第十回 出張は続くよどこまでも


ビジネスホテルのルーツ

 なにかのルーツを確定する――じつはこれが文献調査のなかでも、もっともむずかしいんです。なぜなら、たとえ調査対象となるもの(こと)がすごく古い文献に言及されているのをみつけたとしても、それより古い文献に記されているかもしれないし、記録にないだけで、じつはもっと以前から存在していた可能性も否定できないので。
 分野でいうと、ルーツを特定しにくいのが食品関連。この料理を最初に作ったのはうちの店だ、いいや、うちのほうが先だ、と元祖・本家争いが続いている例はあちらこちらで見られます。
 私が以前手をつけたけど裏が取れずに棚上げしたのが、シベリアのルーツ。カステラでようかんをサンドした菓子パンですけどご存じ? あれをいつだれが最初に作ったのか、発売したのか、特定できる史料をみつけられませんでした。
 意外かもしれませんが、もっとメジャーなメロンパンでさえ、いまだルーツは特定されてません。「諸説あります」の状態で足踏みしたままで、決定打となる証拠が出ないのです。
 シベリアもメロンパンも、商品そのものだけでなく、その名前をだれが命名したのか、そこもまた謎なのが興味深いところです。ものの名前って、同時多発的にいろんな人がひらめいて、広まってしまうのですかね。

 ビジネスホテルのルーツを自称してるのは法華クラブです。江戸や明治のむかしから、街道筋や駅前にあった格安の商人宿。これを近代的な宿にしたのが、一九二〇(大正九)年京都駅前に開業した「法華倶楽部」だった、というのが定説とされてます。
 この事実自体にケチをつけるつもりはありません。ただ補足するなら、大正時代の法華倶楽部は文字通り、京都の寺院を巡拝する日蓮宗の宗徒のための宿でした。昭和二年に建てた新館が、安宿ではあたりまえだった相部屋制をやめてすべて個室にし、チップ不要、均一料金でだれでも泊まれる画期的なホテルだったので、厳密にいえばこれをもってビジネスホテルの祖とすべきです。
 ただし、「ビジネスホテル」という名称を最初に名乗ったのが法華クラブだったかは、ちょっと怪しいんです。というのは、一九六三年一二月の『商店界』が法華クラブを取材しているのですが、記事中にビジネスホテルという言葉はまったく出てきません。記事では、旅館とホテルの折衷タイプの「リョテル」に分類しています。リョテルなんて業界用語は一般の人にまったく認知されませんでした。五〇年前の人たちもダサいと思ったんでしょうね。
 一九七〇年の『実業の日本』で法華クラブの専務が、オリンピックの年(一九六四年)にビジネスマンホテルというキャッチフレーズを思いついて使いはじめたと回想しています。彼らが名乗ったのはあくまで、ビジネスマンホテル(もしくは「ビジネスマンのホテル」)であって、ビジネスホテルではありません。
 今回探したなかで最古の用例は、六四年八月の『週刊日本経済』でした。しかしこれは梅田の新阪急ホテル開業についての記事なんです。記事中でも記事見出しでも、ビジネスホテルという言葉が繰り返し使われてます。
 ということは、マスコミがビジネスホテルという言葉を普通に使いはじめていたにもかかわらず、このときまだ法華クラブは「ビジネスマンホテル」を称していたわけです。ビジネスホテルという言葉は法華クラブの発案ではなく、同時多発的に生まれて広まったと考えるべきでしょう。
 言葉のルーツなど、どうでもいいことだ? それもそうです。なにしろビジネスホテルという言葉が和製英語なので外国人には通じません。七四年に発足した業界団体、全日本ビジネスホテル協会もとっくのむかしに気がついて、全日本シティホテル連盟に改名しているのですから。だけど必要最低限のサービス・清潔な個室・低料金がウリのビジネスホテルの登場により、サラリーマンの出張が大きく変わったことはまちがいありません。

出張のルーツはお役人?

