第十二回 ビリンバウ


 久しぶりにブラジル北東部(ノルデステ)の人に会った。バイア州サルバドルからやって来た、カポエイラの女性マスターたちである。
 「カポエイラ」をご存じない方もあるだろう。ひとことでいえば、ブラジルの伝統芸能で、「格闘技とダンスの間にあるようなもの」とでも言おうか。伝統芸能というと、違う気もする。ブラジル、ノルデステ発祥のマーシャル・アーツ(要するに武道のような格闘技)と言われることも多いからである。カポエイラは格闘技か、ダンスか、芸能か。カポエイラは生き方だ、カポエイラは生きることそのものだ、と、きっとカポエリスタ(カポエイラをたしなむ人)は言うに違いない。
 聞いたこともないような不思議な音楽に合わせて、白い服を着た人たちが、逆立ちしたり、アクロバティックな動きをしている、というのを何となくイメージなさる方もあるかもしれない。ブラジルの人たちに聞いても、カポエイラは、アフリカから送られてきた黒人奴隷たちが、抵抗のためにダンスをしているふりをして格闘技の技術を鍛えていたもの、という答えが多いのだが、本当のところはよく分からない。何世紀も前にブラジルにやってきたポルトガル人たちがすでに、ブラジルのネイティブであるインディオの人たちが似たような動きをしていたのを見ていた、とも言われている。それがアフリカ系の人たちの動きとあいまって、カポエイラになったという説もあるらしい。
 カポエイラの特徴である、ベン、ベン、ベンという独特な、単調でありながら深みのある音を出す楽器は「ビリンバウ」と言う。ブラジル音楽が好きな方は、バーデン・パウエルのつくったボサノバふうの「ビリンバウ」という曲を思い起こされるかもしれない。もちろんこの曲の「ビリンバウ」というのは、このカポエイラに使われるビリンバウのことである。弓矢様の細長いものに、ひょうたんを乾かしたものが共鳴器として付いている。その弓の部分を、「パテタ」という棒で叩いて音を出す。おおよそ人類が初めて楽器と呼ばれるものを制作したときは、きっと、このようなものではなかったかと思われるような、シンプルでありながら、深い音色である。演奏したことがないから分からないけれど、まさに人類としての初期の記憶が呼びさまされるかのような、演奏の仕方、そして、懐かしくも不思議な音曲が奏でられるのだ。そのビリンバウに、「パンデイラ」と呼ばれるサンバなどでもよく使われるタンブリンみたいなものがあれば、カポエイラの音楽を奏でられる。
 ビリンバウとパンデイラを奏でながら、独特の節回しで歌を歌う。歌詞は、ブラジル北東部ノルデステ独特の、意味があるようなないような、ややナンセンスな、しかし、哲学的な、こちらも不思議な内容である。その音と声をバックグラウンドミュージックとしながら、体を動かしていくのがカポエイラである。動きだけではカポエイラにならず、音楽だけでもカポエイラにならない。カポエイラがカポエイラであるためには、からだの動きと、声と、ビリンバウが必須なのである。一度カポエイラを見た人は、きっとカポエイラのことを一生忘れることはあるまい。何にも似ていない。カポエイラはカポエイラでしかあり得ない。

