第十一回 こころの病とサラリーマン


現代人のこころは弱くなったのか

 百歳でもカクシャクとしている老人を見ると、やっぱりむかしの人は丈夫だねえ、などと感心しがちです。でもそれは、その老人と同世代の人たちのほとんどが早死にしていた事実を無視した印象論にすぎません。たまたま丈夫な人が運良く生き残ってるだけなので、彼らをむかしの人の「標準」と考えるのは誤りです。最近の海外の研究では、いまのこどもたちは半数くらいが百歳まで生きるのではないかとする予測もあるほどで、人類はむかしよりも確実に強く健康になってるんです。
 「身」のほうはデータなどで検証できますが、「心」はなかなか客観的な数値にできません。反証しにくいのをいいことに、現代人はこころが弱くなったと決めつける暴論があとを絶ちません。
 ちかごろでは災害や事件が起きるたびに、「こころのケア」の重要さが叫ばれますが、「むかしはこころのケアなんてしなかったけど平気だったじゃねえか。いまのヤツらの精神は軟弱なんだよ」と苦々しく思ってる人もいます。
 若手社員が過労自殺をしたことで企業責任が問われると、「われわれが若手のころはもっとモーレツに働いてたけど自殺なんてしなかった。いまの連中は甘やかされすぎだ」と企業側の肩を持つ人もいます。
 これまでたくさんの現代史史料を参照するなかで、私はひとつの確信を得ました。人間は一〇〇年くらいでは基本的に変わらない、変われないんです。だから、むかしの人たちのこころや精神が強かったなんて見かたも絶対まちがってるだろうな、と思い、調べてみました。
 明治大正時代の新聞には、開業医の広告がたくさん載ってます。そのなかには、神経衰弱の治療を看板に掲げる病院がかなりあるんです。このことだけでも「こころのケア」の需要がたくさんあったことがわかります。
 というわけで今回は、サラリーマンとこころの病について歴史をひもときますが、あらかじめおことわりしておきます。私は精神医学の専門家ではありません。うつ病などの細かい所見や分類についての知識はありません。過去の診断や治療法が医学的に正しかったかどうかの判定は専門家におまかせします。あくまでも、こころの病が一般社会でどうとらえられてきたかという、文化史的な検証をしていきます。

神経衰弱と明治の文化人

 戦前には、こころの病や神経症は一般的に、「神経衰弱」と総称されました。神経症、うつ病、神経衰弱といった医学用語は江戸末期からすでに存在し、佐久間象山は勝海舟に宛てた書簡のなかに、「神経症に相成、食気も一向に乏しく」と書いてますけども、こんな言葉を使ってたのは学者や医者だけ。一般の人が知るようになったのは、明治後期から大正時代にかけてのことです。
 当時の新聞雑誌では、時代の変化や治安の悪化、激烈になる一方の生存競争などをおおげさに説いた上で、急増した神経衰弱やヒステリーを現代病、文明病である、とする紋切り型の説明が目立ちます。大正一三年『中央公論臨増』の記事は内務省統計をひき、明治三九年に二万四千人だった精神病患者は大正四年に四万二千人に倍増したことを文明病の根拠としてますが、この時期の日本は人口も急増してましたので人口比で計算しなおすと微増くらいです。文明の発達によって精神病そのものが増えたというよりは、それまで陰の存在だったものにスポットライトが当てられるようになったというのが実情でしょう。
 神経衰弱に悩まされた有名人といってまっ先にあげられそうなのが、夏目漱石。イギリス留学中の明治三三年に症状が悪化したようですが、明治四〇(一九〇七)年、大学を辞して朝日新聞社の専属作家になった際の「入社の弁」では、大学講師の給料はとても安く、家族を養うために数校の講師を掛け持ちせざるを得なかった過労が神経衰弱の原因だと述べてます。ちなみに大学では講義中に近所で犬が吠えることが不快でたまらなかったそうで、自分の講義がまずかったのはそのせいだから、不平のある学生さんは犬にいってくれと、落語好きな漱石らしい洒落っ気もうかがわせます。
 明治三二年の読売新聞には、尾崎紅葉が『金色夜叉』の連載を休載していることを詫びる一文があります。読者から催促や批判などたくさんいただくが、神経衰弱という病ゆえに致しかたござりませぬと、恐縮しきりなご様子。
 同じく読売、明治四二年の記者コラムでは、文部省に出入りする新聞記者たちの雑談として、新渡戸稲造の神経衰弱を話題にしています。原因はなんだろうとみんなで話していると、ある記者が、西洋人を奥様にしてる人は奥様孝行をしなきゃならぬので、たいがい神経衰弱になっていると珍説を唱え、一同大笑い。
 実際のところを、新渡戸本人が『実業の日本』で語ってます。新渡戸も漱石と同様に、大学での過労を語ります。講義中に倒れそうになるのを、茶やコーヒーを飲んで神経を興奮させながら乗り切っていたというのだから、相当無茶してたんですね。
 ところが診察したベルツ医師からは、過労や多忙は原因ではないといわれます。対人関係の心配や不安こそが、感情を傷める真の原因なのだとのことですが、さて、どうなんでしょう。過労は無関係なんですかね? 発病のきっかけにはなるんじゃないかと思いますけど、それは私のシロウト判断なのでしょうか。

