第十一回


われわれのこの世界のあり方

 今回は他者という問題を考察し、独在性(唯一の現実的な中心性)という問題と私秘性という問題との差異と関係について考えたいと思うが、今回もまずはやはり前回の最後の議論に対する補足から始めなければならない。一つは、専制君主の逆懐疑の可能性という問題から窺われるこの世界のあり方についてのちょっとしたコメントであり、もう一つは東洋の専制君主の時間版の想定の難しさからも窺われる平板な(のっぺりした)世界の構成における言語の役割について、で、これは長引くかも知れない。
 前回の議論では、他者の問題にかんするかぎり、通常の懐疑論は矛盾を解消しようとするのだから素直な考え方であって、問題なく可能だが、専制君主の行なおうとする逆懐疑論は実在しない矛盾をわざわざ作り出そうとするのだからひねくれた考え方であって、それだけ切り離して捉えれば不可能であるとさえいえる、ということになった。しかし、そうだとすると、われわれ自身はそのひねくれたほうの考え方を自然に身につけてしまっているのはどういうわけか、という疑問が生じてもおかしくない。実際、これは問題であって、しかも容易には解きがたい難問だと私は思っている。とはいえ、問題と称するものが与えられるとすぐに解こうとしてしまう人が多いが、この問題は解こうとする以前に、それが問題であるという捉え方をよく理解するほうがはるかに重要ではある。
 この問題の答えがどうであれ、そのひねくれたほうの考え方を受け入れることがすべての出発点であり、受け入れないかぎりわれわれがおこなう何ごとも始まりえないということはわきまえておく必要がある。「ものごとの理解の基本形式」がそのことによって初めてすべてに適用可能になるからだ。たとえば、この問題の「答え」として、自分自身の存在をも「ものごとの理解の基本形式」に嵌め込もうとする言語[ロゴス]の力に屈服せざるをえないからだ、などという説明をするにしても、その説明自体がすでに、そのひねくれたほうの考え方を受け入れた後でしか意味を持ちえないだろう。そこに一種の「屈服」が介在することが理解できるにしても、やはりそうであろう。
 たしかに、すべての始まりを可能にするのは、たんに可能的ではない現実性(唯一の現実的な中心性)というあり方を、それ自体として概念化することによって可能性の内部で本質においてそのままのかたちで再現・反復するということであり、この操作こそが人称・時制・様相のカテゴリーの始まりである、といえる。われわれが「私」と言うとき、すでにしてこの再現・反復を経由していざるをえない。だからそこでは、「私」にも「現在」にも、つねに「~にとって」つきのそれと「~にとって」なしのそれとの二重性がどこまでも**つきまとい、まさにこの、、問題を立てるときにさえ、そこから逃れるすべはないわけである。

*「可能性の内部でそのままのかたちで再現・反復する」とは、「たんに可能的ではない現実性(唯一の現実的な中心性)」ということをそのまま概念化して、(じつは少しも現実的ではない)たんに可能的であるにすぎない「たんに可能的ではない現実性」を概念的に構成する、ということである。他人もその人にとっては「私」であり、過去や未来もその時点にとっては「現在」であり、諸可能世界もその世界にとっては「現実世界」であることになる。
**「どこまでも」とは、そのようにしてたんに可能的に構成された諸々の「たんに可能的ではない現実性」からも、今度はそこを端的な現実性とする同じ操作が反復的に適用され、それはどこまでも終わることがないからである。

 この論脈においてはまだ言う必要のないことだが、永遠に言う機会が来ないかもしれないのでここで言っておくなら、この「屈服」の後ではじめて、概念化されているはずの他人の存在の現実性をありありと感じることが可能に(場合によっては感じざるをえないように)なる。他人の自由意志も、だ。現実性が向こう側に移ると、こちらがあちらから逆包摂されたあり方も直接的に表象できるようになるだろう。そこから先が、累進する矛盾を内包したこの世界における人間関係の問題であって、そのような問題についてもいずれは論じたいと思ってはいるが、他にもいずれは論じたい問題は山積しており、しかもますます増加する傾向にあるので、たぶんほとんど論じられずに終わるであろう。とはいえ、この構想力は現実の〈世界の原点〉とは別の《世界の原点》を創設する操作なのだから、普通の想像(ピンク色の象を思い描くこと等々)とは本質的に違う種類の仕事であるという点は知っておく必要があるだろう。時間における予期や想起も構造上はこれと同じ特徴を共有しているのだが、この仕組みこそが人間的言語[ロゴス]であろう。