 さすがに出張のルーツとなると、つきとめることは不可能でしょう。おそらく、古代の朝廷の役人とか……なんでしょうね。
 明治から戦前昭和にかけての記録をほじくり返すと、何々省の役人がどこそこへ出張した、なんて、おもしろくもなんともない報告がほとんどです。
 これが戦後になりますと、役人のカラ出張問題が週刊誌の定番ネタとなります。毎年三月の年度末近くなると、役所や省庁が年度の予算を消化するために、役人が無意味な出張を繰り返しているという批判は、一九五〇年代から繰り返し雑誌に登場します。企業なら出張費も自分たちの儲けのうちから出しますが、公務員は国民や市民の税金で行くわけだから、批判の声が高まるのもムリはありません。
 しかし批判の声など馬耳東風。七〇年代後半になると、民間企業がオイルショック後の不景気で、出張費用の涙ぐましい削減努力をしてたというのに、役人は民間平均よりも数千円も高い日当を手に新幹線のグリーン車で出張していると報じられます(『週刊サンケイ』)。
 一九七五年には、熊本に出張中のはずだった自治省係長が、小倉在住の浮気相手とドライブ旅行をして山口県で交通事故を起こし、女性が死亡する事件が起きました。しかしなぜかこの件を取りあげたのは週刊誌だけで、新聞各紙はほぼスルー。『週刊文春』は、自治省と新聞社の馴れあいによる報道規制じゃないのかと突き上げています。
 とはいえ、役人だけを責めるのはいかがなものかと。一九七四年に兵庫県の坂井知事が、職員の出張に奥さんを同伴させることにしたらどうかと提案したところ、テレビや新聞雑誌が特集を組んで賛否が議論されるほどの盛り上がりを見せました。羽を伸ばせなくなると悲痛な叫びをあげる夫たちに対し、出張で羽を伸ばす必要などないと反撃する妻たち。これだけ議論になったという事実が、官民問わず、出張に浮気がつきものだった事実を物語ります。さらにいうなら、ダンナの出張中に奥さんが浮気したのがバレて家庭崩壊なんて例もあったわけだし。
 ところで兵庫県知事の提案ですが、出張に同伴する奥さんの旅費は自腹だとわかると、現実的な奥さまたちはすぐさま反対に回ったとのこと。

