最終回 2回目の婚約と婚約解消


 この連載も、今回が最終回です。
 ずいぶん更新が遅れてしまいました。誠に申し訳ありませんでした。
 カフカのフェリーツェとの婚約と婚約解消は、それほど書くのが難しかったのです。とにかく、カフカの気持ちの揺れ動きが激しく、ついていくだけでも大変ですし、なかなか理解が及ばないところもあります。
 それだけにまた発見もあり、面白いわけですが。

婚約解消から3カ月後、グレーテからの手紙が

 婚約し、婚約を解消した、カフカとフェリーツェ。
 カフカを断罪したのはフェリーツェですし、カフカはそのことで大きな衝撃を受けます。それは、『訴訟(審判)』という作品が生まれるほどの衝撃でした。
 カフカは幼い頃から、「罪はないのに罰はある」「何もしていないのに罪悪感がある」という思いを抱いてきました。そのことが今、現実となったのです。
 しかし、この婚約解消事件も、意識的にしろ、無意識的にしろ、カフカのほうがこうなるように仕向けた感がかなりあります。

 いずれにしても、カフカとフェリーツェは、別れたのです。
 通常なら、ここで関係は終わるでしょう。
 しかし、このふたりの場合、そうはなりませんでした。

 1914年10月15日、婚約解消から約3カ月後、カフカはグレーテ・ブロッホからの手紙を受けとります。
 その手紙は残っていませんが、カフカの返事から推察すると、グレーテは自分が原因となってフェリーツェとカフカの婚約が解消されたことを申し訳なく思い、あらためてフェリーツェとカフカの間をとりもとうとしたようです。
 その手紙には、フェリーツェがカフカに手紙を書くだろうという予告も書かれていました。

 手紙を受けとったカフカは動揺します。
 その日の日記です。

 わかっているのは、
 ぼくは独りで生きていくということだ。
 それは確かだ。
(そもそも、ぼくが生き続けるとしたらのことだが、
 それは不確かだ)
 わからないのは、
 自分がFを好きなのかどうかだ。

1914年10月15日(31歳)日記

 カフカはその日すぐにグレーテに返事を書きます。
 その冒頭には、昨夜の午前3時頃、ベッドに入ってから「自殺」を考えたということが書かれています。そこにあなたからの手紙がちょうど来たと。なかなかすごい書き出しです。

 ぼくの手紙は譲歩していないように見える。
 しかしそれはただ、ぼくが、
 譲歩することを恥じ、無責任だと思い、怖れたからで、
 譲歩したくなかったからでは決してない。
 それどころか、譲歩することしか望んでいなかった。

同前

 フェリーツェを好きなのかどうかわからない、自分が独りでいるのはわかっている、と書きながら、そして譲歩しない感じの手紙を書きながら、もうその日にカフカは、大きく揺れてしまっています。

 ぼくはこの2カ月間、Fといっさい連絡をとっていない。
(Eとの文通を通して以外には)
 そうして、静かに暮らしてきた。
 Fのことを思い描いても、
 その姿はもはや生き返ることのない死人のようだった。
 ところが今、彼女のそばに行く機会を与えられてみると、
 彼女は再びすべての中心にいるのだ。

同前

 Eというのは、フェリーツェの姉のエルナのことです。(これまでずっとどの本でも、エルナは「妹」とされてきて、私もそう思っていましたが、実際には「姉」でした。これも京都大学の川島隆先生から教えていただきました)
 カフカとフェリーツェが婚約を解消した後、カフカとエルナは文通をしていました。カフカの手紙は残っていませんが、エルナからの手紙は数通残っています。

 グレーテの手紙が届いて、返信を書き、日記を書いた、この夜から、短編『流刑地にて』が書き始められます。そして三日間で書き上げられます。
 グレーテの手紙が引き起こした動揺が、かえって書く力となったようです。

 もし彼女が返事をくれなければ、
 ほくたちみんなにとって最善のことだろう。
 しかし、彼女は返事をくれるだろうし、
 ぼくも彼女の返事を待つだろう。

同前

フェリーツェはなぜまたカフカに手紙を出したのか?

 グレーテからの返事はなかなか届きませんでした。
 しかし、10月25日についに来ます。
 そして、フェリーツェからの手紙も。
 そこには、こう書いてあったようです。カフカが自分の手紙で引用しています。

「わたしは情緒不安定になり、疲れ切り、自分の力の限界に達したと思いました」

1914年11月1日~2日(31歳)フェリーツェへの手紙

 まったく無理もないでしょう。
 カフカとのやりとりで、そうならないほうが不思議です。

 それなのに、なぜまたフェリーツェは、自分からカフカに連絡してきたのでしょうか?
 結婚をあせっていたとか、家から出たかったとか、そんな理由で、こんなにもつらい思いをさせられた相手に、また自分から手紙を出すでしょうか?

 これは、まったくの私の推測にすぎませんが、カフカのような男性は他にいなかったからではないでしょうか。
 困った人という意味でも他にいませんが、いい意味でも他にいなかったのでは。
 現代でも、自分より優秀な女性を煙たがる男性は少なくありません。「ちょっとバカな女の子」とか「男を立てる女性」がモテるといった特集記事は今でもよく目にします。
 フェリーツェの時代にはなおさらそうでしょう。キャリアウーマンがまだ珍しかった時代です。そんなときに、フェリーツェは高卒のタイピストからスタートして、重役にまで登り詰めるのです。大変な優秀さです。周囲の男性たちから、嫌な対応をされることもあったかもしれません。
 前にも引用したように、エルンスト・ヴァイスが、「相手のベルリン女性はただ実務だけの人間であって、『時代の毒』にもっとも染まった女であり、生活をともにできるはずはない」(池内紀『カフカの生涯』白水社)と、フェリーツェをひどく嫌ったのも、まさにそういうことでしょう。
 そういう男性たちの中にあって、カフカだけはまったくちがいます。働く女性であるフェリーツェを、その優秀さ、たくましさを、高く評価してくれます。働いているから嫌とか、自分より優秀だから嫌とか、女性らしくないから嫌とか、そういうところはかけらもありません。
 男性より優秀なフェリーツェを、なんて素敵なんだと、心からの賞賛の目で見てくれるのです。

 外見的にも、カフカは他の男性とまったくちがっています。
 当時の男性はたいてい大人になるとヒゲを生やしました。カフカの友人たちもみんなヒゲを生やしています。ブロートもです。
 ところが、カフカは決してヒゲを生やしません。いつもきれいに剃っています。
 そして、とても痩せていて、「腕の筋肉は、ぼくにとってなんと縁遠い存在だろう」と日記に書いているほどです。
 いわゆるマッチョな男性とは、対極なのです。

 男性社会で頑張っている少数の女性であるフェリーツェが、マッチョな男性たちと、彼らの女性に対する考え方に、もしうんざりしていたとしたら……。
 そうしたら、カフカは、とても素敵に見えたのではないでしょうか?
 別れた後に、周囲を見回してみても、他にはとてもカフカのような男性は見あたらなかったのではないでしょうか?