*この連載が、ではなく、私の人生が、である。

平板な(のっぺりした)世界の構成における時間と言語

 第二の補足に移ろう。他人にはじつは心がないのではないか、という他我に対する懐疑論の時間版は、過去や未来はじつは存在しないのではないか、という懐疑論だと考えられるかもしれない。しかし、文字通り「他我(=他者の私)」に対応するのは、過去や未来そのものというよりは、「過去や未来における現在」であろう。ということはつまり、過去や未来にそれが欠けているとは、過去や未来がじつは存在しないということではなく、通常理解されるような意味での過去や未来が、すなわちその過去や未来における現在が、その時点においては成立していない、という意味でなければならない。だから、他者の物体的身体に対応するような、B系列的な過去(現在である時点よりも以前の時点)や未来(現在である時点よりも以後の時点)は、存在してよいのだ**。それもまた存在しないのではないかという懐疑は、他者の物体的身体もまたじつは幻覚や映像かもしれないではないか、と疑うような、他我の存在に対するというよりは(他人の物的身体を含めた)外界の物質の実在に対する懐疑論に対応することになるだろう。過去や未来に対する懐疑論にかんしてこの二種の懐疑論が区別されるべきであることは、外界の懐疑と他我の懐疑が当然区別されるべきであるのと同様に、重要であると思う***

*B・ラッセルのいわゆる「五分前世界創造説」などがその一例と解釈できる。
**「現在である時点よりも以前(以後)の時点」という形でそこに「現在」が含まれているのに、なぜB系列的であるといえるのかといえば、その時点のほうはもはや現在にはならないからである。そこから始まる新たなA系列が想定できないので、そこには矛盾がない。
***外界の実在を懐疑する人は、外界の内部にいる他人たちの実在ももちろん懐疑するだろう。さてその場合、その他人たちのさらに内部にあると考えられている「他人の心」はどうなるのだろうか。当然さらに強い懐疑の対象とされそうなものだが、驚くべきことにむしろ懐疑されないのだ。この懐疑は、どういうわけか、懐疑しているこの心と懐疑対象の一つである他人たちがその内部に持つと想定される心とを早々に同一視してしまい、心vs.物、精神vs.物質といった対立図式を作りあげてしまうのである。外界の懐疑は「ものごとの理解の基本形式」にきれいに収まる。

 したがって、東洋の専制君主の話の時間バージョンは、臣下たちが「私の使う「私」という語はこの口が付いている身体を指しているだけです」と言うことに対応して、「ここで使われている「現在」あるいは「今」という語は、たんにその発語と同時であることを語っているだけです」と言われねばならないことになるだろう。すなわち、そこには唯一の現実的な中心性(これ、、しかなさ)の成立という含意がない、というわけである。ところがしかし、われわれはこの言明の意味するところを理解することができない。たとえば、2003年3月6日4時51分の時点でたんに機械的に「現在は2003年3月6日4時51分です」という文字列が印字されたとして、それがその時点において書かれたということを、その時点との同時性だけで理解することはわれわれにはできない。同時性だけでよいなら、(その時点から見て)過去においても未来においてもいくらでも成立しうるからである。それがその時点において書かれたとは、つまり、その時点が現在であったという意味であり、それはすなわち、その時点に唯一現実的な中心性(その時しかなさ)が成立していたという意味である。そういう意味にしか理解できないのである。専制君主が臣下の言い分を理解できるようには、そこにおいては「現在」がなかったと理解することができないのだ**