国民病か文明病か

 文化人ばかりではありません。一般市民にも神経衰弱に悩む者はいました。
 明治四二年、交番の巡査に過労から神経衰弱になる者が続出と新聞が報じます。当時は二四時間勤務と全休を一日おきに繰り返していたそうで、これはキツそうです。明治四四年には中学での野球ブームが過熱、生徒が練習のしすぎで神経衰弱に。大正一二年には東京市内の小学教員の三分の一が毎年病気で退職・休職しており、神経衰弱と内臓系の病気を併発する例が多数。昭和七年には大宅壮一が東北の大飢饉を取材して、凶作地の主婦が貧しさと過労からほとんど神経衰弱になっていたことを伝えています。
 戦前の中・上流サラリーマンを読者層としていた『実業の日本』には、神経衰弱に関する記事がちょいちょい登場します。当時のサラリーマンにとっても、こころの病はかなりの関心事だった証拠といえましょう。
 最初の記事は明治三九(一九〇六)年の新年号に掲載された「神経衰弱予防法」。日露戦争直後なのは偶然ではないはずです。戦時中よりも戦後に神経症患者が増えることは、多くの医師が報告していますから。
 明治四〇年には十五銀行の園田頭取が、神経衰弱の体験談を書いてます。経営者が自身の神経衰弱を公表することはあまりありません。プライドなのか経営に差し障りがあるからなのか隠すことが多いなか、これは珍しい例です。
 園田も最初に神経衰弱になったのは日清戦争のあとでした。戦争中は横浜正金銀行の頭取として徹夜続きの激務をこなしてもなんともなかったのに、やはりその間、心身ともにダメージが蓄積していたらしく、戦後処理を終えた途端にダウン。銀行を辞めて療養したのちに復帰したけれど、今度は日露戦争中の心労から、またぶりかえしたそうです。
 大正から昭和初期にかけては、医学博士が神経衰弱についての連載をはじめたり、ちょっと怪しい民間療法(静座法、お灸など)や患者の家族の心得なんてものまで登場し、記事の量は増えていきます。
 しかしその一方で、「国民的神経衰弱論」「神経衰弱時代に寄す」など、医学的な知見と無関係な社会文化論も多く見られます。近年は国民の抵抗力が衰えた、人間が甘やかされてきたからだ、家族制度の崩壊が神経衰弱増加の原因だ、なんて主張は戦前からあったんですね。いまだに聞こえてくる気がしますけど、ソラミミでしょうか。
 大正一〇年の「国民の神経衰弱を如何にすべき乎」はそういった珍説の集大成ともいえる記事なのですが、筆をとったのが実業之日本の増田社長ってのが、なんともやるせない。世紀末への不安、とどまるところを知らぬ性欲、若い婦人の派手な衣裳と化粧、激化する受験戦争、賭博のごとき投機熱、これらすべてが日本人の神経衰弱を増やした原因である、ってんだからもう、はいはい、さようですか大変ですね、としかいえません。
 むしろこの論の次に載っている、店員の勤務時間短縮についての記事に興味を惹かれます。私は『「昔はよかった」病』で、一九五〇年代の商店が住み込みの店員を長時間労働させていたブラックぶりをあきらかにしましたけど、大正時代から体質は変わってなかったようです。日の出から深夜一時くらいまで働かされて休みは月に一、二回。そんな待遇に不満を持つようになった店員たちが、日本各地で労働争議を起こします。そりゃ争議でも起こさなければやってられないでしょ。自分ひとりで抱え込んだら神経衰弱になってしまいかねません。