出張で浩然の気を養う戦前サラリーマン

 出張に関する史料を年代順に並べていたら、ある傾向に気づきました。昭和のサラリーマンは、出張に関しては口を揃えて「むかしはよかった」といってるんです。とりわけ戦前の出張はよかったと懐かしむ声は非常に多いんです。
 交通手段の発達・進化によって旅情がどんどん失われていったというのが理由のひとつ。これには賛否がありまして、平成の現在では、新幹線や飛行機などで日帰り出張できるなら泊まりがけよりも面倒がなくていいとする調査結果も多いようです。それに加えてちかごろは、増加した外国人観光客でビジネスホテルが満室となり、急な出張での宿の確保がむずかしくなった事情が、さらに日帰り出張を後押ししているともいえましょう。
 しかし、むかしを懐かしむ真の理由は、出張によるこづかい稼ぎがやりにくくなったことにあったのです。
 時代が進むにつれて物価は上がるのに、出張経費はどんどん切り詰められてきました。むかしのサラリーマンにとって、出張はある種のボーナス、臨時収入のチャンスだったのです。とくに戦前の大企業は、出張費に関してどんぶり勘定だったようで、定額前渡しでけっこうな額を支給してました。なので社員は費用を節約すれば差額でふところがうるおったというわけ。
 会社が列車の二等車の乗車賃をくれたら、三等車に乗って差額をせしめるなんてのが定番のやりかた。ただし戦前の三等車は、床にバナナの皮や吐き捨てられたタンが散らばり、赤んぼうのオムツが干されているといった壮絶な状態だったので、その環境に耐える覚悟とこづかい稼ぎを天秤にかけねばなりません。
 源氏鶏太は『一等サラリーマン』で「戦争前までのサラリーマンの出張は、たいへん結構なものでした」と振り返ります。一日十円の旅費をもらえたけど全部使い切ることはめったにないから手元に二、三円は残る。だから「出張を命ぜられると、誰もホクホクしたものです」。一か月くらいの長期出張ともなると、月給分くらい手元に残ったといいます。
「もちろん、同僚はそのような金満家を放っとくわけはありませんから、よってたかって奢らされました……ケチな奴は、奢るかわりに自分の洋服を新調したりしていたので、嫌われました」(以降、戦前文献の引用は表記を現代かなづかいに変更しています。)
 昭和一一年の『実業の日本』にも、「平素は薄給で動きがとれぬ者でも、一寸遠くへ出張するとなると、すぐもう前渡しの旅費の一部で洋服一着ぐらいは新しく出来るのが、アタリマエになっている」とあります。
 昭和三年刊『続サラリーマン物語』でも「年が年中、テーブルにかじりついて、山手線の電車みたいにぐるぐる同じコースを繰り返していては、変化を求めてやまぬ人間性がただちに倦怠を催してくる。そこに出張という息抜きがあって、浩然の気を養う機会が与えられることは、まことにもってありがたい極みである」と説きますが、出張の楽しさは、仕事の内容にもよるようです。
 ラクなのは視察が目的の出張で、これは報告書さえきちんと書けばいい。でも、なにかを売ってこい、買ってこいと命じられると、結果を出さねばならないのでなまやさしいことではない、とまあ、これはいまでもうなずける話。しかし、女工や鉱夫など、人を集めてこいって課題がもっともむずかしいというくだりは、ネットで求人できてしまう現在ではあまり聞かないかもしれません。
 人跡未踏の開墾地に行き、不景気で困っている百姓に声をかけたり、鉄道工事が終わったばかりの現場に駆けつけ、仕事が一段落した鮮人人夫をもらい受けて炭鉱の鉱夫として連れて行くなんてのは、「その仕事のいわゆる下品なことお話に相成らぬ」とこぼします。大学を出て就職したのに、不潔な人間たちの人買いみたいなまねをしなくちゃならないのは沽券に関わるとでもいいたいようで、露骨に差別的ではありますが、大量の肉体労働者を必要とした炭鉱が基幹産業だった時代ならではのサラリーマン物語。

落とし穴注意

 カンちがいしないようお願いします。戦前の出張が夢のように恵まれていたのは、大手企業、一流企業だけ。中小企業ではそんなお大尽な出張費は出せません。要するに戦前の日本は超格差社会で、財閥や一流企業は儲けを独占してたから経費もふんだんに使えたってことです。
 戦後は企業の出張費管理がきつくなりました。定額前渡しをやめ、近距離ならあとで精算、遠距離なら一部仮払いで後日精算なんて方式を採用する会社が増えて、世知辛くなったもんだと嘆く声も聞かれます。
 とはいうものの一九五〇年代までは、まだまだ戦前のゆるさは健在だったようです。
 七〇年代の雑誌で、某企業の常務が平社員だった五〇年代の出張を回想しています。大阪に出張したものの、飲み過ぎて予算から足が出てしまったので悪知恵を絞ります。大阪在住の友人からデパートの領収書をもらい、取引先に舶来洋酒の詰め合わせを送ったことにして経理に提出。精算を楽しみに待っていると、経理課長が笑顔を浮かべながら彼の元にやってきました。
「大阪のデパートでは、婦人服売り場で洋酒を売っているのか?」
「は?」
「デパートの領収書には符号がついていて、どこの売り場で発行したか一目でわかるのだ」
 完全犯罪が打ち砕かれてうつむく犯人。すると課長は「それくらいの常識はおぼえておきたまえ」と肩をポンと叩いて去り、見逃してくれたそうです。
 一九五九(昭和三四)年の『実業の日本』出張特集記事でも、しばらく出張がごぶさただった社員が九州に出張を命じられ、これで二万円は浮くから8ミリカメラが買えると喜んでいます。
「特に遠い出張ほど喜ばれる。……女房から出来るだけ遠くへ逃げられるからでもある。……酔っ払って宿へ帰っても女中は愛想よく迎えてくれる。いずれにしても、女房の傍を一週間も離れられるだけで満足だ」
 この記事を書いた記者は、よっぽど家で奥さんに虐げられていたのでしょうね。
 なにはともあれまだこの時期は、出張にうまみがありました。この特集記事では、出張の失敗例や落とし穴も紹介し、読者諸氏に注意をうながしてます。
 出張先での商談が思いのほかうまくいったところまではよかったが、まだ宿をとってないことをポロッともらしたのが運のつき。相手の社長が上機嫌で地元の一流旅館に案内してくれちゃいました。せっかくの厚意を断るわけにもいかず、出張費の差額でホクホクどころか、予算オーバーした宿代は泣く泣く自腹、帰りの列車を二等から三等車に格下げした、なんて悲劇も。

