第十一回 エンプレガーダ・ドメスティカ、あるいは家事労働をやってくれる人


 マレーシア生まれのチャイニーズの男性と結婚してシンガポールに住んでいる台湾オリジンの友人が遊びにきた。夫婦ともに、イギリスで博士やら修士やらをとっているエリートで、女性の方は「台湾政府で働いていたけれど、ちょっと台湾の明るい未来をあまり考えられないので」、男性の方は「マレーシアではマレー人優先政策で、華人は良い大学に行ったり良い職についたりすることができないから」と、ふたりして育った国は出て、シンガポールで働くことにしたのだという。
 言わずと知れたリー・クアン・ユーの政策では、世界中から学歴の高い華人をリクルートしていたので、シンガポール政府、および、この二人の、お互いのニーズが合致したと言うべきであろう。彼らはもう20年以上もシンガポールに住み、二人の男の子を育ててきたのである。もちろん夫婦ともに、仕事をもってバリバリ働いてきた。男性の方は大学工学部の教員をしていて、何でもその分野では世界で何本かの指に入るような有名なエンジニアリングの教授らしく、研究のかたわら、学会や新しい研究者リクルートで世界を飛び回っている。女性のほうは公衆衛生の修士とコンピューターサイエンスの学位をもつ、たいへんな高学歴のナースで、名前をイファという。ロンドンで同じ寮に住んで、一緒に勉強した25年来の知り合いである。
 イファが東京の我が家に泊まって、まずびっくりしていたのは、我が家にメイドがいないことであった。そんなことは日本ではあたりまえすぎるほどあたりまえなので、驚かれることに驚くのだが。「えっ? あなた働いているのに、メイド、いないの? 全部、自分たちだけで家事やってるの? それはたいへんだわ。日本は外国人家事労働者を入れてないの? それは入れるようにすべきでしょう。ぜったい。そうじゃないと、女性は働けないわよ。うちなんて子どもが小さい頃から、そうねえ、数えてみると、全部で次からつぎに11人くらい、メイドを雇ったわね。フィリピン人、インドネシア人が多かったかな。彼女たちなしじゃ、とてもじゃないけど、やっていけなかったわね」。
 フィリピン人メイドがシンガポールのみならず、「インターナショナル・キャリア・ウーマン」の間で人気が高いことは、知らないわけではなかった。ジュネーブなどの国連で働く女性たちの多くも、フィリピン人のメイドを雇っている。それがよいかどうかというような価値判断はひとまずおくとして、客観的に事実だけをみると、フィリピンはとにかく外国に出稼ぎに行って外貨を稼ぎ、本国に送金する人たちが多い。自国の産業が十分に発達していないとか、良い働き口がないとか、いろいろ理由はあろうが、とにかくたくさんのフィリピン人が諸外国で働いている。フィリピンという国は大学進学率がアメリカとほとんど同じであるらしく、国民の学歴はすこぶる高い。大学を出たような高学歴の女性が、海外に出かけてメイドなどの仕事をしているのである。英語は堪能だし、学歴が高いし、よってインテリジェンスも高く、しかも「アジアのラテン系」らしく、性格も明るく、おだやかでやさしく、家族を大切にして、信心深くて正直な彼女たちは、メイドとして世界の働く女性たちからの人気が高いのである。
 イファは、フィリピン人のメイドは子どもたちに英語は教えてくれるし、仕事も的確だし本当にすばらしいのだけれど、シンガポールではあまりに人気が高いため、給料が高く、そうそう簡単には雇えなかったのだという。インドネシア人のメイドもおだやかな人たちで、料理も上手でとてもよい人たちなのだが、いかんせん英語があまりできず、フィリピン人ほどの学歴もない人たちが多いので、フィリピン人のメイドより給料が低いと言っていた。
 リー・クワン・ユーのシンガポール、よその国の話だ、とわたしは右から左に彼女の驚きを聞き流していたのだが、まあ、グローバリゼーションということは、まさに、こういうことなのである。物事のよしあしは別として、経済的な理由でお互いが折り合えば、こういう話は簡単に立ち現れてくるのだ。日本政府は基本的に外国人家事労働者の流入は規制していたのだが、なんでも2014年秋から、関西地方で特区として外国人家事労働者を受け入れることになったらしい。特区でやっていることはそのうち全国区でやることになる可能性も高いわけで、日本もシンガポールのように、フィリピンやインドネシアの人たちがメイドさんとなって入って来て、働く女性の家庭で働くようになるのだろうか。