神経衰弱からノイローゼへ

 戦後も引き続き、こころの病や神経症を総称する神経衰弱という言葉は使われていたものの、一九五三(昭和二八)年ごろに「ノイローゼ」という新語が登場し、五五年くらいにかけて流行語となりました。しかも一過性の流行で終わらず、この言葉は日本人のボキャブラリーとしてすっかり定着してしまいます。
 新語といいましたけど、ノイローゼという医学用語は一八世紀からありました。戦前の日本人がほとんど知らなかったと思われる用語が戦後に流行ったのは、漢字よりも横文字をカッコイイとみなすようになった風潮にハマったからでしょうか。またたくまに「神経衰弱」は「ノイローゼ」に置きかえられていきました。
 ノイローゼの流行とほぼ同時期に、「ストレス学説」も紹介されていたのですが、こちらはノイローゼほど話題になりません。ストレスが流行語になるのは、まだ先の話。
 流行語となることで、医学的な診断と無関係に、なんでもかんでもノイローゼにされてしまうようになりました。世論ノイローゼ、日曜ノイローゼ、値上げノイローゼ、電話ノイローゼ、入れ歯ノイローゼ……。イヤなもの、不快なものに悩まされるとすべて○○ノイローゼと呼んでしまうようになったため、真剣に苦しんでいても、そんなのは単なるノイローゼだよ、などとウオノメやささくれのようにあしらわれてしまいます。

モーレツ時代がやってきた

 五〇年代から六〇年代にかけて、さまざまなノイローゼが原因とされる自殺、殺人、一家心中などの記事が引きも切らず新聞紙面で報じられる一方、サラリーマンの神経衰弱やノイローゼを取りあげる雑誌記事は減りました。サラリーマンのこころの病は快方に向かったのでしょうか。
 なにしろ時代は高度成長期。敗者を憐れむヒマなどない。サラリーマンは明るい未来だけを信じ、売上至上主義に邁進するのでした。
 五〇年代、学校の運動部での「しごき」は、何件もの死亡事故につながったにもかかわらず「伝統」として擁護されました。六〇年代後半になるとその伝統は会社にまで波及、新入社員の研修が自衛隊体験入隊や山寺での座禅など、しごきや特訓の様相を帯びてきます。
 そして一九六八(昭和四三)年、高度成長は「猛烈社員」ブームで頂点を迎えます。六九年、丸善石油が「Oh! モーレツ」とパンチラCMを流してたころ、モーレツ社員がやっていたモーレツ研修にマスコミの注目が集まります。そのひとつ、『諸君!』に載ったシャープのセールスマン研修の模様は、阿部牧郎さんが小説家ならではの視点から読み応えのあるレポートにまとめてます。
 当時シャープには、アトム隊というエリートセールスマン集団が存在しました。アトムとは、アタック・チーム・オブ・マーケットという剣呑な和製英語の略で、阿部さんもセールスマンというより「オレは昨日網走から出てきたんだ、買わねえかこの野郎」的な押し売りイメージに近いと印象を語ります。
 彼らは年二回、高台のホテルに一〇日から半月のあいだ泊まり込みで研修を受けます。早朝六時半、ホテルの前庭に白ハチマキを巻いて集合し、胴間声での点呼、国歌斉唱、ラジオ体操。こどもの頃に軍隊式の教練を受けていた世代の阿部さんは、参加せずに見守るだけの自分が非国民になったような錯覚すら覚えます。
 続いて彼らが一斉に、「やればできる。やらねばならぬ訪問販売」と大声で連呼しはじめるのに至って、みんなアホらしくないのかと正直な感想を抱きつつも、さすがに口には出しません。
 夜には大広間に集まって、不振店を建て直した事例の解説など、講義が行われます。意外とまともな研修をしてることに逆にガッカリする阿部さんに、研修を仕切る隊長が「モーレツブームとかで興味本位に書き立てられて迷惑している。このくらいの訓練は珍しくもないし、隊員はみんなやる気にあふれている」と自分たちがまともであることを強調してきます。
 しかしその後、隊員の生の声が聞きたいとインタビューを申し込むと、あらわれたのはいかにも模範的な五人の隊員と、お目付役の主任が二人。何を聞いても、「やり甲斐があります」「毎日が充実しています」と定石通りの答えしか返ってこないのでした。
 阿部さんはレポートをこう締めくくります。彼ら「企業戦士」の特攻隊も、やがてこの時代をふり返って、救いがたい虚脱におちこむことがあるのだろうか。

