう」と思ってそうするケースのような)は不可欠である、と考えることができる。もしそうしたものもまったく存在せず、ただ受動的に意識状態の変化を傍観しているだけの状態では、その状態を他の可能性と対比する対比的な思考などもはたらかないであろうから、自己意識も(そして現在意識も)成立しがたいだろう。つまり、そのような状態が成立していても、いったい何が成立しているのか、わからないだろう。
 先にも触れたように、そしてこれからそのことの根拠となる問題の一部を検討することになるように、このことは〈私〉だけでなく《私》にも当てはまるので、この了解は主体(と捉えられたもの)一般に累進的に広がり、われわれの生きる世界はそのような了解のもとに成立することになるから、先ほど言及した「別の因果連関」なども、そうした世界了解の内部でだれかの研究によって「発見」されるほかはないことになるだろう。このような描写自体にある種の矛盾が内在しているが、それを消去することはできない。この世界は、事実、そのようにできているからだ。
 実在的世界の観点からすれば、〈私〉や〈現在〉はもともと幽霊のような仕方でそこに寄生しているにすぎないのだから、自由意志もまたそうであることにとくに驚くようなところはない。それらはみな実在[リアリティ]には属さないとはいえ、そこから開かれる世界こそが文字どおり還元不可能な現実性[アクチュアリティ]をなしているので、そのことを否定することは決してできない(映像の側から見ればフィルムのほうこそが映像世界のあり方を整合的に説明するために作り出された一つの話にすぎない)。
 前回の最後に、デカルト的「コギト・エルゴ・スム」が自由意志の問題であったとすれば、彼は神に勝つことができただろうか、と問うた。答えはもちろん否である。もしそうであったなら、彼はいともかんたんに敗北していたであろう。「欺くならば力の限り欺くがよい、しかし私が私には自由意志があると思っているあいだは、あなたは私から自由意志を奪うことはできないのだ」などと言ってみても虚しい。これはつまり「……私が私には身体があると思っているあいだは、あなたは私から身体を奪うことはできない」と同じ種類の、デカルトが疑いうることとして最初から排除した種類の知にすぎないからである。どちらも世界への受肉知で、デカルト的な意味での最終的な疑う余地なき知識の見地から見れば、いわば二流の知識にすぎない。しかし、それらこそが〈私〉を世界に繋ぎ止めているのであって、その意味では、それらもまた不可欠ではあるのだ。全知ではないリンゲンスがどうして自分がだれであるかを知りうるのかといえば、それは彼が受肉しており、受肉知を持つからでしかありえないだろう。

*この言い方はじつは精確ではない。精確には「自由意志があると思っているあいだは」ではなく「思う[コギト]ということの本質が自由意志にある以上は」とすべきだろう。デカルトがそう言ったと想定した場合、彼が勝てる可能性が生じる。しかし、それはあくまでも神の関知せぬヨコ問題における勝利である。(忘れてしまった人のために解説しておくなら、神は全知であるにもかかわらず〈私〉の存在を知りえないのであった。ここで彼がその〈私〉の存在根拠を自由意志の存在に求めたとすれば、〈自由意志〉は神の力の外にあるといえることにはなる。しかし、それはじつは〈 〉の中身を変えて〈私〉の存在の場合と同じ論拠を繰り返しているだけで、勝利の力はじつは自由意志にではなく〈 〉にあることになる。)

 二つの受肉知をまとめて言えば、「この世界には、現在のところ、なぜか一つだけ、内側から動かせる物体が存在している!」となるだろう。この「物体」とはもちろん身体のことであるが、逆に、これを比喩的な意味での身体ととって、そこから物体性を除去したとしても同じことは成り立つだろう。この比喩的な意味においては、言語もまた身体としての特徴をあわせもつので、ここではもっぱらこの観点からだけにならざるをえないが、言語のあり方についても少しだけ触れておこう。
 実際にはわれわれは物体的身体の一部(である口)を動かすことによってしか言葉を発することができないので問題を取り出しにくいのだが、かりにそうではなくテレパシーのようなもので意思伝達ができたとしても(さらには物体的身体そのものがもともと存在しなかったとしても)この比喩的な意味での身体性は除去することができない。この構造は、意思疎通する複数の存在者が存在するかぎり、それが物体的身体をもとうがもつまいが、不可欠だからである。
 身体と同様に言葉にも内側と外側がある。ここで内側とは発話主体の持つ「こういう意味で言った」という主観的(意図的)意味で、外側とは「一般的にこのように理解される」という客観的(制度的)意味である。ここまではそれ自体が(主観的・意図的な意味の存在を含めて)客観的な一般論にすぎない。しかし、やはり身体の場合と同様に、これにもまた現実性の問題が付け加わらざるをえない。発話主体の持つ主観的(意図的)意味とされるもののうちに、なんと現実的に主観的(意図的)な意味が一つだけ存在している! という事実があるからだ。その圧倒的な現実性によって最初の客観的な〈主観‐客観〉的対立図式は変形せざるをえないことになる。もちろん、この構造は逆方向から捉えることもできる。すなわち、なんと現実的に主観的(意図的)な意味であるものが一つだけ存在している! という場所から出発して、そうでない言葉たちにもそれぞれ(現実的ではない)主観的な意味があるという作業をおこなうという方向である。