 イファによると、シンガポールで働いているメイドは、各家庭に住み込みで働いている場合がほとんどであるという。メイドとしてもそのほうが住居費を払わなくてすむし、雇い主のほうも朝から晩まで仕事をお願いできるので、いわば双方のニーズに合致しているのだという。特にベビーシッターというか子どもの面倒だけをみるナニーの場合は、だいたい家に住んでいる。シンガポールの裕福な家ではメイド用の部屋もあるらしいが、多くのシンガポール中流階級というか、知的階層というか、イファとその家族のような専門職家庭は、そんなに立派な家に住んでいるわけではない。国土の狭いシンガポールの住宅事情もあり、いわゆる日本でいう2DK、3DK、あるいはもっと小さなアパートに住んでいることも少なくないらしいが、そういう階層でも、住み込みメイドを雇うのだという。そういう場合、もちろん、住み込みメイドには自分専用の部屋はない。ナニーをしているメイドは、子どもたちの部屋で子どもと一緒に寝たり、リビングルームで寝たりしているのだそうである。
 日本の「外国人家事労働者受け入れ特区」では、そういう状況が立ち現れるのであろうか。家事労働者としてやってきたフィリピンやインドネシアの人が、リビングルームや子供部屋で寝ている。そういう状況を日本のごく普通の専門職家庭(つまりは教員とか医療関係者とか・・・)は受け入れることができるのか。要するに、自分の家に「家事労働者」という他人が住んで、家事を手伝ってもらうということを、さらさらと受け入れられるのであろうか。「グローバリゼーション」の一環として・・・。

 1990年代のほとんど、約十年をブラジル北東部で過ごして、日本に帰ってきたとき、母親が言った。「あんたはブラジルではお手伝いさんがいて、なんでもやってもらっていたんだから、日本に帰ってきて自分でやらなきゃいけなくて大変でしょう?」。母親(昭和10年生まれ)の言いたいことはよくわかった。専業主婦として、終わりの見えない家事を延々と続けてきた母にとって、家事とは唾棄すべき忌まわしいものであった(のではないか)。毎日、毎日、来る日も来る日も、ごはんをつくらなければいけないこと、献立を考えなければならないことは、母にとっては本当にたいへんなことで、負担であったようだ。だからといって、母は、店屋物をとったり、できあいのものを買ってきたりするのはいやがったから、ただせっせと食事を作り、掃除もして洗濯もして、子どもの世話も淡々とやっていた。自分が遊びにいくことなど全く考えておらず、実に真面目で有能な主婦だった。
 あの時代の多くの母親は、そのようにして己れをむなしゅうして、家族に尽くしていたのだと思う。そしてそれは、彼女たちにとっては明らかにハッピーなことではなかった。よって彼女たちの多くは、娘たちに「結婚しても、主婦になっても、なにもよいことはない。おまえたちは仕事をもって自立せよ」と、言い続けながら育てた。昭和30年代以降の生まれのわたしたちが、キャリア志向が高くならざるを得なかったのも、むべなるかなである。
 彼女の両親(つまりはわたしの祖父母)は山口県の山間の村の生まれであったが、長じて、一旗〔ひとはた〕揚げようと博多に出向き、実際に一旗をあげた。天神通りとおぼしき博多のメインストリートに、たくさんの使用人をかかえて運送屋を営んでいた頃の写真が残っている。写真に大きく写っている「田中運送店」なる看板には電話番号まで書いてあるから、当時としては、かなり羽振りのよい商売をしていたようである。母は6人きょうだいの4番目であり、博多で生まれている。彼女の兄と姉には「ねえや」や「ばあや」がついていたらしく、わたしの祖母はそういう「家事労働」をする使用人を雇っていた経験があるようだが、ほどなく、一家は没落し、山口の田舎に戻って農業を営むようになる。
 わたしの母は赤ん坊時代に博多で暮らしただけで、あとは田舎で農業をやっている家の娘として育った。だから、「家に家事をやる使用人がいる」暮らしを知らない。そのありがたさも、おそらくは、たいへんさも知らない。だから言えたのだろうと思う。「あんたはブラジルではなんでもお手伝いさんにやってもらっていたから、日本では大変でしょう?」と。