*「したがって、この「現在」は、「現在がもし十年前だったら……」というように使うことはできません」というようなこともまた言われてよいだろう。少なくともわれわれがこの言い方で通常理解するような内容を、それは意味することができない、ということである。
**そう理解することがわれわれにはできなくても、実在論的に考えるなら、実際にはそうであったということもありうる、と思う人がいるかもしれない。しかし、そうではない。「そこにおける現在というものが存在しない時点」の意味がわれわれにわからないのであれば、実際にはそこにおける現在がないということが何を言っているのかがそもそもわからないのであるから、実際にはそうであることなどはできない。「そう」の内容が指定されていないからだ。これに対して、「その人にとっての「私」というものが存在しない人間型身体」の意味はわれわれにわかる。だから、実際にそうである場合も考えられるのだ。「そう」の内容が指定されているからである。

 機械的な印字という例からもわかるように、この唯一現実的な中心性(その時しかなさ)の成立にはその時点における生き物の存在などは前提されていない。意識をもつ生き物などいなくても、世界はそのつどつねになぜか現実的に中心化され、「なぜかこの時だけしか存在しない」という状態になり続ける、と考えられているわけだ。考えられているというのは、それがわれわれが理解する時間という現象の本質そのものである、ということである。
 ちょっと話は逸れるが、そもそも現在(今)というものの成立には意識をもつ生き物の存在が必要だという考え方は、生き物のもつ意識にありえないほどの神秘的な力を与えてしまうことになると思うので、その点にも触れておこう。
 空間においては、ある身体に付いた目からしか世界の光景は見えず、その耳から聞こえる音しか聞こず、その身体が触れうる範囲のものしか触知できない。そういう生物的限界の存在から「ここ」が生じていることは明らかだ。もし知覚能力の限界ゆえに世界を限定せざるをえない生き者が存在しなければ、「ここ」などという現象は生じないだろうし、また逆に、そういう生き物が存在してさえいれば、それは生じざるをえないであろう。しかし、時間においてはそうではない。かりにもし知覚能力の限界ゆえに世界を限定せざるをえない生き者が存在しなければ「現在」などという現象は生じえないとしても、そういう生き者が存在しさえすればそのことが「現在」を生じさせるとは考えられない。意識をもつ生き物は生きている期間ずっと意識があるのだから、その期間のうちのいつが現在であるかを意識の存在が決定することなどはできない。
 空間の場合、「ここ」になるその場所は、まずは「ここ」性とは無関係にそれ自体で存在し、そこにたまたま生き物が来ることがそこを「ここ」にする。しかし時間の場合、「現在」になるその場所は、まずは「現在」性とは無関係にそれ自体で存在し、そこにたまたま生き物が来ることがそこを「現在」にするわけではない。「現在」は「ここ」とは違って、生き物にとっても、向こう側からいきなり与えられる。それは手も足も出ない客観性のうちに予め組み込まれていて、生き物がそれを作り出すことなどはできない。空間には「ここ」など少しも組み込まれておらず、それでも立派に空間だが、時間にはそれ自体に「現在」が組み込まれており、もしそうでなければそれは時間にならない。これが時間におけるA系列のB系列に対するプライオリティの意味である。時間においては、B系列といえどもA系列の相対化によって後から作り出されるほかはないのだ。