*この論脈においてはそこを詳述することはできないが、他の身体性の場合とは異なり、言語においてはこのことそれ自体は言語外の事実にすぎない。心や意識や主体の場合には、唯一の現実的事例の存在そのものが――すでに概念化された水準においてではあっても――その本質の形成に累進的に関与(寄与)せざるをえないという側面があるのだが、言語そのものにはそれがないのだ。その外在性のゆえに、言語はそのような構造それ自体も一つの事実として外から語ることができ、それによって事態は概念化された水準で反復可能な事実となるわけである。

 どちらの方向から捉えるにせよより重要なことは、それらとは逆の、いわば言語的受肉の驚き[タウマゼイン]もある、ということにある。すなわち、私が言うことも客観的な意味を持っている! という驚きである。これは要するに、私もまた私でない人たちが言うのと同じ(意味の)ことが言える! 逆にいえば、同じことしか言えない! という驚きであり、これは私もまたただの普通の人たちと同じ身体を持っている! という驚きに対応している。この意味で「言える」ことによって(も)、〈私〉は客観的世界に受肉する。唯一現実に存在する見えからある一つの身体に付いた物的な眼への移行とは異なり、唯一現実に存在する発話意志からある一つの身体に付いた物的な口への移行においては、現実存在する自由意志が(逆向きには至りつけない仕方で)介入せざるをえない。ただそういう意味において、自由意志の存在は不可欠であるわけだ。

*言うのが私であることはその意味にいかなる寄与も(関与も)できないということであり、そのことの自覚こそが存在論的な自己意識の根源になるであろう。

 前回の「受肉の果たす役割」の最後のところで、頭が痛いので「私は頭が痛い」と言うと他人の口から「私は頭が痛い」という言葉が発せられる等々、というケースを提示した。このケースにおいて、私自身には彼の口を動かしているという実感があっても、もうひとり別の人もやはり彼の口を動かして同じ発話をしたという実感があったなら、私の受肉は成功しない。その発言がだれの発言なのか(もっと広げれば、その人がだれであるのか)公認が得られないからだ。これはあくまでもヨコ問題であるから、他に対立候補がいなければ私(である人)が動かしていることは公認されるのだ。その意味で――ただその意味においてのみ――私の身体には私の自由意志による支配が不可欠なのである。タテ問題を立てたとき、それとは別の原因があっても、そのことはこの問題とは関係しない。

*繰り返し言ってきたことをもう一度ここで繰り返すなら、たとえそれが自然的原因ではなく神の意志のごときものであったとしてもそうである、という点こそがこの問題の肝である。

 ここでもまた重要な点は、この構造を主観と客観の平板な(のっぺりした)対立関係において生じる問題にいきなり読み換えてしまわないことである。そうはなりえないような矛盾がそこに内在していて、二つの異質な世界が(あくまでも一方向的に)結合されていることを見て取る必要があるのだ。読み換えは不可欠だが、累進構造の介入として別立てで理解されねばならない。