 ぼくはありのままのあなたを愛していた。

同前

 このカフカの言葉に、ウソはないでしょう。そのことはフェリーツェもわかっていたでしょう。
 だからこそ、フェリーツェもまた、ありのままの困ったカフカを、愛そうとしたのではないでしょうか。
 いったんは力尽きてしまったけれども、それでももう一度、あらためて。

 ともかくも、二人の文通はここに再開されます。

フェリーツェの父の死

 ところが、11月5日、フェリーツェの父が心臓麻痺で死亡します。
 他にもさまざまな心労があったとはいえ、カフカとフェリーツェのこともまた、フェリーツェの父にとっては大きな気がかりであったことでしょう。
 カフカは、自分がフェリーツェの家庭を破壊したと感じます。

 破滅だけをもたらしている。
 ぼくはFを不幸にし、
 今や彼女をこれほど必要としている人たちの抵抗力を弱め、
 父親の死に手を貸し、
 FとEを仲たがいさせ、
 ついにEも不幸にした。
 いろいろなことから予測してほぼ間違いなく、
 この不幸はなおも進んでいくだろう。
 ぼくは馬車を引く馬のように、その不幸の前につながれて、
 引っぱって行くように定められているのだ。

1914年12月5日(31歳)日記

 エルナとの文通は、フェリーツェとエルナの仲たがいも生じさせていたようです。

 帰り道で、マックスに言った。
 ぼくは臨終の床で、
 もし苦痛がそれほどひどくなければ、
 非常に満足していられるだろうと。

1914年12月13日(31歳)日記

 フェリーツェとの文通は再開しましたが、カフカの心には、救いとしての死のイメージが何度もわきあがってきます。

 ここでぼくが嘆いているのは、
 ここに救いを見出すためなのか?
 救いはこのノートからはやってこないだろう。
 それはぼくがベッドにいるときにやってきて、
 ぼくをあおむけに寝かせるだろう。
 ぼくは美しく、軽やかに、青白い顔をして横たわるのだ。
 それ以外の救いはやってこないだろう。

1914年12月26日(31歳)日記

「ここで」「このノート」というのは、日記のことです。
 そして、続けて書かれている「救い」は、死のことです。

『訴訟(審判)』の原稿は、だんだん書けなくなり、ついに中断され、そのまま未完となります。

半年ぶりの再会

 そのすぐ後に、カフカとフェリーツェは、ボーデンバッハで会います。
 1915年1月23日から24日の2日間です。約半年ぶりの再会です。
 しかし、これは気まずい雰囲気のままで終始したようです。

 Fとボーデンバッハにて。
 ぼくたちがいつかひとつになることは、ありえないと思う。
 だがそのことを、彼女にも、いざというとき自分自身にも、
 思い切って言う勇気はない。

 Fが言った。
「こうして一緒にいて、わたしたちはなんてお行儀がいいんでしょう」
 ぼくは黙っていた。
 この彼女の感嘆の間だけ、何も聞こえなくなっていたかのように。
 2時間というもの、ぼくたちは部屋に2人きりだった。
 ぼくをとりまいているのは、ただ所在なさと不毛感だけ。
 ぼくたちはまだお互いに、ほんの一瞬でも、いい時を過ごしていない。
 ぼくが自由に呼吸できるような時を。

 愛する女性とつきあうことの甘美さを、
 ぼくはFに対して、
 手紙の中でのほかは感じたことがなかった。

1915年1月24日(31歳)日記

 カフカはこのときに『掟の門』という短編(『訴訟(審判)』の一部分でもあります)を、フェリーツェに朗読します。
 そのとき、フェリーツェは、「熱心に聞き入り」そして「するどい観察」を見せたそうです。
 それはそうでしょう。『掟の門』というのは、自分ための門でありながら、そこに入ることができずに、その門の前で死ぬ男の話なのです。
 フェリーツェとの結婚を願いながら、決して結婚しようとしないカフカを、フェリーツェはこの物語にきっと重ね合わせたことでしょう。

カフカ、精神病院を建てる

 カフカはこの後、『ブルームフェルト、ある中年の独身男』という短編を書きますが、その後は、翌年の12月までの19カ月間、ずっと作品が書けなくなります。
 それはフェリーツェとの関係がうまくいかないことだけが原因ではありません。
 徴兵されなかったカフカにも、さまざまなかたちで戦争の影響が及んできていました。

 まず、1914年の8月のことですが、カフカは初めて家を出ることになります。
 いちばん上の妹のエリの夫が出征したために、エリが二人の子供を連れて実家に戻ることになり、カフカは自分の部屋を明け渡したのです。
 カフカは、2番目の妹のヴァリのアパートに住みました。ヴァリの夫も出征し、ヴァリと子供は夫の実家に行って、空いていたからです。
 その後、ヴァリが戻ってきたので、今度は、エリのアパートに移ります。これが9月のことで、グレーテやフェリーツェから手紙が来たときには、そこに住んでいました。
 カフカは「子供は親元をなるべく早く離れるべき」という考え方を持っていて、自分の妹たちにも子供を早く巣立ちさせるように忠告しています。でも、自分はというと、就職しても、ずっと親と同居していました。
 ついに初めて家を出たのは、自分の意志によってではなく、やむをえない事情で、家にいられなくなったからでした。
 しかも、食事は実家に戻って食べていました。

 1915年2月に、エリのアパートから出なければいけなくなり、カフカは今度こそ、初めて自分の部屋を借ります。しかし、それはヴァリの住んでいるアパートの別の部屋でした。
 自分の部屋を借りるとなると、その選択にカフカは当然、迷います。ただでさえ迷いやすいところに、神経質ですから、なかなか気に入る部屋がありません。
 最初の部屋は、騒音がうるさすぎて、すぐに引っ越すことにしました。しかし、家主の老婦人が親切にしてくれていたので、それでも解約するということが、カフカの苦しみとなります。
 次のところは、さらにうるさかったのですが、窓からの景色が素晴らしかったので、その点ではカフカの気に入ります。
 ともかくも、初めて家を出て、気に入る自分の部屋をさがすという、カフカにとっては大きな一歩を踏み出していたわけです。

 それよりも大変だったのが、工場のことです。
 義弟たちが出征したことで、父と義弟のアスベスト工場はカフカが監督するしかなくなりました。
「原料不足から生産はとうに中止されていたが、清算書類の発行や債権者との交渉などの仕事が残っており、そのためにカフカは貴重な午後の時間を費さねばならなかった」(エルンスト・パーヴェル『フランツ・カフカの生涯』世界書院)
 ただでさえ、窓から飛び下りそうになったこともあるほど悩んだ工場の問題が、これまで以上にのしかかってきたのです。