 空間においてはもちろんそんなことはないのだが、人称(person)においては、少なくとも〈私〉が存在している期間にかんしては、現実には時間と同じことになってしまう。少なくともそういう側面がある。つまり、手も足も出なさの点で、「現在」は「ここ」にではなくむしろ「私」に似ているのだ。〈現在〉と〈私〉は、なぜか知らないが、ともあれまず与えられているのだ。〈ここ〉も与えられているともいえるが、それは〈私〉が存在する場所という意味においてにすぎない。
 話を戻そう。要するに、時間には「その時点における現在」を可能とする重層的な構造が組み込まれており、たとえ専制君主であっても、時間にかんしては、そういう重層構造を含まない時間理解を独自にもつことはできない。その時点における現在(ヘーゲル風の用語で表現するなら「媒介された現実性」)というものを構想し、端的な(すなわち媒介されていない=直接的な)現在もまたその一例であるとみなすという相対化の仕組みが、すでにしてそこに組み込まれてわけである。おそらく人間以外の多くの動物は意識的には絶対的現在に生きており、その相対化は知らぬ間になされているだけであろう。しかし人間は、相対化がなされたあり方そのものを対象化して捉え、それこそを実在と見なしている。前々回(第9回)で言及した「動く現在」や「現在という場」がまさにそれである。それが人間的記憶の基盤をなしており、時間という矛盾を内含した構造把握そのものを作り出している。もしそれを受け入れないならば、「今だけ」が知らぬ間に連接していくあり方に「動物化」せざるをえない。そうなれば時間の経過を「ものごとの理解の基本形式」に収めて捉えることができなくなるだろう。
 しかし、過去や未来とは違って、他人にかんしてはそうではない。東洋の専制君主にとっての臣下たちのようなものが実在しうると考えられるのは、《私》(その人にとっての〈私〉)であることなしに実在しうる物的身体が、その口から有意味な言葉を発することができる、と考えられるからである。ここまでの議論において、「《現在》(その時における〈現在〉)であることなしに実在しうる過去や未来」が不可能であることとの対比において、この前半の「《私》(その人にとっての〈私〉)であることなしに実在しうる物的身体」というところまでは一応の理解が得られたとしよう。そうだとしてもまだ、後半の「その口から有意味な言葉を発することができる」の問題が残されている。彼らは、本当にその口から「私の使う「私」は、この口が付いている物的身体を指しているだけです」といった言葉を発することができるのであろうか。
 もちろん、口からそういう音を発することはできるだろう。とはいえ、彼らはそう言って、、、いるわけではあるまい。口からそういう音が出るだけで、彼ら自身がそれを意味している(mean)わけではないだろう(もし意味しているとしたら、それは「うそつきパラドクス」に類する事態となるだろう)。ということはつまり、彼らの発する文が真だとして、それを言わせている別のだれかが存在している(と想定せざるをえない)ことになる。それがだれであるかはわからなくとも、専制君主がその文の意味を理解するとき、彼自身も暗にそう想定せざるをえないはずである。そうでなく、この文がたんに、、、真である場合も想定できるであろうか。その文の意味(meaning)を理解している者が(自分以外には)だれもいないにもかかわらず、それが真なる事態を語ってはいるという場合を、である。もしそれが背理だとすれば、それはつまり、じつは他者の存在を暗に前提してしまっているということになるだろう