 現在は、カポエイラにはいろいろな流派があるらしく、大きく分けると、カポエイラ・ヘジョナルと、カポエイラ・アンゴラというのがあると言われている。だいたいわたしたちが映像などで見たことのある、アクロバティックで白い服を着てやっているのは、カポエイラ・ヘジョナルである。ノルデステでは、カポエイラはよく知られていて、セアラ州フォルタレザのキリスト教系の小学校に通っていたわたしの二人の息子たちも、学校の課外活動のようなかたちでカポエイラを習っていた。ヘジョナルかアンゴラか、その他の流派か、当時はあまり気にしていなかったが、白いズボンとひものようなベルトを購入し、白いTシャツを着て習っていたから、カポエイラ・ヘジョナルだったのではあるまいか。
 一般にはこのヘジョナルの方がよく知られているし、ブレイクダンスに取り入れられたり、大きな動きをしたりしているのは、こちらのほうらしい。カポエイラ・アンゴラは、よりゆっくりとした動きで、儀礼的な意味も強いらしく、動物の動きをモチーフにしたような動きも多いという。特に白い服は着ない。黄色いシャツをよく着るようだ。女性たちにも広まっていると言われているのは、カポエイラ・アンゴラであるらしい。
 今回、日本にいるカポエイリスタたちの招きで、このカポエイラ・アンゴラの女性メストラ(マスター)が二人やって来た。メストラ・ジャンジャとメストラ・パウリーニャ。ポルトガル語は名詞が男性形になったり、女性形になったりする。「マスター」を意味するポルトガル語は「メストレ」であるが、女性の場合は「メストラ」になる。主人は「ドノ」だが、女主人は「ドナ」で、博士は「ドクトル」だが、女性の博士は「ドクトラ」である。もっともブラジルではだいたい、大学を出た人はみんなドクトル、ドクトラと呼ばれていたから、「学士様」ですでにドクトルなのである。メストラ・ジャンジャもメストラ・パウリーニャも、二人ともノルデステのバイア州サルバドルからやって来た。

 ブラジル北東部ノルデステと一口に言っても、広い。ブラジルの中でとにかく、辺境の地と長く言われてきたノルデステは、常に中心に収奪される辺境であり、イメージは、長い間、旱魃と貧困、土着のキリスト教系の宗教、カンガゼイロと呼ばれる盗賊、過酷でかつ美しい自然と、重層的な文化と、我慢強い人たち・・・そんな感じだった。カポエイラも、そのような重層的なノルデステ文化の一部をなしている。世界地図の、南アメリカ大陸ちょうど右肩あたりと、そこから内陸に向かうあたりが、ノルデステであり、内陸に向かって、セルタンと呼ばれる乾いた荒れた大地が延々と続く。マラニャオン、ピアウイ、セアラ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、パライバ、ペルナンブコ、アラゴアス、セルジペ、バイア、という9つの州がある。おそらく、そのどの州の名前もご存知あるまい。
 そうは言っても、2014年ブラジル開催のワールドカップのあとには、少々は知名度が上がったかもしれない。日本チームが最初にコートジボワールと闘ったのが、ペルナンブコ州の州都レシフェ、次にギリシャと闘ったのがリオ・グランデ・ド・ノルテ州の州都ナタール。ブラジル代表チーム、セレソン・ブラジレイロの、いまや不動のエース、ネイマールがコロンビア戦で腰椎を負傷した試合がおこなわれていたのが、私が長く住んでいたセアラ州フォルタレザである。
 ネイマールは、久々に登場した「すべてのブラジル人の息子」というタイプの“アイドル”であると思う。1990年前後にF1で大活躍し、34歳でレース中の事故で逝ってしまったアイルトン・セナは、その穏やかな風貌と人柄の良さから、「すべてのブラジル人の息子」と言われていて、彼が死んだ時には、「ブラジルをふたつに折り曲げるような悲しみ」という雑誌の見出しが出たものだ。セレソンの名サッカープレイヤーたちも、たいへんな人気者にはなれても、ロナルドもロナウジーニョも、「すべてのブラジル人の息子」とは言われない。ネイマールは、セナ以降、久々に現れた「すべてのブラジル人の息子」タイプのスターだから、今回の負傷には本当にみんな心を痛めたと思う。彼が負傷して運ばれたフォルタレザの私立病院はわたしもよく知っているところだったが、所詮、ノルデステの街の「田舎」の病院であることをまぬがれず、世界的スター、「すべてのブラジル人の息子」は、速攻ヘリコプターでリオ・デ・ジャネイロに搬送されていた。
 このように書いてみて、あらためて、このブラジル開催ワールドカップは、ノルデステのイメージをちっとも良くすることに貢献はしなかったことに気づく。では、日本チームがコートジボワールに華々しく勝っていたり、ギリシャに競り勝ったり、ネイマールがあのままプレイが続けられたら、イメージアップになっていたのかと言われると、それも自信がないことではあるが。