 そして、勤め先の労働者災害保険協会のほうも、1915年から新たに戦争障害者福祉事業を行うことになり、これをカフカが担当することになります。
 戦場で多くの人たちがケガをし、病気になり、とりかえしのつかない障害を負って戻ってきました。「約五千名の手足を失った人々の中で、更に二千人以上が重い結核を病んでいた。こうした病者に対して、政府から支給される資金は生き延びるのにさえ足りぬ程度でしかなかった。それゆえ保険局は広く基金を呼びかけ、その収入で傷害者に義肢を贈り、医者にかからせ、社会復帰のための学習機会を設けるべく活動した」(エルンスト・パーヴェル)
 こうした仕事に、カフカが不熱心でいられたはずがありません。

 ケガや身体の病気だけでなく、戦場で精神を病んで戻ってくる人たちもたくさんいました。
 しかし、精神病院はプラハにひとつあるだけで、まるで足りませんでした。
「ノイローゼのエキスパートたるカフカに、こうした新しい種類の障害者たちの世話や、配慮が任されたのは、全くの偶然とは言えないかもしれない。彼は課された義務以上の働きをし、治療機関の拡充を求める有志の会にも加わる。カフカは寄付金募集のためのアピール文書も起草している」(前掲書)
 ちなみに、この運動は後に実を結んで、新しい精神病院が開設されました。「在郷軍人会は、その功績のゆえにカフカにある勲章を授けるよう提案した。しかし戦争終結とハプスブルク帝国崩壊のために、勲章授与に必要な役所の措置はとられずじまいで、カフカが勲章をもらうことはなかった」(前掲書)
 カフカの家の近所に住んでいた少女が、カフカとの思い出話を書いているのですが、その中にこんなエピソードがあります。まだカフカが大学生のときのことです。
 あるとき、いっしょに散歩をしていると、カフカが「ぼくはいつか精神病院で生涯を終えるでしょう」とつぶやいたというのです。
 実際にはそうはならず、カフカは精神病院を建てることになったわけです。

兵士になりたがるという自殺願望

 こうしてカフカは戦争によって多忙となり、心労も重なっていました。
 そして、戦争障害者を日々、目にしているだけに、自分が兵役を免除されていることへの罪悪感もつのってきます。
 勤めから、工場から、プラハから、結婚問題から、何もかもから逃げ出したい気持ちも強まっていきます。
 そしてついに、兵士として戦場に送られることを願うようになります。フェリーツェへの手紙にもそのことを書きます。
 しかし、これはもちろん本気ではありません。本気でやるつもりのないことを本気で語るのは、カフカにはよくあることです。
 人に向けて銃弾を発射するようなことが、カフカにできるはずもありません。隣りの部屋のわずかな物音でも苦しむ人間が、戦場の爆音にどうやって耐えることができるでしょう。
 兵士になりたいというのはつまり、追い詰められた人間が「死にたい」と口にしてみるのと同じことでしょう。一種の自殺願望とも言えるかもしれません。

 カフカは1915年の6月に徴兵検査を受けて、合格しますが、今回も上司が「職場に不可欠」と申請してくれて、兵役免除になります。
 同じ6月、ギムナジウム時代の大切な友であったオスカー・ポラックが戦死します。

文学賞の賞金と、『変身』の出版

 1915年10月、新人に与えられる文学賞「フォンターネ賞」をカール・シュテルンハイムが受賞するのですが、彼は大富豪だったので、賞金の800マルクを、カフカに譲ります。カフカの『観察』『火夫』『変身』(『変身』は雑誌に発表されたばかりでした)を評価してのことです。
 そして、11月には『変身』の単行本が出版されました。

 文学者として評価され(賞金だけという変則的なかたちではありますが)、新しい本も出たわけです。
 しかし、これらの刺激によっても、カフカは書けるようにはなりませんでした。

 フェリーツェへの手紙の回数さえ減っていき、内容も簡潔になっていきます。
 ボーデンバッハ以降も、二度ほど会っているのですが、関係は進展しませんでした。

マリーエンバートの奇蹟

 カフカとフェリーツェの関係は、もうどうにもなりそうにありませんでした。ずっとこのままという感じで。
 ところが、思いがけないことが起きます。
 1916年の7月3日(カフカの33歳の誕生日)から10日間、カフカとフェリーツェはマリーエンバートでいっしょに過ごします。
 マリーエンバートは有名な温泉保養地です。ゲーテの『マリーエンバートの悲歌』、映画『去年マリエンバートで』などで、名前をご存知の方もおられるでしょう。
 カフカは5月に仕事でマリーエンバートを訪れ、ここがすっかり気に入りました。
 カフカはこの頃、フェリーツェから会いたいと言われても、何度も断っていたのですが、マリーエンバートで会うことは承知しました。

 最初の日は、部屋がよくなくて、散々でした。

 いつもながらの絶望の第一夜だった。

1916年7月5日(33歳)ブロートへのハガキ

 翌日は、高級ホテルに隣りどうしの部屋をとりました。
 でも、カフカは頭痛と不眠がひどく、不快な日が続きます。

 いっしょに生活することの苦しみ。
 疎外感、同情、肉欲、臆病、虚栄心が、そういう生活を強いるのだ。
 そしてただ、奥深い底のところに、
 愛と呼ばれるに値する、浅く細い川がおそらく流れていて、
 探し求めても近づくことはできず、
 いつかあるとき、一瞬の刹那[せつな]に、きらめくだけなのだ。

1916年7月5日(33歳)日記

 結婚生活への絶望が日記につづられます。
 誰かといっしょに生活することは苦痛なのに、一方でそういう生活を望まずにはいられない。その理由をカフカは「疎外感、同情、肉欲、臆病、虚栄心」に強いられるからだと言っていますが、一方で、わずかながら、愛のきらめきも認めています。
 探し求めても近づくことはできないのは、カフカの『城』のようです。

 不幸な夜。
 Fとともに生きることはできない。
 誰かといっしょに暮らすことは耐えがたいが、
 残念なのは、そのことではなく、
 独りではない生活ができないということだ。

 また振り出しに戻るのだ。
 つまり、不眠、頭痛、高い窓から身を投げる。
 でも、下は雨に濡れてやわらかくなった地面だ。
 落ちても死にはしないだろう。
 目を閉じて、いつまでも転げ回り、
 目を開けた、誰かの視線にさらされる。

1916年7月6日(33歳)日記

 8日はうっとうしい天気でした。それでもカフカとフェリーツェは、マリーエンバート近郊のテープルという景色のいい町まで出かけます。
 すると、だんだん天気がよくなって、素晴らしく気持ちのいい日になりました。
「これが転機となった」(カネッティ)