モーレツからノイローゼへ

 その虚脱は、予想外に早くやってきました。日本中の企業を席巻するかに思われたモーレツブームは、ものの一、二年で下火になっていきます。
 その兆候は、ブームがはじまった六八年ごろすでにありました。読売新聞の東京中央版は、東京法務局や区役所の人権相談に最近ヘンな訴えが激増していると報じます。「同僚たちから〝オマエはすでに死んでいる〟といわれるが、そんなことはないはずだ。生きていることを証明してほしい」
 このかたが、のちに世紀末バイオレンスマンガの作者と……ならないですよ。窓口の担当者が数時間かけて生きていることを説明して帰したそうで、落語の「粗忽長屋」みたいな話ですけど、笑っちゃいけませんよね。高度成長期のまばゆさの陰で目立たなくなっていたものの、競争社会に疲れてノイローゼになるサラリーマンは静かに増殖を続けていたのです。
 そしてついに日本のサラリーマンは、モーレツブームをきっかけとして壊れはじめました。一九七〇年あたりから、それまで影を潜めていた雑誌のノイローゼ記事が復活します。七〇年に富士ゼロックスのテレビCMは「モーレツからビューティフルへ」と提案しましたが、残念ながら現実はモーレツからノイローゼへ向かってしまいました。
「一方でアメリカ的シゴキではたらかされ、もう一方では日本的義理人情の人間関係を強要される。二重のセメ苦にあっているわけでこれでノイローゼにならなきゃオカシイですよ」。七〇年『週刊文春』「エリート・サラリーマンにしのびよる精神公害」での精神科医の分析です。
 大学生の病気だった五月病が中年サラリーマンにも見られるようになったと報じる『週刊朝日』。
 電電公社(現NTT)の保健係長は『週刊ポスト』の取材に、ノイローゼの社員は統計的にも増えていると明かします。社員がどんな病気で治療を受けたかの統計で、昭和四二(一九六七)年からはノイローゼがトップになったのだとか。
 七〇年からの第二次ノイローゼブームでは、原因としてのストレスと、その解消法にも注目が集まります。七三年『週刊ポスト』のグラビア記事は、各社で行われている社員のストレス解消法を紹介。アパレル関連企業の女子寮では、「上役サン」と書かれた洋裁用のトルソをOLが棒でひっぱたいてます。あまりのすさまじさに初代トルソは破壊され、写真は二代目。自動車販売会社の男子寮にはパチンコ台が並んでます。別の自動車メーカーの屋上では、ウレタン製の棍棒で殴りあうスポーツチャンバラのような競技をやってストレス解消に役立てています。