*その他者は、その世界の内部に存在している臣下たちではないので、世界を超越した存在者だと想定することもでき、その場合、それは一種の「神」であることになる。人称的世界においては、「神」的超越者を想定することは容易である。対して、時間的世界においては、このような非受肉的他者の存在を想定することは困難である。これが「他の〈私〉」と「他の〈今〉」の重要な違いの一つである。

 発言内容の分析からも、別のルートで同じことがいえるであろう。臣下たちが「私の使う「私」は、この口の付いている身体を指しているだけで、私に自己意識があるわけではありません」と言うとき、それはつまり「私だけがなぜか現実に世界が開けている唯一の原点で、同類とされる他の人間たちはなぜか現実にはそうではない」という事態は成立していない、、、ということを言っていた。そう理解されていた。彼らの言葉は、否定的にではあるが、その事態に言及していたのだ。さてしかし、なぜ専制君主はその発言が何を否定しているのかを理解できるのだろうか。そう問われるなら、それは言語を理解している(と想定されている)からだ、としか答えようがない。言語を理解していてもそのことは理解できない、というケースもありうるかもしれないが、前段落の議論はそれに否定的であった。
 もしそうであるなら、すなわち否定的にではあれその可能性の意味を理解してしまっているのであれば、前回の議論に反して、専制君主の逆懐疑論は可能で、しかもあまりにも容易であることになるだろう。臣下たちの言うことを理解できるということが、それが嘘である可能性をすでに知っていることを意味しているからだ。
 それでは、その次に想定されていた最初からの単独存在者はどうだろうか。彼は他者(の存在)という可能性そのものを初めて考え出すと想定されていた。彼は、言語(もちろん私的言語である)を持っているではあろうが、(専制君主の臣下たちのような存在者を含めて)およそだれからも語りかけられたことはなく、そもそも語りかけられるということを知らない。彼が「あちらから私に語りかけてくる(あちらにおいては)私と同じあり方をした他者」などという摩訶不思議な矛盾的存在者をはたして考え出せるものであろうか。
 前回の議論では、時間的他者(過去や未来における現在)の存在を知っているなら、それと同様な方法によって、人間的他者(その人における「私」)という矛盾した存在者の存在可能性も想定可能である、ということになった。これはまた、私的言語を持っているなら公的言語の可能性も想定できるということだ、ともいえる。というのは、この単独存在者が過去における現在の存在を知っているというとき、彼はそのとき自分が書き残した文章を(それを書いたその時点における思いを記憶をたどって思い出すのではなく)いまその文章そのものを解読することによって理解することができ、また、いま書き残しておく文章を(書いたこの時点の思いを記憶をたどって思い出すのではなく)未来においてその文章そのものを解読することによって理解することができる(と想定されている)からである。要するに、彼には言葉で語りかけてくる他者が存在することになるわけである。すると、彼は原理的には他者の存在を知っていることになる。彼は、時間理解によってのみならず言語理解によっても人間的他者の存在を想定できる道が開けていることになる。言い換えれば、時間的矛盾と言語的矛盾の両者から(その両者は結局は同じものであるともいえるが、その議論はここでは措くとして)人間的他者の可能性にいたる道筋が開かれていることになるのだ。
 時間そのものについては、この単独存在者のような想定はおそらくはしてみることさえも不可能であろう。すなわち、実際に単独的に存在している現在がこの現在以外の現在もまた存在可能ではあるのではなかろうかと疑ってみる、というようなことである。われわれはそのような懐疑をすでに超えてしまっており、超えてしまったことで成立した世界にしか生きられないからだ。そうだと知ることはできても、である。
 言語についてはさらに根が深いだろう。専制君主や単独的存在者はなぜ言語を持っていることができるのか、と問われたなら、そう想定したからであって、それだけのことにすぎない、と答えることもできるのだが、しかし、その想定がそこで問おうとする問題にすでにして答えてしまっているのではないか、と問われたなら、それは認めざるをえない。とはいえ、なぜか言語をもつ(言語は無色透明で何の前提も持たない表象媒体であると前提したうえで)と想定しなければ問いを始めることさえできない。専制君主は臣下の言葉が理解でき、理解できた後でことの真偽の水準で問題が生じることにしないと話が始まらないのだが、しかし、ある意味ではそれではすでに手遅れであるわけだ。問題の言語的把握が可能であることが容認されている時点ですでに、(言語はじつは無側透明の表象媒体ではなく、すでにして多くの存在論的前提を背負っているので)問題の答えが与えられてしまうわけだ。臣下たちに言葉を語らせているのはじつはその世界に外にいる私(この文章の著者)にすぎないのだが、にもかかわらず、ある世界で言葉が話される(と想定される)と、そのことによって世界に「身体」的(「針」的)な複合構造が暗に同時に導入されてしまうわけである。おそらく、問題の根源は時間の場合も同じことであろう(まさに「針」の二重の二面性がそれを示しているように)。

*前回の「針と身体」という項目の下で言ったことだが、忘れてしまった人のために要点を繰り返しておく(とはいえ、これを忘れてしまっていたら、ここで何が問題にされているか自体を忘れてしまっていることになるのではあるが)。身体は、内(心的)と外(物的)の二面性と、現実的にそうであることと概念的にそうであることの二面性との、二種の二面性の「いびつな複合」によって成り立っている。同様にして針は、現在を指すことと特定の時点を指すことの二面性と、現実的にそうである場合と概念的にそうである場合の二面性との、二種の二面性の「いびつな複合」によって成り立っている。