 確かにわたしは北東ブラジルで10年を過ごしていたとき、家にさまざまな使用人を抱えていた。子どもの面倒をみてもらうナニー、食事、掃除、洗濯などをしてもらうメイド、それに、ドライバーにオフィスボーイとか、いろいろな人が我が家のために働いてくれていた。母の言うように、「何でもお手伝いさんにやってもらっていた」と言える。日本に帰ってきたらそうはいかないから、なんでも自分でやるようになった。しかし日本に帰ってきたわたしが最初に感じたことは、「家に家族しかいないということの気楽さ」であり、「自分の家が自分だけのためにあり、きれいであろうがきたなかろうが、自分のことという気軽さ」であり、「なんでも人にやってもらっていたから、自分でやらねばならなくなってたいへんだ」という嘆きではなかった。
 いまも、楽々家事をやっているとは言いがたいが、だからといって、あれだけの人を使って、レイバー・インテンシブ(労働集約的)にやってもらっていたブラジル時代に戻りたいとは思えない。しかし同時に、あの、他の「職場の同僚」とは全く違う「家事労働者」との、なんともいえない濃い人間関係は、10年に及ぶブラジルでの暮らしの根幹をなしていたのでもあり、なつかしく思い出されることでもある。しかしながら、さて、今の日本の「特区」で、どのように成立するのかと考えたりもする。
 産まれた時から、ばあやとかねえやがついていた人はともかく、日本でふつうに過ごしてふつうに暮らしてきたら、家で使用人が家事をやっているという状況はあまりないと思う。私たちは慣れていない。わたしも慣れていなかった。がんばって慣れた。慣れたけれども、けっこうしんどかったことに、日本に帰ってから気づいた。いま、日本の家がきたなくても、それはただ、わたしの責任であるだけだ。自分の掃除が足りなかったというだけだ。だらしなく机の上をちらかしていて、何か大事なものがすぐに見つからなかったとしても、それは自業自得というものだ。あれ、いったいどこにいったのだったかと、必要なときにせっせと探せばよいのだ。お財布を無造作にタンスの上においてしばらく忘れようが、だらしない格好をして家の中をふらふら歩いていようが、休日にでれでれと寝ていようが、かまわない。ここにはわたしと家族しかいないのである。
 家事労働をやってくれている人が家にいるということは、そんな気楽なことはしていられないし、言っていられない。家が片付いていなくて汚なければ、それはわたしのせいではない、メイドのせいである。自分でやる方がいかに楽かと思ったりするけれど、とにかくメイドがいれば、掃除が不行き届きであれば、主人、いや、メイドの「上司」たるわたしが注意を喚起し、このようにやってほしいということを適切に指示しなければならない。物がなくなったりしたら、たいへんなことである。自分の整理の悪さから何か見つからなかったとしても、自分だけで見つけることができなければ、まず、メイドに、なくなったものを見かけなかったかどうか聞くことになる。そしてそれは、ほぼ同時に、メイドが盗んだのではないかという嫌疑をかけることにもなってしまう。家にいるわたしは「女主人」あるいは「上司」なのであるから、あまりにいい加減な態度をしていると、「示し」がつかない。職場から家に帰っても「人事管理」をやっているようなものだ。

 おそらく日本の「商家のおかみさん」という人はこういう作業を日々やってきたのだろうが、なかなかにたいへんなことである。現代の日本に住んでいる人はこういうことに慣れていない人が多いから、いわゆる発展途上国といわれる国に住んでメイドを使わねばならないことになった時、「めちゃくちゃやさしいパターナリズムに満ちた主人」になるか、「非常にきびしい厳格な主人」になるか、どちらかのパターンが多いと言われていた。前者を「慈善スタイル」、後者を「前近代スタイル」とでも呼ぼうか。