 そのような、はっきり言って、長く「ぱっとしない田舎」のイメージの強かったノルデステなのであるが、カポエイラの中心地であり、このたび日本にやって来た二人のメストレが拠点としているバイア州サルバドルは、ノルデステの中では際立って輝いている文化の都である。カエタノ・ベローゾ、ガル・コスタ、ジョベルト・ジル、ベタニアなど、MPBとよばれるブラジルポピュラー音楽のスターを輩出し、黒人系住民が多い、音楽と踊りの街なのである。
 いわゆる「伝統衣装」というものは、ブラジルにはあまりなくて、民俗衣装好きの方にはあまり面白いところもない国なのだが、バイア州サルバドルには、真っ白い木綿のレースで作られた、実に美しい「バイアナ」というドレスがある。膨らんだ白いスカートに、たっぷりとしたレースがついたバイアナは、無理して形容すれば「普段着のウェディングドレス」に近いようなもので、なかなか素敵だ。バイアナというのは「バイアの女性」のことであるが、バイアの女性が着る白いドレスそのものが、バイアナと呼ばれるようになったのである。
 民俗衣装が大好きなので、バイアに最初に行ったときに、このバイアナを買い求め、時折パーティーなどで着ていたが、あのころは30代前半だったので、着られたのだ。いまや60代も見えてくるようになった日本の女が、あら、この民俗衣装すてきね、などといって着られるような服では、決してない。ところが、そこは民俗衣装、サルバドルにいくと、この真っ白いドレスに白い布で髪をまとめた、恰幅のよい黒い肌の女性たちがあちこちで「アカラジェ」と呼ばれるスナックを売っている。彼女たちは年齢に関わらず、生涯、バイアナを着つづけて、それはもう、ぴったりと似合うのである。

 バイアナたちが街角で売るアカラジェ。衣装と同様、あまり“エスニック”な食べ物に出会うことのないブラジルにあって、連載第9回で取り上げた、アマゾン川河口の街、ベレンの「タカカ」という味噌汁風のどろっとしたスープと双璧をなす、「ブラジル・エスニック・ストリート・フード」である。街の屋台で売っている、実に野性味あふれた、異国に来たと実感出来る、奇妙な、しかし美味しい食べ物。一言でいえば、「揚げ物に、エビの風味のする、なんだかべちゃっとしたものが挟まっている、ハンバーガー風」のものである。外側のハンバーガーのパンとおぼしきものは、「フェジョン・ジ・コルダ」と呼ばれる豆を粉にしたものと、タマネギを原料としている。これをペースト状にして、ハンバーガーのパンくらいの大きさにしてデンデ油で揚げる。フェジョン・ジ・コルダにデンデ、すでに日本では聞いたこともないような食材がどんどん出てきてしまう。
 フェジョン・ジ・コルダは、直訳すると「線の入った豆」じゃないかと思うが、日本名は黒目豆と言って、お赤飯を作るときのササゲの系統の豆らしい。日本では見たこともなければ、料理したこともなかった。大豆より少々小さい大きさの豆で、真ん中に文字通り「黒目」がついている。白っぽいベージュに黒いアクセントがついていて、パンダを思わせる意匠の、かわいらしい豆である。この豆を最初に見たのはロンドンのスーパーマーケット。子どもたちの父親、この連載によく出てくるブラジル人のウォルターがしばしば買っていたので、気づいた。英語ではその名も黒目豆、「ブラック・アイ・ビーンズ(black eyed beans)と言い、値段も安く、料理しやすい豆で、サラダに最適である。
 日本で豆の料理をするときはかならず前の晩から水につけておく。そうしないといつまで煮ても、やわらかくならないからなのだが、この豆は鍋に水を入れてそのまま煮始めても、すぐ煮える。この豆を使ってロンドンで一番よく作った料理はサラダで、このブラック・アイ・ビーンズをロリエの葉っぱ数枚とともに、皮が剥げたり、形が崩れない程度にゆでて使う。この15年、日本に住んでいる間に一度も見ていない豆だから、いくぶん定かではないが、10分か15分くらいゆでれば、サラダにつかえたように記憶している。ゆでた豆をザルにとってさまし、ツナ缶と細かく刻んだパセリかスプリング・オニオン(日本の“万能ネギ”みたいな緑のネギ)をまぜ、塩こしょう、オリーブオイルで味をつける。副菜としてなかなかよい一品だったので、家に客を呼ぶときにもよく作った。日本ではこの豆を見つけられないので、ひよこ豆などで代用して作っている。
 この黒目豆こと、ブラック・アイ・ビーンズこと、フェジョン・ジ・コルダは、実はアフリカ原産のもので、アフリカで多く使われていて、結果としてアフリカ系の住民の多いバイア州サルバドルで売られるアカラジェのハンバーガーバンズっぽいものの生地になっていることを知ったのは、ずっと後のことである。
 この豆とタマネギのペーストを揚げパンくらいの大きさにして、デンデ油で揚げる。白いバイアナを着たおばさんたちは、せっせとサルバドルの街角で、この揚げパンを揚げている。揚げている油は真っ黒であり、見慣れていない我々にはよっぽど油が古くて劣化しているように見え、ぞっとするが、これはこういう色の油なのだ。デンデ油というのは、いわゆるヤシ油、パームオイルというアブラヤシから取れる油で、バイアの料理には必須の食材であり、独特の風味がある。この油で揚げた丸い揚げパン風のものを、真ん中を切って、その中に「バタパ」とか、「カルル」とか、「ビナグレッチ」とか、干しえびを挟んで、シャキシャキしているんだか、ネバネバしているんだか、よく分からない食感を楽しむのだ。