 ひとりの女性の信頼のまなざしを見て、
 ぼくは自分を閉ざしておくことができなかった。

 いまや事態は好転した。
 ぼくたちの契約は、手短に言うと、
 戦争が終わり次第、結婚する。
 ベルリンの郊外に、2つか3つの部屋を借りる。
 経済上のことだけは、それぞれ自分で自分の面倒をみる。
 Fはこれまで通り仕事を続けるだろう。
 そしてぼくは、このぼくのほうは、まだ何とも言えない。
 もっとも、どんな生活になるか具体的に思い描いてみるなら、
 カールスホルストかどこかの2つの部屋の光景が目に浮かんでくる。
 一方の部屋で、Fは朝早く起きて出かけて行き、
 晩には疲れてベッドに倒れ込んでしまう。
 もうひとつの部屋にはソファーがあって、
 ぼくが横になり、牛乳と蜂蜜で生きている。

 いまやそこには、安らぎとたしかさがあり、
 したがって、生きる可能性がある。

 テープルの朝以来、晴れやかで爽やかな日々がつづいた。
 もうとても体験できないと思ったほどの日々だった。

 こうしたことは、まったく異例で、
 あまりに異例なものだから、
 同時にぼくはひどく怖くなったほどだった。

1916年7月12日~14日(33歳)ブロートへの手紙

 大変な心境の変化です。
 マリーエンバートという環境の素晴らしさ、テープルの景色の美しさ、気持ちのいい天気、それらが間違いなく影響しているでしょう。
 引っ越しのときもそうですが、カフカは天気や景色などの影響を強く受けます。
 心や身体の弱い人間というのは、環境に左右されやすいものです。
 外からの影響を受けやすく(影響をはじき返したり、外界と関係なく自分を保つ力がないので)、しかも感じやすいためです。
 同じ人生の嵐に立ち向かうにも、生まれながらに合羽[かっぱ]を身につけている人もいれば、薄着1枚で、たちまち雨に濡れて風に震える人もいるのです。

 もちろん、環境の影響だけではありません。このカフカの手紙の内容からもうかがえるように、フェリーツェはかなり譲歩をしたようです。
「ベルリンの郊外に、2つか3つの部屋を借りる」
 フェリーツェはもともとは、プラハで家庭を持つことを願っていました。そこにはカフカの職場があり、工場があるからです。
「経済上のことだけは、それぞれ自分で自分の面倒をみる」
 これは今ではごく普通のことに聞こえますが、当時としては、かなり特殊です。フェリーツェは、結婚したら、仕事を辞めて、母親になるつもりでした。
 このことは、おそらくは、母親になることをあきらめるという意味も含んでいます。
「もうひとつの部屋にはソファーがあって、ぼくが横になり、牛乳と蜂蜜で生きている」
 カフカは仕事に行っていません。安定した仕事を捨てて、作家として身を立てたいということでしょう。

 フェリーツェは、当時の女性としてはごく普通の結婚の夢を抱いていました。家具調度のそろった快適な家で、主婦となり、母となる。夫は外で働いて稼いでくる。
 しかし、そういう人並みの幸せを捨てても、カフカを選んだわけです。

 カフカの要求は、現代ではとくに奇妙にも感じられなくなっています。むしろ、この条件を喜ぶ女性も少なくないでしょう。カフカは進みすぎていたということでしょうか。

肉を食べるカフカ

 フランツのマリーエンバートからのハガキを受け取り、
 フェリーツェの挨拶が書き添えられているのを見たときの私の驚きは、
 あなたもお察しくださるでしょう。

1916年8月9日(33歳)カフカの母親からフェリーツェの母親への手紙

 カフカとフェリーツェは、フェリーツェの母親にも2人で手紙を書いています。
 そこまで決意は固まっていたわけです。

 マリーエンバートでの8日からの残りの5日間は、幸福な日々でした。これまでの2人にはなかった日々でした
「彼らの五年間に割り振ると一年にただの一日ということになる」(カネッティ)

 13日にフェリーツェは帰ります。カフカはひとり残って、24日まで滞在しました。

 20日のフェリーツェへの手紙でカフカは、自分が前日に食べたものを報告しています。
 そこには、蜂蜜、牛乳、サラダ、サクランボといった、いかにもカフカらしいものに混じって、びっくりする食べ物が書いてあります。「カイザーフライシュ」です。オーストリアのベーコンです。つまり、肉です。カフカが肉を食べているのです! そして、そのことをフェリーツェにさりげなく報告しているのです。
 カフカは、結婚したら自分たちの食卓には肉は登場しないということを、何度もフェリーツェに言っています。それなのに、ここで肉を少しだけ食べてみせたのです。
 これは、さまざまな譲歩をしてくれたフェリーツェに対する、カフカの譲歩であったのかもしれません。
 また、それ以上に、カフカの自然な心の動きであったのでしょう。カフカは自分を守ろうとするときほど、肉から遠ざかります。ですからこれは、フェリーツェに対して少し警戒を解いたということです。

 ぼくの最愛の人。
 マリーエンバートでは、あなたと、大きな森のおかげで、
 ぼくは自分の内に安らぎを感じ、外からも安らぎを与えていただきました。
 戻ってから4日たちますが、
 まだなにか、安らぎの名残りを感じます。

1916年7月28日(33歳)フェリーツェへのハガキ

 何年も後になってさえ、カフカは日記に「ぼくはマリーエンバートで2週間、幸福だった」と書いています。
 カフカにとっては、本当に珍しい2週間だったと言えます。

ボランティア活動のすすめ

 マリーエンバートでは、もうひとつ、カフカにとって印象的な出来事がありました。
 シオニズム組織が運営する、東ユダヤ人難民の子供たちを保護し教育するベルリンの「ユダヤ民族ホーム」の話を、カフカがなんの気なしにしたときに、フェリーツェがそれに興味を示し、時間があるときにはそこで働きたいとまで言ったのです。
 カフカはとても喜びます。
 プラハに戻ってきてすぐの7月19日には、ユダヤ民族ホームへの協力を呼びかけるパンフレットをフェリーツェに送ります。
 そして、21日の手紙でもう、パンフレットを見てどう思ったかを尋ねています。
 性急なまでの熱心さです。

 こうしたボランティア活動というのは、やりたい気持ちはあっても、いざとなると、なかなか実行は難しいものです。フェリーツェも気がすすみません。仕事が忙しいとか、日曜日の午後に外出すると母が嫌がるとか、いろいろ言い訳をします。
 しかし、カフカがあまり熱心にすすめるので、ついにユダヤ民族ホームのヘルパーを志願します。カフカを喜ばせるためであったでしょう。