 「慈善スタイル」においては、戦後民主主義が骨肉となっており、人権についても深く考えてきている我々であるから、発展途上国で「メイド」という仕事をする層が存在することをそもそも許せず、そういう「虐げられた人」は救済されるべきであるから、自分が率先してやるべきであると考え、とにかくメイドに「やさしく」する。他の家と比べて破格の給料を出したり、労働条件をよくしたり、プレゼントを山ほどあげたり、そんなふうにしているのに、仕事の上で必要な要求はきちんと出せなかったりする。遠慮しているのだ。だいたいが必要以上に人に優しく接すること自体が、その人の人権を認めていなくて、パターナリズム、すなわち父性主義に陥っていることになかなか気づけない。結果として「慈善スタイル」では、メイドをスポイルしてしまい、お互いよい関係できちんと働くということができなくなりやすい。
 「前近代スタイル」においては、まるで中世のパトロンと奴隷のように、ただ厳しい態度を取る。「慈善スタイル」をとってメイドに裏切られたり、訴訟をおこされたりして、「あんなにやさしくしてやったのに」という感情が残っている人が一挙に、こちらのスタイルになってしまいやすい。厳格で口うるさくて、非人間的なことはいくらなんでもしないけれども、仕事に対して必要以上に要求が高くなったりして、すぐに解雇したりする。どちらにせよ、「労働の場の上司と部下」という関係にはなかなかなれないのが、家事労働であるといえよう。
 自分の生活をすべてさらけだすことになる主人側と、ほんとうなら、つまりはもっとよい仕事があれば、人の家の掃除や洗濯などやりたくない使用者側との折り合いをつけるのは、じつに難しいのである。そんなにたいへんならば、家事労働を手伝ってくれる人など雇わなければよいと思うかもしれないが、中産階級の家ならどこにでもメイドがいるということが普通の社会にあっては、メイドがいない中流階級の家というのは、メイドも雇わない「ケチな家」であると判断されるうえ、昼間働きに出ていれば留守がちであることがわかってしまうから、治安上の問題がある。ブラジルは少なくともそういうところだった。わたしは「慈善スタイル」と「前近代スタイル」のどちらだったのか。自分で判断するのは難しいが、一緒に住んでいた当時の連れ合いがブラジル人だったから、彼から学んだところも多かった。

 ブラジルではメイドのことを、エンプレガーダ・ドメスティカという。英語に直訳すれば、ドメステック・ワーカー、要するに家事労働者のこととである。ブラジルでは彼女たちは省略して簡単に、「エンプレガーダ」と呼ばれていた。正式にはエンプレガーダは労働者の女性形だから「女性労働者」のことであるが、普通エンプレガーダと言えば、メイドのことを指していた。
 ブラジルの貧富の差は今でもあまりに大きくて、階層社会で、富裕層はとんでもないぜいたくをしていて、中流階層も豊かな暮らしをしていて、貧困層は「ファベーラ」と呼ばれるスラムに住み、基本的人権を侵害されている・・・という話は、今は(まだ)しないでおく。そのような語り口で話し始めると、エンプレガーダたちはもちろん、平等で民主的なブラジルのためには「いないほうがよい」人たちになる。過去10年でブラジルの貧富の差はずいぶんと縮まり、国全体が豊かになったと言われているが、まだエンプレガーダたちがいなくなる気配はないし、いなくなるようになれば、労働市場がオープンになって、フィリピン人メイドが入ってくるのかもしれないから、ブラジルにおいてもこの「家事労働者」問題は、そんなに簡単に終わらないと思う。
 ともあれ。わたしの暮らした1990年代のブラジルには、富裕層はもちろんのこと、教師や医療関係者といった専門職や商店主やサラリーマンからなる「中産階級」の家にも、かならずエンプレガーダがいた。女性のメイドで、彼女たちはほとんどが、ブラジルのどの街にもあるファベーラからやって来ていた。こういう言い方をしてはなんだが、泥棒とか強盗とかドラッグディーラーとか、そういう類いの「ややこしい」人たちもまた、その地域に住んでいることが多い。だから、いまも言ったが「あの家は、金はそこそこありそうなのに、エンプレガーダも雇わないケチな家で、しかも昼間働きに出た後は、誰もいなくて留守である」ということが、そういう地区にあまねく行き渡ることは一家の安全上好ましくないのだ。当時は携帯電話の普及は始まったばかりだから、貧困層の間にはまだひろまっていなかったし、固定電話がある家もかぎられていたけれど、この「ファベーラ」内でのコミュニケーションネットワークは厳然と確立しており、恐ろしいほどの正確さと迅速さで情報は共有されていた。中産階級の家庭のエンプレガーダやモートリスタ(運転手)などはほとんどその地区からやって来るから、どの家に誰が働いていて、誰が解雇されて、誰がよい給料を得ていて、誰が事故にあった、などというのは電光石火の早さで共有されるのである。