 バタパとかカルルとかビナグレッチとは何か。バタパというのは、私の住んでいた北東部セアラ州では、魚やエビを煮た後のスープにココナッツミルクとマンジョカ粉を入れて、ゲル状にしたもののことであった。それをご飯やココナツミルクで煮た魚のシチュー(「ペイシャダ」という)と混ぜながら食べる。バイア州で使われているアカラジェに入っているバタパは、セアラで作っていたゲル状のものがいっそう固形化したようなもので、もっと明るい色をしていたから、先ほどのパームオイル、デンデ油も入っているのだと思う。つまり、海鮮スープ味ココナッツ風味デンデ油入りプディング(想像出来ましょうか・・)みたいなものである。
 カルルのほうは、オクラとエビを煮込んだもので、当然ネバネバしている。わたしは日本を出るまで、オクラというのは日本の野菜で、オクラは日本語だと信じていたが、これはokraという英語なのである。イギリスでもインドでもオクラというのであり、インターナショナルな食べ物なのである。納豆とか、とろろいもとか、じゅんさいとか、ネバネバ系の食べ物は、何となく日本のもので、外国の人に嫌われるような気がするけれど、一歩日本の外に出ても、このネバネバ系野菜はけっこう愛されているのである。オクラをポルトガル語では、「キアボ」と言い、マンジョカの粉、ファリーニャと混ぜたりして供される。オクラはアフリカでもよく食べられている食材だから、これもまた、アフリカ系住民の多いバイアで、他のブラジル地域に比べて、さらに多く食されているのである。
 ビナグレッチは、バイアのみならずブラジル全土でよく食べられている、フレッシュな生野菜ソースとでもいうような趣きのものであり、ブラジル人に招かれたり、レストランに行ったりするとよく、ちょっとした副菜という感じで小さなボールに入れられて、テーブルの上に乗っていたりする。家庭ではよく手作りされる。たまねぎ、トマト、ピーマンなどを生のまま細かく刻み(細かく刻んだもののことを「ピカジーニョ」という)、塩こしょう、お酢などを入れて、ソース状にする。「ビナグレ」というのはポルトガル語で酢のことなので、ビナグレッチとは野菜の刻んだものを酢につけたもの、と理解して間違いがない。保存食ではなく、その場で食べきるものである。だから野菜はシャキシャキしている。いまや世界にその名をひびかせているブラジル風焼き肉、シュラスコの店にも必ずビナグレッチがあり、お肉にこのソースをかけて食べたりするのである。
 以上のバタパ、カルル、ビナグレッチ、それに干しえびなどが、すべて揚げたての黒目豆揚げパンの真ん中に挟まっている。揚げパンは揚げたてでないと美味しくないということになっているから、アカラジェ売りのバイアナのおばさんは、注文してから揚げパンを揚げて、その場で好みのものを適当に入れてくれる。「ピメンタ」と呼ばれる唐辛子を入れるかどうか聞かれるけれど、ちょっぴり入れてもらうとほんとうに美味しい。ブラジル人は、「唐辛子による辛い料理」が一般的には好きではないのだが、バイアだけは例外である。みんな唐辛子を入れた辛い食べ物が好きだ。干しえびの風味も、なんとなく日本を思わせるところもないわけではなくて、ネバネバ系も懐かしくて、先述のベレンのタカカというスープとともに、なぜか日本を思わせるブラジルの伝統料理なのである。
 かように、わたしはアカラジェが大好きだが、他のブラジル料理は食べられても、アカラジェだけは大嫌い、油っこくてねとねとしていて、とても食べられない、という日本人も知っている。ボリュームがあるから、軽く昼食分くらいにはなる、庶民の味方の、ストリート・スナックなのである。