企業に進出した精神科医

 じつは「過労死」という言葉が読売新聞の記事見出しとして最初に登場したのも一九七〇年でした。七〇年というのは、日本のサラリーマンにとってひとつの転換点だったのかもしれません。
 「うつ病」はもちろんむかしからありましたし、言葉としては知られていましたが、一般向けのメディアで盛んに取りあげられるようになるのは八〇年代以降です。七〇年代までは医学・医療雑誌でしかお目にかかれません。
 医学誌以外で早々にうつ病を取りあげている珍しい例があります。『中央公論経営問題』というビジネス誌の特集記事(七一年)。大企業で勤務医・嘱託医として働いている精神科医たちがサラリーマンのうつ病の現状を詳しく語っています。
 戦後まもないころは、公務員や会社員の長期欠勤者といえば結核がおもでした。しかし一九六〇年ごろからは精神病のほうが多くなったので、対策が必要と考えた企業が精神科医と契約するようになったそうです。
 医師の一人が興味深い分析をしています。企業の創成期には、既成の枠にはまらない野武士的な社員が必要とされる。ところが企業が大きくなると、枠にはまってくれる優等生的な人間が多く採用されるようになる。型破りな人間よりも、律儀で良心的な優等生のほうがうつ病になりやすいから、サラリーマンのうつ病が増えたのではないか、と。
 なるほど。高度成長期はイノベーションの時代だったような印象がありましたけど、じつはすでにイノベーションを起こす型破りな人材は求められていなかったのだとなると、高度成長のイメージがちょっと変わります。
 職場の上司が、「おれも苦しいときがあったんだ、おれはこういうふうに切り抜けてきたんだ、だからおまえもそうやれば切り抜けられる」と画一的なやりかたを押しつける指導は、自分と性格が異なる部下をますますだめにする、と医師に批判されてます。だとしたら人材を枠にはめるモーレツ特訓は、目先の利益を上げた反面、結果的に人も企業もだめにして高度成長の終焉を早めたとも考えられます。
 ある医師は企業の人事担当者から、新人採用時に精神に障害がありそうなものを振るい落とす方法はないかと聞かれたそうです。医師は「ないよ」と突っぱねました。べつの医師は企業側にこう助言しました。人間がたくさん集まって精神病患者が一人も出なかったら逆にお化け企業だ。私が責任を持って診断・治療するから精神病患者が出てもびっくりしなさんな。

元気でなければダメですか

 「過労死」という言葉が広まったのは、一九八二(昭和五七)年、過労死した社員の遺族が会社に起こした訴訟で和解が成立し、過労死への賠償がはじめて認められてからのことです。
 「うつ病」や「うつ」が頻繁に使われるようになったのは、八四年にうつ自殺が労災認定されたことで注目が集まったのがきっかけだったようです。
 一般市民が神経症全般をイメージする言葉は、神経衰弱からノイローゼ、そして、うつへと変わりましたが、変わったのは言葉だけ。戦前から現在まで、いつの世にも、こころや精神を病む人はいたのです。
 一九二三(大正一二)年の『太陽』には医師の佐多芳久が、関東大震災のあと恐怖症や神経衰弱に悩まされる人が急増したことを書いてます。
 太平洋戦争中には千葉県の市川に、戦争神経症にかかった兵士を専門に治療する病院が存在し、累計一万人以上の患者を治療していたことがわかっています。しかし、皇軍には戦争で精神を病むような軟弱者はいないというイメージを守るため病院の存在は公にされなかったのです。敗戦時には陸軍からカルテの焼却命令が出されたそうですが、病院側が密かに保存していたため記録が残されたのでした。
 むかしの日本人も決して強かったわけじゃありません。大災害や戦争といった恐ろしい経験をすれば、PTSDのような症状になっていたんです。むかしはそういう人たちの多くが見捨てられてただけ。
 私は最近よく耳にする「日本を元気にしたい」ってスローガンが嫌いです。元気にしてどうすんの? 元気にならなきゃいけないの? 元気かどうかなんて主観的な気分の問題だから、見かたによってどうとでもいえるじゃないですか。高度成長期の日本人はみんな元気だった、みたいなイメージで語られますけど、見かけの元気と裏腹に、ノイローゼになってた人もたくさんいたんです。逆に、外見は地味でおとなしいけど、こころは元気って人もいたでしょう。
 だいたい、「日本を元気にしたい」とかいってる人たちは、「元気にならなければいけない、元気にしなければいけない」と強迫観念にとらわれてるわけで、彼らこそが「元気ノイローゼ」なんじゃないかと心配になってしまいます。

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パオロ・マッツァリーノ

イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。著書に『反社会学講講座(正・続)』『偽善のすすめ』『誰も調べなかった日本文化史』『「昔はよかった」病』『怒る! 日本文化論』『ザ・世のなか力』『コドモダマシ』『みんなの道徳解体新書』など。

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