 わたしたちは、ブラジル人で医者の夫と、幼い男の子ふたりの4人家族だったが、夫のサンパウロの親戚とか、海外の友人とか、わたしの父とか、こどもに日本語を教えてくれる若い日本人の女の子の食客とか、いろいろな人が入れ替わり立ち替わり現れるので、いったい何人で住んでいたのか、把握することは難しかった。夫の弟はサンパウロで失業していて、私たちの住むブラジル北東部に仕事を探しに来ていたので、少なくとも数ヶ月は我が家に住んでいた。わたしの母と折り合いの悪かった父も、退職後、家にいづらくてブラジルに出てきて、6ヶ月くらい我が家のまわりに住んでいたこともあった。何人住んでいるかわからないくらいの人たちが毎日、我が家で昼ご飯を食べる。
 ブラジルの正餐は、昼ご飯である。朝ご飯はコーヒーとパンくらいの簡単なもので、夕ご飯も、スープとかサンドイッチくらいで済ませる人も多い。メインの食事はなんといっても昼なのだ。昼ご飯に、家族全員がそろってご飯を食べる。サンパウロやリオデジャネイロなどの都会では、サラリーマンは職場のそばで昼ご飯を食べるようになっていることもあるようだが、まだまだ多くの家庭では正餐としての昼ご飯を家族全員で食べている。職場に行っている人も昼は家に戻り、学校に通っている子どもたちは、だいたい午前か午後かどちらかにしか学校に行かないから、どちらにせよ、昼ご飯は家で食べることになる。
 何人住んでいるかわからないし、何人お客さんが来るかわからない。しかも、家で働いてもらっている人もたくさんいて、これらの人すべてに昼ご飯を用意しなければならない。いったい何人が我が家で昼ご飯を食べていたのだろうか。少なくとも、夫とわたし、子どもたちふたり。そして、親戚とか客人とか、だいたい私たちとテーブルを囲んで食べる人たちが、毎回7、8人。そして私たちとテーブルを囲むのではなく、また別のキッチンにあるテーブルで、お手伝いさんとかナニーとか、オフィスボーイとかドライバーとか、いわゆる使用人の皆さんが5~6人、食べていた。毎日10人から15人くらいは食べるだけの昼ご飯を用意しなければならない。
 昼ごはんの内容は、連載第9回の「ファリーニャ」のところで少し説明したけれど、だいたい「ごはん」、「フェジョン(豆の煮たもの)」、「肉か魚の料理」、「野菜料理」、「ファリーニャ(マンジョカの粉)」という組み合わせである。これを毎日、昼ごはん時に10数人分用意しなければならない。外で働いているわたしには、こういう準備をしている時間はないから、まず料理をするお手伝いさんは、働く女性の家には必須なのである。掃除と洗濯と料理を担当するお手伝いさんで、彼女の一番重要な役目は、この正餐としての昼ご飯の支度である。
 そのための買い出しは、わたしが毎週一度、車で出向いて行う。ブラジルの米は2キロごとの包装だが、それを何袋か、フェジョン(豆)も何袋か、それに野菜を山ほど、肉もキロ単位で買う。ブラジルの人は豚肉を好まない。「肉」といえばほぼ「牛肉」のことである。「コントラフィレ」という部位をビーフステーキ用に薄く切ってもらって2キロ、「クッションモーレ」というかたまりの部位を煮込み用に2キロ、「クッションドゥーロ」という部位をその場でミンチにしてもらって2キロとか、そんな買い方をする。「牛肉の薄切りを100グラム」とか、ありません。牛肉を薄切りにするという発想がそもそもなく、わたしがすきやきとか日本食を作る時は、かたまりの肉を半解凍して、自分で薄く切っていたものである。鶏肉も買ったが、こちらも「一匹ください」という買い方。