針と身体

 身体という比喩は、ごく普通には、内側(心的)と外側(物的)の両側から捉えられるものとして理解されるだろう。しかしここでは、現実にはそんなふうになってはいないという側面のほうが本質的な構成要素となっている。現実には、内側から捉えられる事例は一つしかない(そして一つはある)。この構造それ自体に普遍性がある(すなわち、どんな場合でもそうなっている)ともいえるし、逆に、普遍性はない(どころか、極めて異様なことが今だけなぜか起こっている!)ともいえる。その二面性こそがこの連載の主題そのものである。だから、繰り返して言うが、この二面性の後者を――前者とまったく別のこととして――実感できない人はこれを読んでも仕方がない。ともあれ、身体という比喩の真の意味はこの構造にある。
 出来事や日や年にも身体性があることはすでに論じたが、この意味に理解するかぎり、より先鋭な類比が成り立つのは時計の針とのそれである。まず、針には一般に現在を指すことと特定の時点を指すことの二面性がある。これが内側と外側の両方から捉えられることに対応する。内側が現在で外側が特定の時点である。しかし、ここまではやはり一般論にすぎない。どの時点においてもそうであるといえるからだ。しかし、ここでもやはりまた現実性の問題が付け加わることになる。一般論ではすまない現実の現在が一つだけあり、あえて時間通覧的な視点に立たないかぎり、一つしかない(またはありえない)からだ。その現実性によって、最初に提示した針ののっぺりした二面性はいびつに変形せざるをえない。現実に現在である針の位置だけが現実に二面性をもち、他の針の位置は現実には二面性がない(ただ特定の時点だけを指す)という別の差異が入り込むからだ。
 この類比を表現するために、かつて私は、時計を捩って「人計[ひとけい]」という言葉を作った。われわれはみな人計であって、この針は自分を指すことと特定の人を指すことの二面性を兼ね備えている。しかし、ここまではやはり一般論である。ここでもやはり一般論ではすまない現実の私が一人だけ存在しており、あえて鳥瞰的な視点に立たないかぎり、一人しか存在しない(または一人しか存在しえない)**。私とは特定の時点だけでなく現に現在を指す(すなわち今見えている)針であり、他者とは特定の時点だけを指す(すなわち今見えていない)針である、という新しい対比が導入されることになる。これによって、最初に提示した人間たちのもつ二面性という平板な絵はいびつに変形するだろう。現実に私である人だけが現実にその二面性をもち他の人々は現実には二面性がない(ただ特定の人でだけある)という別の種類の対比がそこに介入するからだ。とはいえもちろん、この重大な差異にもかかわらず、時計の場合と同様に人計の場合にもまた、私と他者とで本質的な違いはないという(本質主義的な)捉え方もまた保持されねばならない。世界はそのような異なる二種の絵の重ね描きによって成り立っているからだ。

*『存在と時間――哲学探究1』の296‐7頁の注。その注における、この比喩を使った存在論的問題と認識論的問題との区別の主張は、非常に重要で表現の仕方も洒落ていると思うのだが、残念ながらこういう比喩的な説明をさっぱり理解しない人が世の中には多いようであった。
**「存在しない」と「存在しえない」の対立も決して忘れないようにお願いしたい。

 そういう本質主義的な捉え方もまた可能でなければならないことは世界の現状を認めるかぎりは認めざるをえないことだとしても、そもそもなぜそんなことが可能なのだろうか、という問いを持つ人がいるかもしれない。哲学の問いは持ち方も持つ方向も人によってバラバラなので、この問いは持たずに同じ問いを逆向きにだけ持つ人がいるかもしれない。それは、一般論ではすまない現実の現在や現実の私などというものがなぜそもそも存在する(またはしうる)のか、という問いである。この問いのほうがより先鋭で本質的な問いだと私は思うが、ここまでの議論からそちらにアプローチすることはできないので、ここではここまでの議論を使って前者の問題に少しだけアプローチしてみよう。中心性ではなく現実性を出発点とするとはいえ、この方向設定は形のうえでは伝統的な他我問題のそれと重なるものとなる。
 例外的なあり方をしているその唯一の位置は、現にそれしか見えないという現実性が与えるのではあるが、現にそれしか見えない(他の位置にある針は見えない)のはなぜか、と問われれば、現在だから、としか答えようがないだろう。なぜそこが現在なのか、とさらに問われても、「なぜか」としか答えられない。しかし、ともあれ、なぜかそこはまた特定の時点でもあって、それがすなわち受肉であった。現在であることと特定の時点であることのこの一致は、身体における私であることと特定の人であることの一致と同様、異なる二つの世界の架橋である。これを、さる有名な哲学用語を借りて「絶対矛盾的自己同一」と表現してもよい。ともあれもちろん、そのことを各時点に「それしか見えなさ」がある、という形で一般化することもできる。身体にかんして、私であることと特定の人であることの二面の一致を各身体に割り振ることができるのと同じことである。最初に与えた針の二面性という描像は、すでにその操作が終わった段階で捉えられた描像であろう。しかし、その操作はそもそもいかにして可能なのか、それがここでの課題であった。
 こう答えることができるだろう。各時点にそれぞれ「それしか見えなさ」があるという形で一般化しないかぎり、特定の時点にさえなりえないのだ、と。ならなくてもよいではないか、と言われるかもしれないが、これには二つの答え方がありうるだろう。一つは、もうなってしまっており、こういう問いへの答えはそれを前提にしてなされてよいのだ、というものである。もう一つは、もしならなければわれわれの知っている時間は壊滅する、というものである。この二つの答えは同じことを言っているように思えるかもしれないが、じつは違うことを言っている。これから私が言いたいことは、前者は時計だけでなく人計(人間身体)についてもいえるが、後者は人計についてはいえない、ということである。すなわち、時間は矛盾なしには存在しえないが、人間は矛盾なしに生きることも可能ではあるということである。