 その後のカフカの手紙は、そのほとんどがこのユダヤ民族ホームでのフェリーツェの活動を励まし、指導するものです。
 なぜカフカは、これほどまでにフェリーツェにユダヤ民族ホームの手伝いをさせたかったのでしょうか?
 シオニズムに近づいてほしかったのでしょうか。ユダヤの民族性を深めてほしかったのでしょうか。
 どちらもちがいます。実際、仕事のできる女であるフェリーツェは、いやいや始めたユダヤ民族ホームに、だんだん真剣にのめり込むようになっていくのですが、そうすると、今度はカフカのほうがあわてて、水をさします。
 カフカはフェリーツェに活動家になってほしいわけではないのです。
 また、カフカ自身はこのユダヤ民族ホームの活動に参加する気がないことを、フェリーツェへの手紙でもはっきり書いています。

 ぼくは少なくとも今は
 ──自分の健康状態のことを考えているのでは決してありません──
 この種の仕事に関しては、
 それを行う能力もまったくないでしょうし、
 献身的な気持ちにもなれないでしょう。

1916年9月12日(33歳)フェリーツェへの手紙

 カフカは、シオニズムとかユダヤとか、そういうことよりも、純粋にボランティア活動をすすめたいのです。それには理由があります。

 それは、ぼくの見るところでは、
 精神的な救いに至ることのできる、
 間違いなく唯一の道、あるいはその道への入り口です。
 しかも、助けられる人たちよりも、
 助ける人たちのほうが、先に救われるのです。

同前

 人を助ける行為は、助けるほうの人にとっても心の救いとなるということが、最近の心理学ではいろいろと研究されていますが、カフカはそのことを早くも見抜いています。
 カフカがフェリーツェにユダヤ民族ホームの活動をすすめたのは、まさにこのためでしょう。

 ボランティア活動を通じて、そうした無私の活動が、心の喜びになるということを体験させたかったのでしょう。
 カフカとの結婚生活は、まさにカフカに対するボランティア活動のようなものになることが予想されるからです。
 通常の幸せは望めません。もっと崇高な喜びを見出すしかないのです。修道院か尼寺に入るようなものです。
 フェリーツェには世俗的なところがあります。他の人たちと同じ平凡な生活を求め、快適な住居を求め、暮らしていくのに困らない収入を求め、おいしいものを食べたがり、夜は(小説を書いたりしないで)ちゃんと早く寝たがり……。
 ものすごくあたりまえで、もっともで、健全な願いですが、カフカとの結婚生活では、これらは望めせん。
 そうした生活に入るための準備を、カフカはフェリーツェにしてほしかったのではないでしょうか。

フェリーツェとの出会いで生まれた作品が出版される

 10月、『判決』が出版されます。短編なので、わずか26ページの薄い本です。それでも1冊の本として出版されたのは、カフカの希望です。
 最初は、『判決』『変身』『流刑地にて』の3作で、『断罪』というタイトルの短編集にする予定でした。(ちなみに、カフカは以前、『判決』『火夫』『変身』の3作で『息子たち』というタイトルで出版することを提案していました。『火夫』が『流刑地にて』に変わることで、短編集のタイトルも『断罪』に変わっています)
 しかし、出版社のほうが、『判決』と『流刑地にて』の2作にしたいと言ってきて、これにはカフカは強く反対し、1冊ずつの出版を希望します。とくに『判決』の出版を。

 とくに『判決』を別に単独で出したいというのは、次のような事情です。
 この物語は、小説というよりも詩のようなもので、
 そういう効果を出すためには、
 物語のまわりにそうとうゆったりした空間が必要なのです。
 それにこれはぼくの最も好ましい作品ですから、
 いつか単独で力を発揮させる機会があればと、
 ずっと願っていました。

1916年8月19日(33歳)クルト・ヴォルフ書店への手紙

「ぼくの最も好ましい作品」とまで言っていて、『判決』がカフカにとっていかに特別なものであるかがうかがわれます。
 単独で出してもらえることになって、すぐにフェリーツェにも知らせています。

 もうじき、あなたの古い物語が出版されます。
 古くなった献辞を「Fに」に変えました。

1916年9月22日(33歳)フェリーツェへのハガキ

「あなたの古い物語」とは『判決』のことです。
『判決』は、フェリーツェの物語なのです。

 どんなメルヘンの、どんな女性を求める戦いも、
 ぼくがあなたを求める困難で絶望的な戦いには、かなわないでしょう。
 それは、最初から、たえず新たに、おそらく永遠につづく、悪戦苦闘なのです。

1916年10月19日(33歳)フェリーツェへの手紙

朗読の失敗、フェリーツェの反乱

 11月にミュンヘンの画廊が文学の夕べを催すことになり、カフカも招待されます。自作の朗読をしてほしいということだったので、朗読好きのカフカは喜びます。
 ただ、これもじつはブロートの仲介によるものだったことが後でわかり、少しがっかり。
 それでもカフカは11時間かけてミュンヘンに行き、未発表だった『流刑地にて』を朗読しました。
 ところが、聴衆のうけはよくなく、批評家からも酷評され、作品だけでなく朗読の仕方までもけなされました。
 ずっと作品を書けずにいるところに、大好きな朗読でも失敗してしまうのです。

 しかし、詩人で作家のリルケが、自分の作品をほめているということを知ります。
 同時代の作家で、カフカを正当に評価したのは、ブロートを別にすれば、リルケだけだったかもしれません。さすかにリルケです。

 ミュンヘンにはフェリーツェも来ました。
 2人は会うのですが、「ある『ぞっとするような喫茶店』で彼らの間に争いが起こったのであった。争いについては詳しいことは何も知られていない。こんなに長いあいだ万事につけて彼に逆らわないように努めていたフェリーツェが、謀叛[むほん]を起こしたものと思われる。突然かっとなって細心の心づかいを忘れたのであろう。彼女は彼の我欲を非難する。それは昔ながらの非難であった。彼はそれを簡単に甘受できなかった。それは彼にこたえた。なぜなら、彼自身あとで書いたように、その非難は正しかったからである」(カネッティ)
 フェリーツェはこれ以降、ユダヤ民族ホームでの活動にも熱心ではなくなっていきます。

精神を揺さぶられ、作品が生まれ始める

 作品を酷評され、朗読をけなされ、フェリーツェともうまくいかなくなり、でもリルケにはほめられる。
 とにかく、激動のミュンヘン旅行でした。
 揺さぶれた炭酸飲料ではないですが、意外なことに、これをきっかけに、カフカはスランプから抜け出し、また作品がどんどん出てくるようになります。