 それに野菜と果物を買う。ブラジルの人は元々あまり野菜を食べず、野菜の多くは日系人が持ち込んだり、紹介したり、栽培したりしてブラジルに広まったものだと言われているが、じつにその通りであった。私の住んでいたブラジル北東部セアラ州フォルタレザは1990年代当時、日系人が最も少ない州であると言われていたにもかかわらず、市内の中心には「メルカディーニョ・ジャポネス」(日本人の店)という大きな野菜中心の店があり、そこで日本でも見かけるような野菜(の、もっと立派に育ったもの)を、だいたい何でも買うことができた。基本的にいつもタマネギを2キロ、ジャガイモを2キロ、人参を1キロ、「シュシュ」と呼ばれるハヤトウリを1キロ、レタスを3つ、トマトを2キロ、あと、日本キュウリ(一般のキュウリは皮が厚くて太い)とか、コウベと呼ばれる緑の野菜などを買う。
 熱帯だったから果物は豊富で、アメリカでさえもブラジルからオレンジを買い付けるくらいだから、オレンジの質は良くておいしい。オレンジジュースに関しては、ブラジル家庭にはオレンジをしぼる「オレンジジュースしぼり器」がだいたいあって、しぼりたてのオレンジジュースしか飲まないという、ぜいたくなことをしている。ほかに、パッションフルーツにマンゴーにパパイヤにアセロラ。こういうものをジュースにして昼ごはんに供する。コーヒーとともに、これらのジュースにも沈殿するほど砂糖を入れて甘くする。しかもブラジルの正餐である昼ご飯では、必ず食後に甘いものを出すから、デザートを作るためにも、わたしは毎週、砂糖も2キロ購入していた。日本に帰って来たら、1キロの砂糖を消費するのに1年以上かかるから、ブラジルではおよそ20倍以上の砂糖を消費していたことになるが、毎日15~16人、ごはんを食べていたのだから、仕方があるまい。
 毎朝、7時ごろ仕事に出る前に、メイドに「今日はだいたい何人くらい昼ご飯を食べるから」と、おおよそのメニューの指示を出す。メニューの指示を出しておかないと、基本的に毎日、ご飯とフェジョン(豆)と焼き肉と少しの野菜ということになってしまうから、いくつかの料理をあらかじめ指示したり、教えておいたり、彼女たちができるものを聞いておいたりして、毎日のメニューを考えるのである。彼女は、朝と昼ご飯の支度をすると同時に、掃除と洗濯もやってしまい、12時ごろにはすべての準備ができているようにする。思えば5時間弱で、10数人の食事と、家中の掃除と洗濯が終わっているのであるから、彼女たちの有能さは大したものである。午後になれば、その10数人の食事の片付けをして、洗濯物を取り込み、全てにアイロンがけをして、1日の仕事が終わる。メイド専用の部屋にあるシャワーで身だしなみをととのえ、我が家のメイドは住み込みではなかったから、帰途につくのは5時ごろであったと思う。

 そういう仕事をしてもらうメイドのほとんどとは、良好な関係を築いてきた。留守宅をまかせ、子どもたちを預けるのであるから、当然である。しかしながら問題は起こる。当時の連れ合いもわたしも海外出張が多い仕事をしていたから、家に常に外貨があった。ある日、ロンドンに出張するために丁寧にしまいこんであったスターリング(イギリス通貨)の紙幣を探したが、見つからない。机の引き出しの特別な部分においてあったものが、ない。思い違いだっただろうか、あるいはもうスターリングは使ってしまったのだったかと思い、ではドルか円を持ち出そうと思った。ドルと円は、また別の場所においてあったのである。そこを見ても、ドルと円が入っていた封筒は空っぽである。ブラジル通貨は、おいてあるべきところにある。
 外貨が見つからないのは困るので、連れ合いのウォルターにも聞いてみた。彼はブラジル人だから、お金のしまい方については、わたしよりずっと習熟していて、書類の入っているファイリングキャビネットの奥に、それぞれの通貨を分けて封筒に入れていた。彼もまた、出張するわたしのためにそれらの通貨を探してくれたのだが、封筒には何も入っていなかった。この期に及んでわたしたちは、やっと、これは「泥棒」である、と気づく。