東洋の専制君主

 ウィトゲンシュタインは、『哲学的考察』第58節においてある言語を想定している。自分が痛いときは「痛みが存在する」と言い、他人が痛いときには「痛みが存在するときと同じように振舞っている」と言う、そういう言語である。「……と同じように振舞う」という行動主義的要素は、ここでの議論にとっては余計ではあるが、一応それも受け入れておこう。(拙著『ウィトゲンシュタインの誤診』で提示したように、もっと単純に、自分の痛みは「実痛み」と、他人の痛みは「虚痛み」と呼ぶ言語、でも同じことである。ただし、そこで提示した分類によれば、自分の痛みは「自痛み」と、他人の痛みは「他痛み」と呼ぶ言語、ではもちろん駄目である。)すべての成員がこのような言語を使う共同体を想定することができ、それは矛盾なく成立可能だろう。
 ところでウィトゲンシュタインは、「この言語が任意のいずれの人をも中心としてとりうること」は明らかだと確認したあと、議論を次のように続けている。「ところで、種々の人間を中心としてとり、かつ私が理解するすべての言語の中で、私を中心とする言語は特別な位置を占めている。私はこのことをいかに表現できるであろうか。」議論のこのステップはきわめて重要である。ここで二段階のステップが踏まれていることこそが問題の核心だからだ(先に触れた「実痛み‐虚痛み」と「自痛み‐他痛み」の違いもここに関係する)。これに続くこの節の議論も、とりわけ「独我論は語りえない」ということの意味や本来あるべき「私的言語」の意味を理解するためには、きわめて重要なものではあるが、ここではその議論は追わずに、彼がことのついでのように触れている「東洋の専制君主」の可能性についてさらに深く考えてみたい。
 まず、第二のステップに登場する「私」を、なぜか与えられた世界においてその目からだけ世界が見えている……唯一の生き物であり、現実に世界がそこから開かれている唯一の原点であると解釈し、〈私〉と表記しよう。この〈私〉はきわめて素直な人間で、この与えられた事実どおりに、この目からだけ現実に見えているし、この体だけ現実に感覚を感じる、等々と信じている。だれでも自分の置かれている現実を反省してみればすぐにわかるように、たとえそうであったとしても、通常は、自分だけ前段落で紹介したような言語を使う、などということは許されない。もしそのような言葉遣いを認めるなら、他人たちも同じ権利でその言葉遣いをしてよいことになるからである(すなわち「実痛み‐虚痛み」の対比は「自痛み‐他痛み」の対比に転化してしまう)。
 しかし、この場合、〈私〉は専制君主であって、それゆえにまわりの臣下たちも彼のその世界像を反対側からそのまま受け入れ、専制君主の言葉遣いに合わせてくれている、と想定しよう。彼が痛がると「本当の痛みがあるのですね」と言い、自分たちが痛いときには「本当の痛みがあるのと同じ振る舞いをしております」と言うわけだ。専制君主である〈私〉は、彼らがそう言ってくれているのか、本当にそうであるのか、知ることはできない。いや、そうではなく、生まれた時からずっとそうなのであれば(それ以外の言語適用の仕方を経験したことがないのであれば)、本当にそうであると信じるほかはないとも考えられよう。
 さてしかし、専制君主であるその〈私〉はなぜかたまたま、各種の懐疑論の可能性を考えることに強い喜びを感じるタイプの哲学者でもあったとしよう。そうであっても、臣下たちがわざと自分を立ててそう言ってくれているのだ、などと思いつくこと自体が不可能かもしれない。あるいは逆に、言葉のやり取りをしているという事実だけから、それは簡単に思いつく可能性なのかもしれない(さらに、そう思わざるをえないのかもしれない)。これは今のところ謎である。
 最初の状況設定は、臣下たちが専制君主の言葉遣いに合わせてくれているという想定であったが、そうではなく事実そうである(彼らは実際に意識がない)と想定してもよい。その場合には、臣下たちは自分を立ててそう言ってくれているのだ、などと思ったなら(さらにそう思わざるをえないのなら)、君主は偽なる信念を持つことになる。そういう状況設定であっても、ここで私が提起したい問いにとっては同じことである。
 ここで提起したい問いは、通常の他我問題の場合の懐疑論(他人たちには本当は意識がないのではないか)とこの専制君主の逆懐疑論(他人たちには本当は意識があるのではないか)とではどちらがより困難な懐疑論であろうか、という問いである。ただし、これはあくまでも現実性の累進可能性についての問いなので、「意識がある」というのは便宜的な語り方であって、彼らもじつはみなそれぞれ(彼らにとって、、、は)〈私〉なのではないか、というのが精確な語り方である。その意味するところはそれぞれの人は第一基準によって自己を識別している(彼らにとって、、、はそれぞれ現実、、に)そこから世界が開けている唯一の原点である、という意味である。