 真っ赤な太陽が海に沈み、ブラジル音楽が流れ、褐色の肌の人たちが街を行き交い、白いバイアナを着たママたちがアカラジェを売り、デンデ油のにおいがする、とてもアフリカ色の強い北東部の街、サルバドル、バイア。カポエイラのメストラたちもそこからやって来たのである。
 彼女たちはカポエイラのマスターであると同時に、バイア州立大学で社会学や教育学の教鞭をとる教員でもある。わたしは彼女たちと一緒に、ブラジルのカポエイラを通じた身体知や、女性がカポエイラをやることなどについて、東京は外苑にほど近い会場でシンポジウムをすることになっていた。彼女たちは本当に素敵な人たちで、シンポジウムの聴衆の多くもカポエイラを学ぶ人たちで、大変気持ちのよい有意義な集まりとなった。とてもよい集まりとなったのだが、実は彼女たちのポルトガル語を訳すのが、本当にたいへんだったのだ。それはもちろんわたしのポルトガル語の力のなさによるものといえるのだが、同時に、「ブラジル北東部ノルデステのインテリ層」のしゃべり方が、本当に難しいということでもあるのだ。誰にとって難しいのかというと、なんといえばよいのか、要するに近代的教育を受けてきて、英語の論文などを読んできて、論理的とはこういうことではあるまいかと半分くらい信じている者にとって、難しいのである。
 そしてこの難しさは、ノルデステ、セアラ州で三千をこえる夜を過ごしてきたわたしには、なんだかノスタルジックな、ポルトガル語で言えば「サウダージ」な難しさなのである。サウダージのことは連載第二回でも説明したが、ポルトガル語独特の「懐かしい感情」、「なくなって胸がしめつけられるようにつらいんだけど、同時に何となく甘やかな思い」を表すことばである。英語の「I miss you(あなたがいなくなってさびしい)」が一番近いのだろうが、サウダージには、いなくなったさびしさやつらさだけではなくて、その過ぎた時間を思い起こすときの甘い思いが包含されている。つまり懐かしさは、甘く、せつない。過去に別れた人や土地や、懐かしいものたちを思い出すことは、それ自体が人生の深い味わいである、ということをその一言で表しているのである。ポルトガルのファドや、ブラジルのボサノバを聞いて、言葉の意味は分からなくても、なんだか胸の奥がうずくようなあの感じ、あれがサウダージである。そう、そのサウダージな難しさ。