新幹線は感心せん

 このように五〇年代の雑誌には、出張の楽しさを伝える記事があふれてました。出張先での夜のお楽しみ、地方の歓楽街の案内記事もたびたび紙面に登場します。なのに、これが七〇年代になりますと、軒並み悲観的な論調の記事ばかりが目立つようになります。
 六〇年代の日本に、いったいなにが起きたのでしょうか? サラリーマンの出張を天国から引きずりおろした地獄の使者、その正体は、新幹線だったのです。
 一九六四年に開通した東海道新幹線は、それまで特急で六時間以上かかっていた東京・大阪間を、およそ三時間に短縮しました(開業一年目は四時間)。まさに全国民が待ち望んだ夢の超特急であります(←むかしのニュースフィルム風に読むと気分が出ます)。
 一九六三年発行のある出張マニュアルでは、鉄道での日帰り出張ができる距離は二〇〇~三〇〇キロが目安とされてます。つまり常識的には、東京・名古屋間が日帰り出張可能な最大距離とみなされていたのです。
 東京から大阪への日帰りは、それ以前の特急でも可能は可能でした。六六年に法華クラブが調査したところでは、東京のサラリーマンの四一パーセントは新幹線開業以前にも大阪に日帰り出張してたと回答してますけど、かなりの強行軍になります。新幹線が東京・大阪間の日帰り出張をがぜんラクにすると期待されていたのです。
 同調査の結果からは、むしろ大阪の企業に大変革をもたらしたことがわかります。新幹線開業以降、大阪に日帰り出張する東京の人は四九パーセントと、そんなに増えてないのですが、大阪から東京への日帰りは、二〇パーセントから四四パーセントへと、急増しています。
 ところが多くの七〇年代サラリーマンにとって、新幹線は夢の超特急どころか、悪評の的だったのです。
「新幹線に、航空機の発達……なまじ交通機関が整備されたため、昔のようなノンビリ出張はできなくなった」(『読売新聞』一九七〇年)
「ダレが〝夢の超特急〟なんて名づけたのだろう。……「新幹線はサラリーマンの敵である」という人は圧倒的に多いのである」
「三人席ではさまれて三時間……まるで護送列車だな」
「むかしは仕事プラス旅だったけれど、いまは仕事だけ。デスクごとはこばれてる感じですよ」(以上、『週刊文春』一九七〇年)
 新幹線の日帰り出張で旅情を奪われたばかりか、この数年後にはオイルショックによる不景気が追い打ちをかけます。企業が出張費に大ナタを振るうと、もはや浮いた出張費でホクホクどころか、逆に足りない分を持ち出すハメに。
 さらに七五年には、新幹線が博多まで延長され、東京・博多間が六時間五六分で日帰り可能な距離に。嬉しいニュースのはずなのに、『朝日新聞』は「のんびり出張夢物語に」の見出しのもと、悲観的なトーンで報じます。『読売新聞』は、福岡の広告営業マンが新幹線を利用した東京への日帰り出張に挑戦した様子を同行取材しています。
 朝、六時一九分のひかりに乗り東京へ。三時間ほど取引先をまわり、五時のひかりでトンボ返り。なんと不運なことに途中地震で停車したため、博多到着は予定より一時間ほど遅れた午前一時。体力には自信があると豪語していた二九歳の若手もへとへとになりました。