*したがって精確には、臣下たちはたんに「私は本当の心がある人と同じ振る舞いをします」などと言うのではなく、それ以前にむしろ「私の使う「私」という語はこの口が付いている身体を指しているだけです」と言うべきだろう。さらに説明するなら「したがって、この「私」は、「私は身体と記憶をなくして輪廻転生する」とか「私がもし彼だったら……」というような意味に使うことはできません」というようなことを言うべきなのである。また、この事態は言語を使ってあえて説明することによってしか指すことができない事態である、ということも忘れてはならない。

 この世界においてわれわれは他者をそのように捉えている。これは大変に不思議なことだといえる(〈私〉が存在していることの次にだが)。というのは、〈私〉の存在とは、まさにそこから世界が開けている唯一の原点が(今はなぜか)現実に存在している! という端的な事実を意味しており、それはまた、実在的には同類であるはずの(すなわち聞こえたり痛かったり悲しかったり欲していたり……するはずの)多くの普通の人間たちとは違って、という意味をすでに含んでいるはずだからだ。もしそのそういう普通の人間たちもそれぞれ(それぞれにとって、、、は)そこから世界が開けている唯一の原点であるのだとしたら、私自身もまた私にとって、、、は〈私〉であるだけのことになってしまうだろう。そうであるなら、それは私が生まれる前や死んだ後でも成り立つのと同じことが成り立っているだけであることになってしまう。にもかかわらず、われわれはみな、だからもちろん私も、そうような矛盾を含んだ世界像を構成し、それを信じて生きている。そうすると、ここでいえることはむしろ、この専制君主こそがわれわれの宿痾であるこの矛盾から脱しうるのかもしれない、ということになる。

*ちなみに、同じことを〈現在〉についていえば、それがマクタガートの「矛盾」である。

 この道筋で考えた場合、専制君主の世界観はまったく自然なもので、世界になぜか〈私〉が存在してしまっているにもかかわらず、本質的、、、に同じことを他者たちにも割り振って、あえて高次ののっぺりした世界像を構築するなどというのは非常に高度な構成能力を必要とする、といえることになる。すなわち、この専制君主の逆懐疑論のほうが――それはわれわれにお馴染みのごく普通の世界像を作り出すだけであるにもかかわらず――より困難な懐疑論なのである。なぜなら、その懐疑によって構築されることになる世界像には矛盾が内在しているからだ。現状に対する懐疑として矛盾した世界像を構築するなどということは、そもそも哲学的懐疑論の何たるかを知らない人のすることではないか。それに比べるなら、通常の懐疑論は、〈私〉が存在する世界においては、むしろ合理性のある懐疑論であるといえるだろう。なぜなら、それは矛盾の解消だからである。(ここでずっと前に論じた「唯物論的独我論」の合理性を想起していただけるとありがたい。)
 この専制君主の逆懐疑論よりももっとラディカルな状況設定がありうる。なぜか知らないが、高度な知性をもった人間が、ともあれ最初から単独で存在している、という場合である。彼は、経験も豊富で、自然を統御する技術に長けており、お望みならば数学や物理学、脳科学や心理学についても、高度な知識を持っていると想定してもよい。しかしもちろん、他者の存在だけは経験したことがない。さて彼は、他者というものが存在する可能性を考え出すことができるであろうか。ただ想像できるだけでよいのだ。本当は存在するのではないか、などと疑う必要はない。一見すると、これはきわめて簡単そうに見えるが、じつはきわめて困難な課題なのではなかろうか。私と同じあり方をした他人などという、まるで丸い四角のようなものを、どう想像したらよいのか。そもそも想定の意味そのものがわかりようがないのではあるまいか。
 直前の段落での問題提起は、ここでの論旨からすれば不可欠なものではなく、逸れた横道にすぎないのだが、それ自体としては非常に重要である。ウィトゲンシュタイン的な独我論問題は、私の見るところ、もっぱらここにかかわっている。のだが、ここにある特殊な困難の意味を理解する人はなぜか少ない。多くの人がこの問いに答えるつもりで別の問いに答えてしまっている。この問題は、もう現実に存在してしまっているものの意味のわかりようのなさへの問いなのである。これと同型の問題は、私の知るかぎり、マクタガートの提起した時間の矛盾の問題しか存在しない。