 我が家には、働きはじめて1ヶ月も経たないフランシスカ(仮名)というメイドがいた。静かでよく働き、料理も上手で慎み深い彼女を、私たちはなかなか気に入っていたのだが、こうなると彼女に嫌疑をかけるしかない。前述したように、「自分の持ち物の管理が悪い」のは、家事労働者がいなければ自分の責任だが、いれば、まず彼女たちに疑いをかけることになる、という居心地の悪さ。それにしても、ちょっと恐いことだった。ふつう、ブラジルのファベーラに住んでいる人たちは、「外貨」はほとんど見たことがない。「外貨」をどのように現地通貨に替えるのかなど知らない人が多い。そういう「外国」についての知識はあまりないのだ。だから「起こりうる泥棒」もほとんど現地通貨を盗む泥棒であって、「外貨を盗む」ということは非常に洗練された犯罪組織が裏についていることを意味する。
 ウォルターとわたしは考え込んだ。いくらなんでも、あなたが盗んだろう、などという非人間的な指摘をするわけにはいかない。しかし、同時に、彼女が外貨を盗んだとすると、彼女はおそらく直接「非常にややこしい犯罪組織」に関わっている人間である可能性が高い。このまま彼女に働き続けられることは、我が家の内情がすべてそういった犯罪組織に筒抜けであることを意味する。お金が戻らなくても仕方がないが、彼女にはなんとか穏便にやめてもらうしかないし、それ以降の犯罪に巻き込まれることがないようにしなければならない。
 ウォルターは考えに考えて、フランシスカを部屋に呼び、言った。「君は知らないかもしれないが、我が家には実は隠しカメラが仕掛けてある。君が外貨を抜き取っていることは、隠しカメラですべて撮られていたのだ。そういうことはやめてもらいたい」。フランシスカは、すぐに「申し訳ありませんでした」と謝ったという。「お金は返さなくても良いから、すぐに我が家の仕事はやめてほしい。この件は警察に届ける」と、給料を払って帰ってもらった。ブラジルの警察は、日本の警察とは違って、警察自体がちょっとこわかったりするのだが、こういう場合、相手には「警察に届ける」と言っておかないと、よけいややこしい。さらなる犯罪に巻き込まれないように、布石を打たねばならなかったのだと、ウォルターは言った。
 それからしばらく、我が家は自分たちも子どもたちも、普段以上の万全の治安対策をとりながら日々を過ごしたが、数ヶ月、なんともなく過ごせたので、まあ、「陰の犯罪組織」にさらなるターゲットにされることはなくなったのであろうと判断した。それにしても、フランシスカはどうやって私たちの外貨のありかを突き止めたのか。どうやってそれを、わたしたちに分からないように盗むことができたのか。その外貨をどうやって、だれに渡したのか、今もわからないし、謎のままである。外貨をなくした程度ですんで、本当によかったと思っている。

 でも、そんなことは例外中の例外で、子どもたちを10年みてくれたアナや、仕事が早いとは言えないが、丁寧で謙虚なルシアや、以前韓国人宅で働いていて、本格的なキムチを作ってくれたジェウザや、メイドをしてお金をためながらネイリストとして自立したヴィラニ。全員がシングルマザーとして子どもたちを育てながら働いている女性たちだった。ここ10年のブラジルの好景気が、彼女たちにより豊かな生活を約束していればよいのだがと考える。考えながらも、どんなに忙しくても、日本の家にメイドはいらないかな、とも思うのである。

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三砂ちづる

1958年、山口県生まれ、兵庫県西宮市で育つ。京都薬科大学卒業。現在、津田塾大学国際関係学科教授。ロンドン大学PhD(疫学)。専門は疫学、母子保健。
著書に『オニババ化する女たち』(光文社新書)、『月の小屋』(毎日新聞社)、『不機嫌な夫婦』(朝日新書)、『きものは、からだにとてもいい』(講談社+α文庫)、『太陽と月の物語』(春秋社)、『五感を育てる おむつなし育児』(主婦の友社)、『女を生きる覚悟』(KADOKAWA 中経出版)、共著に、よしもとばななとの『女子の遺伝子』、渡辺京二との『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(以上、亜紀書房)、内田樹との『身体知―身体が教えてくれること』(バジリコ)、訳書に、パウロ・フレイレ『新訳 被抑圧者の教育学』(亜紀書房)、編著に『赤ちゃんにおむつはいらない』(勁草書房)などがある。

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