 ブラジルに住んでいた日々、セアラ州では州の保健局に属して仕事をしていた。仕事相手はだいたい、保健局に働く医療関係者や、大学の公衆衛生の先生たちや、大学病院の医師たちであったから、みんな大学を出たドクトル、ドクトラたちなのであり、かなりのインテリなのであるが、彼ら、彼女らの話がよく分からない。にこにことフレンドリーにしゃべってはくれるし、わたしはもうすでにブラジルでの暮らしも長くなっていたから、ポルトガル語のコミュニケーションにほとんど問題もなかった。しかし彼らの話が分からない。それでも、一対一で話していたり、会議で話したりしているぶんには、分からないところは聞き直せばよいし、こういうことですね、と確認すればよいのである。ただ、十年に及ぶセアラ州生活の後半半分は、日本政府とブラジル政府の二国間国際協力の仕事をしていたから、彼らのポルトガル語を日本語に通訳する機会がたくさんあった。これが難しいのである。
 彼らのポルトガル語は、なんといえばいいのだろうか、唄うように、めぐりめぐるように、どこに着地するのか分からない、そんなしゃべり方なのである。通訳するときは、だいたい話がどのあたりに向っていくかを想像しながら、次の文章に備えて今を訳す、という感じで通訳するのだが、それができない。彼らの話はどちらに向いていくのか分からず、なんだかぐるぐると螺旋状に回るようになっていて、先が読めない。心の準備ができず、けっこう狼狽することもあった。

 ノルデステはペルナンブコ州出身、世界に誇るブラジルの教育学者、パウロ・フレイレ(1921-1997)。その代表作『被抑圧者の教育学』を翻訳したときも、同じことを感じた。“知識”を、まるで銀行にお金をためるかのように、つめこませる「銀行型教育」ではなく、一人ひとりが自らの言葉を話し、持っている力をひきだす「参加型教育」を早くから提唱し、世界中で識字教育を実践してきたフレイレは、1970年代を代表する思想家の一人である。
 現在、世界中で「参加型教育」や「参加型手法」が取り入れられており、一人ひとりの持つ力を存分に引き出す、エンパワーメントという言葉もよく知られているが、フレイレはこのような発想を最も早く言葉にした人の一人であった。世界中の国際協力に関わる人たちは、先進国の人、発展途上国の人に関わらず、皆この『被抑圧者の教育学』を読んでいる。フレイレの名前を出し、この著書の名前を出すことで、国籍や文化背景に関わらず、共通の思いを抱くことができるような、そんな力のある本なのである。
 この本は1980年代に亜紀書房から最初の翻訳が出版されているが、それはポルトガル語の原文からいったん英語に訳されたものを日本語に翻訳したもので、何人かの方々が関わって完成されたものだった。個人的にその英語版からの翻訳の中心になっておられた方をよく知っていたこともあり、わたしが北東ブラジルに長く住んでいることを聞いて、常にポルトガル語からの直接の翻訳を手がけるように励ましてもらっていた。
 2009年に満を持してポルトガル語版からの翻訳に取りかかったが、本当に苦労した。書いてある内容は本当に同意することばかりなのだが、なんといっても書き方がぐるぐると螺旋状で、どこに向かい、どこに行き着くのか分からない。幾度も同じことが繰り返され、ふっと気づくと議論が一段上がっていて、なるほどと思えど、やってもやっても終わらない気分が抜けず、最後の最後までたいへんな翻訳だった。この仕事を終えられる日は来ないのではないかと思ってしまうほど、時間の概念すら失いかけた。
 サルバドルからやって来た二人のカポエイラ・メストラたちの話し方も、まさにフレイレやセアラのドクターたちに通じるもので、本人たちは言いたいことがいっぱいあって、彼女たちなりの話し方で話してくれているのだが、わたしの頭がついていかない。なんとか聞いてくれている人たちに分かるように、必死の意訳をこころみたが、こころみすぎて不正確な通訳になっていたのではないかと、ものすごく反省するのだ。なんとか分かってもらうようにと説明していたら、だんだん身振り手振りが大きくなってきて、まるでそれこそブラジルで話しているような振る舞いになっているのがおかしかった。
 ノルデステに住んでいた頃、サンパウロやリオ・デ・ジャネイロといったブラジル南部の大都会に出て行くと、話がすごくよく分かる。とつぜん自分のポルトガル語が上達したのではないかと思うくらい、話が分かりやすいことに驚いたものだ。問い直す必要もなく、通訳する必要があるときも実に楽々と論理的に通訳出来る。サンパウロにすむパウリスタたちや、リオ・デ・ジャネイロのカリオカたちの語り口とはまったく違う、ノルデステの話し方。