*永井的ではないので、念のため。ウィトゲンシュタイン的な問題提起は、私の用語でいえば中心性ではなく現実性の問題なのではあるが、方向は伝統的な他我問題と同じ方向を向いているからだ。私の元来の(ここでのではなく)問いはそれらとは逆向きである。

 今回もすでに予定字数を大幅に超えてしまっているのだが、ほんの少しでも触れておかなければ収まりがつかない論点がまだ残されている。それは、先にちょっと触れておいた、人間は懐疑を放棄した場合の専制君主のように矛盾なく生きることも可能だが、時間は矛盾なしには存在しえない、という論点である。
 臣下たちは「私の使う「私」はこの口の付いている身体を指しているだけで自己意識があるわけではない」と(言葉で)言うことができた。それはつまり、「そこだけがなぜか現実に世界がそこから開けている唯一の原点で、同類とされる他のものはなぜか現実にはそうではない」という事実が成立してはいない、という意味である。彼らの言葉は、否定的にではあれ、その事態に言及しているわけだ。これは言語的表象のもつ力である。
 他者でなく他時点が、すなわち(未来はもともと無理だから)過去が、「この「今」は特定の時点を指しているだけで、そこに現在意識があったわけではない」と言う、、ことが可能であろうか。それはつまり、「そこだけがなぜか現実に世界がそこから開けている唯一の時点で、同類とされる他の時点はなぜか現実にはそうではない」という事態はもともと成立していないと言う、ということである。
 たとえばまず、自分の記憶がそう言うことはありえないだろう。過去の記憶的な現われは(物的な身体と口を具備した他者たちとは違って)その現われとは独立に言葉でその本質を説明するということができないからだ。それなら文書はどうか。それも同じだろう。過去の文書に「今は戦争中だが、この「今」は特定の時点を(その時点において)指しているだけであって、そこを唯一の原点とするような〈今〉が成立しているわけではない」と書いてあっても、それを信じることができない。疑り深いから信じられないのではなく、それを信じることが何を信じることなのかがわからないから信じられないのである。唯一の可能性は、その文書の書き手がこの想定における臣下たちのような人間であると信じることであろう。それは可能だ。しかし、他時点がそれぞれ(未来を含めて)「そこだけがなぜか現実に世界がそこから開けている唯一の時点で、同類とされる他の時点はなぜか現実にはそうではない」というありかたをすることは、われわれが理解するかぎりでの時間の構成要件そのものとなっているのである。書き手がこの臣下のような人であっても、あるいはたんなる機械であっても、そのことに変わりはない。これはマクタガートの矛盾を構成する一方の事実なのだが、時間の成立にはこの矛盾の介在が不可欠なのである。
 この論点については、さらに詳細に論じる必要があるだろうが、今回はもはやこれだけにしておいて、最後に一点、このことから考えられる重要な事実を指摘しておこう。それは、かの専制君主もまた、時間についてはそのように把握しているはずであるから、そうであれば、その時間理解と同様な仕方で他者構成(すなわち逆懐疑論の実行)をおこなうことが可能である、ということである。この点は、最初から単独で存在している人物についても同じことがいえる。彼もまた、自分の時間理解の仕方と同様な仕方で、他者という矛盾した存在者が存在する可能性を思いつくことができる、ということである。実際の経路はこの逆だったかもしれないが、現にわれわれはともあれそのような矛盾を含む世界像を打ち立て、その中で生きているわけである。

(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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