 東洋の専制君主をめぐる補足的考察が思いのほか長引いたが、これでほぼ終わりである。途中でさまざまな問題に触れることになったので、「針と身体」の末尾でこの問題への導入がなされた際の問題設定にもどって、その観点から何が論じられたかを確認しておこう。
 この議論は、「各時点にそれぞれ「それしか見えなさ」があるという形で一般化しないかぎり、それらは特定の時点にさえなれない」という論点から出発し、それに対して起こりうる「ならなくてもよいではないか」という反応に対して考えられる異なる二つの応答を提示することから始まっていた。一つは「もうなってしまっており、こういう問いへの答えはそれを前提にしてなされてよいのだ」というものであり、もう一つは「もしならなければわれわれの知っている時間は壊滅する」というものであった。そこで「前者は時計だけでなく人計(人間身体)についてもいえるが、後者は人計についてはいえない」と言われていた。これはつまり、「もうなってしまっている」という点については時間的他者も人間的他者も同じことだが、「もしならなければ壊滅する」という点については時間的他者にはあてはまるが人間的他者にはあてはまらない、ということである。つまり、時間は「いびつな複合」なしにはありえないが、人間はそれなしにも生きていくことが可能である、ということである。
 理由は簡単で、たとえ言語で描写される以上その世界はそのいびつな複合を含まざるをえないとしても、物的身体をもって現われている唯一の他者である臣下たちがその担い手である必要は――彼らみずからが言うとおり――ないからである。その世界の実在する他者たちは本当に《私》でない(すなわち、彼ら自身にとって〈私〉ではない=第一基準によって自己を識別していない)かもしれず、逆懐疑論は可能であるとはいえ、そう信じることもまた問題なく可能だからである。唯物論的独我論が(むしろ唯一の)整合的な世界観であったゆえんである。

*これはつまり、実在する物的身体があっても、それが(針に比されうる)比喩的な意味での身体であるとはかぎらない、ということである。それはたんに、われわれの世界で人間身体であるものと同じ形をしているだけである。

 これで東洋の専制君主をめぐる考察そのものは終わりだが、関連して残る唯一の問題は、そもそもこのような考察は本当に哲学的に深い意味があるのだろうか、というものである。私はそれほどでもないだろうと考えており、ここで私がおこなってきたような議論も、時間の場合との違いや言語のはたらき等々において興味深い論点を含んでいるとはいえ、それ自体としては少なくとも最も本質的な問題とはいえないと感じている。しかし、その議論は次回(たぶん最終回になるだろう)するとして、ここでは(本題であったはずの)そもそも他者とは何かという問題を、これまでの議論との関連において、多少とも論じておくことにしよう。

他者とは何か

 まずは、単純にこう考えられそうに思える。他者とは「他の〈私〉」であり、それゆえつまり、《私》のことである、と。すなわち、概念(内包)的にはどこまでも〈私〉とまったく同じ種類の存在者なのに、なぜか現実にはそうではない者のことである。
 このような提示の仕方をすると、早速に二つの問題が思い浮かぶ(この二つは本質的には同じ問題かもしれない)。一つは、他者どうしの間にも(これまたもちろん概念的にはだが)これとまったく同じ関係が存在することになるはずだ、ということである。他者であることが一つの関係概念であるとすれば、これは当然のことだともいえる。どの《私》から出発しても、その人にとっての「他の〈私〉」という者が存在することになり、同じ問題はどこからでも始められるはずである

*それとはまた別に、この関係を一般論として提示することもできる。たとえば、この連載では触れることができなかったが、私が何度も論じてきたパーフィットの複製体の火星旅行の思考実験とか、あるいはたんなる人間分裂の思考実験でも同じことなのだが、ともあれ心理的連続性の点ではある一人の同じ人間が継続的に存在しているだけなのだが、それが二つの別の主体に分裂した場合に、どちらか一方が端的に〈私〉である(したがって他方は他者である)と想定する、というところから話を始めることができる。これは、二つの中心性のうち一方が現実的な中心性だと言っているのだが、この場合の現実性はもちろん想定された現実性にすぎない。そもそもが思考実験なのだから、それは当然のことだろう。これは想定上の〈私〉であるから《私》であるともいえるが、その世界にそれとは別に現実の〈私〉が存在するわけではないから、その意味では他者であるわけではなく、想定上は端的な〈私〉であるといってもよいことになる。現実の他者を、本質的にはこのような思考実験上の〈私〉と同じ身分の存在者とみなすことも一面の真実ではあるが、他者性という重要な側面が消失する。