 ちょうど、いい家も見つかりました。
 黄金小路にある小さなかわいい家です。入口の扉は、高さが1メートル50センチ足らず。窓も小さく、中の広さも6平方メートルほど。茶室とは言わないまでも、大変な小ささです。
 昔はプラハ城の守備兵や召使いたちが住んでいて、その後は錬金術師たちが住んでいたのだそうです。
 カフカは身長が182センチもありますから、とても住めないと思いましたが、兄の部屋さがしを手伝っていた妹のオットラが、この部屋をとても気に入って、自分が借りました。ペンキも塗り変えさせました。
 そして、けっきょく兄のカフカが使いました。そして、けっきょく、とても気に入りました。
 といっても、ここに住んだというより、仕事場にしたという感じです。実家から夕食を持ってここにやってきて、真夜中まで仕事をして、泊まることはせずに帰ります。朝はまた実家で朝食を食べて、出勤しました。
 カフカがこの家を使ったのは約半年間ですが、それでもここがカフカの家としていちばん有名なのは、なんといってもかわいいからでしょう。今でも観光の人気スポットになっています。ネットで「黄金小路 カフカ」で検索すると、画像がたくさん出てきますから、ぜひご覧になってみてください。

 この家で、後に短編集『田舎医者』に収められる短編などが次々と書かれました。たとえば、『天井桟敷にて』『隣り村』『田舎医者』『兄弟殺し』『ジャッカルとアラビア人』『新人弁護士』『皇帝の詔書』『一枚の古文書』などです。
 フェリーツェと出会ったときと、フェリーツェとの婚約解消のときにも、書く力が高まりましたが、今回が3回目です。

ついに本格的な自立

 子供はなるべく早く家を出るべきというカフカの考え方に感化されたオットラが、1917年4月に、ついに家を出ます。行き先は、これもまた、人間は自然の中で生きるべきというカフカの考え方に感化され、チューラウという小さな村の農場でした。
 兄のほうは、家を出ることも自然の中で生きることも、まだちゃんと実行したことはありませんでしたが、ついに気に入った部屋を見つけて、借りることができました。
 シェーンボルン宮殿の中の、かつては大貴族の召使いが使っていた部屋です。その美しさと、庭の景観と、静かであることがカフカの気に入ります。

写真1

 カフカはこの部屋を借りられたことを、有頂天になってフェリーツェにも報告しています。そして、フェリーツェもここに数カ月住んではどうかとさえ誘っています。
 といっても、この部屋には浴室も台所もないのでした。フェリーツェが断ると思うからこそ、安心して誘えたのかもしれません。

 ともかくも、親の家を出て、妹たちとも関わりのない部屋で、ついに本格的に自立を目指したわけです。カフカにとっては画期的なことでした。

二度目の婚約

 1917年7月、フェリーツェがプラハにやってきて、二度目の正式な婚約をします。
 カフカとフェリーツェが2人で並んでいる有名な写真は、このときに撮られたものです。

写真2

 ブロートがこのときのことを書いています。
「滑稽なことに二人は私のところにも正式訪問を行なった(一九一七年七月九日)。──いいかげんどぎまぎした二人の様子、特に並はずれて高い立襟カラーをつけたフランツの恰好には、涙ぐましいところと悽惨[せいさん]なところがまじり合っていた」
「フランツはすでにFと一緒に親戚知人のあいだに習慣どおりの挨拶廻りをすませ、ハンガリーのアラド〔現在ルーマニア領〕にいるFの姉妹のもとにも二人で出かけている」

 この「Fの姉妹」というのは、フェリーツェの長姉のエルゼです。カフカとフェリーツェが、プラハのブロートの家で初めて出会ったとき、フェリーツェはハンガリーでのエルゼの結婚式に向かう途中でした。

「この旅行で深刻な仲たがいが生じたにちがいない。ことによると決裂を早めるために、彼女の家族の一員との対決が避けられなかったのであろう。ブダペストで彼はフェリーツェを捨て、単身ヴィーン経由でプラハに帰った。その頃彼がヴィーンで会ったルードルフ・フックスはその回想記に、カフカとフェリーツェとの決定的な決裂というか、そうでないまでもその意図を推察させるカフカの言葉を書き留めている」(カネッティ)

 それは「ぼくはつい最近、婚約者と絶交したところだ」という言葉のようです。

 しかし、本当に決定的な別れではなかったのでしょう。というのも、カフカがひとりでプラハに戻ったのが7月19日で、その後の7月27日に、出版社のクルト・ヴォルフに、戦争が終わった後のこととして、次のように書いているからです。

 ぼくは職を捨てるつもりです。
(職を捨てることこそ、そもそもぼくのいちばん強い希望です)
 そして結婚し、プラハを引き払い、おそらくベルリンに行きます。

1917年7月27日(34歳)クルト・ヴォルフへの手紙

 結婚してベルリンに行くというのですから、相手はフェリーツェです。

 つまり、婚約したことで、結婚したくない気持ちが高まり、それが仲たがいにつながり、そうして距離ができたことで、また結婚したい気持ちにもなっていたのでしょう。
 ようするに、いつものカフカの心の動きです。

 しかし、決定的な出来事が起きてしまいます!

真夜中の喀血

 フェリーツェと出会ったのは5年前の1912年の8月13日でした。
 その5年後の1917年8月13日の午前4時か5時くらいに(カフカは手紙によって4時頃と書いたり5時頃と書いたりしています)、シェーンボルン宮殿の部屋で、カフカは喀血します。
 約3年後に、そのときのことを詳しく書いています。

 ほぼ3年前ですが、真夜中の喀血がことの始まりでした。
 新しい出来事が起きたのですから、
 ぼくも人並みに興奮し、もちろん多少は驚いてもいました。
 ベッドから起き上がって、
(後になってはじめて、医者から言われて、寝ていなければいけないのだと知ったのですが)
 窓辺に行って窓から身をのり出したり、洗面台のところに行ったり、
 部屋中を歩き回ったり、ベッドの上にすわったりしてみました。
 血はさっぱり止まりません。
 でも、ぼくはぜんぜん悲しんでいませんでした。
 というのも、3、4年の間、ずっと不眠が続いていましたが、
 喀血が止まりさえすれば、ようやく眠れるようになるだろうと、
 ある理由から、だんだんわかってきていたからです。
 実際、喀血は止まって、
(しかもそれ以来、喀血は二度と起きませんでした)
 ぼくはその夜の残りを眠りました。
 朝になって使用人が来て、
(ぼくは当時、シェーンボルン宮殿に住んでいました)
 これは善良で、献身的ではあったものの、まるで飾り気のない娘でしたが、
 血を見るとこう言いました。
「もう長いことはありませんね」
 しかしそれでも、私自身はいつもより調子がよく、
 仕事に行ってから、午後になってはじめて医者に行きました。

1920年5月5日頃(36歳)ミレナへの手紙

 医師は、前にもカフカを診たことがあり、そのときはたんなる神経の問題で、どこも悪くなかったので、今回も軽く見てしまったのか、気管支の炎症程度と思い、水薬を3本処方し、次の診察は1カ月後でいいとしました。
 ところが、その夜にまた喀血。
 再び医師のところに行くと、今度は医師も、結核の可能性を口にします。