 あれはいったい何なんだろう、と今も考えつづけている。論理的であること、近代的であること。インディオの人たちと、300年に及ぶポルトガル人たちの末裔が、セルタンと呼ばれる陸の孤島のような奥地にあって、独特な文化と空間を作り出したノルデステ。ポルトガル人のもたらしたキリスト教は、長い年月と外の世界との隔絶のなかで、土着化し、いまやローマ・カトリック教会の管理運営するところのない、“カトリック”教会がノルデステのあちこちにある。
 以前にも書いたことであるが、十九世紀末、ブラジルが連邦共和国になろうとしているときに、万単位の「反乱軍」を率いて、ブラジル屈強の連邦国軍が何度派遣されても敗走させられてしまった、カヌードスの乱が起こったのは、バイア州であった。セアラ州に生まれた、カリスマ的な宗教指導者、アントニオ・コンセイレイロが率いていたカヌードスは、いまやダム工事のため、水底に沈んでいるのだという。アントニオ・コンセイレイロ(コンセイレイロというのは、英語で言えばカウンセラーのこと)は、キリストの名を口にしていたが、もちろんローマ・カトリックとは関係がなかった。アントニオ・コンセイレイロのすこし後に、セアラ州にパードレ・シセロ(シセロ神父)という人が現われ、数々の奇跡を起こし、人々の心を癒し、政治にも関わっていたが、この人もローマ・カトリック教会の神父ではないらしい。セアラ州のセルタンをいくつも越えた内陸の街、ジョアゼイロ・ド・ノルテにはパードレ・シセロの大きな像がある教会があり、いまも信者の巡礼が引きも切らない。わたしには、ふつうのカトリック教会にしか見えないのだが、これは不思議なノルデステの土着の宗教なのである。
 一見、近代に取り込まれながら、実は近代が包含しつくせない前近代を、ノルデステの文化も語り方も体現しているように見えてならない。この、よく理解出来ないノルデステ的な語りも、彼ら自身の矜持を示しているような気さえしてしまう。日本から、カポエイラのメストラたちを招聘したカポエリスタの女性たちの多くが、日本における効率的で近代的なばりばりとした仕事のなかで、なにか自分たちは違うものを求めているのではないか、とカポエイラに出会ったのだという。ノルデステの文化とリズムをそのからだに取り入れて、カポエイラを実践し、奏でる彼女たちは、びっくりするくらいぴかぴかで美しい。ノルデステという文化が、近代の最先端と出会う時におこる、ふしぎな反応について、ビリンバウの調べを聞きながら考えるのだが、まだ明確に言葉にできないでいる。

※パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳『新訳 被抑圧者の教育学』2010年、亜紀書房。

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三砂ちづる

1958年、山口県生まれ、兵庫県西宮市で育つ。京都薬科大学卒業。現在、津田塾大学国際関係学科教授。ロンドン大学PhD(疫学)。専門は疫学、母子保健。
著書に『オニババ化する女たち』(光文社新書)、『月の小屋』(毎日新聞社)、『不機嫌な夫婦』(朝日新書)、『きものは、からだにとてもいい』(講談社+α文庫)、『太陽と月の物語』(春秋社)、『五感を育てる おむつなし育児』(主婦の友社)、『女を生きる覚悟』(KADOKAWA 中経出版)、共著に、よしもとばななとの『女子の遺伝子』、渡辺京二との『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(以上、亜紀書房)、内田樹との『身体知―身体が教えてくれること』(バジリコ)、訳書に、パウロ・フレイレ『新訳 被抑圧者の教育学』(亜紀書房)、編著に『赤ちゃんにおむつはいらない』(勁草書房)などがある。

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