 もう一つはもっと内在的な問題である。「~なのに、なぜか現実にはそうではない者」は「他者」の定義である。だから、それを疑うことに意味はない。とすると、東洋の専制君主の思考実験のように、他者が現実に〈私〉である場合とそうでない場合とを考えてみるといったことにはそもそも意味がないのではないか、と思う人がいても不思議ではない。この問題は、前段落における「他者どうしの間にも……これとまったく同じ関係が存在することになる」というのと同じ問題であろう。他者性をあくまでも累進構造の内部における段差によって捉えるなら、他者もまた現実に〈私〉である場合とそうでない場合とを考えることができることになる。累進構造においては、ひとつ上段の存在を認めればそれが現実性を意味することになるからだ。そこからすべてが開けている絶対的な中心性が、概念的に考えられる(考えられねばならない)ことになるわけである。

*今回の二度目の注**において「「現在である時点よりも以前(以後)の時点」という形でそこに「現在」が含まれているのに、なぜB系列的であるといえるのか」という問いが出され、「その時点のほうはもはや現在にはならないから、そこから始まる新たなA系列が想定できない」からだ、と言われているが、このような意味での〈現在〉でなさが、ここで言われている意味での〈私〉でなさと対応する。

 この問題を、定義の中に「現実存在」が含まれているという点に注目して、神の存在証明におけるいわゆる存在論的証明の孕む問題と同じ問題だと見る見方もありうる。これを詳述している余裕はないが、結論的なことだけ述べるなら、言語的コミュニケーションの場面においては存在論的証明の言語使用のように伝達が為され、為された後ではその事実は闇に葬られて、直接的に確証される、ということになるだろう。と、このようにその経過を外から描写すると、(間接的な「直接的に」が入り込んで)コミュニケーションの場面における言語使用と同種の言語使用しかできないことになる(という点にふたたび「存在論的証明の孕む問題と同じ問題」が現れる)のではあるが。
 この問題を、可能世界の問題と同型であると見ることもできる。後者においては可能主義(可能世界の実在論、時間論におけるB系列主義に対応する)と現実主義(可能世界の非実在論、時間論におけるA系列主義に対応する)との対立が中心的な対立点となるが、私と他者の関係の問題もそれと同型であると捉えることができ、それがこの問題をヨコ問題として捉えるということであった。その場合、可能世界は望遠鏡で観察すれば見えるようなものではないのと同様、他者のあり方はよくよく観察すれば答えが見えてくるというようなものではなくなる。心の中の状態が自然な身体的表出をともなうかどうか、といったことをめぐる問題も本質的な問題ではなくなる。
 他者は、一つの意味(現実主義的)においては、他の〈私〉なのだから、(認識不可能とかそういったレベルの話ではなく)文字どおり実在しない。他者なのに私であるわけがないからだ。このことは〈私〉についてだけでなく《私》の水準でもいえる。そのように考えると、これは相対化された現実主義となり、それはまた相対化されたA系列主義とも同型であるが、それでもまだB系列主義になるわけではない。ともあれ、一面においてはこの立場(現実主義的)は固守されねばならない。この側面が捨てられてしまえば、他者は他者的特殊性とでもいうべきものを失ってしまうからだ。もう一つの意味(可能主義的)においては、端的な唯一の〈私〉の存在のほうが一種の幻覚のようなものとなる。すると、他者性は並列的な相互的他者性だけとなるが、これが端的な現在が存在しないB系列主義と同型の捉え方である。こちらの捉え方もまた一面においては固守されねばならない。この側面が捨てられてしまえば、そもそもある同種の存在者のなかに自己と他者という違いがあるということ(の「ある同種の存在者」のほうの側面)が消滅してしまうからだ。