 でも、カフカはそれから10日以上、このことを誰にも言いませんでした。
 8月24日になってようやく、まずブロートに打ち明けます。
 ブロートは驚いて、専門医に診てもらうようすすめますが、カフカはなかなか言うことを聞きません。
 さらに10日以上経った「九月四日になって初めて、フランツは私の言うことを聞いて医者の診察を受けた。そういった方面のことでは信じられないほど頑固で、彼を正しく取り扱うには非常な忍耐と辛抱を必要とした」(ブロート)
 ブロートは日記に書いています。「九月四日。午後カフカとフリードル・ピック教授のところ。これを実現するまでにずいぶん日数を費したものだ。肺尖カタルと診断される。三ヵ月の休暇が必要。結核の危険がある。なんということだ」

 ブロートの次に病気のことを打ち明けたのは、妹のオットラです。
 まだ専門医に診てもらう前の8月29日ですが、おそらく結核だろうと伝えています。
 その手紙に、他の家族にはまだ何も言ってないと書いてあります。やはりオットラは特別なのです。
 そして、シェーンボルン宮殿の部屋を解約したと書いています。カフカは両親の家に戻ったのです。
 シェーンボルン宮殿に住んだのは約半年。あまりにも短い独立でした。両親の家を出て自立したとたん、血を吐いて、たちまち戻ることになってしまったのです。
 9月2日の手紙で、こんなふうに書いています。

 オットラ、そういうわけで、引っ越しだ。
 最後に宮殿の窓を閉め、ドアに鍵をかけた。
 それはなんて、死ぬことに似ているんだろう。

1917年9月2日(34歳)オットラへの手紙

心の病気が岸辺からあふれ出た

 シェーンボルン宮殿の部屋を出たのは、この部屋自体が病気になった原因とも考えられたからです。
 日あたりがよくなくていつも薄暗く、湿気がこもって、悪臭が漂っていました。そしてなにより、寒かったのです。戦争中で、暖房のための石炭を手に入れるのも難しく、ストーブまで冷えきっていました。

 カゼをひくことさえめったになかったカフカが、結核にかかってしまった原因は、他にもいくつか考えられます。
 極端に節制している食事のせいで、栄養不足でもあったでしょう。
 自然志向のカフカは、加工されていない、しぼりたての牛乳を飲んでいました。つまり、殺菌されていない牛乳です。これが感染の原因という説もあります。
 仕事の心労もそうとうなものだったでしょう。
 そしてなんといっても、結婚問題で深く悩んでいたということが大きいでしょう。
「彼はプラハから彼女に二通の手紙を書いた。それは書簡集に含まれていない。その中で彼はおそらく相当突き進んだところまで行ったらしい。彼は今では実際に決裂を決心していたのであるが、自力でそれができる自信がなかった時、彼女に二つ目の手紙を書いた二日後(中略)彼の大喀血が起こった」(カネッティ)

 カフカ自身も、心理的な病気だと考えていました。
 後にこう書いています。

 ぼくの病気は、心の病気です。
 肺の病気は、この心の病気が岸辺からあふれ出たものにすぎません。

1920年5月31日(36歳)ミレナへの手紙

 脳が、自分に課せられた心労と苦痛に耐えかねて、言ったのです。
「オレはもうダメだ。誰かどうかこの重荷を少し引き受けてくれないか」
 そこで肺が志願したというわけです。
 ぼくの知らないうちに行われた、
 この脳と肺の闇取引は、おそろしいものであったかもしれません。

1920年5月5日頃(36歳)ミレナへの手紙

病気という敗北と救い

 カフカはこれまで、病気にならないように、とても気をつかってきました。
 健康にいいものを食べ、肉食を避け、裸で体操をして乾布摩擦をして、冬の寒いときでも、新鮮な空気を吸うために窓を開けていました。
 食べ物や空気という、外から身体の中に入ってくるものに、とても注意していたわけです。そして、皮膚という外と内の境界を丈夫にしようと努めていたのです。
 それなのに、病気になってしまったのです。

 どんなに絶望したことかと思ったら、いつもはすぐに絶望するカフカが、このときは絶望していません。
 それどころか、救いを感じています。

 あの午前4時以降、
 まるで戦いが終わったかのように、よく眠れる。
 非常によくとは言えないまでも。
 何より、以前はどうしようもなかった頭痛が、すっかりおさまった。

1917年8月29日(34歳)オットラへの手紙

 カフカは、仕事を辞めたいとずっと願いながら、それができずにいました。
 でも、病気なら、もう働くことはできません。

 父親の目から見て立派な人間になることを期待されてきました。
 でも、病気なら、もうそんな圧力をかけられることもなくなります。

 結婚するか、結婚しないかの2択に、ずっと悩み続けてきました。
 どちらかを選ぶしかないのに、どちらも選べずにいました。
 でも、病気なら、もう選ぶことはできません。結婚は無理になったのです。

 まさに「戦いが終わった」のです。
 病気によって、現実のもろもろの問題がすべて棚上げになったのです。

 すべての肩の荷が下りて、すべての悩みの種がなくなって、カフカはほっとしたのでしょう。
 あれほどしつこかった不眠と頭痛がきれいに消えてしまいます。

 ブロートも日記に書いています。
「彼は病気を心理的なものだと言う、いわば彼を結婚から救うものだ。決定的な敗北だと彼は称する。しかし、それ以来彼はよく眠る。解放されたのだろうか」

フェリーツェに知らせる

 病気のことをフェリーツェに知らせたのは、喀血から1カ月近くもたった、9月9日のことでした。

 この前のぼくの手紙の2日後、
 つまり、ちょうど4週間前、
 午前5時頃に、ぼくは肺から喀血しました。

1917年9月7日(34歳)フェリーツェへの手紙

 そして、カフカはオットラのいる農村チューラウに療養に行きます。
 医師はサナトリウムをすすめたのですが、健康なうちはあれほどサナトリウムに行っていたカフカが、本当に病気になったときにはサナトリウムを拒否します。
「結核療養所に行くこと──それに対してフランツは全力を挙げてさからった」(ブロート)
 勤め先には年金付退職を申請しました。しかし、上司はカフカのためを思って、退職は受理せず、代わりに3カ月の休暇を与えました。
 チューラウのオットラのもとに行くというのは、喀血してすぐにカフカの頭に浮かんだことでした。まだ診断が確定する前の8月29日のオットラへの手紙で、すでに彼女に頼んでいます。
 プラハを離れ、職場を離れ、家族を離れ、田舎に行って豊かな自然に囲まれ、オットラに世話をしてもらうというのは、たしかにカフカにとっては最も心も身体も休まることだったでしょう。
 当時の2人の写真です。