七〇年代のセコい出張節約術

 出張がおいしいものだったなんて話は、七〇年代にサラリーマンになった世代にとっては、すでに先輩・上司の昔話でしかありませんでした。いまの若手社員がバブル期の話を聞かされるような感じですかね。
 それでも目先のカネのこととなると熱心に知恵を働かせるのが人間の業。七〇年代のサラリーマンも、みみっちく出張費節約にはげんでました。そのいじましい様子を雑誌記事の証言からどうぞ。
 午後から出張に出掛けても一日分の日当と宿泊費が定額支給される規定を利用して、夜行で行きますと会社を出る。しかし実際には翌朝の始発で発つ。これで日当と宿泊費数千円を浮かせるという裏技。
 鉄道に詳しい人は、国鉄のミニ周遊券を利用しました。東京から大阪への出張時に、京阪神ミニ周遊券を使うと、それだけで急行乗り放題になるので、あえて新幹線を使わず急行に乗り、これまた二千円ほど浮かせたのだとか。
 携帯電話が存在せず、長距離の電話代が高額だった時代なので、「会社への報告は極力、取引先の電話を使う。最初は借りるのに勇気がいりますが、慣れれば平気です。サラリーマンは厚顔でなければ生きていけませんからねえ。もちろん電話代は、帰ってから会社に請求します」と、このあたりからセコさが際立ってきます。
「ビジネスホテルに泊まったことにして、深夜営業のサウナで寝る」これもセコいけど割り切れればアリですか。
「二人で出張するときは、一流ホテルのシングル部屋をとって、一人はベッド、もうひとりは床に寝る。一流ホテルの床はふかふかの絨毯が敷いてあるのでけっこう快適。このやりかたは契約違反だけど、一流ホテルは人の出入りが多いからフロントもいちいちチェックできない」なんか雲行きがあやしくなってきましたよ。
「ホテルのフロントにタバコ代を握らせて、三〇〇〇円の部屋に泊まったのに五〇〇〇円の領収書を発行してもらう」立派な犯罪です。
「こちらより弱い立場の取引先に出張のキップを用意させ、会社から支給された旅費はまるまるフトコロに入れた」この人はバレて会社をクビになりました。
 企業のコンプライアンスなんてのがキビシくなった昨今では、会社員が不正をすることはだんだんむずかしくなってきました。みみっちい不正は昭和を懐かしむ笑い話となりつつあります。
 しかし、ちょっと待ってください。領収書の偽造、カラ出張による交通費の詐取……こういう事例をいまだにちょいちょいニュースで耳にしませんか。それをやってるのは、会社員でなく地方議員や地方の首長なんです。つまり会社員がやらなくなったセコい不正の手口を、地方の政治家はいまだに習慣として続けてるってこと。サラリーマンが平成の時代変化のなか、もがきながら進んでいるというのに、地方議員はいまでも昭和の倫理と論理で生きてます。

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パオロ・マッツァリーノ

イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。著書に『反社会学講講座(正・続)』『偽善のすすめ』『誰も調べなかった日本文化史』『「昔はよかった」病』『怒る! 日本文化論』『ザ・世のなか力』『コドモダマシ』『みんなの道徳解体新書』など。

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