 他者の存在が問題であるのは、両立しがたいこの両側面が併存しているからである。こういう場合、どちらか一方を消滅させることで問題を「解決」しようとする人が(どの問題領域においても)必ず出てくるが、問題は解決すればよいというものではないだろう。少なくとも哲学的な問題の場合は、問題であることの意味を深く理解することのほうが遥かに重要である。そしてこの場合、問題であることの意味はやはり、たんに並列的な相互的他者性と唯一の現実的他者性との「いびつな輻輳」にあるだろう。
 端的な唯一の〈私〉の存在のほうを一種の幻覚のようなもの(すなわち実在しないもの)とみなしたうえで、この側面(すなわちこの特別な実在しなさ)の欠如によって他者という存在者を捉えることもできる。彼らはなぜか全面的に実在してしまっている(寄与成分だけで出来ている)! と。この捉え方のほうが(問題点を一挙に捉えているという意味で)正鵠を射ているともいえる。比喩的にいえば、私は幽霊なのだが、あちらにはそういう幽霊性を欠いたゾンビ連中がいる、というわけだ。彼らはなんと完璧に(余すところなく)実在しているのだ。すなわち、寄与成分だけでできているのだ。ここには事象内容的な意味での懐疑(「彼らはじつはゾンビなのではないか」といった)が介入する余地はない。〈幽霊〉を《幽霊》的に一般化しても、この議論は累進的にどこまでも成り立つ。その場合には、幽霊性(実在しなさ)が概念的にのみ反復されていくことになるだろう。  他者性が(完全にB系列的な)並列的な相互的他者性だけとなったとき、その客観的な(相対主義的な)捉え方においては独在性(諸中心性のなかにある唯一の現実のそれというあり方)の問題は消滅するが、その痕跡は一般的な私秘性の問題という形をとって残存することになる(B系列における各時点間の関係も同じである)。そうすると、各「私」に並列的に外から覗けない私的内面があるかように捉えられることになる。
 この論脈において重要なのは、「 」と《 》の区別、時間論用語でいえばB系列と相対化されたA系列との区別、である。独在性は概念化されても(その本質においては)そのまま保持されるから、そのことで一般的な私秘性に変形してしまったりはしないのだ。では、一般的(並列的)な私秘性という捉え方はどこから生まれてくるのだろうか。独在性の累進的な相対化からではない。そこでは唯一の「現実の原点」が概念的に保持されつづけるからだ。もはや累進構造さえ発動しないまったく平板な(平板に相対主義的な)世界が成立したとき、私秘性はそこにおいて(しかしあくまでも独在性の痕跡として)成立するわけである。
 平板なB系列といえども、それが(たんなるC系列ではなく)あくまでも時間の系列である以上、そこにはA系列性の痕跡が残っているだろう。B系列の本質である「(どこにでも認められる)より前‐より後」の関係がまさにそれである。これと同じように、一般的な相互的私秘性といえども、それが(たんなる物的相互関係ではなく)あくまでも諸々の心のあいだの関係である以上、そこには(累進する)独在性の痕跡が残っているのでなければならない。意識の私秘性の本質である「(だれにでも認められる)他者の心の体験できなさ」がまさにそれなのである。
 さて、最後の問題はじつはここから始まる。前回、「私と同じあり方をした他人などと言う丸い四角のようなもの」という話をしたとき、そこに付けた注(第10回の最後の注)において「ウィトゲンシュタイン的な問題提起」は「中心性ではなく現実性の問題」なのだが、「方向は伝統的な他我問題と同じ方向を向いている」と私は言った。そして「私の元来の問いはそれらとは逆向きである」と。ここから始まる最後の問題とは、この「方向」の問題である。それはまた、東洋の専制君主をめぐる考察の最後にちょっと呟いておいた、「このような考察」には「本当に哲学的に深い意味がある」わけではないだろう、という点とも繋がっている。

(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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