写真3

フェリーツェが30時間かけて会いにくる

 カフカは9月12日にプラハを出発しました。
 ブロートがその日の日記に書いています。「カフカと別れる。悲しい。今度のように長いあいだフランツから離れて暮すことは、この数年来、なかったことだ。彼自身もうFと結婚はできないだろうと考えている、病身のせいだ」

 一週間後の9月20日、フェリーツェがチューラウを訪れます。

 Fがここへきていた。
 ぼくに会うために、30時間も汽車に乗ってきたのだ。
 そんなことはさせてはいけなかったのに。
 彼女は見るからに、極度の不幸を背負っている。
 それは根本的にぼくのせいだ。
 ぼくのほうは、気を落ちつかせることができず、
 まったく何も感じることができなくなり、ひどく途方に暮れ、
 ようやくいくらか安らいでいるところを、かき乱されたとも思っていて、
 彼女のために唯一してあげられるのは、
 ちょっとした喜劇を演じることくらいだった。
 細かいことでは彼女のほうが間違っていることもあるし、
 自分の権利を守ろうとするときも、
 そういう権利が実際に彼女にあるにしてもないにしても、
 彼女は間違っている。
 しかし、全体としては、
 彼女は罪もないのに苛酷な拷問刑を宣告された囚人だ。
 ぼくが不正を働いたために、彼女は拷問にかけられているのだ。
 そのうえ、ぼくは拷問者の役までつとめている。
 ──彼女の出発と、
(彼女とオットラを乗せた馬車は池を迂回し、
 ぼくはまっすぐに近道をし、
 もう一度、彼女のそばへ行った)
 そして頭痛(喜劇役者の心の滓[おり])とで、
 一日が終わった。

1917年9月21日(34歳)日記

 このときのことを、カフカはまた後の日記にも書いています。

 Fとの会話の概要。
 ぼく:こんなことになったのは、ぼくのせいだ。
 F:わたしのせいよ。
 ぼく:きみにそうさせたのは、ぼくだ。
 F:それはその通りね。

1917年9月28日(34歳)日記

最後のクリスマス

 1917年のクリスマスに、カフカとフェリーツェはプラハで会います。
「十二月の終りにフランツはプラハに来てFと落ち合った。彼女はベルリンのある大会社の取締役となっていたので(周到、敏腕、大きな器量は彼女のすぐれた特性だ)、最後の話し合いを行うためにはどうしてもクリスマス休暇を利用せざるを得なかったのである」(ブロート)

「フリーツェはその時カフカに、私はあなたを見捨てない、と言った。これに対してカフカはフリーツェに、自分はあなたの犠牲を受け入れるわけにはいかない、自分の罪の重さをこれ以上ふやすことは全く考えていない、自分は決して結婚しないだろう、あなたとも、他の誰とも、と語った」(エルンスト・パーヴェル)

 ブロートは「彼の決心は驚くほどかたい」「彼はきのうFにすべてをはっきり言ってしまったのだ」と12月26日の日記に書いています。

 そして、翌27日の午前、フェリーツェはベルリンに戻りました。
 これが最後の別れとなりました。この後、2人はもう二度と会うことはありませんでした。
 駅でフェリーツェの乗った汽車が去って行くのを見送ったカフカは、いったいどんな心境だったでしょう?
 ブロートがその日のことを記しています。
「フランツは私の事務所に立ち寄った。ちょっと休ませてくれ、と彼は言った。Fを駅まで送って来たところだった。彼の顔は蒼白で硬くこわばっている。かと思うと、たちまち彼はおいおい泣きだした。天にも地にも私が彼の泣くのを見たのはこのときだけだ。私はその光景をけっして忘れないだろう、あんな恐ろしい光景に出会ったことはない」
「泣きじゃくりながらこう言った、『こんなことになるなんて、恐ろしいことだね、君。』涙は頬をつたって流れた。このときを除いては、カフカが自制心を失って取り乱したところを私はついぞ見たことがない」

 カフカは、オットラにも手紙を書いています。

 彼女との最後の朝、
 ぼくは泣いたよ。
 子供の頃から今までに流した涙より、
 もっとたくさんの涙が出たよ。

1917年12月28日(34歳)オットラへの手紙

最後に

 カフカとフェリーツェの関係が終わったところで、この連載も終わりにしたいと思います。
 続きは、もしいつかどこかで機会があればと思います。

 連載の最初から最後まで、ずっと読んでくださった方がおられたとしたら、心より御礼申し上げます。
 本にまとめることがあるとしても、かなり書き直すはずです。この連載での形は、この連載でしか読めません。分量的にもかなりあり、とても1冊に収まる量ではありませんし。

 この連載を始めるとき、すでによく知っていることを、みなさんにご紹介していくようなつもりでおりました。
 ところが、いざ始めてみると、わからないことがどんどん出てきます。わかったようなつもりになっていただけで、書こうとしてみると、何かひとつ書くにも、それが本当に正しいのかどうか、揺らいできます。いくつかの資料をあたってみても、それぞれちがうことが書いてあったりします。
 近所へのピクニックのつもりが、どんどん五里霧中になっていき、一歩一歩手さぐりで進んでいくようなことになりました。
 こんなに大変なことになるとは思っていませんでした。最後のほうは不定期連載になってしまいました。
 でも、そのおかげで、いろいろな新発見があり、私自身が「へーっ」とか「ほーっ」とか言いながら、書いておりました。
 新訳ということだけでなく、伝記的な内容面でもいろいろ新事実をお伝えできたことは、望外の喜びです。
 知人の校正者、岡上容士さんには大変にお世話になりました。おかげで、より正確な訳文となりました。(今回、相談しながら訳すということを初めてしてみたのですが、これがとても楽しく、勉強になりました。2人で「ここは本当に価値のある新訳になりましたね!」と盛り上がったり、いろいろ思い出深いです)
 そして、毎回読んでくださった皆様、そしてお問い合わせをしてくださった皆様、更新が遅れていると、嬉しいお叱りをくださった皆様、誠にありがとうございました!

 あらためて思ったのは、カフカはやっぱり面白いということでした。
 そして、フェリーツェも、それに負けないくらい、興味深く、素敵な人でした。

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頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

筑波大学卒業。カフカの翻訳と評論などを行っている。
著書に、『絶望読書──苦悩の時期、私を救った本』(飛鳥新社)、編訳書に、『「逮捕+終り」─『訴訟』より』フランツ・カフカ(創樹社)、『絶望名人カフカの人生論』フランツ・カフカ(飛鳥新社 新潮文庫)、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』ゲーテ、カフカ(飛鳥新社)がある。
月刊誌『望星』(発行・東海教育研究所 発売・東海大学出版部)で、「落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ」を連載中。http://www.tokaiedu.co.jp/bosei/
『絶望名人』を平松昭子が漫画化した、『マンガで読む 絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社)も話題。

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